黄龍妖魔學園紀  激突編





 皆守は外に出ていこうと寮の玄関で靴を履いている途中だった。
 とんとん、と爪先で床を蹴り、靴を馴染ませているとき、玄関のガラス戸に人影が映ったのでちらりと目を上げた。
 そして、その影が中に入ってくるのをじっと見つめた。
 取手も、中に入ってから無言で皆守を見つめる。
 しばらく睨み合いが続いた後、皆守がようやく口を開いた。
 「九ちゃんに、何をした?」
 「たぶん、君と同じことを」
 すぐさま取手は答えた。
 腕の中の愛しい少年をそっと抱き直す。人の声が聞こえても、体を揺すって抱き直しても、葉佩は目覚める気配を見せなかった。
 あんな風に言ったが、意識のない葉佩に何かすることは躊躇われて、結局服装を直してやっただけで寮に帰ってきた取手である。
 したことは、ただ、キスだけ。
 それはきっと、皆守と同じこと。
 皆守が、ゆっくりとくわえていたアロマを胸にしまった。
 「ふぅん…キスしたら、悦かったあまりに気を失った…とでも?」
 「さあ…ちゃんとはっちゃんには警告したんだけどね。今、意識を失ったら、僕は何をするか分からないよ…ってね」
 大事なものに触れるように、腕の中の葉佩の額にそっと唇を寄せた。
 皆守の背中から、ざわりと殺気が立ち上る。
 「てめ…『俺の恋人』に良い度胸だ」
 「違うよ。はっちゃんは、分かってなかったんだから」
 どす黒い殺気を真正面から受けても、取手は怯まなかった。静かな表情で、皆守の目をまっすぐに見つめる。
 「狡いね、皆守くん。でも、そんな風なやり方をしても、はっちゃんの心は手に入らない」
 「うるせぇっ!」
 ひゅっと風切り音と共に皆守の足が振り上げられた。
 取手の体格はかなり大きい。たとえ葉佩を抱いていても、それを避けて蹴るのは容易なことであった。
 だが、取手はくるりと回転しながら玄関から上がり、葉佩を抱いて階段に向かった。
 「やり合うのは、別にいいけど。でも、はっちゃんは緋勇さんに預けてくるよ」
 「…ちっ…」
 皆守とて、葉佩を避けて蹴る自信があるとはいえ、相手の腕の中に愛しい相手がいるのは何かと戦いにくいのは確かだった。
 渋々と取手の後ろについて行く。
 葉佩の部屋の前まで行くと、ノックする前に中からドアが開いて緋勇が顔を覗かせた。
 二人の姿を見て、何も言わずに腕を出す。
 葉佩の体を受け取って、緋勇はどこか楽しそうに言った。
 「ま、好きにしろ。それで気が済むんならな」
 緋勇の腕の中の葉佩を気遣わしげに見て、取手は頷いた。
 「そうですね…それで皆守くんの気が済むのなら…」
 「って、何だよ、その言い方は!」
 「だって、はっちゃんは僕のものだから。僕を蹴るくらいで君の気が済むのなら、何度でも蹴られてあげるけど」
 「待てぃ!何を決まったことを言うみたいに言ってやがる!」
 取手の白い顔からすとんと感情が抜け落ち、強張った表情になる。気弱そうな目に暗い炎が燻り、鬼火のように揺らめいた。
 「はっちゃんは、僕のものだ…誰にも、渡すものか…!」
 ざわり、と取手の中で黒い砂が蠢いた。
 何事だ、と廊下に出てきた生徒の前だと言うことも、全く見えていない様子で、ゆっくりと手を上げる。
 その手のひらには、くっきりと<ホルスの目>が浮かび、耳が痛くなるような空気の歪みを響かせていた。
 「上等だ!」
 皆守も、すっと腰を落とす。
 完全に本気の戦闘態勢の二人を見て、緋勇は溜息を吐いた。
 「やれやれ、青春は良いが、場所を考えて欲しいものだな」
 二人の耳には全く入っていないようで、空気がびりびりと震えている。
 そんな中、葉佩がぱちりと目を開いた。
 何がどうなっているのか分かっていない様子で、きょときょとと周囲を見回す。
 そして、二人の友人が対峙していて、しかも戦闘態勢なのに気づく。
 きぃいいん!と空気が歪む音と、蹴りが振り上げられる中、転げるように緋勇の腕から抜け出した。
 「…駄目っ…!」
 葉佩は頭で『どちらを庇う』とか考えたわけではない。
 ただ、二人が争うのは止めさせなければ、と思っただけだった。
 そうして、走り寄って、ちょうど振り上げられた皆守の足を捕まえるように体を投げ出し。
 「んきゃっ!」
 葉佩の悲鳴と、がつっと鈍い音がしたのは同時であった。
 瞬時に<ホルスの目>を引っ込め、取手は崩れ落ちた葉佩に駆け寄る。
 皆守は、ただそれを呆然と眺めていた。
 完全に無防備な体に蹴りが入った。
 吹き飛んだ先で、頭をコンクリートの壁に思い切りぶつけた。
 最悪…死んでしまうかもしれない。
 大事な人を。
 とてもとても愛おしくて、大切に守ってやりたいと思った相手を。
 殺してしまったかもしれない。
 棒を飲んだように直立不動で突っ立っている皆守を、軽く押しのけて、緋勇が取手と葉佩の元へと行った。
 手を翳して簡単に全身をチェックし、肩をすくめる。
 「気絶してるだけだ。ベッドに運んでおけ」
 「は…はい…」
 先ほどまでの暗い雰囲気を失い、おどおどと取手は葉佩を細心の注意を払って抱き上げ、緋勇が手で押さえて開かれたドアの内へと運んだ。
 そのドアが閉まりかける直前。
 緋勇の顔がひょいっと出てきて、皆守をまっすぐ見た。
 「どうせお前も気になるんだろう。こっちに来い」
 その言葉でようやく目が覚めたように、皆守はぎくしゃくと葉佩の部屋へと入った。
 ベッドに横たえられた葉佩は、ぐたりと脱力している。
 呼吸を確かめようと手を伸ばしかけて、皆守はその手を握り込んで力無く下げた。
 「不可抗力だ。気にするな」
 緋勇が、ぽん、と皆守の肩を叩く。
 そして、腰に両手を当てて、さて、と呟く。
 「このまま寝かせてやってもいいんだが…お前らが死ぬほど心配してるからな。いったん、起こすか」
 ふん、と鼻を鳴らしてベッドに腰掛け、葉佩の額に手を翳した。
 金色の光が葉佩の頭を包み、途端に葉佩は目をぱちりと開けた。
 「あ…あれ?そうだ、喧嘩…!」
 がばっと起き上がって、くらりと揺れた視界に頭を押さえる。
 それでもゆっくりと顔を上げると、心配そうに覗き込む取手の顔と、苦虫を噛み潰したような顔で突っ立っている皆守の姿が目に入った。
 「あれ…夢…じゃないよな、えっと…」
 「ま、要するに、お前を取り合って、男二人が争ったわけだ。いささか不毛だが、もてて良かったじゃないか、葉佩」
 くつくつと喉で笑いながら言われ、その内容を脳味噌で噛み砕く。
 そして、自分が校舎で気を失う直前の出来事を思い出す。
 取手と皆守の顔を見られなくて、目を落とした葉佩だったが、途端に襲ってきた吐き気に、ばたばたとベッドから降りた。
 ふらつきながらもトイレに駆けていき、便器を抱えるが早いか、うげ、と胃の中身をぶちまけた。
 「しょうがないな」
 ぶつぶつ呟きながら、緋勇がトイレに入ってその背中を撫でてやる。
 その合間に顔を出し、取手と皆守の顔を等分に見て、はっきりと言い切る。
 「俺が見てるから、お前らは帰れ」
 だが、取手はいつも白い顔色を一層悪くして、ぼそぼそと呟いた。
 「でも…頭を打って、それから吐くなんて…まずい兆候じゃないのかな…ルイ先生を呼んできた方が…」
 「あぁ、大丈夫だ。半年後には医者をやってる俺が保証する」
 けろりと言われても、今はただの医学生であるし、頭のCTを撮ったわけでもない。緋勇を信用出来ないとは言わないが、素直に信じて預けるのも不安だ。
 取手がもごもご言いながらそこから動かずにいると、緋勇は冷蔵庫からミネラル水を取ってきてトイレに入りながら、すれ違いざま取手と皆守の頭をぽかりと一発ずつ殴っていった。
 「…何しやがる」
 「このくらいで済んでありがたいと思え。それだけ落ち込んでなければ、黄龍の一つや二つ喰らわせてるぞ」
 葉佩にミネラル水を渡すと、ごくごくと音を立ててそれを飲んだが、すぐにまた吐き出す。
 目尻に涙を滲ませながら、げーげーえずいている葉佩に溜息を吐いて、緋勇はトイレから出て両手を腰に当て取手と皆守を睨んだ。
 「お前らがいると、止まるものも止まらなくなる。考えても見ろ、この脳天気野郎が、いきなり『親友』二人に犯されかけたんだぞ?精神的にショックを受けるのも当たり前だろうが」
 二人の息が止まった。
 キスしただけだ、という言い訳は二人ともしなかった。受け入れてくれたなら、最後までやっちゃったかも知れない自覚はあったので。
 「…吐くぐらい…ショックだったんだ…」
 ぼそりと呟いて、取手はのろのろと立ち上がった。
 完全に拒絶されているのを目の当たりにしているようで、葉佩の苦しそうな呻き声から耳を塞ぎたくなる。
 だが、取手は代わりに手を握った。尖った爪が手のひらに食い込むほど。
 そして、同じく苦い顔をしている皆守の肩を軽く叩いて、出ていくことを促した。
 二人連れだって出ていくと、数人の生徒が心配そうにこちらを見ていた。
 それに手だけを振って「散れ」と意志表示し、皆守はのろのろと歩き出した。
 会話はしていないが、たぶん皆守も自分と同じ気持ちだろう、と取手は思った。
 吐いてしまうほど、ショックだった、と言うことは、葉佩にとって彼らの行為は受け入れられない、ということだ。
 皆守も、取手も、振られたのだ。
 けれど今更元の『友人』には戻れない。
 ひょっとして卒業までびくびくと顔色を窺われながら過ごす羽目になるのだろうか?
 それとも、完全に無視されたりするのだろうか?
 取手は大きな体を一段と猫背にして足を引きずるように自室へと歩き始めた。
 どうして、こんなことをしてしまったんだろう。
 葉佩の嗜好がノーマルなことくらい、分かっていたはずなのに。


 野郎二人を追い出して、緋勇はしばらく<氣>を探っていたが、二人がちゃんと自室に戻るのを『見て』監視を解いた。
 「まったく…青春というのは恥ずかしいな、しかし…」
 ぶつぶつと呟きながら部屋の鍵をかけ、トイレに戻る。
 そして便器を抱えたまま涙目で見上げた葉佩に、静かに問う。
 「お前は、自分が何故吐いているか、理解しているか?」
 「…たぶん」
 「ほう。何故だ?」
 「受け入れられないから」
 簡潔な言葉に、緋勇は満足そうに頷いた。
 「そうだ。吐く、というのは、体から異物を追い出すことだ。それは人体に悪さをするウィルスであったり細菌であったりするが、精神的に何かを追い出したい時にも、体の方が反応することがある。精神的に受け入れられない何かを追い出そうとして、吐いてしまうわけだ」
 講義口調で淡々と言って、緋勇は眉を上げて面白そうに腕を組んだ。トイレの柱に背中をもたれさせ、葉佩を見つめる。
 「それで…何を受け入れられないのかも、分かっているな?」
 「…たぶん」
 もう一度同じ言葉で返し、葉佩はミネラル水をごくごくと飲んですぐにまたがぼりと吐いた。
 「う〜、胃を洗ってる気分…」
 顔を顰めて口を拭い、またミネラル水を傾けた。
 その様子を眺めていた緋勇は、一つあくびをした。
 「ま、思ったよりも逞しそうで何よりだ。ここから先はお前の領分だ。踏み出すも、切り捨てるも、お前の自由」
 歌うように言って、その場から離れかけ、すぐに顔だけ覗かせる。
 「どうせ、朝になれば、あの二人が罪悪感に打ちのめされた面でお前の前に現れるさ。その時ちゃんと対応できるよう、しっかり飲み込んでおけ」
 「…はい」
 素直に頷いて、葉佩はまた吐くだけの水を口にした。

 胃液特有の酸っぱいような臭いが鼻を突く。
 時折トイレの水を流しながら、葉佩は何本目かのミネラル水の蓋を切った。
 吐き出したいのは。
 追い出したいのは。
 けれど、追い出す、ということは、完全に切り捨てる、ということだ。
 出来るだろうか?
 切り捨ててしまう、なんてことが、本当に自分に可能だろうか。
 『それ』を無くしてしまう、ということは……を切り捨てる、ということと同義だ。
 もしも、『それ』を切り捨てないのなら、受け入れるしかないのなら。
 吐き出すべきは、これまでの自分だ。
 『常識』に囚われた己の観念を追い出さなくてはならない。
 だんだんただの水のようになってくる己の吐き出したものを見つめながら、葉佩は汗で張り付いた髪を払った。

 こんな風に、不純物の混じらない、新しい綺麗な自分になれるだろうか?







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