クレヨン
しん、と耳に痛いほどの静寂の中、廊下を渡る音だけが異様に大きく響く気がした。
(何も、俺の修行が足りねぇ、とか、体重が増えた、ってわけじゃねぇのに、嫌味なくれぇ軋みやがる)
村雨祇孔は、そんなことを思いながら、艶やかに磨かれた板張りの廊下を歩いて、目的の部屋の障子戸を開いた。
室内は、やや薄暗いが、元通り障子を閉める。
すでに上座でいる男の前に、どっかりとあぐらをかいた。
挨拶も抜きに、上座の男…御門晴明が数枚の写真を畳の上に滑らせた。
こちらも挨拶も無しにそれを手に取り、子細に眺める。
数分後、目は写真から離さぬまま村雨は独り言のように低く言った。
「西洋の術式じゃねぇか。俺も得手じゃねぇぜ?こういうのは」
御門が肩を竦めるとそれにつれて長い黒髪が前に垂れ、煩わしげにそれを払った。
「そんなことは言われずとも。しかし、見過ごす気もありませんよ」
「まぁ、そうだろうな」
1枚の写真には、フローリングと思わしき床に直接描かれた鮮やかな赤の魔法陣が写っていた。やや不格好で、文字の細かいところは潰れている。
他の1枚には、一見絞られた雑巾のような何かが写っていた。ただし、絞り出されるものは鮮血。長い黒髪がまとわりついていることから、女と推定される。
もう1枚には、干涸らびたものが写っていた。あまりにも縮んでいて、元がどんな大きさだったのか見当が付かない。だが、出っ張り具合から、2足歩行の何かであることはうかがい知れる。
その他の写真は、本棚の内容や、デスクトップパソコンといったものが写されていた。
「…いい加減、魔法陣の規制法も強化して欲しいもんだな」
「上申はしてますよ。例によって、ね」
御門が、どこか疲れたような声で返した。
もう一度、魔法陣の写真に戻る。
数十秒、眺めた村雨は、ようやく目を上げて御門を見た。
「ホントに『これ』が門になったってか?」
本来、魔法陣とは精密な図形。異界のものを呼び出すための儀式であり、その手順に誤りがあっては、まず機能しないもの。
だが、写真を見る限りでは、その魔法陣はとうてい本物とは思えないほどいびつであった。文字は文字でなくただのミミズがのたうったような絵でしかないように見える。
「それは、お前が自分の目で確かめなさい」
扇子がぱちりと鳴る。
(やれやれ、どうやら俺が出張ることは決定らしい)
得意な系統では無いとはいえ、異界のものが召喚されて人が殺されたとなれば、放置するわけにはいかない。警察は動かないだろう。なら、気づいた者が、能力のある者が、始末するしか無いのだ。
「だいたい、何で魔法陣を描いてんだ?血…にしちゃあ流れてねぇし…」
鮮やかすぎる赤を見ながら、口の中で呟くと、返事が戻ってきた。
「クレヨンですよ」
片方の眉だけを上げた胡乱な表情で、村雨は御門を見上げた。
恐らくは『悪魔』と呼ばれる類のものを呼び出したと考えられる魔法陣、とても人間業とは思えない死に方をしている人間の写真…そんなものを見ながら聞く『クレヨン』という単語は、あまりにも場違いすぎた。
だが、御門は真剣な顔で扇子を片手で鳴らして、繰り返した。
「クレヨンです。その家には、5歳の女の子がいたのです」
言われて、もう一度写真を見れば、確かに薄茶色の小さな棒が転がっている。誰もが一度は使ったことがあるそれの巻紙の懐かしい色だった。
「家族構成は?」
平和の象徴のような単語から意識を逸らすように別の問いを発する。
御門が無言で寄越した紙を読み上げた。
「37歳普通の会社員、妻34歳、スーパーでレジ打ちのパート、5歳の一人娘。会社員の評価は『真面目』『融通が利かない』など、『無趣味』となっているが、家に残された書籍及びネットの記録からは悪魔召喚に多大な関心を持っていたことがうかがわれる、ね」
「プリントアウトされた魔法陣は、2つ組み合わせると正式なものになる、という代物でした。よくある手口ですよ」
現在、召喚魔法陣は法律で禁じられている。本物をそのまま不特定多数に閲覧可能にすることも法に反するはずだが、『それだけでは機能しない欠けた魔法陣』なら問題ない。その規制を抜けて魔法陣を手に入れることは可能であった。
ただし、同じようにプラスチック爆弾の作り方から原子力爆弾の作り方まで、書籍やネットで知ることが可能であっても全員が本当にそれを試す訳ではないのと同様に、魔法陣を実際に使用する者も、そう多くはなかった。原爆と同様、それの取り扱いは非常に危険であったからである。ほんの僅かなミスで召喚者が殺される…それもまた同程度に知識として広まっているため、手軽に試してみる者はあまりいない。
そう、『あまりいない』のである。
皆無ではなかった。
どうしても自分の力が足りないために召喚に賭ける者、自分によほどの自信がある者…たいていは期待と裏腹に逆に殺される。そうして自由になった『悪魔』を退治するのは、村雨や御門といった特殊な能力者であった。
警察は頼りにならない。
能力が無いのではない。
警察もまた………。
何度考えても空しくなる『現実』に向かいかけた思考を、無理矢理元に戻す。
その現場の住所は、新しいマンション群の一つであったはず。超高層ビルとまではいかないものの、結構な高さを誇るビルであった。『3017』という番号からすると30階だろうか。
渡された鍵を手に立ち上がった村雨は、装備を頭の中で確認した。
警察の現場検証も済み、自分が入ると言うことは、召喚されたものがそこにいる確率は低い。そもそも召喚したと思われる会社員が行方不明だ。ひょっとしたら取り憑かれたのかもしれない。
自分の役目は、まずはそれが本当に『門』の役目をしたのかどうか、それから出来れば召喚されたものの特定、もちろん最終的にはそれの排除あるいは強制召還。
丸腰ではまずいが、完全武装の必要はない。とりあえず手持ちの札で何とかなりそうだ。
懐の札を確かめながら、ポケットの中のバイクのエンジンキーを取り出した村雨は、部屋を去り際、ぽつんと呟いた。
「何だって、クレヨンだったのかねぇ?」
返事は、無かった。