黄龍妖魔學園紀  葉佩in七瀬編





 葉佩は、保健室の丸イスにいつも通りがばっと足を広げて座って、ルイに注意された。
 「丸見えだぞ、葉佩」
 「ま、丸見え!?」
 その言葉に、葉佩は思わず足を閉じる代わりに身を屈めて己を覗き込み、ルイに思い切りキセルで殴られた。
 「痛いですぅ〜」
 涙目で見上げる葉佩に、ルイが一言「馬鹿者」と答える。
 頭を撫でながら、葉佩は足を揃えてちょっと斜めにしたりしてみて、情けない笑いを漏らした。
 「女の子らしく振る舞うって、女の体でも難しいもんなんだな〜」
 そう、葉佩は、今、七瀬の体になっているのだった。
 とりあえず胸を揉んでみたり「古人曰く」と呟いてみたりしてから、皆守の勧めに従って、保健室にやってきたのだ。
 ルイの小難しい話を拝聴してから、危うく眠りかけた葉佩は、一つだけ理解した。
 そう、己が女の子らしく振る舞うのは不可能だ、ということである。
 とすれば、出来るだけ誰にも会わないように…と言うか、七瀬の評判を落とさないように、事態が解決するまで寮で大人しくするしか無いな、と決心した。
 ルイには、七瀬を危険な目に遭わせないように、誰にも言うな、と釘を刺された。
 まあ、これでも<生徒会>に睨まれる<墓荒らし>である。この状態で七瀬(外見葉佩)が襲われたらまずい、というのは確かにそうだ。
 第一、一応親友な皆守ですら見かけ七瀬が中身葉佩であることを信用してくれなかったのだ。誰にも言うあてが無いと言えば、無い。
 まあ、緋勇は別だが。
 考えてみれば、<氣>が見えるという緋勇のことだ。葉佩が説明するまでもなく理解してくれそうだ。
 それで少し気が軽くなった葉佩は、保健室を辞去した。
 図書室に戻ると、七瀬が必死に文献を漁っているらしかった。頑張れ、俺の使われてない脳!とひっそり己の体にエールを送り、葉佩は寮に帰ろうとした。
 だが、階段のところでふと立ち止まる。
 かすかに聞こえるピアノの音。
 この時刻に聞こえるピアノは、天香学園九不思議の第一項目である。
 葉佩はその旋律に誘われるように、とてとてと音楽室に向かった。

 音楽室の後ろの扉の前でしゃがみ込む。
 あまり堂々と言えない話ではあるが、実は音楽室には細工を施してある。扉の下に刺した小さな楔を抜いて、葉佩はドアを持ち上げた。葉佩の体は合い鍵を持っているが、七瀬の制服には入っていないので仕方がない。
 かくんと音がしてドアが外れる。レールの外で扉を開いて、中に入ってまた填め込んだ。
 ピアノを弾く手が止まり、振り返った。
 「はっちゃん……あれ?」
 柔らかな笑みを浮かべていた顔が、驚愕に変わる。
 いつも通りててててっと小走りに歩み寄ると、取手は困惑した顔で口を押さえた。
 「あ…えっと…七瀬さん。…どうして、ここに?一般生徒は下校しなきゃならない時間だけど…」
 ふと<執行委員>の顔を垣間見せて、取手は『七瀬の』顔を見つめた。
 葉佩は、ふらつきかけた体を、机を持つことで支えた。
 そうだった。
 自分は今、七瀬の体なのだ。
 取手にとっては、七瀬が急に音楽室に現れた、というようにしか見えないだろう。
 いつも一緒にいる皆守でさえ分からなかったのだ。クラスも違う取手が、まさかこの中身が葉佩だなんて気づくはずもない。
 客観的に見て、それが普通だ。
 なのに。
 気づいてくれないことを、こんなにも悲しんでいる自分がいる。
 そう、悲しいのだ。
 取手の目に、自分が映っていないこと、取手が自分を見て微笑んでくれないこと。
 初めて、葉佩は、もしも一生このままだったらどうしよう、と背筋が凍るような恐怖に囚われた。
 これまでは、あまりにも非現実的過ぎて、何だかドラマの登場人物にでもなったような気分でいたのだ。
 原因不明とは言え、何らかの加減で入れ替わったのならば、また何らかの加減で戻るだろう、と暢気に高を括っていたのだが。
 見開いた目に、取手の困ったような顔が映る。
 決して暖かなものではなく、どこか強張ったような表情が、じわりと滲む。
 取手がゆっくりと首をさすった。
 「参ったな…泣かれても、僕にはどうしようも無いんだけれど。困ったことがあるなら、ルイ先生に相談すると良い」
 ひんやりとした拒絶に、ますます涙が溢れた。
 「ご…ごめ…」
 謝りながら、鼻水が出てきたのに気づいて、教卓にしまわれているはずのティッシュ目指して走る。
 取り出したそれで、びーっと鼻をかみ、丸めてゴミ箱に捨てた。
 袖口でごしごしと目元を擦っていると、取手の呆れたような声が聞こえた。
 「ハンカチ、持ってないのかい?」
 言われて、七瀬なら持っているだろうと体のあちこちを探る。
 スカートのポケットに何か布製のものが触れたので引っぱり出すと、それが小さな巾着袋で、何となく開いて中を見る。
 「おぉうっ!」
 咄嗟に放り出すと、それはへちゃりと床に落ちた。
 半ばはみ出た生理用品に真っ赤になって、慌てて拾い上げて巾着袋を縛り、またポケットに入れた。
 「ハ…ハンカチ、ハンカチ…ハンカチさーん、どこですかぁ〜♪」
 気まずさを隠そうと適当な調子で歌う葉佩の前に、青いハンカチが差し出された。
 「あ、かっちゃん、ありがと…って、いや!今のは無し!」
 かっちゃん、と七瀬なら絶対言いそうに無いことを口走ったことに気づいて、葉佩はあわあわと手を振った。
 取手はそんな様子に溜息を吐いて、葉佩の頭を撫でた。
 「…かっちゃん?」
 「やっぱり、はっちゃんなんだ…それ、どうしたの?ロゼッタの変装術とか何か?」
 「い…今、はっちゃんって言った?」
 「はっちゃん…なんだよね?」
 耳に聞こえた名称が信じられなくて問い返すと、取手はきょとんとした顔で首を傾げた。
 説明もしないのに気づいてくれた取手に、葉佩の目からぶわっと涙が滝のように溢れ出す。
 「うわあああああああん!かっちゃああああああん!!」
 目の前の腰にがしっと抱きついて、わんわん泣くと、取手がそぅっと背中を撫でてくれた。
 
 ようやく大発作が過ぎ、えぐえぐと啜り上げるくらいになった葉佩の目元を、取手がハンカチでそぅっと押さえた。
 「ふ…ふえっ…あ、ありがと、かっちゃん…」
 教卓のティッシュを小脇に抱えて、またずびーっと鼻をかむ。
 取手が自分のハンカチをポケットにしまい込みながら苦笑した。
 「あのね、はっちゃん。女の子は、そんなに勢い良く鼻はかまないと思うな。特に人前では」
 「おぉうっ!そうか、そうだよなー、つくちゃんはそんなことしないかー」
 納得して、垂れる水洟を押さえるだけにしていると、すぐにだらだら流れてくるため、またずびーっとかむ。
 「はー、やっぱ思い切りかむ方がすっきりするよなー。女の子って大変だ」
 うんうん頷く葉佩を導いて、イスに座らせた取手が、正面にイスを引いてきて向かい合わせに座った。
 「それで…はっちゃん、説明してくれるかい?」
 「うん…と言っても、俺にもよく分かんないんだけどさー」
 とりあえず探偵を追っていたら七瀬とぶつかったこと、何故か中身が入れ替わったこと、ルイに注意されたこと…。
 鼻を啜りながら説明し終えた葉佩は、はふ、と息を吐いて机に俯せになった。
 「あ〜も〜ホントにこのままだったらどうしよう…つくちゃんの体を傷つけるわけにはいかないから、トレジャーハンターは終わりかな〜…うええええん!まだ初仕事なのにぃい!」
 机にしがみついてがたがた揺さぶる葉佩の頭を撫でて、取手は優しく言った。
 「大丈夫だよ。ルイ先生や七瀬さんも調べてくれてるんだろう?きっと、元に戻るよ」
 「ふえええん!ありがとう、かっちゃん!かっちゃんが信じてくれて、俺、嬉しいぃい!」
 いつものノリでしがみつこうとした葉佩は、やんわりと腕で押し退けられてちょっと傷ついた目で取手を見た。
 葉佩の目に気づいたのか、取手が何とも言えない顔で口元を覆った。
 「その…はっちゃん、今は女の子だから…抱きつかれると、その…ね」
 「おぉう!胸が当たる、と!」
 ぽんっと手を叩いて、葉佩は納得した。
 それから、自分の(七瀬の)胸を触る。
 「意外とあるんだよなー、つくちゃんの胸。文化系なせいか、筋肉質じゃなくてふんわり系って言うか」
 「はっちゃん…触っちゃ駄目だよ…」
 もみもみと確かめるように胸を持ち上げる葉佩(見かけ七瀬)に、取手は頭を押さえた。
 「かっちゃんも触る〜?言わなきゃばれないぞ〜?」
 「…はっちゃん」
 ぽこん、と軽く頭を叩かれて、葉佩は首を竦めた。
 取手はお姉さんを愛してるせいか、基本的にフェミニストなのだ。
 「いいじゃんか、胸くらい〜あっちなんか、トイレ行ったら俺のナニを見るんだぞー?持ち上げちゃったりするかもしんないし〜…あ、言ってて胸が痛くなってきた…」
 しくしくと泣く葉佩に、取手は深く溜息を吐く。
 「はっちゃんって、こんな状況でも変わらないね…」
 「そんなこと無いさ〜。すっごい落ち込んでたよ?かっちゃんがすっげー冷たいから」
 ぷぅっと唇を尖らせて葉佩は文句を垂れた。
 あの素っ気ない態度に言葉。たとえ見かけが七瀬だったとはいえ、あんな風に言われたら逃げ出したくなる。
 だが、取手は気づいてくれたのだ。
 葉佩はにへらっと笑って、イスを揺らした。
 「かっちゃんが気づいてくれて、俺、ホントに嬉しい。甲ちゃんなんか、説明しても信じてくれなかったのに」
 取手は説明もしてないのに自分に気づいてくれたのだ。
 えへへへっとにやつきながら葉佩は顎に手を付いて取手を見上げた。
 七瀬の身長とはあまり変わらない。そのせいで、見える景色もそんなには変わらない。相変わらず取手を見上げる姿勢になるのに違いは無かった。
 「でもさー、かっちゃん、何で分かったの?普通、中身が入れ替わるなんてあり得ないのに」
 「え…入れ替わってるとまでは……変装したのかと思ったし」
 苦笑して、取手は長い指を一本一本折り曲げていった。
 「まず、音楽室にあんな風な入り方をするのは、はっちゃんしかいない。それから、豪快な鼻のかみ方、泣いたら袖で目を擦るやり方、おぉうっていう悲鳴、それに、ポケットに物をしまうと、その後必ずぽんぽんって二回そこを叩く癖…」
 葉佩の目の前にパーの形で出された手が、グーになる。
 それをもう一度人差し指だけを立てて、取手はちょんっと葉佩の鼻をつついた。
 「それで『かっちゃん』なんて言われたから。七瀬さんとは全く親しく無いからね」
 「そっかー」
 ふむふむと感心して、葉佩はポケットを叩いた。
 HANTをしまう時でも、アイテムを収納する時でも、言われてみれば確かに叩く癖がある。何というか収まり具合を確認しているというか、落ちるなよ、と言い聞かせているというか。
 「かっちゃんって、俺も気づいてない癖まで知ってるんだ〜。へへ、それって、何かちょっと凄い?」
 嬉しくなって、へらっと笑いながら見上げると、取手の頬がうっすらと染まった。
 「あ…う、うん…その…リピート…いや、何でもないんだ」
 低い声でもごもご呟いて、取手は目を逸らした。
 葉佩はふと考え込んだ。
 取手は葉佩の癖を知っている。
 さて、自分は取手の癖を知っているだろうか?
 えーと、照れたときには横を向いて首筋を撫でるとか〜驚いたときには口を押さえるとか〜いつもハンカチには綺麗にアイロンがあたってるとか〜…あ、これは癖じゃないか。
 他には…と考え始めた葉佩の手を、取手が一瞬握って、すぐに離した。
 「何?かっちゃん」
 「あ…いや、七瀬さんの体だから…」
 その言葉は、「何故すぐに手を離したか」の答えだろう。
 取手は真剣な表情で七瀬の柔らかな小さな手を見つめた。
 「早く、はっちゃんの体に戻ると良いね」
 「うんっ!もー、マジで戻りたい〜!この体でマシンガンとか持てるかどうか自信無いし…」
 葉佩は力こぶを作ってみて、ふにゃふにゃな二の腕を左手で触って溜息を吐いた。
 「はっちゃん」
 厳しい声にびくっと背筋を伸ばして、取手を上目遣いに見上げる。
 「な、何でしょう」
 「絶対、遺跡に潜ったりしちゃ駄目だよ?」
 フェミニストな取手らしく、七瀬の体でマシンガンを扱うことに反対らしい。
 葉佩は慌ててこくこくと頷いた。
 「う、うん。ルイ先生にも言われたし、危険なことをする気は無いんだけど。…でも、ずっとこのままだったら、いずれは進退を考えなきゃなぁ〜とか〜…」
 人差し指同士を突き合わせて、てへっと上目遣いで照れ笑いすると、取手は頭が痛い、と言うように額を押さえた。
 「お願いだから、大人しくしててね…」
 「う、うん、なるべく頑張る」
 「…なるべく?」
 「い、いえ、全力で大人しくさせて頂きますですっ!」
 びしっと敬礼して見せたのに、取手は憂いに満ちた目で七瀬の体を頭の先から足の先まで見つめた。
 はぁっと溜息まで吐いている取手に、恐る恐る声をかける。
 「あ、あの…かっちゃん?」
 「心配だよ…はっちゃんはすぐに何かに首を突っ込みそうで…」
 「あう」
 身に覚えは山ほどあるが、今回のことは不可避の事故ですぅ〜と心の中で言い訳してみる。
 取手の長い腕が伸びて、葉佩の両肩を正面からがしっと掴んだ。
 真剣な目が真正面から覗き込む。
 「約束して欲しい。絶対、危険なことはしないって。今、七瀬さんの体だってことをちゃんと自覚してくれるかい?」
 「う…うん。危険なことは、しません…」
 取手の目の奥に潜む不安といたわりとが胸に痛い。それが、取手の目に映っている七瀬に向けられていると思うと尚更だ。
 唇を噛んで俯くと、取手がそっと抱き寄せて背中をさすってくれた。
 だが、客観的に見れば、取手が七瀬を抱いているように見えるのだろう。取手の目にも、だ。
 葉佩は、取手の胸に頬を押し当てながら、そっと溜息を吐いた。
 そして、ふるっと身震いする。
 「はっちゃん?」
 「ど、どうしよう、かっちゃん…」
 泣き笑いの顔で見上げると、取手が心配そうに見つめた。
 「ト…」
 「と?」
 「トイレ…行きたくなった…」
 「そ、それは…行かないわけにも…」
 取手の顔も赤くなっている。
 葉佩はもじもじしながら、あうーあうーと唸った。
 「か、かっちゃん、付いてきてよー」
 「僕が付いて行っても、何の解決にもならないと思うけど…」
 「あぁん、そんな冷静なツッコミはいらないから〜」
 嫌がる取手の手を握って、トイレ目指して駆けて行く。
 さすがに中まで入るのは断固拒否した取手をトイレの前に待たせておいて、葉佩は意を決して女子トイレに入った。
 そうして、出てきた葉佩は、一言
 「柔らかかった…」
 と呟いて、脳の血管が切れるのでは無いかというくらい顔を真っ赤にさせたのだった。



 そうして、何とか取手の陰に隠れながら男子寮に戻ってくると。
 「あぁ、おかえり」
 いつもと全く変わらない態度で緋勇が出迎えてくれた。
 「あ、あのですね、緋勇さん…」
 「それは、ある程度人為的なものだ。治そうと思えば、俺でも治せんことは無いが…深夜の方が<場>を作りやすい。まあ、待つんだな」
 相変わらずコピー用紙に目を通しながら、緋勇は葉佩の顔も見ずにあっさりと言う。
 その言葉を聞いて葉佩はへたっと床に座り込んだ。
 ルイや七瀬が全力で治そうとしているとはいえ、それは不確定な可能性に過ぎなかったのに、こうも確約されると、一気に安心して脱力したのである。
 葉佩をちらりと見て、緋勇はうっすらと笑った。
 「何だ、案外神経が細いな」
 「だ、だぁって〜!ホントに、もしこのままだったらって思うと…!」
 「乳を触り放題じゃ無いか」
 「それよりマシンガン触り放題がいい〜!」
 「お前…それは正常な男子高校生の発言じゃないぞ」
 いやんいやんと身を捻りながらもちゃっかり胸を揉んでみる葉佩に、緋勇は喉で笑った。
 そうして、ふと思い出した、というようにHANTを寄越す。
 「メール着信音がしていたぞ」
 「ふーい。…えーと…真理野…あぁ、あのジャパニーズお侍さん」
 何だか決闘(?)を申し込まれたのが遙か昔の話のような気がしつつ、葉佩はメールを目で追った。
 いきなり立ち上がって装備を用意し始めた葉佩を見て、緋勇はコピー用紙をとんとんと揃えて枕元に置いた。
 「ま、そうするとは思ったが。女の体で遺跡に潜るつもりか?」
 「だって、雛せんせーをさらったって言ってんだもん!躊躇してる時間は無いんだいっ!」
 セーラー服を脱ぐか脱ぐまいか悩んだ挙げ句、上からTスーツを着込むことにする。
 いつものマシンガンは重いので、ハンドガンや爆薬中心に装備を整え、気合いを入れてアサルトベストを装着した。
 「緋勇さんがいるなら、少なくともつくちゃんの体で死ぬことは無いっしょ!だから、行きます!」
 「まあ…こういう事態だからな…手伝ってやらんでもないが」
 しぶしぶながらも頷いた緋勇を確認して、葉佩は窓を開けた。
 その背中に緋勇の静かな声がかけられる。
 「で?バディは誰も連れて行かないのか?」
 ぎくっと固まった葉佩が、ゆっくりと振り返る。
 「だ、だってぇ〜甲ちゃんは信じてくれなかったしぃ〜」
 「取手は?」
 「か、かっちゃんは…かっちゃんは…」
 頭の中に、取手との約束が蘇る。
 『絶対、七瀬さんの体で危険なことはしないこと』
 あれだけしっかり釘を刺されたのだ。状況が悪いとは言え、それをあっさり「ごめーん、行くことになったから手伝って〜」とは、如何に脳天気な葉佩とて言い出すことは出来なかった。
 「かっちゃんは、行っちゃ駄目だって言うし〜」
 「…たぶん、怒るだろうな」
 「ですから、どうぞご内密に〜」
 ひらにひらに〜!と土下座した葉佩に、緋勇は人の悪い笑みを浮かべた。
 「お前が考えているのとは違うだろうが。まあ、良い。俺だけで十分だ」
 「お、お願いいたします〜」
 

 結局。
 遺跡の仕掛けを解くことすらせずに、緋勇によるショートカットで最奥部に着き。
 真理野は緋勇を葉佩と誤認し、緋勇に指一本触れられなかった挙げ句に、
 「お前の相手など、文芸部で十分だ」
 などと暴言を吐かれて逆上、外見七瀬(中身葉佩)に襲いかかり、きっちり返り討ちにされたのだった。
 そして、地上に戻って切腹を阻止すると、何故か熱い目で見られた葉佩がきょとんとしている間に、勘違い侍は去っていった。
 ふと気づくと緋勇もいない。
 「あれ?緋勇さーん」
 「ここだ」
 腕に雛川を抱えた緋勇が闇の中から現れた。
 「おぉう!雛せんせーのことすっかり忘れてた〜!」
 すっかり目的を見失っていた葉佩が、慌てて駆け寄る。
 「七瀬さん?その格好は…」
 「へ?あ、うわっちゃ!」
 Tスーツにアサルトベストという自分の格好を見下ろし、葉佩は慌てて緋勇の背中に隠れた。
 「真理野でも駄目か…ふ、なかなかやるな、<転校生>よ…」
 おかしな具合に声を響かせて、仮面の男が現れた。わざわざ二つ岩の上に立っているところが小物っぽい。
 「貴方は誰!?うちの生徒なの!?」
 雛川の厳しい声に、仮面の男は優雅に礼をした。
 「我はファントム。この学園に棲む幻影…」
 「マダムバタフライみたいなもんかな〜」
 葉佩の呟きは、全員に無視された。
 「ふ…また、会おう、<転校生>よ…」
 ふわり、と羽のようなマントを翻して、仮面の男は闇の中へと去っていった。
 葉佩は、緋勇の背中に隠れたまま、ぼそぼそと言う。
 「緋勇さん?あの男の正体突き止めてくれたりは…」
 「<氣>のパターンなら認識したぞ」
 よく分からないが、仮に仮面抜きで会ったら、それが分かるということだろうか、と葉佩は納得した。あまり緋勇に色々頼むのは恐いので、それだけで十分と思っておこう。
 「さて…治してやろうかと思ったが、俺が手を出すまでも無いな」
 「ほえ?」
 緋勇の呟きに、葉佩はきょとんと首を傾げた。
 それは、治してくれない、という意味なのだろうか、と詰め寄ろうとした視界が揺れる。
 「ほえほえほえ〜」
 くらりと揺れた世界の中で、雛川が「七瀬さん!」と叫ぶ声が聞こえた気がした。



 さて。
 そうして、元に戻った葉佩ではあるが。
 
 「はっちゃん…僕は、危険なことはしないで…って、頼んだよね…」
 「は…はい…」
 
 八千穂の右ストレートよりも、女子寮の皆さんの武器攻撃よりも、何よりも。
 取手の説教が身に響く。
 まるで「ちょいとここにお座りなさい」状態で、取手の前に正座している葉佩である。
 「君にとって、僕との約束は、そんなに軽いものなのかい…?」
 「い、いえ!そんなことは無いですぅ〜!た、ただ、雛せんせーがぁ…」
 「その辺の事情は聞いたけどね。…どうしても、危険なことをするなら、僕を呼んでくれても良いだろう?僕なら、事情を知っていたんだし…」
 「だ、だってぇ…危ないことしないって、約束した直後に、危ないことするから手伝って?とは言えなかったわけで…」
 もじもじと床に『の』の字を書く葉佩に、取手は深く重い溜息を吐いた。
 それに含まれるものに、葉佩はおどおどと取手を上目遣いに見上げた。
 「はっちゃん…」
 「ご、ごめんなさぁい!もうしませんから〜!あ、もう二度とこんな機会も無いとは思うけど〜!」
 膝に取り縋ってあうあうと涙をこぼすと、取手がもう一度溜息を吐いて、頭をぐりぐり撫でた。
 「あのね、はっちゃん。僕がなんで怒ってるか、分かってるかい?」
 「え…つくちゃんの体を危険な目に遭わせたのが拙かったんだよね?」
 ちゃうの?と見上げると、取手が額を押さえて俯いた。
 「やっぱり、分かって無いんだね…」
 「え?え?え?」
 あれ?と首を傾げる葉佩を膝に乗せたまま、取手は立ち上がった。
 ころん、と転がったままの姿勢で、取手を見上げていると、取手が四方を囲むように腕を突いて、上から覗き込んだ。
 「僕は…君の心配をしたんだけどね。君が慣れない体で遺跡に潜るのは、とても危険だと思ったから…」
 「へ?…あ…お、俺?」
 葉佩は、ぽかんと口を開けて、それからかぁっと頬を染めた。
 「あ、ははは、俺かぁ…い、いや、俺はほら、殺しても死なない〜なんて言われててさぁ…」
 上の空な調子でわざとらしく明るい声で喋っていた葉佩だが、徐々に語尾が小さくなる。
 今現在の状況を鑑みて、どう見ても取手にのし掛かられている状況だと気づいて、ますます顔を熟れたトマト状態にする。
 ぷしゅーっと蒸気を出しそうな顔で、何も言えずに見上げていると、取手の体が降りてきた。
 密着した挙げ句に、ぎゅーっと抱き締められて、葉佩は、きゅう、と鳴いた。
 「お帰り、はっちゃん。無事に戻れて、良かった…」
 優しい声が、耳をくすぐる。
 無事に帰ってこられたことと、元の体に戻ったこと、両方に向けての「お帰り」だろう。
 七瀬の体だと、手すら握ってくれなかったことを思い出して、葉佩は小さく呟いた。
 「う、うん…俺も、戻れて、嬉しい…」
 ますます抱き締められて、葉佩はもう一度きゅうと鳴いた。
 取手と触れ合うのは、嫌いじゃない。
 というか、好き。
 葉佩九龍、両親に兄一人姉一人の末っ子である。
 兄ちゃんに乱暴に放り投げられるのも、姉ちゃんに抱き締められるのも、愛犬にのしかかられるのも大好きだった。
 家を出てから、こんなに愛情込めて抱き締められたことはないので、きっとそれで嬉しいんだと思う。
 家族に猫っ可愛がりに可愛がられて育ったので、どうやら自分は今スキンシップに飢えているらしい、と葉佩は結論づけた。


 ただ。


 家族や犬に抱き締められても、こんなに心拍数が増加して、顔が熱くなったりはしなかったのだけれど。







九龍妖魔学園紀に戻る