正式名称:吸引の陰圧による皮下出血痕
翌朝。
久々にすっきりした顔で、クレイドルを迎えることが出来る、とリアムは上機嫌だった。
「・・・開けろ」
「はいっ。今、開けますっ」
開けて、クレイドルの顔を見た途端、また、ぽんっと顔が赤くなるのを感じた。
(何故だろう・・・恥ずかしい訳じゃ無いのにっ)
逃げ出すように、クレイドルの先を歩く。
調香机に向かって、メーラの葉を閉まっていると・・・とんっという音がした。
クレイドルが、呼んでいる音。
なるべく、クレイドルの顔を見ないようにして、近づく。
急に、手を引っ張られ、姿勢を崩す。
「うわわわっ、・・あっ、ごめんなさいっ」
自分が、クレイドルに乗り上げているのに気付き、慌てて謝るが・・・そのまま、腕を引かれた。
目を閉じて、口づけを受ける。
クレイドルに跨るように座っているため、今日は、口の位置の高さは同じくらいだ。少し、圧迫感はましだが・・・やはり、息苦しいことに変わりはない。
(あ、そうか・・・鼻で息をすればいいのか)
実行してみたが、何だか、自分でも聞いたことが無いような、変な声が漏れる。
それに、余計、頭を押さえているクレイドルの手に、力が籠もった気がする。
くらくらとする寸前、やっと唇が解放されて、息をついた。
クレイドルの唇は、そのまま下へと降りていき・・・くつろげたシャツの間から、喉の窪みに吸い付いた。
「ひぅっ・・!」
甲高い悲鳴が零れる。
くすぐったいような、背筋をぞくぞくさせるような変な感じが走り抜ける。
鎖骨を軽く噛み、首筋をきつく吸い上げられると・・・それだけで、意識を失いそうだ。
「クレ・・ドル、さ・・・・ダメ・・・」
「・・・何が、だ」
「・・・あ・・・だって・・・なんか、ヘン・・っ」
クレイドルの顔が、首から離れた。
柔らかく、抱きしめられて、リアムは頭をクレイドルの肩に乗せて、せわしない息を漏らす。
躰の震えが、止まらない。
怯えるように、クレイドルの首に縋り付いた。
「クレイドルさぁん・・・」
「・・・何だ」
「僕って・・・ヘンなのかなぁ・・・クレイドルさんに、触られると・・・・凄く、ドキドキするんだけど・・・」
初心なのか、誘っているのか、微妙なセリフである。
潤んだ瞳がクレイドルを映す。
「あのね・・・クレイドルさん、目、瞑って・・・」
リアムは、そのまま、クレイドルに顔を近づけ・・・軽く音を立ててキスをした。
で、緊張に耐えきれずに、止めていた息を吐きつつ、ぐたっと脱力する。
「・・・やっぱり、ダメだぁ・・・自分から、しても、ドキドキする・・・」
「・・・・・・・どういうつもりだ?」
「えと・・・あのね・・・」
ずるずると滑り落ちるように、リアムはクレイドルの膝から降り、床にへたり込んだ後、半ば這いながら調香机に向かう。
そして、一枚の紙を取り、戻ってくる。
「一応・・・考えてみたんです・・・なんで、クレイドルさんにキスされたら、ドキドキするのか・・・」
クレイドルの隣に、何とかよじ登り、ぱたぱたと自分の手で、顔を扇ぐ。
眉を顰めて、クレイドルは、その紙を読んだ。
『何故、クレイドルさんにキスされたら、ドキドキしたのか。
仮定1.久しぶりだから・・・確認!次もドキドキするだろうか?
仮定2.男の人だから
仮定3.年上だから・・・仮定2も3も、同条件の人もいたけど、どうもなかった
仮定4.一方的にされたから・・・確認!自分から、キスしてみよう
仮定5.悪魔さんだから・・・確認!他の悪魔さんとしたら、ドキドキするか?
仮定6.クレイドルさんは特別・・・上記が否定されたら、結論は、これだけど、どうして『特別』なのか?』
「まさか・・・確認するつもりか?」
仮定1と4は、まあ、いいとして・・・問題は、仮定5だ。
ナデューやシトラと、キスする・・・絶対阻止せねば。
脱力しているリアムを、また自分の膝の上に持ち上げる。
くたり、と警戒感無く、もたれかかってくるリアムの身体を支えながら、軽く、その頬を打ってみた。
「ふぇ・・・」
たちまち、大きく見開いた目に、涙が溜まる。
意識をしっかり保てよ、という意味だったのだが・・・怒られたと思ったらしい。
「説明しろ。・・・他の奴らと、試してみるつもりか?」
ぷるぷると、頭を振ると、涙も一緒に飛び散った。
「しません・・・一応、想像はしてみたんですけど・・・」
それだけで、腹を立てる自分は、相当に独占欲が強いのだろう。
余程、この、上目遣いで見上げている、馬鹿な子供に魅了されているらしい。
ほとんど、あきらめの境地で、新鮮な怒りを味わっていると、それに気付かない愚鈍な子供が、小さく説明を始めた。
「ロキや、ティムは・・・多分、友達とキスしたのと同じで、全然ドキドキしないんじゃないかと思うんですよね・・・。ソリュードさんは、近所のお兄さんって感じだし、フィリスさんは・・・近所のお姉さんって感じだし・・・」
ここは、突っ込むべきだろうか?
「アドルさんは、そもそも、想像もつきませんでしたし・・・ナデューさんとシトラさんは・・・」
まだ、幾分涙で潤んだ瞳で、クレイドルを見上げる。
「あの・・・お二方には、絶対、内緒にして下さいね?・・・ナデューさんと、シトラさんは、想像だけはしてみたんだけど・・・・・・あの・・・何となく、イヤだったんです。何が、どう、イヤなのか、自分でも分からないんですけど・・・何だか、こう・・・怖いんじゃなくて、えと・・・」
「それで、いい」
これ以上、考えさせると、また、二人とのキスシーン(想像)を始めそうで、クレイドルは遮った。
その二人がイヤという事は、逆に言えば、その二人だけは「恋愛の対象」として、認識しているという意味で。
やはり、奥手な天使長近衛隊隊長如きより、アンヌンの仲間達の方が「敵」であったようだ。
「他の男と、する必要はない。・・・お前は、俺のものだ」
はい、と聞こえるか聞こえないかぐらいの声で返事をしたリアムを見ると、また、両手で頬を押さえている。
実によく赤くなる顔である。
「お前は・・・俺とするのは、イヤではないのか」
「イヤじゃないです・・・全然。・・・ドキドキはするけど・・・」
急に、理性的な光を瞳に宿し、リアムはクレイドルの手から、書き込みを取り上げた。
「う〜ん、他に、考え忘れてる要素ってあったかなぁ・・・。他の人と、クレイドルさんが違う点・・・思いつかないなぁ・・・てことは、クレイドルさんが『特別』って事なんだけど、そもそも、じゃあ何が、特別なのかっていう堂々巡りになっちゃうんですよね・・・」
ぶつぶつと呟きながら、クレイドルを凝視する。
「カッコいいから・・・違うよね、きっと・・・別に、僕、男の人が好きってわけじゃないし・・・う〜ん・・・クレイドルさんは、どう思われます?」
本人に聞くのは、どうだろうか。
リアムは、答えを待っている。自分が、今、悪魔を口説いているのだということを、気付いてはいないのだろうか。
それとも・・・意識的にやっているのだとしたら、大したものだ。
ふわり、とグラウメリーの魅惑が立ちのぼる。
それに身を任せるのが、手っとり早くはあるのだろうが、これに抵抗するのは「魔術の専門家」としての意地だ。
・・・この場合、意地を張って、得られるのは自己満足だけ、流されたら、得られるのはリアム、という分の悪い選択だけれども。
「・・・お前は、俺に、惹かれているということだ」
あぁ、あざとい。あざとすぎる。自己嫌悪で、クレイドルは頭を抱えた。
いくら何でも、これは見え透いているだろう・・・と、思いきや。
「あ、やっぱり、クレイドルさんも、そう思われます?・・・そうかぁ・・・そうですよねっ、僕が、クレイドルさんに惹かれてるからなんですよねっ」
あっさり、リアムは納得顔で頷いている。そもそも、爽やかに納得する内容か。
「まったく・・・・・・・お前は・・・妙な子供だ」
何度目かの感想を漏らし、クレイドルは、立ち上がった。
「もう少し、自分で、考えろ。・・・帰る」
あうあうと、リアムが情けない顔をする。
「・・・怒りました?」
怒っている・・・のだろうか?怒っているとしたら、何に対して?リアムに対して、というよりは、自己嫌悪のようだ。
ともかく、今日は帰って、何故自分がこの子供に振り回されるのかを、考えてみよう、とクレイドルは思った。
「また、明日、来る」
そう言って、立ち去ろうとすると、リアムの様子が妙な事に気付く。
何かを言いたそうな、恥ずかしそうな・・・
昨日、立ち去り際に、キスをしたことを思い出し、苦笑した。
引き寄せると、嬉しそうに笑って、目を閉じる。
わざと、鼻の頭にキスをしてやると、開いた目が、『これだけ?』と言った後、ぷぅっと頬を膨らます。
「僕は、子供じゃありませんっ!」
「・・・くくっ・・・くっくっくっ・・・」
思った通りの反応に、笑い声が漏れる。・・・声を出して、笑ったことなど、随分、久しぶりのような気がする。
「オモシロイ、な。お前は。・・・まったく、興味深い」
複雑な顔の、リアムを残して、クレイドルは去った。
(リアムは、俺に、惹かれている)
これはもう、確定事項のようだ。・・・いや、少なくとも、リアム本人は、そう思っているようだ。
あそこまで、さっくりと、『お前は、俺に惹かれている』→『あ、そうなんですね』と納得するあたり・・・、誰かが、『違う、それは、気のせいだ!』と言い切った場合、『そうなのかなぁ』と、いきなり変節しそうで恐いが。
そして、自分が、リアムに惹かれていることも、ようやく認める気になった。
両想い。問題なし。万々歳。・・・という訳にいかないのは、何故だろう。
まず、自分の『想い』。
『今の』リアムに対して、飽きてしまうことは無いように思う。
問題は・・・『闇に染まったリアム』だ。自分の興味は、続くだろうか?変わってしまっても?
リアムは、変わるだろうか?
容姿が、変わってしまうのは、別に構わない。
たとえ、爺になっても、筋肉ムキムキになっても。それどころか、象になってしまっても。
(いや、動物になるとしたら、あれは・・・ハツカネズミあたりになりそうだ)
金色の毛並みの小さなネズミが、部屋中を走りまくる様子を想像して、ちょっと笑ってしまって、誰も見ていないというのに、咳払いなどしてしまう。
いや、それはともかく。
容姿の問題なら、自分の魔力で、好きなようにいじれば済むだけのこと。別の器を用意して、そこに精神だけ閉じこめても良い。
問題は。リアムが笑ってくれるかどうか。
愛する光が無くても。
闇の中、クレイドルと二人きりで暮らしていても。
それでも、笑っていてくれるだろうか。
(我ながら・・・どうかしている)
鬱陶しかったはずの、笑顔。それを、自分一人のものにしたいとは。
翌日、朝一番に、リアムの家を訪ねる。
まだ、結論は出なかった。
自分一人の物にしたい。変わって欲しくない。その二つの感情の、折り合いをつけることができなくて。
扉を開け、自分を迎え入れるリアムの、とびっきりの笑顔。幸せそうに、輝かんばかりの。
「・・・何故、お前は、そんな顔をする」
「はい?どんな顔ですか?」
「・・・何故、俺を見て、笑う」
ちょっと、不思議そうな顔をして、リアムはクレイドルの隣に座る。
「クレイドルさんが来てくれて、嬉しいから」
どうして、こんな当然の事を聞くのだろう、といった口調で、リアムが答える。
クレイドルは、言葉を続けようとして・・・リアムの首筋に気付く。
シャツの隙間から覗く、中央の窪みと、左の首筋。
昨日、自分が付けた、赤紫色の痕。
それに、手を伸ばし、触れると、リアムがくすぐったそうに、首を竦めた。
「誰かに・・・何か、言われたか」
明らかな、所有の印。
リアムは、困ったように、首を傾げる。
「えっと・・・」
アドルの場合。
「そ、それ、それは・・・どうした!リアム、だだだ誰にそのような事を・・・!」
「・・・は?」
「その、首の、紅い痕は!」
「・・・は?首・・・ですか?紅い?」
うにゃ?とリアムは首を傾げて、真っ赤になった謹厳な天使を見つめる。
「ん〜と・・・ちょっと、待ってて下さいね?アドルさん」
寝室から、手鏡を持ってきて、シャツの首をくつろげた。
「どこですか?」
「だだだだから、首の・・・あぁっすまないっ!」
直接、リアムの首に触ったアドルは、いきなり自分の手を押さえて、後ずさった。
「あ〜、本当だ。紅くなってますね。・・・いつからだろ・・・」
全く、気にしていないリアムに、アドルは一人で回り出す。
「すすすすまない!俺は、なんという破廉恥なことを想像していたのだ!!清廉で純情なお前が、そのような真似をするなどと、考えただけで、俺が、お前を汚しているのかっ!・・・ああぁぁっ!俺は、なんということを!」
「あの〜、アドルさん?」
いきなり飛んで帰った天使に、リアムは一人で呟くしかなかった。
「アドルさんて・・・愉快な人だなぁ・・・」
シトラの場合。
「お〜や、そんなところに、キスマークをつけるなんざぁ、お前もやるもんだねぇ。相手は、やっぱり、あのデンパ男かい?」
「・・・は?」
「とぼけてんじゃないよ。その、首筋の。キスマーク以外のなんだってんだい」
「はぁ。そういえば、アドルさんにも、紅くなってるって、言われましたけど・・・。キスマーク、ですか?やだなぁ、シトラさんってば。また、僕をからかおうとして」
「本気で、言ってんのかい?・・・はぁ、お前に、しらを切るなんて、上等な真似が出来るはずもないしねぇ・・・こりゃ、本当に、的が外れたかい・・・」
「・・・という訳で、シトラさんが、それは隠しといた方が、余計な詮索受けずに済むよっておっしゃってくれたんで、昨日は、ちょっと、シャツをきつめに着て、こっちのは、テープを貼っておいたんですけど」
まだ、紅いですか?と暢気に触るリアムに、一瞬、くらりと目眩がする。
これは、確かに、昨日、俺が付けた、キスマーク。
一応、記憶を巻き戻してみるが、妄想ではなく、現実にあった出来事のようだが。
「・・・リアム」
「キスマークなんて、つくはず無いのに。どうして、シトラさんは、あんなこと言ったのかなぁ?」
「・・・・・・・つくはずが無い、とは、どういう意味だ」
まさか、記憶から抹消されているのか。
暗ーーい、地を這う声音が、リアムを襲う。
当のリアムは、屈託のない笑顔で、クレイドルを見上げた。
「だって、クレイドルさんは、口紅なんて、付けてないのに」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
こんな、間抜けな声を漏らすのは、人生・・・悪魔生、始まって以来のことだ。
「え?・・・付けてません・・・よね?」
リアムの指が、クレイドルの唇をなぞる。その手を捕らえて、リアムの瞳を覗き込んだ。からかっているのなら、容赦はしない、が。
「リアム。・・・お前にとって、キスマークとは、何だ?」
「え?キスマークっていうのは、口紅で、唇の形が残る事でしょ?女の人が、手紙の最後に、ちゅって付けるマーク。大好きっていう意味なんですよね?・・・そういえば、昔、父さんが、シャツに付けて帰ってきて、凄いことになったっけ・・・」
思い出に浸るリアムを余所に、クレイドルは頭を抱えていた。この子供は・・・・・・。
「あの・・・僕、何か、変なこと言いました?」
何とも言えない顔をしているクレイドルに、リアムは狼狽えていた。どうやら、本気でそう思いこんでいたらしい。
「・・・リアム」
「あ・・・」
掴んだままの手を引くと、あっさりと胸に倒れてくる。
耳まで真っ赤に染めて、そっと目を閉じる子供に、合わせるだけのキスをする。
「この、行為は、何という?」
「え?・・・えっと・・・キス・・・」
更に赤くなって、リアムは小さく答える。
「では、これは?」
唇を少しずらして、頬に、口づけると、消え入りそうな声で、キス、と答えた。
「では・・・これは?」
首筋に舌を這わし、きつく吸い上げる。また、痕がつくように。
潤んだ瞳と、熱い吐息で、それも、キスと答えた。
「では、キスでついた、この、印は、なんと呼ぶ?」
震える喉を楽しみつつ、舌で撫でていると・・・リアムの答えが降ってきた。
「・・・あざ?」
がくぅっ。
思わず突っ伏したクレイドルに、リアムが慌てて、袖を掴む。
「ぼぼぼ、僕、何か、変なこと言いました?・・・あ、痣じゃなくて、・・・出血痕?」
「・・・・・・・・いや、いい」
大した破壊力だ。しっとりした雰囲気も、淫靡な雰囲気も、エーテルの海の彼方へ飛んでいきそうな、おとぼけぶり。
ゆらり、とクレイドルは立ち上がった。
「・・・帰る」
「ええええぇぇぇっ!」
あわあわと、リアムがマントの裾にしがみついた。
「何となく、気が削がれた。・・・また、来る。それまで、正解でも考えていろ」
(怒らせちゃった〜!!)
出会った日から、何度目かになるそのセリフを頭の中で叫びながら、リアムは一人涙にくれていた。
さようならのキスもなく、クレイドルは去っていった。
何故か、30度くらい傾いたまま。
(だって、だって、つい、痣って思っちゃったんだもん〜!・・・そうだよね、痣は先天性母斑だから、吸われて出来た出血痕とは違うよね・・・あぁ、馬鹿な子供だって思われちゃったんだろうなぁ・・・。だって、だって頭がぼーっってしてたんだもん〜!)
いや、クレイドルが突っ込みたかったのとは、違うぞ、それ。
(誰かに聞けば・・・でも、これ、見られたら、またややこしくなるし・・・)
昨日より、一つ増えてるし。
リアムは、シャツを顎の下までぴっちり着込み、左右の首にテープを貼った。
「フィーレ先生に、聞いてみようかな」
鏡で、確かめながら、リアムは呟いた。
磨き抜かれた匠の技で、材料だけをぶんどって、話はさっさと切り上げるという、極悪非道な作戦の結果、最後の一人を送り出した時には、まだ外に薄明かりが残っていた。
「さて、と。じゃ、ちょっと、行ってみようっと」
帰りに使うランプを手に、リアムは森を突っ走った。
「先生〜。フィーレせんせーい」
「おぉ、リアム。どうした、こんな時間に」
賢者は、驚きながらも愛弟子を温かく迎えてくれる。
「先生、質問があるんです」
息を弾ませ、紅潮した顔で『かくかくしかじか』と説明を始めた可愛い弟子を慈愛の目で見守っていた賢者の顔が、まず、赤くなり、呆れ顔になり、続いて蒼白になるという芸を見せた。
「・・・リアムよ・・・」
「はいっ、フィーレ先生っ」
「それは・・・その・・・いや、キスマークには違いないんじゃが・・・」
「えええぇぇぇっ!これも、キスマークなんですか!?」
「そうじゃ。・・・それで、のう・・・」
「そっかぁ。これも、キスマークって言うんだ〜。あ、じゃあ、シトラさんが仰ってたのは、間違いじゃなかったんですね!そうかぁ・・・」
うんうん頷くリアムに、賢者の頭を、『教育法を間違えたかも』という疑念がよぎる。
嗚呼、せめて、天使や悪魔とおつき合いするのが判明した段階で、こういうことへの対処法を教えていたら!
しかし、全ては遅かりし、由良之助。
「リアム。いつの間に、クレイドル殿と、そのような理無い仲になっておったのじゃ・・・」
注:理(わり)無い仲=ねんごろ。
「はいっ。唇にキスしてもらったのは、一昨日の朝からで、首は昨日です」
嬉しそうに、頬を染めながら答えるリアム。
どうでもいいが、ばしっと日付を答えられると、妙に生々しい。
そうか、と脱力したように賢者は、お茶をすすった。
「わしの弟子が、悪魔殿のお一人と、そのような仲になるとはのぅ・・・。いやはや、何と言えば良いのやら」
本来なら『東の神殿、跡継ぎ候補筆頭』のはずの弟子は、悪びれた様子もなく、にこにこと笑っている。
「昔から、そうじゃったのぅ・・・。わしの所へ来るときも、ひたすら、前向きじゃった」
つい最近のような、随分昔のようなその時のことを回想する。
たまたま、クランの街に行った時、町長に懇願されて、集会所でリルダーナの歴史や古い物語を披露した。
その時、大勢いた子供達の中にいたのであろう、蜂蜜色の髪の子供は、別段印象にも残っていなかったが・・・、学びの森へと帰って来た日に、いつの間にやらついて来ていた小さな子供は、『家出して来たので、置いて下さい』と言った。
宥めたりすかしたりしたが、今と同じく、にこにこと笑うばかりで、帰る気配も見せない。
両親に手紙を出したが、『どうぞ、よろしくお願いします』と返事が戻ってきた。
・・・以後、現在に至る。
両親の期待した『海の男』になることは無理だと判断したリアムの選択である。
『自分で決めたことだから』と、以降家族を恋しがりもせず、後悔した様子は露ほども見せない。
「フィーレ先生。僕、今度クレイドルさんが誘ってくれたら、アンヌンに行きます」
背筋を正して、リアムははっきりと言った。
賢者は、そうか、としか答えられない。
「僕は、ここに来たことを、後悔したことはありません。捨ててきた物より、得た物の方が大きいのは、分かっているから。・・・多分、今回も、同じです」
クレイドルと一緒にいるために、リルダーナを捨てる。それでも、得る物の方が大きい筈だから。
「ご迷惑を、おかけします。・・・あ、でも、まだ確定事項じゃないので、内緒にしてて下さいね」
真っ直ぐに見つめる、リアムの目。たとえ、賢者が反対しても、自分の意志を覆すことは無いだろう。
「そなたは、そなたの信じる道を行くがいい」
「はい」
笑って、リアムは礼をした。
ひょっとしたら、もう2度とは会わない師に、深々と。
「もう、暗くなっておるのに・・・泊まって行ってはどうじゃ?」
「いえ、帰ります。・・・色々と、ありがとうございました」
「そうじゃ。これを持っていくがいい。・・・役に立つかどうかは、わからんがのぅ」
とぼけたように、差し出された本を手にとって、リアムは絶句する。
『新婦心得』・・・何故、フィーレ先生が、こんな本を持っているのか。
ぱらぱら、めくって、更に息が止まる。
解剖学的知識から、実地編まで。わかりやすいイラスト付き。・・・キスマークも知らなかった人間には、刺激が強すぎる。
「・・・ゆっくり、読ませて頂きます・・・」
真っ赤になって、リアムはふらふらと、神殿を立ち去った。
歩き出したリアムの鼻孔を、覚えのある匂いがくすぐった。
(クレイドルさん?)
辺りを見渡すが、光を吸い込む闇ばかりで、愛しい悪魔の姿は見えない。
歩みと共に、つかず離れずまとわりつく、その匂い。
(一緒にいてくれてるんだ・・・)
落ち着いて、森の中、帰途につく。
ランプの明かりだけで、後は闇。それでも、全く恐くはない。
クレイドルが、一緒にいてくれる、それだけで、何も恐くない。
家についたリアムは、しばらく扉を開けたままにしておいた。
クレイドルが、姿を現してくれることを期待して。
だが、期待は裏切られた。匂いも、薄れていく。
それでも、リアムは幸せだった。
ただ、森の道を守ってくれるためだけに、クレイドルが側にいてくれたから。
「やっぱり、僕、クレイドルさんのことが、大好き」
口に出して呟いて、扉をぱたんと閉めた。
明日も、朝から来てくれるはずの悪魔に、何と言おうと、考えながら。
次回予告!!
早く「お持ち帰り」して下さい、クレイドル様!リアムは準備万端です!
嗚呼、でも、まだ4枚目イベントが!!!
というわけで、断腸の思い(←そこまで・・・)でお送りする4枚目イベント、次回「森の木陰でドンじゃらホイ」でお会いいたしましょう。
* * *
あとがき
長くなったが、切るのも何だったので、そのまま続行いたしました。
それにしても、うちのリアム・・・段々、可愛く無くなってきてるというか・・・ゲームから離れていくと言うか・・・。すみません、フィーレ先生、こんな弟子で。
ところで、今回、視点がころころ変わってます。精進精進・・・。
えー、私、賢者エンド見てないので、リアムが師事したいきさつ知りません。こんなんじゃないとは思うんですが(笑)。