黄龍妖魔學園紀 戦闘態勢に移行編
取手は眠れずに、この夜何度目かの寝返りを打った。
考えているのは、全て葉佩のことだ。
葉佩の開けっぴろげの笑顔。
かっちゃん、と呼ぶ時の嬉しそうな表情。
元気一杯だが、案外細身で華奢な骨格。
昨日までなら、取手も何の躊躇いもなく、「葉佩が好きだ」と言えたかも知れない。
だが、今は。
ごろり、とまた取手は寝返りを打った。
何故、天啓のように気づいてしまったのだろう。
昨日の夕方、取手は葉佩のピアノと歌声を聞いていて、突然自覚してしまったのだ。
どうやら、自分は、葉佩が好き…恋をしている、という意味で『好き』なのだ。
自覚した心で記憶を辿れば、思い当たることばかりだ。
気弱で引っ込み思案な彼が、葉佩だけにはとても話易くてたくさん会話をする。ずっと同じクラスにいる同級生などよりも、この短期間にも関わらず比べようが無いほどに話をしている。そして、話をしている間は葉佩を独占できるのが嬉しくて、会話が途切れると必死で次の話題を探す。
葉佩のことが大切で、傷が付くのが耐えられない。怪我をしたら、自分の精気を減らしてでも良いから、治したいと思う。
そして、葉佩がにこにこと笑うのを見るのは好きだが、他の人に笑いかけている顔を見ると、何だか胸が痛くなる。
皆守とじゃれ合っているのを見ると、割り込みたくなる。
それら全てを、ただの『仲の良い友人』であるがゆえだ、と思っていた自分に頭が痛い。
いや、一応言葉面だけ拾い上げれば、『親友』の域を脱していないようにも思えるが、ただの『親友』を相手に、こんなにも胸がドキドキするだろうか。
葉佩の明るい笑い声、彼を認めると飛び跳ねるように近づいてくる姿、白い歯を見せて笑う顔…昨日までは、見ていて楽しくなるだけのことだったのに、自覚してしまうと、思い起こすだけで顔に血が上る。
このベッドであの華奢な肢体を抱いて寝たのだと思うと…別のところにも血が集まりそうだ。
うわ、と取手はまた寝返りをした。
俯せになって、枕に顔を埋めながら、はっちゃん、と呟いてみる。
「なに?かっちゃん」
脳に刷り込まれたデータから、ちょっと不思議そうに首を傾げて彼を見上げる姿と、甘えるような声が再生される。
どうしよう。
もしも、この気持ちに気づかれたら、どうしよう。
葉佩はトレジャーハンターなんて職業に就いてはいるが、ごく普通の男子高校生なのだ。
胸の大きな女性が好み、と明言して、ちょっとHな話題にも乗ってきて、エロビデオに興味を示す普通の18歳男子なのである。
そんな葉佩にとって、男に好かれるなんてんは、迷惑以外の何物でもないだろう。
葉佩は友達想いの人だから、そんな露骨に嫌われたりはしないだろうけど、それでも今までのように普通に話をしたり、泊まっていったりなんてことはしてくれないだろうと思う。
いやまあ、今の状態で、ここに泊まられるのも何かと不都合がある気もするが。
葉佩と話も出来なくなる、なんて、そんなのは絶対にイヤだ。
となれば、この気持ちを知られないようにしなければならない。
卒業までの数ヶ月、乗り切ってしまえば落ち着くに違いない。そうすれば、また親しい友人として普通に話を出来るようになるだろう。
末永く友人として付き合っていきたいと思える相手なのだ、葉佩九龍は。
ただ、今は。
友人としてだけでは無く。
脳裏に浮かんだ光景に、取手は慌てて頭を振った。
そんなことを想像するだけで、葉佩に失礼だと思う。
だが、一度思い浮かべてしまった姿は、なかなか追い払えそうに無かった。
それから一週間ばかり過ぎた頃。
睡眠不足から引き起こされた頭痛のため、保健室で休んでいた取手は、隣のベッドから話しかけられて緊張した。
「おい。お前の様子が変だって、九ちゃんが悩んでるぜ?」
あぁ、ついにそう言われるときがきたか、と取手は溜息を吐いた。
理想としては、今までと変わりなく友人として接していたかった。
なのに、現実は、と言えば。
姿を見かけただけで心拍数上昇、皮膚温上昇、顔の毛細血管拡張…ま、要するに赤くなってドキドキしているということだ…になるため、とうてい顔を合わすことが出来ずに速やかにその場から離脱してしまう。
時々、驚いたような「かっちゃん!?」という声も耳には入っていたが、聞こえなかったふりをして早足で逃げ出す。
一度は、どうにも逃げようが無くて捕まってしまった。
教室の入り口で待ち構えられてはどうしようもなかった。
彼は必死で深呼吸して、普段通りに振る舞おうとしたのだが、あまりに脈拍がこめかみでがんがんと鳴り響いたため、自分が何を言っているのか、葉佩が何を言っているのかも聞こえることなく、振り切るように保健室に逃げ込んだのだった。
それからというもの、葉佩が無理に近寄ることは無くなった。
ただ、遠くから気遣わしそうな視線だけが追ってくる。
それにすら応えることが出来なくて、葉佩から逃げる毎日が続いているのだが。
確かに、これなら自分の気持ちがばれることはないだろうが、明らかに挙動不審だろう。
だが、自分でやっておきながら、葉佩が悩んで相談した相手が皆守だというのが気に入らなくて、取手は思わずトゲトゲした声を出した。
「そう。それが君に何の関係があるんだい?」
一気に保健室に緊張した空気が漂った。
ちょうどルイは席を外したところだ。どうせ保健室常連の二人、と放置して職員室に出向いたらしい。
緊迫した空気の中で、ベッドを仕切るクリーム色のカーテンがしゃっと開けられた。
ポケットに手を突っ込んで、眠そうな目をした皆守が、ふん、と唇を歪めた。
「あぁ、関係はねぇのかもな。だが、九ちゃんが落ち込んでる姿は見たくねぇんだ」
かすかに感じる安堵。
己の振る舞いが、葉佩に影響を与えることが出来るのだ、という優越感にも似た自負が、昏く胸を満たす。
「ま、お前がどうしようと、お前の勝手だがな。九ちゃんを慰めるのも、また楽しいもんだ」
喉で笑う姿に、取手の眉が寄る。
考えてみれば、葉佩が相談する相手は皆守に決まっている。『親友』なのだし、取手ともある程度親しい生徒は皆守しかいないのだから。緋勇という線もなきにしもあらずだが。
「一応、聞いておきたいんだけど」
取手の聞き取りにくい声を、聞き返すことなく皆守はじっと彼を見つめた。
その強い光に負けずに見返しながら、取手は低く囁いた。
「皆守くん『も』、はっちゃんが『好き』なんだね?」
「聞いて、どうする?」
「どうもしないよ」
耳が痛いほど、急激に室温が下がった気がした。
針一本落ちただけで知れそうな静寂の中、皆守がゆっくりと頷いた。
「あぁ、そうだ。俺は、九ちゃんのことが、『好き』だ」
「一応、言っておくけど。…僕も、だよ」
明らかな宣戦布告に、皆守の目が細められた。
ふん、と鼻を鳴らしてきびすを返す。
「やっと、気づきやがったのか。…最悪だな」
それは、気づくのが遅れたことを指しているのか、気づいたこと自体を指しているのか。
しゃっと音を立てて、取手の視界がクリーム色に染まる。
カーテン越しに聞こえる衣擦れから、皆守もまたベッドに入ったのが分かった。
姿は見えていないが、皆守を精一杯睨んで、取手は自分に言い聞かせるように呟いた。
「譲る気は、無いから」
「ふん、俺だって、譲られる気はねぇよ。奪い取るだけだ」
その言葉に、取手は背筋を伸ばした。
どうやら、見かけは穏やかだった三人の『友情』はおしまいらしい。
ひょっとしたら、彼が自覚しなければ、何となく密度の高い『友情』で終わったかも知れないが、もう遅い。
壊れた卵は、もう戻らない。
小さな波紋は、もう無視できないほど波打ってしまった。
あとはもう…葉佩が皆守のものになるか、取手のものになるか…はたまた二人以外の誰かのものになるか、決着が付くまではざわめいたままだろう。
こうなったら、卒業まで『お友達』で、なんてことは言っていられない。
皆守に奪われるくらいなら、自分のものにしてしまいたい。
奪われる前に、奪えば良いのだ。
取手鎌治、完全武装戦闘態勢に移行します。
いくら気弱な草食動物相手でも、あまり追いつめてはいけません。切羽詰まった相手が、牙を剥いて死に物狂いで反撃することがあります。
注意書きにありそうな『窮鼠、猫を噛む』の実例であった。