黄龍妖魔學園紀 七夕編
緋勇は、ふと立ち上がり、庭へ出た。
若い癖に、一人前に庭付き一戸建てに住んでいるのである。金の出所はともかく。
都内だが、それなりに広い土の庭に降りて、縁側に腰掛ける。
携帯を耳に当て、左手で土に触れた。
「葉佩か、どうした?」
『うっわ、マジで繋がった〜!』
その声は、携帯からではなく土から直接響いていた。無論、その声は緋勇にしか聞こえない。携帯を持っているのは、まあカモフラージュだ。仮に他人が庭を覗き込んだとき、土に手を当てぶつぶつと喋っている姿を見られたら、いっちゃってると思われる。この格好なら、携帯に向かって話していると思われるだろう。
まあ、他人にどう思われようがあまり気にするたちではないが、それでも無駄な摩擦を引き起こすのが趣味でも無い。
『HANTも何かいかれちゃったし、もちろん携帯は圏外だしさー。もう絶体絶命ってやつ?で、幸い周りは土の壁だったんで、神頼みで緋勇さんに話かけてみたん』
葉佩の声の調子は明るかったが、緋勇は眉を寄せた。葉佩はアホだが、そうやたらなことで頼ってくることは無い。と言うか、別れて以来、初めてだ。
基本的に葉佩は逆境でも諦めないし、むしろその状況を楽しむという根っからのトレジャーハンターである。
その葉佩が『絶体絶命』というからには、本気で危ないと思った方が良い。
「今、どこにいる」
『モンゴルでぃっす』
「よし、辛うじて俺の圏内だな」
緋勇龍麻、大地の王だが地球上を完璧に支配しているわけではない。いやまあ、本来の黄龍の器は、せいぜい日本とその周辺の竜脈の管轄であるところを、散々触手を延ばして支配域を拡張してはいるのだが。
「俺も出来るだけ早く行くが…真剣に後数分の絶体絶命じゃないだろうな?」
『いや、さすがにそんなことは無いですよー。実はね?七夕には、かっちゃんに会う約束しててね?協会の救助を待ってたんじゃ間に合わないかなーみたいなー』
緋勇はちらりと腕時計の日付を見た。本日は七月六日。まあ、知ってはいたが。
「待ってろ。俺が行くと分かったからには、無駄な体力は使うな。接触を切るぞ?いいか?」
『はぁい。あ、具体的な場所は…』
「行けば分かる」
『さすが。んじゃ、待ってます』
緋勇は葉佩との会話を打ち切ってからも、しばらく大地に手を当てていた。
そうして、眉を寄せて、本当に携帯を操作し始めた。
「おい、俺だ。大至急モンゴル行きの飛行機チャーター。お前の運と金を最大限に使って、<大至急>だ」
葉佩は、ぱたん、と頬を地に付けた。
「あ〜、緋勇さん来るんだ〜」
ほっとして気を緩めかけて、いかんいかん、と自分の頬を叩く。
足を縛った包帯は、30分おきに弛めて血流を確保しなければならない。寝ている場合では無いのだ。
葉佩は、岩に押し潰されている己の足を見下ろした。
しみじみ、ドジったなぁ、と思う。
普段ならこんな簡単なトラップに引っかかったりしないと思うのだが、目的地を目の前にして一瞬気が緩んだのと、考えたくはないが、七夕というタイムリミットに焦っていたのかも知れない。
やっぱ、トレジャーハンターに必要なのは平常心だよなー、と反省しつつ、葉佩は時計を確認して足の包帯を緩めた。
途端に、どくどくと脈打って出血している気配に顔を顰めて、もう一度包帯を縛る。出血多量はイヤだが、血流不全で足が腐るのもごめんだ。
まだ大丈夫、と葉佩は己の首筋に手を当てて指先で脈拍を測った。
脈動具合から言って、血圧も保たれている。
そう、まだ大丈夫。
絶対、死んだりするものか。
「…かっちゃんに、会いたいな〜」
ぽつりと呟いてみる。
口にすると、ますます会いたくなってきた。
最後に会ったのはいつだっただろう。
三ヶ月前の誕生日の時か。
それで、三ヶ月くらい会えないって言ったときに、取手が言ったのだ。
「三ヶ月後って言うと…七夕の頃だね。1年に1回しか会えないのに比べたら随分恵まれているんだろうけどね」
その時の顔が、ひどく寂しそうだったので、ついどーんと約束してしまったのだ。
七夕には、絶対会いに来る、と。
取手は、無理はするな、と言ったのに、自分は平気平気、と大口を叩いたのだ。
それでこの様って知られたら、怒るだろうなぁ、と葉佩は溜息を吐いた。
怒って、それから、悲しむだろう。
自分との約束のせいで、葉佩が焦ったなんて知られたら。
だから、絶対死ぬわけにはいかないのだ。
絶対生きて、それから普通の顔で取手と会うのだ。
負けるもんか。
取手は、買ってきた折り紙の封を丁寧に剥がして、中から青い紙を一枚取り出した。
半分に折って、ハサミで切る。
そうして、油性マジックで、
<はっちゃんに、会いたい>
と黒々と書き込み、小さな笹に吊した。
大柄な自分が幼稚園の子が持つような笹を買ってくるのは恥ずかしかったが、部屋の中で飾るとしたらこんなものだろう。
取手は立ち上がって、台所で冷やした麦茶を一口飲んだ。
そして、眉を顰めてしばらくその姿勢でいる。
何だろう。
何かがひどく不快だ。
何か忘れていることでもあるんだろうか。
七夕のための料理の用意とか、葉佩が好きそうなお菓子とか、ついでに夜の準備とか、色々考えてみるが、用意は万全のはず。
なのに、何かがひどく神経に障って落ち着かない。
取手はしばらくうろうろと冬眠前の熊のように室内を歩き回ってから、部屋の隅の笹に近寄って、先ほど吊した紙を引きちぎった。
新しい紙を取り出して、もう一度新しい願いを書いて吊す。
<はっちゃんが、無事に帰ってきてくれますように>
取手は、神経質に長い指を机に打ち付けながら時計を見上げた。
あぁ、どうか。
この不安が杞憂に終わってくれますように。
明日になれば、そんな心配は全く知らないで、平気な顔の君が、暢気に現れますように。
葉佩は、何かが聞こえた気がして、頭を振って、自分がしばらく眠ってしまったことに気づいた。
慌てて時計を確認し、足の包帯を弛める。
あれ?
やばい、感覚が無くなったのか?
血流が回復したら、だくだくと血が流れる感覚がしたはずなのに、包帯を弛めても何も起こらない。かすかに正座した後のような痺れを感じるだけだ。
葉佩は自分の手を握って、また開いてみた。
よし、手の感覚に異常なし。
足の方は…よく分からないが、勝手に出血してたら困る。一応縛っておこう。
また縛り上げて、深い溜息を吐きながらまた大地に寝転がると。
『おい!聞こえないのか!?』
緋勇の苛立った声が聞こえてきて、飛び上がる。
「ひ、緋勇さん!?」
『よし、意識はあるな』
緋勇のどこか安堵の響きを漂わせた声に、相当心配をかけていたのだと知る。
ちょっと照れ臭いような嬉しいような気分になりつつ、葉佩は元気に答えた。
「はーい、ちょっと寝てただけでぃっす!」
『ま、体力温存と言う意味では、それが良いだろうな。足はどうだ?こっちから<氣>は送ったが…』
おいおい、俺は足を怪我してるって言ったっけ?と疑問を持ちつつも、どう答えようかと考え込む。
感覚が無い、と言って心配をかけるのは……と言うか……あれ?<氣>を送ったって……。
葉佩は包帯を弛めた。
そして、足の指先を動かしてみようと神経を集中させる。
大岩に圧迫されて動かしにくいが…わずかに動いている気がする。
「ひょっとして、緋勇さん、治してくれたりしました?」
『さあな。一応、そのつもりで<氣>は送り込んだが、遠隔操作なんで実効性は心許ない』
珍しく自信の無い物言いだが、実際足は治っている気がする。見えないので何とも言えないが。
『そっちに直線距離で向かってるところだから、ちょっと待ってろ』
「ちょ、直線距離…っすか…」
さぞかしダイナミックな直線距離なんだろうぁ、と想像して葉佩は声を上げて笑った。
『じゃ、スピードアップするから、また接触を切るぞ』
「はぁい!お待ちしてまっす!」
わざわざ経過を知らせてくれたのだろう。相変わらず、案外と気を遣ってくれる方だ。
葉佩はもそもそと体を動かして、眠れる体勢に持っていった。
先ほどまでは眠ってはいけない、と無理な姿勢を取っていたのだ。
少し目を閉じると、それだけで睡魔が襲ってくる。
うとうとしながら、考える。
自分は、緋勇のような完璧超人にはなれない。
たぶん、これからもドジを踏んで他人に迷惑をかけるだろう。
けれど、その分、自分は他人に愛されている。
緋勇のようにはなれないけれど、緋勇のような男の力を貸して貰えるのだ。
それだけでも大したものじゃないか。
葉佩は、半ば眠り込みながら、へらりと笑った。
緋勇は懐に入れた人間の<氣>は、だいたい把握している。
こうして大陸に降り立ってみれば、葉佩の<氣>の在処や状態は手に取るように分かった。
自分とは元気そうに話しているが、<氣>としてはそれなりに弱っていること。
それに、周囲の大地に、葉佩の血が染み込んでいること。
本来なら、現地で交通手段を確保して現場に向かいたいところだったが、交渉の暇も面倒だった。
他人には見られない場所で、ずるんと大地に潜り込む。
そして、龍脈に乗って、葉佩の居場所へと流れていった。
葉佩は、他人の気配に、ふと目を覚ました。
目の前にある顔に心臓を飛び跳ねさせる。
「うぉう!」
一見生首のように土の床から生えた顔は、
「その分なら大丈夫だな」
と冷静に言い放って、ずるんっと全身を現した。
脈拍の倍増した胸を押さえて、葉佩は思わず呟いた。
「分かってはいたはずなんすけど…下から現れると、心臓に悪いでぃっす…」
「こっちの方が早い」
あっさり言って、緋勇は葉佩の足に乗っている岩に手を当てた。
「おい、少し目を閉じていろ」
言って、掌に<氣>を集中させる。
瞬時に砕けた大岩が、細かい欠片となって降り注ぐのを手で払った葉佩は、けほけほ言いながら足をそっと動かしてみた。
よし、普通に動く。
思い切って立ち上がってみたが、まるで怪我などしなかったかのように、全く痛みも無かった。
うーん、至れり尽くせり、と思いつつ、葉佩は恐る恐る窺うように緋勇に言ってみた。
「あのー。大変ありがたいのですが〜」
「何だ?」
「実は目的地はすぐ目の前だったんですよね。んで…出来たら、ついでにお宝回収していきたいな〜みたいな〜」
てへっと指を突き合わせて首を傾げてみせた葉佩に、緋勇はこめかみに拳を当てながら頷いて見せた。
「仕方が無いな。さっさとしろ」
「はい!でありますっ!」
嬉々としてワイヤーガンをぶっ放し、深い縦穴からよじ登って脱出する葉佩の横を、緋勇はすたすたと直角に歩いていく。
「いやー、ホントに助かりました〜。一応、HANTが壊れた時点で協会から誰かは確認に来るはずなんですけどねー」
「俺は、別に構わんぞ。お前が遠慮した挙げ句に、間に合わずに死んだりしたら、相当怒るだろうが」
悠然と言われた言葉に、葉佩は妙に照れ臭くなって無言でわしわしとロープを登る。
取手といい緋勇といい皆守といい阿門といい…皆、甘やかすのが上手過ぎる。気を付けないと、際限無しに甘えそうだ。
しっかりしないとな〜、と自分を戒めている間に、ようやく落とし穴から脱出できた。
「なるほど」
緋勇が辺りを見回して納得する。
そこは如何にもな祭壇で、奥に箱のようなものが納められていた。
その部屋の入り口から数歩進んだところで、ごく普通の落とし穴に引っかかったのである。まさしく猿も木から落ちる、トレジャーハンターも穴から落ちる。
葉佩は今度は歩いていかないことにした。
ワイヤーガンを奥に打ち込み、空中を渡ることにしたのである。
緋勇のその場に残して、からからと滑っていき、そのままワイヤーからぶら下がるように箱に手を伸ばす。
少し持ち上げた途端。
何だかイヤな感触がした気がして、箱から手を離した。
だが、すでに遅く、持ち上げたことにより入ったスイッチで奥の扉がぎしりと開いた。
もういっそ開いたもんは仕方ないか、と箱を再度取り上げ、バックパックに収める。
そうして、ワイヤーを伝って落とし穴まで戻ったときには、奥から現れた魔物が全身を見せているところであった。
「うわぁ、でっかい虎さん」
「虎に見えるか?」
「少なくとも、猫には見えないです」
4つ足の獣が、がああっ!と吠える。
それだけでびりびりと震える空気に、葉佩は顔を顰めながらライフルを取り出した。
「効くかな?効けば良いな♪」
きゃっきゃっと歌うように弾を込める葉佩を制するように手を挙げ、緋勇が床を滑るように魔物に近づいた。
「あ〜!緋勇さんずっるい!俺の獲物なのに〜!」
その叫びを聞きもせずに、緋勇は傲慢に魔物の目を見つめた。
「俺に従え」
また獣が叫ぶ。
金色の目をぎらぎらと光らせ、何度も土を掻く爪は鋭く尖り、何列も並んだ牙の隙間から唾液が滴り落ちている。
だが、緋勇は動じずに、もう一度繰り返した。
「俺に、従え」
あくまで傲慢に見下ろし、顎をしゃくる。
はらはらと葉佩が見守る前で。
ごろん。
獣が転がった。
柔らかな腹部を見せて転がる様子は、完全降伏の証だ。
「よし、利口だ」
緋勇は目を細めて獣の顎をわしわしと撫でてやった。
「緋勇さんって…実はトレジャーハンターの天敵っすよね〜」
完璧に見せ場を取られた葉佩が、ぼそりと呟いた。
飛行場に辿り着いた葉佩は、ぜーぜーと背中を波打たせた。
何と、遺跡からここへ来るには、あの魔物の背中に乗って移動したのである。
緋勇単体なら大地を潜って走るのが早いが、葉佩は当然そういうわけにはいかない。
さりとて遺跡付近は車が通りかかるような場所ではない。
ということは、現時点でもっとも早い移動手段はこれに乗ることである。
という一応理にかなっているような何かが間違っているような理屈を言われ、否とは言えなかった葉佩である。
目撃した人間は、きっと葉佩のことも魔物だと思うだろう。
顔は隠して乗ったけど、どうか目立っていませんように、と葉佩はこの地の神に祈った。
そんな葉佩を余所に、緋勇はごろごろと擦り寄っている魔獣を労っている。
「よしよし、いい子だな。出来れば日本まで連れて帰ってやりたいが…」
勘弁して下さい。
「あっちはあっちでうるさい奴がいるからな。異国で封じられるのも可哀想だ。お前はこっちで好きにすると良い。俺がこっちに出てきたら、遊んでやるから」
猫じゃないんですから。
心の中だけで突っ込んでいると、魔獣はちらりと葉佩を見てから、がぁっと一声吠えて、飛ぶように駆け去って行った。
良いんだろうか、現地の人に迷惑かけてないんだろうか…と思いつつ、葉佩は緋勇に促されて、チャーター機に乗ったのだった。
七月七日。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんと三連続で鳴らされたそれに、取手は微笑みながら立ち上がった。
確かめもせずにドアを開けると、小柄な体が飛びついてきた。
「えへっへ〜!たっだいま〜!」
「お帰り、はっちゃん」
扉を閉めると同時に、ねだってくるままに口づけをしてから、取手は葉佩の様子に少しだけ疑問を抱いた。
だいたいいつも、<仕事>を終えて…あるいは途中で…来るときには、一秒でも早く会いたい、と埃まみれのまま現れるのに、今日はやけにこざっぱりしている。
髪から匂うシャンプーの香りは、葉佩がいつも使うものとは違う。
くんくんと嗅いでいると、葉佩がてへっと舌を出しながら見上げた。
「いやー、今回はいつもよりひどい状態でね?さすがに身支度整えて来ましたよ」
「…どこで?」
「……緋勇さんちで」
一応ロゼッタ日本支部で簡単な報告とお宝発送の手配はしたのだが、ぼろぼろになった格好はシャワーを借りる程度ではどうにもなりそうになく、緋勇に世話になったのだ。
血塗れの服はきっちり廃棄して貰って、新しい服を貰って来たのである。これで怪我したことは取手にはばれない…はず。
「ふぅん…緋勇さんちで、ね」
「そ、案外近いんだよね、緋勇さんちって」
取手の含みのある繰り返しには気づかないふりで、葉佩は靴を脱いで上がった。
勝手知ったる他人の家、リビングのソファに座ると、部屋の隅に飾られた笹に気づいた。
「あっ、笹だ!かっちゃん、まめ〜」
ぶら下がった飾りを手にとって、懐かしいなぁ、と見ていると、一枚だけぶら下げられた短冊が目に入った。
<はっちゃんが、無事に帰ってきてくれますように>
あ〜、心配かけてるよな〜、と葉佩はしみじみ思った。
そして、やっぱり取手には知られたく無い、とも思う。自分が怪我をして、ちょっぴり命もやばかったことなど。
そう決意を新たにしていると、取手が音もなく歩み寄ってきて、背後から抱き締めるように覆い被さった。
「まあ…何があったのかは、聞かないよ。君は無事に帰ってきてくれたんだし…」
あ、やばい。
『はっちゃん』じゃなく『君』って言うときは、微妙にご機嫌斜めなんだ。
おそるおそる振り返って見上げると、それでも取手はにっこりと笑って見せた。
「どうする?疲れてるなら一休みする?それとも、ごはん?それとも…」
「あはは、新婚さんみたいだ」
『あなた、お風呂にする?ごはんにする?それとも…私?』
葉佩は裏声でそう言って、ふと真面目な顔になって取手の首に手を回した。
目を合わせて、はっきり言ってやる。
「かっちゃんが良いな」
少し目を見開く取手に、淡々と告げる。
「なんかね、昨日からかっちゃんに会いたくて会いたくてしょうがなかったからさ、せっかく会ってるのに、ごはんとか寝るなんてもったいなくってさ」
だから、しよう、と言う葉佩を、取手は無言で抱き上げた。
そして、七月八日。
村雨祇孔は、すこぶる機嫌が悪かった。
その様子は分かっているはずだが、目の前の恋人はふんぞり返っていて、欠片も悪いとは思っていないようだった。
「…なぁ、先生。俺は、せめて誕生日は一緒に過ごしたいって言ったよな?」
「あぁ、言ったな」
「俺の誕生日は、昨日だったんだが」
「まったく、その通り」
陰々滅々と言ってやっても、のれんに腕押し、糠に釘。
やけくそのように、夕べ飲むはずだったロマネコンティを水のようにあおる村雨に、緋勇はわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「説明はしただろう。若いのが助けを求めた、と」
「はいはい、お優しいことで」
緋勇の眉がぴくりと上がる。
優しい、などという言葉は不愉快らしい。
「俺は、あいつと約束したからな。困ったことがあれば、俺を呼べ。俺の力を貸してやる、と。この緋勇龍麻が、他人との約束を守らんなどと思われる訳にはいかん」
危うく、「葉佩と俺と、どっちが大事だ」などと口走りかけて、村雨は危うく踏みとどまった。
そんな女々しい言いぐさは自尊心が許さないし、何より「葉佩」と答えられたときのショックを考えると、とても聞けない。
それでも。
確かに自分とも『約束』したはずなのだ。
お互い仕事も持っている身、都合良く都合が付くとは限らないが、それでもせめて誕生日くらいは一緒に過ごしたいと言い、それに、この恋人は面倒くさそうにしながらも、確かに頷いたのだ。
如何にも尊大で、恩着せがましい態度ではあったが。
それでも『約束』には違いないはず。
「…俺との『約束』は?」
言った。
言ってしまった。
縛るような言葉は嫌いだと理解はしているものの、どうにも言わずにはおれなかった。
緋勇は村雨のロマネコンティをひょいと取り上げて、自分も一口飲んだ。
そして、さらりと言う。
「お前は、すでに俺にとって『他人』の範疇に入っていない」
だから、約束を無視しても良いってか?
随分、舐めてくれてるじゃないか。
………いや、待て。
『他人』じゃなくて、何だ?
龍麻にとって『他人』じゃない…愛人?恋人?家族?
…半身?
「…奇天烈な百面相は、止めろ」
心底呆れたような緋勇の声に、村雨の思考は中断した。
頭を抱えて、ぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟く。
「いや、待て、俺。いつもこうやって誤魔化されてるじゃねぇか。ちっとくれぇ可愛い言葉を聞いたからって、ほだされるのは止せ」
「可愛い言葉など、吐いたつもりは欠片も無いが」
ふん、と言ってから、緋勇は己の膝を叩いた。
「ほら、1日遅れた分、甘やかしてやるから、こっちに来い」
甘やかしてやるって何だ、俺はガキでも猫でもねぇ、と思いつつも、村雨はふらふらと立ち上がった。
緋勇の隣に座ると、手が伸びてきて、頭を膝へと落とされる。
無言のまま、髪を撫でられたり、顎をくすぐられたりされて、やっぱり猫扱いかよ、と思いつつも、思わず怒りが溶けていく村雨であった。