階段




 マンションの一階で部屋番号を確認する。思った通り、現場は30階のようであった。
 エントランスを抜け、最も近い場所のエレベータに向かい、『上』ボタンを押した。
 途端。
 ざわり、と背筋の毛が立った。
 臨戦態勢を取りつつ周囲を見回すが、おかしな気配は無い。
 だが、すぐに降りてきたエレベータに一歩踏み込むと、首筋のあたりがちりちりと焼け付くような不愉快さが襲った。
 足を引き、エレベータに乗り込むのを止める。
 その脇を、怪訝な顔をしながら中年女性が通り過ぎ、エレベータに乗り込んだ。そして、『開』ボタンを押しつつ、村雨の顔を見る。
 「あの…?」
 「あ、あぁ、良いんだ。あっちのに乗る方が近いのを思い出した」
 どうせ上に着けば歩く距離は同じなのだが、中年女性は納得したのか手を離した。
 エレベータの扉が閉まり、上昇していく。
 それを見ていてもちりちりとした感触は無い。
 だが、言葉通りに奥のエレベータに向かい、『上』ボタンを押すと、再び背中が総毛立った。
 (こんな時にゃ勘に従えってね)
 明らかな危険は認められないが、自分の勘には自信がある。
 その勘は、エレベータに乗るのを止めろ、と告げているのだ。
 しかし、エレベータの前からきびすを返して、村雨は、はた、と歩みを止めた。
 現場は30階。
 マンションのエレベータは使えない。
 それは何を意味するか?
 顔をしかめる村雨の前に、燦然と『非常口』の緑のランプが輝いていた。

 新しい近代的なマンションであるのに、非常階段はコンクリートではなく金属製のちゃちな代物であった。多分は、普段使うことは想定されず、あくまでアリバイとして存在する『非常階段』なのであろう。その証拠に、1階の非常階段入り口は施錠されていて、僅かに錆が浮いていた。
 扉を開けることなく、胸のあたりまでの高さの壁を乗り越えて、非常階段に降り立つ。
 2階まで上がって見れば、廊下との境には扉は無かった。まあ、全階扉で閉ざされていたら、非常階段として役には立たないだろうが。
 村雨は、憂鬱そうに上を見上げ、
 「行くか」
 と、自分に気合いを入れて、かんかんと金属の階段を上がり始めた。
 なるべく呼吸は規則的に、動かす足も規則的に。
 疲れていく体から意識を逸らしつつ20階ばかり上った頃だろうか。
 村雨は、ふと足を止めた。
 かーん………かーん………
 己の出す音は、『かんかんかんかん』である。階段を一歩一歩上がっていく音。
 だが、もう一つ、この階段を震わせる音があった。
 村雨が出す音よりも、もっと軽い者が立てる音。
 だが、音と音の間隔が長い。
 ゆっくりゆっくり降りている?
 だが、それは上から聞こえてきて、考えている間にもすぐ上に迫ってきていた。
 振り仰ぎ、金属の隙間から見えるものはないか、と確認する。
 手を懐に入れ、札を数枚指の間に挟んだ。
 かーん………かーん!
 黒い何かが、掠めた。
 それは階段を降りてきていた。だが、普通に降りているのではない。踊り場から踊り場へ、飛ぶように跳ねて来ているのだ。
 かなりの高さを飛び越えてきているにも関わらず、着地音はひどく柔らかい。
 音は、村雨の頭上にまで到達した。

 次の瞬間。

 かーん、という音は、村雨の前後で発生した。
 
 (背後を取られた!?)
 背筋がざわつく。
 だが、目前にも何かがいる。振り返るような愚は避けたい。
 村雨は、前に立つ者を確認しようと目を凝らした。
 ちょうど日光を背後に背負ったそれは、一見黒い影でしかなかった。
 「どうしようか、レクイエム」
 「どうしようか、ララバイ」
 前後で発せられた音が、二者が一斉に喋った声だと認識するのに、一瞬間が空いた。それは、あまりにも同じ声質で、最後の単語が異なっていなければ一つの声だと思ったかもしれない。
 喋ったことで、目の前のものが、人間であることをようやく知る。
 逆光に目を細めつつ、見る先に蹲るのは黒いコートの男。
 踊り場ではなく、金属の手すりにしゃがみ込んでいる。支えるものは己の爪先だけ、バランスを崩せば真っ逆様、という姿勢にも関わらず、それは平然と村雨を見返した。
 黒づくめの服装の中、顔だけが白く浮いて見える。声と雰囲気からするに、まだ若い男だ。村雨と同じか少し下、といったくらい。
 背後にいるのも同様だろう。声から推定するに、双子であろうから。
 「能力者だよ、レクイエム」
 「能力者だね、ララバイ」
 まるで儀式呪文でも唱えているかのように完全にシンクロしたセリフ。
 村雨の背中を、一筋汗が伝う。己を挟み込む双子が、やはり<能力者>であることに気づいたからだ。
 御門が束ねる陰陽師たち、及び秋月に使える者たちの顔は把握している。ならば、これは同じ組織には属さない能力者だ。
 何も、秋月だけが能力者の集まりではない。だが、ある程度政府や世間に認知されている『秋月』という能力者の集まりは、表に面した組織である。それ以外は怪しげな裏組織や能力を殺し合いに使うような犯罪者の集まりということが多い。
 この双子が何かに属しているのか、それともフリーの能力者かは分からないが、自分と同様に上の階に用があったのだということは容易に推測できた。
 さて、魔法陣を何のために見に来たのか、それとも利用しようとしているのか。
 双子からは明らかな殺気は感じられないものの、こちらが動けば瞬時に敵と化すだろうことも本能的に察知できる。
 村雨は、手の中の札を意識した。
 目の前の男は、ちょっと突けば地面に落ちそうである。無論、そんな簡単にはいかないだろうが、数秒の時間は稼げるだろう。問題は、その間に背後の男がどうするか、だが、上から来るよりは、下から襲う方が重力に逆らうため多少の間があるはずだ。となれば、囲みを抜けるには、まず上の男に攻撃して、排除できれば良しそれでなくとも時間が稼げればすぐに振り返って下の男に攻撃……。
 ばれないように『氣』を練り始めた村雨を見ながら、黒づくめの男たちがまた口を開いた。
 「この男、<陰>じゃないよ、<陽>だ」
 「この男、秋月だ」
 「じゃあ、上の関係者じゃないね」
 「上を調査に来ただけだね」
 ようやく会話らしく双子のセリフがずれた。
 目の前の黒づくめが、ちょっと首を傾げた。
 「放っておこうか、レクイエム」
 「放っておこうね、ララバイ」
 くすくすと笑い声が前後から響く。
 会話からすると、秋月を敵としている者ではなさそうだ。むしろ、目的は村雨と同じ、と見るのが自然ではあるが。
 だが、このまま立ち去るのを傍観するのも癪に障る。
 ふっ、と背後の圧迫感が消えた。また、耳に軽いかーん、かーん、という音が聞こえ始める。背後の男がまた階段を降り始めたのだ。
 上の男はまだそこにいる。それが降りようと思えば、村雨の横をすれ違うしかない。頭上を飛び越えようにも上へ向かう階段が斜めに走っていてさほど空間が無いためだ。
 1mほどの階段ですれ違うなら、捕らえることは容易だ。
 戦うつもりはないにせよ、もう少し喋って貰おうか、と構える村雨の前で。
 黒づくめの男が笑った気配がした。
 「じゃあね、秋月のワンちゃん」
 言葉と共に、不意に姿が消えた。
 慌てて背後を見やっても、その姿は無い。
 まさか、と思いつつ手すり越しに下を見る。
 ここは、20階を越えた高さである。そして黒づくめの男が、いかな術も発動した気配はなかった。
 なのに、その黒点は見る見るうちに地面に近づき。
 だが、村雨の予想した「ぐしゃり」とでも言うような音は、全くしなかった。
 まるで、地面がスポンジででもあったかのように、何の衝撃もなく黒づくめの男は降り立っていた。
 すぐに、階段を降り終えたのか、もう一つの影が近づく。そうして、二つの黒い塊は、風のように去っていった。
 完全に姿が見えなくなってから、村雨は思い出したように額を拭った。そして手を濡らす汗に舌打ちする。
 完全に呑まれた。
 この村雨祇孔が、だ。
 急に重くなった足を叱咤して残りの階段を上り始める。
 考えるのは、先ほどの双子のこと。ある程度以上の力を持つ<能力者>なら秋月が把握しているし、その中でも厄介な相手…敵になり得る者は村雨も頭に入れてある。それに引っかからないということは、秋月に属してはいないが比較的政府側の立場の組織か、あるいは…完全に<闇>に属しているか。
 帰ったら、即データベースにアクセスしてみよう、と思いながら、村雨はようやく辿り着いた現場の前で一つ深呼吸した。



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