戦略的勝利者




 クレイドルが血塗れで帰ってきた。
 
 ざわめき立つ魔を制して、新入りながらクレイドル付きの魔の筆頭となったリアムが主を寝室へと導く。
 そこには、何故かすでに湯とタオルの準備がしてあった。
 クレイドルとしては、如何ばかりか己の魔が慌てふためいて騒ぐかと思っていたのだが…そして、それを理由に遠ざけて自分で傷の始末をするつもりだったのだが、あまりにもリアムが淡々と仕事をこなすため、機会を掴み損ねてしまった。
 主の心を知ってか知らずか、リアムは慎重な手つきでクレイドルの衣服を剥がしていき…現れた傷に一瞬眉を顰めた。
 だが、それでも何も言わずに冷静に傷の処置をしていく。
 リアムが手を挙げると、音もなく別の魔が現れ、紅に染まった洗面器と汚れた衣服を持って下がっていく。それに一言二言囁いて、リアムはまた無言で主の元へと戻った。
 きちんと包帯の巻かれた体に新しい衣服を着せかけていると、ノックと共に魔が入ってくる。
 ぐつぐつと泡立ち異臭を放っている瓶を受け取り、リアムはクレイドルに杯を差し出した。
 「薬湯です」
 「…いらん。酒でも飲んでいればいい」
 「お酒は血管を開いてしまいますから、出血が増えます。今は、諦めて下さい」
 クレイドルは、リアムの顔と杯を交互に見やった。
 魔の分際で、主の要請を断り、不遜な態度を取る。
 だが、それが感情的に行われていたならば、こちらも感情的に否定出来たろうが、あくまで冷静に言われているため…そして、それが理に適っているため…舌打ちと共に杯を受け取る。
 一息で煽ると、臭い通り苦く噎せるような味の液体が喉を滑り落ちていった。
 2杯目を注ぎながら、リアムは目を半ば伏せて問うた。
 「理由を聞いても?」
 「…お前には関係ない」
 「そうですか」
 案外とあっさり引き下がったリアムに、クレイドルは内心で安堵した。
 この魔は見かけの割には強情で、何が何でも己の意志を貫き通すところがあるので、追求されると鬱陶しいと思っていたのだ。
 無論、クレイドルの身を案じてのこととは分かっているが、だからこそ<この件>について知られたなら、何をしでかすか分からない。
 真実など知る必要は無い。
 この塔で、大人しく主の帰りを待っていれば良いのだ。
 リアムの差し出す薬湯を、素直に飲んでしまったのは、この魔が己に害をなすはずがないと高をくくっていたのと、リアムが口には出さないが本当は知りたがっているのが分かって、それでも握り潰しているという後ろめたさがあったせいだろう。


 ピンと張ったシーツの上に主が横になるのを手伝い、リアムは十分ほどそこにいた。
 クレイドルの呼吸が深くなるのを確認して、薬湯を載せた盆を手に、部屋から出ていく。
 下っ端の魔に盆を渡すと、その魔はおろおろとその辺を這いずった。
 「い、良いんですかねぇ、こんなことしたのがばれたら…」
 「僕が煎じた薬湯だと答えて下さい」
 さらりと答えて、リアムは手を振って階下に向かう。
 「リアム様…?」
 「主の許可無しに外へは…」
 ざわざわと不安そうに蠢くが、リアムを止めることも出来ないクレイドル付き魔たちに、リアムは外套を羽織ってにっこりと微笑んだ。
 が、目は笑っていない。
 元人間の癖に、魔を凍り付かせるような冷ややかさをたたえて、リアムは言い放った。
 「クレイドルが目を覚まして怒ったら、リアムが『あまり僕を舐めないで下さい』と言っていたと伝えて下さい」
 リアムが塔を出て数瞬後。
 「言えるわけ無いっしょーー!!」
 という叫びが塔を満たした。


 未だ身にまとうグラウメリーの香りのせいで、歩いていくリアムを好奇の目で…あるいは欲望を込めて見る魔は多い。
 だが、昂然ともたげた首には漆黒の皮の首輪が着けられ、その中心には紫色の貴石が暗い光を放っている。
 それを見れば、四大悪魔クレイドルの魔であることは容易に知れ、更にはあのクレイドルが惚れ込んでさらってきた人間であることはとっくに大多数の知るところであり、ちょっかいをかけるような蛮勇を持ち合わせた魔はどこにもいなかった。
 少なくとも、下っ端の魔には、だが。
 リアムは確かな足取りで、大勢の魔が見守る中、塔から塔へと歩いていった。
 そして、扉をノックする。

 「お久しぶりです、シトラさん」
 外套を畳み腕にかけて、優雅に腰を折る。
 「ふふ、いいよいいよ。あんたとあたしの仲じゃあないかえ」
 含み笑いと共に、シトラがリアムのためにイスを引く。
 軽く頭を下げて、リアムは素直に従った。
 シトラの入れるお茶を前に、他愛の無い世間話を2,3しておいて。
 「それで?あんたがあの電波男無しで一人で外を歩くなんざあ、いったい何事だい?」
 「クレイドルは、眠らせて来ました」
 さらりと元人間の魔は言ってのけて、ティーカップを置いた。
 改まって姿勢を正し、シトラに頭を下げる。
 「何があったのか、教えて下さい」
 数瞬、間をおいて、シトラが緩やかな微笑を浮かべ、ゆっくりと指を組んだ。
 「さて、ねぇ。いろいろと面白いこともあるけどねぇ。坊やが好きそうなこととなると…」
 ちらりとリアムの目に、苛立ったような光が過ぎった。
 「では、はっきり伺います。クレイドルの血臭は宮殿から続いていました。そして、クレイドルがむざむざと怪我を負うような相手となると、限られています。シトラさん、ナデューさん、ロキという四大悪魔の皆さんか…」
 そこでリアムは一端言葉を途切らせて、唇を舐めた。
 「けれど、同じ四大悪魔と争ったなら、クレイドルが大人しく引き下がってくるわけがありません。あれあけ傷を負って、それで素直に帰ってくるということは」
 リアムの水色の目が、フラヒスの光もかくやとばかりに輝いて、シトラをまっすぐに見据えた。
 「…シフィール様が、お目覚めになったのではありませんか?」
 シトラは、ふぅ、と一息吐いて、目を逸らした。
 両手を降参の形に軽く挙げる。
 「やれやれ、困った坊やだねぇ。あんまり主の事情に口を挟むもんじゃあないよ」
 「出来ることなら、そうしたいですけど。…でも、クレイドルは基本的に面倒くさがり屋ですから、これまでだって表だってシフィール様に反抗したりしていないでしょう?それが、今、この時点になって、シフィール様の不興を買う、ということは」
 どこかで、魔術が炸裂する波動がした。
 だんだん近づいてくる。
 シトラは優美に眉を顰めて、溜息をもう一度吐いた。
 「ご主人様のおなりだよ?」
 だが、リアムは扉を振り返りもせず、シトラを見つめて低く言った。
 「…シフィール様は、何を望まれましたか?僕を、見たい、と?それとも…」
 「リアム!いるのか!」
 扉が黒い稲妻とともに吹き飛んだ。
 「やれやれ、あんたが修理しとくれよ?」
 「シトラ!リアムから離れろ!それは、俺のものだ!」
 「坊やから来たんだよ」
 クレイドルの憤怒の表情もどこ吹く風で、リアムはゆっくりと続けた。
 「シフィール様は、僕を供せよ、と仰ったのですか?」
 ほんの数秒の沈黙に、リアムは答えを得た。
 「…やっぱり、そうですか」
 「お前には、関係が無い!帰るぞ、リアム!」
 音もなく立ち上がり、リアムは主の腕に身を投げ出した。
 逃がすものかと言われているようにきつく抱きすくめられ、うっすらと笑う。
 「関係が、無い?僕のせいでクレイドルが怪我をして、それでも、関係が無い、と言うんですか?貴方は」
 低く低く歌うような言葉に、クレイドルは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに抑え込むことにした。
 「あぁ、そうだ。お前には関係無い。お前は大人しく俺の元にいればいい。余計な詮索をするな」
 「…あまり、怒らせないで下さいね、クレイドル」
 それは、クレイドルにシフィールを怒らせるな、とも取れたが、同時に、自分を怒らせるな、とも取れた。
 僅かな魔力しか持たない元人間のくせに、時折こうしてクレイドルより上に立ったような物言いをする。
 だが、それでも。
 「…お前には、関係無い」
 失うことは出来ないのだから。
 クレイドルは、きつくきつく腕の中の細い体を抱き締めた。
 「やれやれ。痴話喧嘩は自分のところでやっておくれ」
 扇を広げて、歪めた口元を覆い、シトラは呟いた。
 そして、宥めるように言う。
 「シフィール様だって、本気であんたの玩具を取り上げようなんて思っちゃいないさ。あんたが執着するのが物珍しくて、ちょっとつまみ食いしたいってだけさね。たった一回限りのことなんだからさ…」
 それはクレイドルに向かって言っているようであったが、自分に向けられた言葉だということにリアムは気づいた。
 たった、一夜。
 シフィールの元に行けば、クレイドルがこれ以上傷つくこともなく、平穏な日常が訪れる。
 だが、同時に知っていた。
 たった一度のことでも、他の男のものになることを、クレイドルは許すはずが無い。
 クレイドルは狂的なほどに神経質なのだから。
 そして、リアム自身も、クレイドル以外に身を任せるつもりは欠片も無かった。
 だとすれば。
 だとすれば。
 「とにかく…塔に戻りましょう。話はそれからです」
 「ふん…」
 クレイドルは鼻を鳴らし、呪文を唱えた。
 去りざま、シトラに目だけで「余計なことを言うな」と牽制するのは忘れない。
 後には、玄関から応接室まで続く黒焦げの壁と下っ端の死体に重い溜息を吐くシトラだけが残された。

 
 己の塔の寝室に飛んだクレイドルは、腕の中の魔をベッドに放り投げた。
 リアムが起き上がるよりも早く、上から抑え込む。
 上から落ちてくる髪の感触にくすぐったそうに目を細めながら、リアムは静かに言った。
 「もう少し、僕を信用しては頂けませんか?僕は…たとえ死んでも、貴方一人のものなのに」
 「…当たり前だ」
 明るい水色の瞳も、鮮やかな金髪の一筋さえも、他の誰かのものになるなぞ、想像だけでも我慢がならない。
 クレイドルが求めるものは、これまでは<闇>のみであったが、それは自分から追いかけるものであった。
 こうして、腕の中にすでに<欲しいもの>が存在したのは初めてだ。
 それゆえ、欲しいものを手に入れたなら、今度は失う心配をしなければならない、という事態もまた初めてのことで。
 幸い、クレイドルは四大悪魔という高位の地位にあり、<敵>と成りうるのは同じ四大悪魔か…不本意ながらシフィールのみで、圧倒的多数の悪魔たちは、敵対する力を持っていない。
 だが、その認めたくはないが<主>たるシフィールが、リアムを望んだ。
 シトラの言うように、本気で取り上げようとはしていないのは、クレイドルにも分かっている。
 だが、たとえ相手が誰であろうと、他の男に触れさせるなぞ、とうてい我慢が出来そうにも無い。
 リアムが己を愛しているのは知っている。
 その存在全てが、己のものであることも知っている。
 だが、愛しているがゆえに、クレイドルを救うために身を投げ出す可能性があることも、同時に知っていた。
 たとえそれが本当にクレイドルを<救う>ことにはならないと分かっていても、クレイドルが怪我を負うのを黙って見ていられる性分ではないだろう。
 だから。
 クレイドルは、リアムを閉じこめておくより他は無い、と思った。
 誰にも連れ出せられないように。
 どこへも行けないように。
 こと<呪縛>という魔術に関しては、このアンヌンでクレイドルに匹敵する者はいないのだから、たとえシフィールでさえも、容易にはリアムをさらうことは出来ないはず。
 後は…シフィールが興味を失うのを待つか、また眠りに就くのを待つだけのこと。
 それまで凌げば…何とかなる。
 クレイドルは、眼下のリアムに口づけた。
 大人しく細い腕が首へと回る。
 何が優れているのでもない。
 ただの<元人間>に過ぎないこれに、何故そんなに執着するのかは、自分でも分からない。
 だが、それでも、失いたくない、という気持ちだけは本当だった。

 そうして、主の傷を気遣って、大した抵抗もしなかったリアムをいつも以上に濃厚に追い詰め、意識を失わせる。
 そっと寝衣を羽織らせ、塔の先端へと連れていく。
 <呪縛>を込めた細い鉄鎖で手首を戒め、部屋を出てから、その扉に<外部からの進入を禁じる><呪縛>をかける。
 クレイドルの最高レベルに込めた魔術が淡い光を放つ。
 これでいい。
 これで、他者が力尽くでリアムを連れ去ることは出来ないはずだ。
 部屋自体にも魔術は及んでいるので、破壊して出すことも難しいはず。
 クレイドルは、己の選択に自信を持って、部屋を後にした。


 数時間後、リアムは目を覚ました。
 手首の鎖の感触に、クレイドルの行為とその意図を読みとって、舌打ちする。
 自分をこうして縛り付けたからには、クレイドルは己の腕でリアムを守る気は無いということだ。つまり、一人で宮殿に対決に行ったと見て良い。
 リアムは、確かに無力な子供であって、四大悪魔とその長に介入できるような立場では無い。
 だが、それでもこれまでの人生が学究の徒であったのと生まれつきの観察眼でもって、クレイドルの性質や他者との関わりについてはある程度把握している自信があった。
 リアムの見たところ、一見猪突猛進と思われるナデューよりも、クレイドルの方が実は盲目的に敵に向かっていくところがある。
 それはクレイドルが純粋なせいであって、リアムとしては欠点とは思えないしむしろ好ましい性質と捉えていたが、それでも<交渉>には不向きだということは明らかだ。
 これまでシフィールとことを起こさなかったのは、単にクレイドルの興味がシフィールとは別のところにあったというだけのこと。
 シフィールがクレイドルの意志を邪魔するとなれば…真っ向から立ち向かうだろう。
 シトラなら、うまくシフィールを逸らすことも可能だろう。ナデューなら、あっさりと割り切るかも知れない。ロキでさえ、うまく立ち回って逃げることが出来るかも知れない。
 だが、クレイドルは。
 これまで他者と関わることを極端に避けていて、<上手く付き合う>という術を知らないクレイドルは。
 がむしゃらに拒否をするしか知らないのだろう。
 そして、その拒否を、シフィールが受け入れるはずもない。
 ならば、自分が立ち回るより他無いではないか。
 もちろん、シフィールに体も心も許す気は無い。だが、クレイドルをみすみす傷つける気も無い。
 確かに、自分は無力な子供だが、クレイドルを想う気持ちは、誰にも負けない。
 持てる力を利用して、ことを収める策を練らねば。
 リアムは目を閉じ、嗅覚に集中した。
 魔となったリアムは、他者に働きかけるような魔術は使えないけれど、代わりに自分の体のことなら全てコントロールできる。
 元々鋭敏であった嗅覚を最大限に拡張すると、主の匂いをどこまででも追っていける。
 クレイドルの匂いの位置が宮殿にあることを確認し…新たな血臭が増えたことに瞠目する。
 「まったく…あの人は…」
 一人こぼし、リアムは更に匂いを追った。
 大丈夫、致命傷なほどの量では無いはず。
 だが、血液以外の匂いもする。嗅いだことがあるような無いような…リアムは己の記憶を検索して、辛うじてそれが涙の匂いに似ていることを感じた。
 だが、クレイドルが涙を流すはずがない。
 だとすれば、その匂いは。
 じゃり、と鎖が鳴った。
 意識をクレイドルから逸らすと、その場には大勢の悪魔が存在するらしく、様々な種類の匂いに満ちていた。
 記憶にあるナデューやシトラ、ロキの匂いもする。
 四大悪魔に他多数の悪魔、その中で血臭のするクレイドル。
 もう一度、じゃりっと鎖が鳴った。
 確かに自分は無力な子供だが。
 同時にクレイドルのためだけに存在する<魔>でもある。
 主の危機に、暢気に縛られていてなるものか。


 シフィールは、目の前の光景に、内心溜息を吐いていた。
 満座の悪魔たちの中で、血塗れになりながらも傲然と自分に立ち向かっているクレイドル。
 シフィールは手の中の丸い物体を転がしながら、もう一度溜息を吐いた。
 面倒臭い。
 実に面倒臭い。
 長い微睡みから覚めてみれば、何やらフラヒスとの間で交渉が起きたらしく、四大悪魔が天使どもと接触した名残があった。
 そして、事情を聞けば、結局のところ<和解>は起こらず、調香師の元人間がクレイドルに惹かれて<魔>に堕ちた、と言う。
 別に、シフィールとしても、興味津々というわけでもなかった。
 ほんの僅かに、この退屈な時の流れを忘れさせる刺激が欲しいと期待しただけだ。
 シフィールの意図に、大した意味は無かった。忠誠心を測りたいのでも、本気で飢えていたのでも無い。
 クレイドルが素直に頷いていたなら、シフィールはすぐに興味を失っていたはずだった。
 だが、クレイドルは、真っ向から刃向かった。
 それが悪いと言うのでは無い。シフィールの倦み切った意識は、クレイドルの行為を不愉快と感じることすら無かった。
 だが、シフィールは仮にも<長>である。
 配下の者が、真正面から刃向かうのを、漫然と放置するわけにはいかない立場であった。
 面倒なことであったが、逆らう者にはそれなりの見せしめが必要である。
 四大悪魔の前では、多少の傷を付けるに留まっていた。
 だが、今。
 よりにもよって、クレイドルは、シフィールの目覚めを喜ぶ悪魔たちが言祝ぎのため集まっているところで、シフィールに反抗したのだ。
 つくづく馬鹿な男だと思う。
 1対1で交渉するなら、多少の譲歩をしてやらぬでも無いのに。
 高位の悪魔から下っ端まで大勢集まる前では、クレイドルが頭を垂れるまで容赦するわけにはいかぬでは無いか。
 シフィールは、基本的に、面倒なことは嫌いである。
 ゆらゆらと微睡みに揺られているのが好きだと言うのに。
 シフィールは玉座に肘を突いて頭を支え、面倒ごとを引き起こした悪魔を、かすかな不快を表しながら見つめた。
 さて、どうしたものか。
 左目を失っても、全身切り刻まれても恭順する気配の無いこの男をどう扱ったものか。
 いくら肉体的に傷つけても無駄だろう。
 だとすれば。
 「ナデュー」
 冬の枯れた風のような声が、破壊の悪魔を呼んだ。
 素直に一歩出るナデューに、シフィールは赤く染まった爪を向けた。
 「こやつの<魔>を連れてくるが良い」
 クレイドルが叫び出すところを、シトラが首に手を回して声を封じた。
 あまり反抗的にされると、クレイドル自身を殺さねばならなくなる。フラヒスとのバランスが崩れることは避けたい。
 ナデューがぼりぼりと頭を掻いた。
 あまり気乗りはしない様子だが、シフィールに逆らうような真似はしない。
 満座の悪魔の中を傲然と突っ切って、出ていこうとして…立ち止まった。
 シフィールが眉を上げる。
 その耳に、ナデューの素っ頓狂な声が聞こえた。
 「おい、リアム!おめぇ、何、自分から来てんだよ!」
 その声の様子から察するに、自分では連れ出せなかったとか何とか理由を付けて、リアムをシフィールには会わせないつもりだったようだが、あまりその辺は問い詰めないことにする。
 ナデューが身を横にした。
 体に隠れて見えなかった小柄な魔の姿が目に入る。
 長衣を幾重にも重ねて体の輪郭が良く分からない子供が、ひらひらと衣を翻しながら確かな足取りで進み寄ってきた。
 鮮やかな金髪と水色の瞳が、如何にもアンヌンには不似合いだ。
 多少の興味を引かれて見下ろすシフィールの前で、子供は膝を折った。
 「お初にお目もじ申し上げます、シフィール様。クレイドルの魔でリアムと申します。主の血に従い、参上仕りました。危急の際ゆえ、このような姿で御目を汚しますことを、お許し下さい」
 主と違って、賢い子供だ。
 シフィールはゆっくりと唇を吊り上げた。
 目の端でクレイドルが身藻掻いていて、シトラが必死で抑えているのを捉える。
 そうして、この<クレイドルの魔>が、クレイドルの方を見ようとはしないことに気づいた。
 水色の瞳を、シフィールに合わせるような無礼は働かないが、まっすぐにシフィールの足下を見つめている。
 すぐ近くで主が傷ついているのに、無表情は崩れない。
 悪魔に惹かれて堕ちるような人間なら、さぞかし衝動的なのだろうと思ったのだが。
 シフィールはクレイドルの眼球を弄びながら、気怠げに身を起こした。
 「元人間の子供よ」
 「はい」
 「どうやら、事情を理解しているようだが…どう振る舞うつもりか?主の意に逆らって、我の元に来ると言うのか?」
 数瞬、子供は動かなかった。
 そうしてゆるゆると上げられた顔には、うっすらと微笑が掃かれていた。
 「それで主を解放して下さるのならば、何なりとお望みのままに」
 賢い子供だ。
 そして、同時に愚かでもある。
 シフィールに逆らうのは愚かだが…従って、結局クレイドルが本気でシフィールに反旗を翻すような事態になれば、ますますクレイドルが傷つく結果になるというのに。
 シフィールはちらりとクレイドルを見やった。
 シトラでは抑えきれないかもしれぬ。
 シフィールの視線に気づいたのか、ナデューとロキもクレイドルを押さえにかかる。
 だが、それでも目の前の小さな魔は、微笑んだままシフィールの胸のあたりから視線を外そうとはしなかった。
 「では…我のものになると言うか?」
 クレイドルの<気>がますます高ぶる。
 「リ…ア、ム!!」
 3人に抑えられてもなお、怒声が漏れる。
 しかし、それでも子供の表情は微塵も揺るがない。
 なかなかどうして、胆力が座っている。
 人間の世界を捨てて、魔に堕ちるだけのことはある、とシフィールは少しばかり子供を見直した。
 その子供は、ついに完全に面を上げ、シフィールと視線を合わせた。
 煌めく水色の光が、捨ててきた世界を思い出させて、不快感に眉を顰める。
 しゃらり、と衣が滑る音がした。
 「わたくしの…死体でよろしければ、如何様にも」
 周囲の悪魔たちがざわめいた。
 シフィールも、僅かに目を見張る。
 長く垂れた幅広の袖から現れた子供の右腕は、手首のあたりから力尽くで引きちぎったかのように肉が割れ、内部から鋭く尖った骨が突き出していた。
 まるで刃のようなそれを、己の首に当て、子供は婉然と微笑んだ。
 「…その腕は、どうした」
 シフィールの、気の無さそうな乾いた声が問う。
 だが、シトラとナデューあたりなら、シフィールが存外に興味を惹かれていることに気づいたかも知れない。
 子供の術中にはまりつつあると自覚しながらも、シフィールは悪い気はしなかった。
 「主がわたくしの手首を戒めて行かれたもので…主の<呪縛>がかかった鎖を外すことは出来ませんから、腕の方を噛み千切って参りました」
 そう言って、ぺろりと唇を舐めた。血のように赤い唇だと思ったそれは、本当に己の血であったのか。
 子供の背後の悪魔のざわめきが大きくなる。
 悪魔、と言えど、元天使の連中が多い。己の身を傷つけるような血腥さには慣れていないのだ。
 確かに、面白い子供だ。
 何より、無力でありながら、真っ向からシフィールに立ち向かってきているのが面白い。
 主のような猪突猛進ではなく、計算された行動。思ったよりも賢いようだ。
 なるほど、四大悪魔が惹かれるのも無理は無い。
 だが、まだ足りない。
 シフィールは傍目には分からぬほどに、唇を吊り上げた。
 「我が得意とするのは、精神に関わる術。今、お前の精神を奪って、人形にすると…言えばどうする?」
 「大変申し上げにくいのですが、わたくしは、主以外に触れられる気は御座いませんので…頭に通じる血管に、骨の欠片を留めてあります。わたくしの意図が無ければ、それはコントロールを離れて脳の血管に到達し、わたくしを死に至らしめてくれることでしょう」
 子供は、水色の瞳を細めて、艶やかに笑った。
 満座の悪魔は息を飲んだ。
 主同様、魔もシフィールには従わないと宣言したのだ。
 だが。
 シフィールの喉が鳴った。
 次第にそれは笑い声となって広間に満ちていく。
 シフィールが声を出して笑うなど、何年ぶりだろう。
 呆気に取られる悪魔たちの前で、シフィールは完全に身を起こした。
 「…面白い。気に入ったぞ、リアムとやら」
 リアムは微かに頭を下げた。
 手を組み、満足そうに玉座にもたれ、シフィールは目を細めた。
 「さて…このように面白い玩具は、そう容易く壊してはつまらぬ。…そなたたちには、猶予を与えよう。リアムとやら、傷が癒えれば、我の元に来るが良い。少し、話がしたい」
 「喜んで」
 リアムは深々と礼をした。
 シフィールははっきりと「話がしたい」と言ったのだ。それすら断るようなら、本当に<反抗>になってしまう。
 「そなたが、あの狂乱男をうまく御し得ることを期待する」
 それは辞去を促す言葉であったが、リアムは面を上げてシフィールを見つめた。
 「恐れながら。願わくば、主の眼を返して頂かんことを」
 「眼…あぁ、これか」
 シフィールは手で弄んでいた物体をかざした。
 すでに乾き、爪で幾筋もの傷がついたそれに、利用価値は欠片も無い。
 だが、リアムの行為は、クレイドルの罪を免除するほどの価値はあっても、更に報酬を望むほどのものではなかった。
 ふむ、とシフィールは一人ごちた。
 「我には不要のものではあるが…そなたの眼と交換でなら、くれてやらんでもない」
 「有り難き幸せに存じます」
 リアムの返事は間髪無かった。
 そして、無事である方の左手が、迷い無く己の眼に伸びる。
 肉と神経が千切れる音が、背後の悪魔たちのざわめきに掻き消された。
 にっこりと微笑んでシフィールに己の眼を差し出したリアムに、手ずからクレイドルの眼球を返してやる。
 先ほどまでのやや乾きかけた手触りとは異なる濡れた球体を弄りながら、シフィールは呆れた声音で問うた。
 「それで、何をする?ただの自己満足か?」
 「いえ」
 簡潔な答えと共に、リアムの手が動いた。
 傷つき萎れ始めているクレイドルの眼球を、血塗れた空洞に押し込む。
 真向かいに座るシフィールには、青緑の光彩が輝きを取り戻し、皺の寄った眼球が真珠のような艶やかさを取り戻す様子がはっきりと捉えられた。
 主の眼球を己のものとしたリアムが、両の目でシフィールを見上げる。
 「今のわたくしには、己に属する肉を操作する力しか御座いませんが、いつの日か、必ず主の肉体を再生させる力を得て見せます。それまで、これはわたくしが責任持って保存しておきます所存です」
 ふむ、ともう一度シフィールは頷いた。
 「再生能力…か。それは利便。いずれ主のみならず、他者の肉体も再生出来るように励むが良い。重宝する」
 「浅才に鞭打って、励まさせて頂きます」
 リアムが深く礼をした。
 だが、その真っ赤な唇は、満足そうに微笑んでいた。
 無力な子供は、今現在の持ちうる能力をフル活用させて、勝利をもぎ取ったのだ。


 クレイドルを塔に帰すには、結局三人の悪魔の力が必要だった。
 下手に力を緩めると、その場でリアムに怒鳴り始めるかシフィールに反抗するかで、せっかくのシフィールの機嫌を損ねることになりかねなかったからである。
 三人が一斉に手を引いた途端。
 「リアム!勝手に外出するなと言ってあるだろう!」
 「了承した覚えはありません」
 四大悪魔の吠え声、という怒りの波動を真っ向から受けながら、リアムは素っ気なく返した。
 声だけで吹き飛ばされて部屋の外に出ていた他の魔に、傷の処置の用意をするよう命じる。
 「あんたねぇ、リアムのおかげで助かったんだからさ」
 「シフィール様、リアムのことが気に入ったみたいだもんな!」
 「まったく、こんの電波男が」
 口々にリアムを庇う悪魔たちに、クレイドルは爛々とした片の瞳を向けた。
 「クレイドル。貴方にだって、皆様が庇って下さったことくらい、分かっているでしょう?…まあ、今は礼を言う精神状態じゃ無いんでしょうけど」
 あぁあ、と溜息を吐いて、さりげなく割って入ったリアムが左手を伸ばしてクレイドルの頬を撫でる。
 その手を掴んで、クレイドルは低く押し殺すように言った。
 「右手を、見せてみろ」
 「あぁ、後で鎖の呪縛を外して下さいね。1から再生するより、くっつけた方が早いですから」
 平然とリアムは骨の突き出した右手を振る。
 無事な肘下あたりを掴んで、クレイドルはリアムを引き寄せた。
 「無茶を、するな」
 「無茶じゃ無いつもりですよ」
 主の腕に包まれて、満足そうに鼻を蠢かしながら、リアムは両手をクレイドルの背に回した。
 「痛くは無いんですし、感染もしてないですし、すぐにくっつきますし…ねぇ、クレイドル。シフィール様とのことは、避けては通れないんですから、このくらいの譲歩で済んで、良かったと思うべきですよ」
 リアムの感覚としては、譲歩すらしていないのだが。
 ちょっとしたデモンストレーションで、他の悪魔たちの納得する状況を作り上げる。
 計算以上にうまく運んだのだから、これ以上何を望むことがあるだろうか。
 「いつの日か…必ず貴方を癒すことが出来るようになります。それまで、これは預かっておきますね。あぁ、大丈夫ですよ。返したら、自分の眼はそれはそれで生やしますから」
 想像したのか、ロキが、うへぇ、と気持ち悪そうに呟いた。
 部屋の扉がノックされ、湯の満たされた洗面器と綺麗なタオルを持った魔が入ってくる。
 クレイドルの腕を擦り抜け、それを受け取ったリアムは、ナデューたちを見回した。
 「ありがとうございました、皆様。またいずれ、クレイドルからも礼を言うかと思います」
 言外に、自分が礼に行かせるから、と聞こえるそれに、ナデューが吹き出した。
 「くっくっくっ…尻に敷かれてんなぁ、クレイドル。ちぇ、せっかくシフィール様がリアムと遊ぶんなら、俺も混ぜて貰おうと思ってたのによ」
 クレイドルが魔術を放つよりも早く、ナデューはげらげら笑いながら消えて行った。
 「ま、うまく収まって良かったさね。リアム、シフィール様の御前に上がる時には、あたしに言いなよ?ばっちりコーディネイトしてあげるからさ」
 「よろしくお願いします」
 苦笑を含んでリアムが頭を下げ、シトラも去っていく。
 最後に残ったロキが頭の後ろに手を組んで、にっと笑った。
 「な!俺の言った通り、シフィール様は良い方だろ!?リアムも遊んで貰えよ!じゃあなっ」
 す、と消え失せた影に、リアムは手を振った。
 そうして二人きりになった室内で、さてと、と改めてクレイドルを見やる。
 「さぁ、傷の手当をしますね、わたくしの大事な主!」
 畏まった物言いに、クレイドルは不快そうに顔を歪めながら、イスに音を立てて座った。
 クレイドルの鎧を外そうとして…リアムは己の右手を見た。
 この腕では、却ってクレイドルを傷つけるかも知れない。
 「その前に、塔に登ってきますね」
 「…必要無い」
 クレイドルが低く呪文を唱えると、テーブルの上に音を立てて鎖とそれに繋がれた手が落ちてきた。
 あっさりと開いた手錠から己の腕を抜き取って、リアムは右手にそれを合わせた。
 少し目を閉じ集中すると、見る間に血管や神経、肉が成長していき、元通りの姿を取り戻す。
 確かめるように手を握ったり開いたりして、リアムは宥めるような柔らかな微笑を浮かべた。
 「さあ、これで元通り。貴方が気に病むようなことは、何一つありませんよ、クレイドル」
 「…この俺が、気に病む、など…」
 そっぽを向いた主に、そうですね、とさらりと流して、リアムは今度こそクレイドルの鎧と衣服を外していった。
 現れた傷を一つ一つ丁寧に拭っていると、クレイドルが目を合わさないまま、呟いた。
 「お前は、俺のものだ」
 「はい」
 「俺のものが、勝手に傷つくなど、我慢がならん」
 「以後、気を付けますね」
 「…くそ」
 クレイドルの上半身に真っ白な包帯が巻かれていく。
 今度は足下に跪きながら、リアムは目を細めてクレイドルを見上げた。
 「不遜ながら言わせて貰うと、貴方も僕のものなんですから。よりにもよって、僕のせいで怪我をするのは我慢できません」
 「…誰が、お前のものだ」
 「貴方以外の誰だって言うんですか。誤魔化さないで下さい」
 クレイドルは少しばかり肩を揺らした。
 リアムはクレイドルの足に包帯を巻きながら、続ける。
 「貴方は、僕のためなら、敵から退くことも出来るでしょう?お願いですから、もっと巧く立ち回って下さいね。僕が出しゃばる必要が無いくらいに」
 本気で己の存在がクレイドルに必要不可欠だと信じている様子に、クレイドルは何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
 そもそも、口でこれに敵うわけが無いのだ。
 まあ、それに…認めたくはないが、実際、そうなのだし。
 体の方には全て包帯を巻き終えたリアムが立ち上がって、憂いを帯びた表情で、クレイドルの瞼にキスをした。
 大事なものに触れるように、そぅっとクレイドルの頭を抱えるリアムの腰に腕を回し、クレイドルは静かに言った。
 「いずれ…治してくれるのだろう?なら、気にすることはない」
 「えぇ…いつか、必ず」
 自分に言い聞かせるように、リアムは力強く頷いた。
 努力をしてもどうにもならないことがあることくらい、リアムだって知っている。
 だが、この場合、己の肉体をコントロール出来るのならば、己の次に親しい肉体である主の肉体のコントロールは、ただの夢では無いと思えた。
 そうして、いつの日かシフィールを癒すことが出来るなら。
 他の悪魔に後ろ指を差されないほどの地位を占めることが出来るはず。
 そうすれば、クレイドルが他の悪魔に、元人間の無力な子供に魅入られた愚かな男よと嘲笑されることも無くなるはずだ。
 「必ず…修得して見せますから」
 誰より愛しいクレイドルのためなのだから。
 そうして、もう一度クレイドルの瞼にキスをする。


 ちなみに。
 この対シフィール戦で発揮されたシミュレーション能力は。
 しばしの間、如何にしてクレイドルの監視をかいくぐってシフィールに挨拶に行くか、ということに費やされることになるのだった。






あとがき
意地で、久々に書いてみた(笑)。
対シフィール戦、次の題は『プログラムド・ゲーム
』という予定だった…懐かしや。



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