階段




 現場の玄関は鍵が閉められていた。無理矢理開けたような形跡も無ければ、鍵を差し込んでみても、引っかかる感じはしない。どうやらあの黒づくめの男たちも鍵を持っていたらしい。
 そぅっと扉を開くと、むっとするような血臭が村雨の鼻を襲った。
 顔をしかめつつ、するりと体を中に入れ、扉を閉める。
 薄暗いが外は昼間だ。電気無しで十分あたりの様子が見て取れる。
 土足のままで上がり、現場とおぼしき部屋に向かった。
 もちろん、死体はすでに無い。
 だが、まだ書籍やファイルが乱雑に散らかっていた。
 相変わらずの手抜き捜査に神を冒涜するセリフを呟きつつ、手袋を着ける。それから、書籍類をざっと確かめた。
 見る限りでは一般に出版されているものばかりで、違法なものはない。特に『どの系統の悪魔』に偏っているのでもなかった。
 一見、ただ趣味で集めたように見えるが、確かにそこに魔法陣は存在するのだ。
 居間の中心にいびつに描かれたそれ。
 周りには、使いかけと思しき長さのクレヨンが散らばっている。
 幼児の落書きのようなそれを目にした途端、村雨の背筋がざわついた。
 『それ』からは、確かに色濃い魔術の匂いがした。
 魔法陣の上に位置する空間が、未だ歪みを残している。さすがに何かが這い出る隙間はないが、これは確かに『門』の役を果たしたのだ。
 その辺に散らばるプリントアウトされた紙を一枚ずつめくり、目の前の魔法陣に比較的合致している者を選り分ける。そうして選んだ紙束を丁寧に畳んで封筒に入れ、内ポケットにしまい込んだ。
 (欲しい……もっと、欲しい……)
 囁き声にすらならない大きさの、意識の欠片とでもいうようなものが、僅かに漂っていた。
 言葉として、はっきりと表現できないが、何となくそれは「物欲」のように思えた。
 悪魔は、人間を堕落させるものだが、その手段は様々だ。同じ欲でも『色欲』『名誉欲』『知識欲』…様々な欲がある。
 こんな稚拙な魔法陣でも呼び出されたということは、召喚者の能力の高さもあるが、よほど対象の悪魔と相性が良かったのだろう。この場合、仮に『物欲』から呼び出されたとしたら、召喚された悪魔は『物欲』を司る悪魔であるはずだ。
 召喚者がまだ殺されていないとすれば、悪魔は召喚者に取り憑いたまま、『物欲』を満たすべく力を貸しているのだろう。
 飽くことなく「もっと欲しい」と召喚者は渇望し続け、悪魔は力を貸しつつ「もっと欲しいだろう?」と囁き続ける。
 今、死んでいないとしても、召喚者が満たされることは永遠に無い。餓鬼のように「もっと、もっと」と飢えたまま彷徨うしか無いのだ。
 この家の主は極普通のサラリーマンであったはず。妻がパートに出て多少の金を稼いでいても、足りないほどに物欲が強かったのだろうか。
 己の能力も弁えず、それが正当な主張でもあるかのように、物を欲しがる大人が増えていけねぇ、と村雨は己の年齢を棚上げして嘆いた。
 それから、机にしまわれていた未開封のタバコと、中身の減っているタバコの箱を懐に入れ村雨は魔法陣に向けて手をかざした。
 軽い封印を施し、空間の揺らぎを正常化させる。
 ゆっくり室内を見回し、忘れ物が無いか確かめる。
 魔法陣と、床に残った血のシミを除けば、そこは土足で上がったのが躊躇われるほど『普通の』家庭であった。
 食べかけのお菓子やおもちゃが転がり、まだ畳まれていない洗濯物は女の子が着る可愛らしいフリルが付いたものが多い。
 壁に貼られた引き延ばされた写真には、仲良く寄り添った夫婦と、ふっくらした女の子が写っている。
 他人から見れば幸せそのものに見えるのに、何が不満だったのか。
 だが、それでも心が<陰氣>に満ちているのが今の世だ。
 何度考えても空しくなる…砂漠に水を撒いている気分になるのを押し殺して、『日常』に紛れ込んだ『異界のもの』を排除すべく、村雨はそこを立ち去った。

 マンションの踊り場で、子供たちの歓声にふと立ち止まり、下を見た。
 楽しそうに笑いながら走っていく子供たち。
 小綺麗なマンションに、植えられた樹木。
 一見、平和な世界であった。
 だが、村雨には、ここが乾ききった荒野に見えた。
 <陰氣>に満ちて、人間の<陽氣>を吸い込んでいく一方で、潤うことのない荒野。
 以前は、そんな世界じゃなかったらしい。<陰>も存在していたが、<陽>とバランスが取れていたのだとか。
 人は、悪しき欲望にも取り付かれるが、同時にそれを抑制し昇華させる精神を持っていた。一部に欲望から逃れられぬ者もいたにせよ、それはあくまで一部であり、社会から排除されていた。
 聞けば、村雨が産まれた年あたりから、おかしくなってきたらしい。
 何が変わった、というのではない。政府が転覆したのでもなく、警察組織が崩壊していったのでもなく、ただ、人の心が徐々に変わっていったのだ、と。
 そうして、気づいたときには、世の中は悪意に満ちていた。
 <能力者>の表現をするなら、<陰氣>に偏る…いや、それは生温い表現であった。<陰氣>だけが存在したのだ。
 それはあまりに不自然であった。大極は、陰陽バランスが取れているのがそもそもの姿であったから。そして、そのアンバランスさは、『現実』を『非現実』に限りなく引き寄せた。
 当たり障り無く笑いながら会話していた隣人が、突如怒り狂って一家惨殺する世界。
 パソコンを立ち上げ、ネットから引き出した情報で、一般人が悪魔を召喚する世界。
 一見、何かが変わった訳ではない。だから、諸外国が介入することはなかった。日本を支配するのは、これまでと代わり映えのしない政治家たち。
 だが、中身は変わり果ててしまった。
 弱肉強食の世界。誰もが殺人者になり、同時に被害者になる可能性を持っている。
 そうして、薄皮一枚で『非現実』と隣り合わせているこの国。
 村雨が生きているのは、そんな『現実』であった。
 生まれた時からこんな世界だったから、異常とは思っていなかったが、村雨の<能力>を発見して接触した秋月から聞いたところによると、この『異常』は、一人の男が生み出したものらしい。
 龍脈という大地の氣を操る男が、意識的にこの国を<陰>に導いているのだとか。
 その男が何を目的としているのかは分からない。表だって地位を得たのでもなく、欲を満たしているのでも無いらしい。だが、どこかに潜んでこの世界を愉しんでいるのだ。
 秋月は表向き政府に役立ち、この世界を維持しているように見える。だが、その情報網で躍起になってこの一人の男を捜している。だが、未だ見つけられていない。
 こんな<陰>の世界でも、時に<陽>に傾いた人間が生まれることがある。たいていの人間は、多少<陽氣>を持って生まれてきても、すぐにこの荒野に吸い込まれ、物心付くときには立派な<陰>の人間となり果てていた。
 そんな中で、強い<力>を持った人間が、稀に存在し、<陽>のまま育つのだ。
 秋月は、そんな人間を集めていた。
 それは首謀者と戦うためでもあり…この荒野で生き抜くには<陽>の人間はひ弱な草でしかないため群れる必要があるためでもある。
 この階段で、黒いコートの男は笑いながら村雨に言った。
 「じゃあね、秋月のワンちゃん」
 確かに、犬、と呼ばれても仕方のないことをしている、と村雨は自嘲した。
 秋月の真意はどうあれ、表面上は政府寄りだ。この『異常』な世界を放置し、それどころか弱肉強食を推奨するような政府の。
 人外のものが関わっていると判断した途端、捜査を投げ出す警察の尻拭いをし、人間を脅かすものを排除する。だが、その原因となった横行する魔法陣を規制したり、召喚者を罰したりは出来ないのだ。
 時折、自分のやっていることが、途轍もなく無駄な行為に思えて、全身の力が抜けることがある。
 だが、それでも。
 これが、村雨の生きる『世界』であった。



100のお題に戻る