黄龍妖魔學園紀  一大決心編





 取手は音楽室から飛び出して、左右の音に耳を澄ませた。
 トレジャーハンターのくせにばたばたと無造作な、体重の軽い足音が階段の上へと移動するのを確認して、それを追いかける。
 数段飛ばしで駆け上がり、突き当たりの閉まりかけたドアに咄嗟に長い腕を伸ばした。
 ちゃちなアルミのドアが勢い良く閉まりかけて、すぐに開いた。
 その間に体が追いつき、屋上へと足を踏み入れる。
 横を見ると、ドアのノブを握ったまま、葉佩が怒ったような顔で睨んでいた。
 「馬鹿かっちゃん!指、挟んだらどうするつもりなんだよっ!大事な指なんだから、気を付けろよ!」
 そう言われてみれば、あのままドアが閉められたら、指が思い切り挟まれることになっていただろう。最悪骨折するかもしれない。
 だが、あの時は、そんなことは考えなかった。
 ただ、葉佩を逃がしたくなかった。
 だから、取手は返事をせずに、今は怒りで照れが吹き飛んでいるらしい葉佩に手を伸ばした。
 目を丸くして、ノブから手を離した葉佩の体を巻き取るように抱き締める。
 「う…わっ!か、かっちゃん、タンマっ!」
 じたばたと拘束から逃れようとする葉佩に、腕の力をこめる。
 それでも肘を突っ張って距離を取ろうとするので、自分を拒絶されたような寂しい気分になって、取手は力無く腕を解いた。
 葉佩はすぐに飛びすさって、ごしごしと手の甲で自分の口を拭いた。
 「もー、駄目だって!制服に付いちゃったかもしんないぞ!?」
 口紅付けてる女の子じゃあるまいし、と思いながら取手が自分の制服を見下ろすと、そこには僅かに小さな欠片が付着し、油が染みていた。
 葉佩の口を見れば、てかてかと油で光っている。
 取手はまた葉佩を捕らえた。
 両腕を掴んで、顔を覗き込む。
 口元に鼻を近づけると、スナック菓子特有の匂いが感じられた。
 「どこかでポテトチップスでも貰ったの?」
 苦笑しながら言っても返事がないので、ふと顔を離すと、葉佩は頬を紅潮させて固まっていた。
 取手はくすりと小さく笑った。
 「キスされると思った?」
 返事は、無い。
 ただ、ますます頬の色が濃くなっただけだ。
 右手を離して、指先で葉佩の口の周囲を撫でる。
 「まだ、付いてるよ…」
 囁きながら拭ってやれば、葉佩の目が、怯えた獲物が逃げ道を探すようにきょときょとと動いた。
 綺麗に欠片を落として、それから人差し指の腹を葉佩の唇に置く。
 柔らかな弾力と、震えるように漏らされる吐息を楽しんでいると、だんだん呼吸が速くなってきているのを指先で感じた。
 唇から葉佩の瞳へと視線を移すと、目が合った途端、葉佩はそっと俯いた。
 何というか…まるでもの慣れない可憐な少女だ。
 いつも陽気できゃんきゃんとお喋りな葉佩ももちろん好きだが、こんな風に初そうなところも結構くるものがあるな、とやっぱり初心者なはずの取手は思った。
 11月に入ったが、今日は暖かく屋上では遮るもの無く太陽の光が降り注いでいる。
 取手の背中も徐々に暖かくなってきたが、葉佩の顔も日光に照らされて赤みを帯びてきた。
 「か…かっちゃん…」
 囁くような掠れた声で、葉佩は取手の指を掴んだ。
 その指は驚くほど冷たかった。いつも低体温の取手よりももっと冷たい。
 よほど緊張しているのだろう。
 何だか可哀想な気がして、取手は葉佩のなすがままに指を唇から降ろした。
 「あ…あのさ、かっちゃん…」
 葉佩はその指を握ったまま、やはり掠れたような声で呟いた。
 「うん、なに?」
 「俺…かっちゃんが…その…あの…」
 普通なら聞き取れないような小さな声だが、葉佩が必死になって言おうとしているのが分かったので、取手はただ黙って待っていた。
 どうやら自分にとって嬉しいことを言ってくれそうな気がするので、邪魔をして言い出す勇気が挫けられても困る。
 「す…す…す…す…す…す……好き……すごく、好き……」
 ようやく望む言葉が得られた取手は、耳まで真っ赤になっている葉佩の体を力一杯抱き締めた。
 今度は、葉佩も抵抗しなかった。
 大人しく腕の中に収まり、熱い息を吐いている。
 「僕も…好きだよ…」
 低い声で耳に告げれば、葉佩の体が小さく跳ねた。
 何というか…凄く可愛い。
 ふるふるしている伏せられた睫毛とか、熱があるみたいに潤んだ瞳とか、安心しきったように預けられた細身の体とか。
 ここが屋上でなければ、このまま食べてしまいたいくらいだ。
 いや、時折<生徒会>からの伝達事項で『屋上で淫らがましい行為を行う者は処罰対象』というのが含まれるということは、屋上ででも何かを行うことは可能なのだろうか。
 でも、鍵が閉まるとはいえ、屋上は屋上で遮蔽物が無いし、他から覗けるような場所でするわけには…などと、すっかり方法論にまで思考が飛び越えていっている取手であった。
 
 結局、ただ抱き締めたままの状態で昼休み終了を告げる予鈴が鳴ったため、渋々ながら葉佩の体を解放した。
 ふと寒さを感じた取手は、逃れた暖かさの代わりのように葉佩の手を握った。
 真っ赤になった顔を隠すように未だに俯いたままの葉佩を導くように先に屋上のドアをくぐる。
 「はっちゃん」
 「え…な、なに?かっちゃん」
 ぼーっとしていた葉佩が、驚いたように顔を上げた。
 だが、取手の顔を見た途端、ぱっと顔に朱を散らせて目を逸らす。
 「今日は、あそこに行くつもりかい?」
 「へ?…えっと…あ、ううん、特に受けてるクエストも無いんだけど…別に行かない理由も無いけど」
 ようやく『いつもの』会話に戻ったことにほっとしたのか、葉佩がまた顔を上げて、歯を見せて悪戯っ子のように笑った。
 白くて綺麗な歯並びに見惚れながら、取手は立ち止まって葉佩を見つめた。
 階段の一段下に立っていると、ちょうど目線が同じくらいになる。その状態でまっすぐに見つめると、葉佩が怯えたような色を浮かべた。
 いつも笑っていて欲しいのに、どうもうまくいかない。
 お互い好きだと確認したのに、どうしてもっと喜んでくれないんだろう。
 怯えられているのは、キスしてから。
 やっぱり床に押し倒してキスしたのはまずかっただろうか。その後、触っちゃったし。
 どっちも初心者なのだし、もっと順を追って進めていった方が良いのだろうか。でも、キスはしたから…次は…やっぱり、そういうことだろう。
 「はっちゃん」
 「は、はい」
 「もし、君がイヤでなければ、今晩、僕の部屋に来て欲しい」
 葉佩の目が泳いだ。
 助けを求めるように周囲を見回したが、生憎授業開始直前の屋上近くには誰もいなかった。
 諦めて俯いた葉佩が小さな声でぼそりと呟いた。
 「あ、あのさ…それってその…つまり…」
 「君がイヤなら、来なくても良いよ」
 なるべく優しく言ったつもりだったが、葉佩は唇を噛み締めて、ずるい、と呟いた。
 そして、赤かった顔をむしろ青ざめさせて、階段を降りていった。
 葉佩が振り返りもせずに階段を降りて踊り場を曲がっていくのを、取手はじっと見送った。
 それから、自分もゆっくりと降りていった。
 どうやら午後の授業には間に合いそうだった。


  件名:夕食
 はっちゃん、今日の夕食はどうする?マミーズに行くなら、一緒に行きたいんだけど。
  送信者:取手鎌治

  件名:Re:夕食
 一人で自室でとる予定。
  送信者:葉佩九龍


 取手はメールを見て苦笑した。いつもメールでは素っ気ない文章だと知っていなければ、疎ましく思われているのではなかろうかと疑うような返信だ。
 仕方がないので棚を探ると、レンジで数分のスパゲティが出てきたので、取手も部屋で済ませることにした。
 もそもそとそのもつれたようなスパゲティを食べながら、葉佩に思いを巡らす。
 きっと今頃、悩んで悩んでじたばたしているに違いない。
 即断即決、勘と直感で行動している葉佩だが、さすがにこの事態をすぐに受け入れるほどすれてはいないはずだ。
 ここに来れば、キス以上の何かをされることくらい分かっているだろうから、取手に抱かれる覚悟が出来ないと来られない。
 でも、葉佩はきっと来るだろう。
 妙に潔いところもあるし…それに来ないということは、取手を受け入れられない、ということになる。ちゃんと好きだと言ってくれたのだから、それは無いだろう、と取手は判断した。
 来てくれたら、それからどうしよう。
 あの日溜まりのような暖かな存在を、本当に自分のものにして良いのだろうか。
 でも、ちゃんと自分のものにしておかないと、また皆守のような不心得者が出ないとも限らない。
 皆守のことを考えると、じわりと胸に黒い砂が湧き上がる。
 葉佩を、自分のものだけにしておきたい。
 笑顔も、照れた顔も、怯えた顔も、全て自分だけのものに。
 キスは皆守に先を越されたけれど、葉佩の全てを奪うのは、誰にも譲れない。
 たとえ葉佩を泣かせてでも、彼を自分のものにしたい。
 それに、泣いている葉佩はきっと凄く可愛いだろうし…とその光景を思い浮かべて、微笑んでから取手は自分の思考に少しばかり目眩を感じた。
 身勝手な上に、強い独占欲の塊だ。
 自分に、まあ、ちょっとしたサドっ気があるのには気づいてはいたが、あまりそれが表に出ると葉佩に嫌われそうだ。
 なるべく自粛しよう、と取手は一人で反省した。


 味もよく分からなかったそれを片づけて歯を磨く。
 ベッドのシーツを取り替えて、洗濯を回し、シャワーを浴びる。
 机に向かって五線譜を広げてみたが、頭の中には音楽の欠片も浮かんでこなかった。
 そうしてぼんやりと過ごしていると。

  こんこん

 控えめなノックの音がした。
 立ち上がって、たった数歩のドアが随分遠い気がした。
 開いたドアから見える俯いた葉佩の姿、というのは、どこか夢の中の光景のような気がした。
 けれど、取手はそっと囁いた。
 「いらっしゃい、はっちゃん」
 葉佩の足取りも、夢の中にいるかのようにふわふわと頼りなかった。
 今にも倒れそうな歩みで部屋に入ってきて、ベッドまで辿り着かずに床に座り込んだ。
 すれ違うときに、葉佩の心臓がどきどきと普段の二倍以上の早さで鳴っているのが聞こえた気がした。
 床にべたりと腰を落とした葉佩が、無言のまま顔を上げた。
 真っ白に強張ったような顔を、取手もまた無言で見返した。


 取手の手の中で、部屋の鍵を閉める音が、かちり、と鳴った。







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