黄龍妖魔學園紀 出陣編
葉佩は寮の食堂で溜息を吐きながら目玉焼きをつついていた。
朝から元気なのが取り柄の葉佩が何度も溜息を吐いている姿は珍しいため、食堂のおばちゃんからその辺の寮生までがちらちらと様子を窺っているのだが、それにも気づかずもそもそと如何にもどうでも良さそうにご飯を口に押し込んでいる。
目の前の席には、皆守が座っている。
半分…いや、四分の三くらい目を閉じた様子は、もっと眠っていたいですと雄弁に語っていたが、それでも惰性のようにコーヒーを啜っていた。
もう十数回目になる溜息を吐いた頃。
「九ちゃん…あんまり気にするなよ」
労りに満ちた声に、葉佩は顔を上げ、弱々しく微笑んで見せた。
「ん…ありがと、甲ちゃん。…でもさー…ホント、俺、何かしたかなぁ…」
はうー、と俯せた葉佩に、皆守の目が剣呑に光る。だが、葉佩が顔を上げる気配にすぐに目を和らげ、柔らかく髪を撫でた。
「そんなに気になるってんなら、俺が取手に聞いておいてやるから…」
「うん…どうなんだろ。ねー、甲ちゃん、思い当たること無い〜?俺、かっちゃんに嫌われるようなことしたっけ〜?」
ぐすんぐすんと鼻を鳴らして葉佩は目だけを上げて皆守を見た。
そうなのだ。
取手の様子が、最近急におかしくなったのだ。
それまで一緒にご飯を食べたり話をしたり仲良くしていたつもりだったのに、いきなり避けられるようになってしまったのだ。
抜けてるように見えてもこれでもトレジャーハンターである。他人の気配には敏感だ。その勘が取手が近くにいると訴えても、その気配が近寄ることなくむしろ逃げていく様子を感じてしまう。
どうにも気になって問いつめようとしたら、もごもご口の中で言って、葉佩を押しのけるようにして小走りに去っていってしまった。
あんなに露骨に『話すのもイヤ』みたいにされたのでは、さすがの葉佩も挫けるというものである。
「ふぇええん!かっちゃんに嫌われちゃったんだ〜!」
うつ伏せたまま、じたばたイスを鳴らしていると、頭の上から低い声が降ってきた。
「そんなことは、無いよ」
葉佩は、がばっ!と音が出そうなほどの勢いで頭を上げた。
そして、隣に立つ長身の男子生徒に気づいて、ぱーっと満面の笑みを浮かべた。
「かっちゃんだーっ!」
「おはよう、はっちゃん」
「おはよーっ!かっちゃん!うわあああん!久しぶりだよぉお!」
がしっと腰にしがみつくと、背中が優しく撫でられた。その感触にじわりと涙が滲んで、葉佩は慌てて取手から身を離した。
「ご、ごめん、シャツ濡らしそう。あーもーマジで泣きそ〜。かっちゃんに嫌われたんだーって思ってたんだもん〜」
取手は葉佩のイスの横にしゃがみ込んだ。目線を葉佩の下から合わせて、にこりと笑いハンカチを差し出す。
「ごめんね…僕に嫌われたと思って、そんなに泣いちゃったんだ」
「うん…でも、何でそんなに嫌われたのか全然分かんなくってさー、俺、もー、ホントに…」
本格的にぐすぐすと泣き出した葉佩の目を、取手はそっとハンカチで拭った。
そして、それはそれは甘い声で囁く。
「僕が、君を嫌いになるなんて、そんなこと、あるはずがない。だって、君は僕の光だから」
何気なく聞いていた連中の背筋に悪寒が走った。
一体何事だ、この本格的口説きモードはっ!
だが、悶絶している周囲をよそに、取手は葉佩の額にこつん、と自分の額を当てた。
「ちょっと…悩みがあったんで、顔を合わせられなかったんだけど…でも、解決したから」
「…悩み?」
その単語に、葉佩はハンカチから顔を離して、ぱちぱちと瞬いた。
驚くほど近くにあった取手の顔に、うわ、と吃驚する。そして、とろとろに甘ったるい視線に頬を赤くした。
こういう視線には覚えがある。兄ちゃんとか姉ちゃんに甘えた時に、「もー、九龍は仕方が無いなぁ」と言われるときの目だ。
どうやら取手にとって自分は被保護者らしい。そんなだから、悩みがあっても相談してくれなかったのだろうか。
友達が悩んでいるのなら、一緒に悩んで解決してあげたかったのに。
「…言ってくれれば、良かったのに」
思いの外、拗ねたような響きになってしまって、葉佩は自分の言葉に赤面した。
「うん…ごめんね。ちょっと…自分で解決しなきゃいけないことだったから」
「俺って、頼りにならないかなぁ…」
「ううん。君がそうやって、いつでも僕を待っていてくれると分かっているから、僕は一人で考えることが出来たんだよ。ありがとう」
微笑む顔に、嘘は無いと思う。
葉佩はちょっとだけ取手が自分で悩みを解決してしまったことが寂しいような気はしたが、それは友人として喜ぶべきことなのだと思って、その自分勝手な考えを追い出した。
何はともあれ、取手は自分で悩みを解決したのだ。
てことは、また今まで通り、一緒にご飯を食べたり一緒に話をしたり出来るのだ。
それを思って、葉佩はにへらっと笑った。
「そっかー。うん、良かった。じゃあ、また、かっちゃんといられるんだ」
「うん、君が望むなら、いつでも」
優しい言葉に、葉佩はへへっと笑った。
そして、取手の腕を引っ張って立ち上がらせて、隣の席をぱんぱん叩く。
「それじゃ、まずは一緒に朝御飯!へへーっ!俺も食欲出てきたぞーっ!」
お箸でちゃんちゃか茶碗や皿を叩いて、葉佩は取手が自分の食事を取ってくるのを待った。
そして、一緒にもう一度「いただきます」と手を合わせて、猛然と食べ始める。
「もーひゃ、何て言うの?かっひゃんに嫌われてると思ったらひゃ、ごはんも食べられなくってさー」
もひもひと口を一杯にして、葉佩は取手に話しかけた。
が、顔を上げた時に目に入った皆守の顔に、思わず口が止まる。
「甲ひゃん?」
何というか…妙な迫力を持った細められた目に、葉佩は首を傾げた。
機嫌の悪そうな顔に、やっぱり眠いのか〜と申し訳ない気分になる。こっちから強請ったわけではないが、どうやら落ち込んでいる葉佩を気遣って、こんなに朝早く(皆守基準)から起きてきて話し相手になってくれているのだ。
甲ちゃんにも心配かけて、かっちゃんにも甘やかされて、どうも駄目だなぁ、と葉佩は思った。
葉佩九龍、三人兄弟の末っ子で、べたべたに甘やかされて育ってきたのである。その甘えんぼオーラが滲み出ているのだろうか。考えてみればロゼッタでも年上連中に散々甘やかされた気がする。
やっぱり一人前のトレジャーハンターたる者、そんなことではいけないよなー、と葉佩は反省した。
もっとしっかりせねばっ!と気合いを入れたところで。
皆守がゆっくりとコーヒーを啜って、かちん、とテーブルに置いた。
「悩みが解決したようで、何よりだ」
「おかげさまで、ありとあらゆる方向性で解決したよ」
「ほー、ありとあらゆる方向性で、ね」
「ふふ…」
「はっはっは」
笑い合っているのに、何で静電気がぴしぴし言ってるんだろう、と葉佩は箸をくわえながら考えた。
どうもこの会話を見ると、取手の悩みは皆守も知っていたような感じなのだが。
何だか仲間外れになったような気分になって、葉佩はがつがつと食事をかき込んだ。
自立するのだ、と誓った側から、構って欲しがっているのは悪い癖だ。
ちゃんと『友人』は『友人』として尊重せねばならない。
だから、何やら皆守と取手の視線が火花を散らしてる気がしても、口は出さないことにした。
「ごちそうさまでしたー」
ぱんっと手を合わせて盆に礼をすると、取手の手が伸びて頬に触れた。
離れていった指先を見ると、ご飯粒が付いていたらしい。
慌てて取手の手を持って、はむっとご飯粒をくわえる。
だが、取手がそのまま自分の指をくわえたところを見ると、まだご飯粒は残っていたのだろうか。自分の舌先のご飯粒を転がしながら、葉佩は「やっぱりかっちゃんは保護者みたいだなぁ」と思った。
「はっちゃん、お昼には今まで通り誘いに来てくれるかい?」
取手がにこにこ微笑みながらそう言ったので、葉佩もまたにこにこ笑いながら頷いた。
「うんっ!今まで通りっ!」
「嬉しいよ」
素直に表現する取手に、ちょっと照れ臭く感じながら、葉佩は自分の食器を手に立ち上がった。
「じゃ、九ちゃん、一緒に行くか」
「あれ?甲ちゃん、一限目から出るん?へー、珍し〜」
「たまには、な」
皆守も自分のコーヒーカップを手に立ち上がった。
ぽん、と肩を叩かれ、そのまま肩に手を置かれたまま歩き出す。
肩を組んで歩くってのは、男の友情っぽいよなーと思ったが、あいにく葉佩の両手はお盆で塞がっていたので一方的に肩を抱かれたままになってしまった。
そして、食器を返した後は、何故か手を繋がれて廊下を部屋へと帰っていった。
いくらあちこち彷徨いてちょっと『ゲットレ』する葉佩でも、朝っぱらからは何もしないのに信用の無いことだ、と葉佩は唇を尖らせたのだった。
約束通り、昼休みに取手を誘いに行く。
やはりどこにも行かないように、と言う感じで皆守に手を掴まれていたのだが、それを見た取手が逆側の手を掴んできた。
まるで連行される宇宙人…グレイとか言ったっけ…みたいだなぁ、とちょっと思ってから、そんなに俺だけ小柄じゃないやい、と自分の想像に悲しくなってみた葉佩であった。
そんなわけで、何故か男三人が手を繋いでマミーズに向かい、舞草に「おぉっとぉ!もてますね、九龍くんはっ!」と叫ばれつつ席に案内され。
…で、何だか知らないが、己の頭上で無言の会話が繰り広げられた気がする。
表情と目の動きだけで会話できるなんて、仲が良いよな、この二人は、と思っていると、端っこの席に葉佩は押し込まれ、隣に皆守が座り、前のイスに取手が座った。
「かっちゃんとここに来るのも一週間ぶりだ〜。そういや、どうしてたん?お昼、一人でもちゃんと食べてた?」
取手は少し狼狽えた表情になって、目を逸らした。それだけで、ろくに食べてなかったんだな、と推測できる。
「駄目だぞ〜?ご飯は全ての活力の源!三食きちんと摂ることこそ、健康への第一歩!」
「う…うん。君が誘いに来てくれたら、ちゃんと食べるよ」
「そうそう!ちゃんと食べる!」
本当は生活リズムを強制するのはうざったいことだろうとは思ったのだが、取手が素直に頷いてくれたので、葉佩は嬉しくなって笑った。
隣では皆守が小さく「一人で食え、一人で」と呟いていた。
そのうんざりしたような言い方に、葉佩は向き直って皆守の頭をこつんと叩く。
「駄目だろー?そんなこと言っちゃ!一人で食べるのは、えっと…単食…じゃなかった、孤独死…えーと、孤食!孤食ってゆって、良く無いって、教育の偉い人が言ってたし!」
誰だって、一人で食べるよりは気の置けない仲間と食べる方が食が進むってものだ。
ねー、と取手に首を傾げてみせると、取手は微笑みながら頷いてくれた。
「うん。はっちゃんと食べるご飯は、本当に美味しいよ」
「俺もかっちゃんと食べるご飯は美味しいよ〜」
悩みながら食べるご飯は美味しくなかったけれど、それまでの分も取り返そうと、葉佩はメニューを広げた。
「うーん…今日はどうしようかなー…イクラ丼、いってみようかな〜。甲ちゃんは良いよな〜、考えるまでもなくカレーだもんな〜」
「俺だって悩むことはある。キーマカレーが無いとか、スープカレーは邪道だとか」
「え〜、でも、俺スープカレー食べてみたい〜前、テレビでやってたみたいなの〜」
「ふーん…じゃ、今度作ってやるよ」
「やたっ!甲ちゃん、愛してるぅっ!」
きゃーっと隣の皆守の首っ玉に飛びつくと、嫌がりもせずに頭を撫でられたので、葉佩は少しばかり拍子抜けした。いや、別に蹴られるのが楽しいわけではないが。
甲ちゃんはカレーのことなら何でも機嫌が良いよな、と納得して、座り直すと、取手がにこにこしながら話しかけてきた。
「はっちゃん、今度また、僕のためにオムレツを作ってくれないか?君のオムレツはとても美味しいから…」
「あ〜ら、それは聞き捨てなりませんわっ!マミーズのオムレツは世界一ぃいいっ!なんですよっ!」
横から甲高い声で遮られ目を上げると、舞草が注文票片手にテーブルの横でくすくす笑っていた。
「うん、俺もそう思うんだよ〜。俺が作るのより、マミーズのオムレツの方が美味しいと思うんだけどさ」
「あれですか?九龍くんの作るオムレツには、スパイスがばっちり入ってるってやつですか!」
「へ?いや、特にはスパイスなんて…」
「違いますよぉ!愛情ってスパイスですよぉ!」
「あぁ、そうかも知れないね」
「か、かっちゃん、何、言って…」
葉佩は頬を赤くして、舞草に向かって真面目な顔で頷く取手の袖を引っ張った。
舞草がきょとんとした顔で葉佩を覗き込む。
「あれぇ?いつもみたいに言わないんですか?」
「い、いつもみたいにって?」
「ほら〜、よく言ってるじゃないですかっ!『そうだよ〜、俺はかっちゃんのこと愛してるからっ!』みたいな〜」
「え…あ…や…その…ほら…あの…」
声真似までした舞草に、葉佩の顔がますます赤くなった。
「そういえば…僕には、あまり言ってくれないよね、はっちゃんは」
「え…え?え?え?え?」
「皆守くんや八千穂さんにはよく言うのにね…」
「あ、あたしにも言いましたよ〜!奈々子ちゃん愛してる〜って!」
「い、いや、そりゃさ、俺は、みんな大好きですよ?うん。やっちーもつくちゃんも奈々子ちゃんも幽花ちゃんもルイ先生も、みんな愛してますともっ!」
だんだん乗ってきて、びしぃっと人差し指を天井に突き上げるポーズを取って、葉佩は大声で主張した。
そう、葉佩は、誰にだって「愛してる」と叫ぶのだ。友達だけでは無い、教師連中にだって、すぐに「わーお!先生ありがとうっ愛してるっ!」と叫ぶ。いっそ、言われていない知り合いの方が珍しいくらいだ。
「…僕は?」
いつもならさらりと流してくれそうな取手が、何やら今日に限って食い下がってくる。
「か…かっちゃんも…かっちゃんも…」
だが、いつもならさらっと口から出てくる「愛してる」が、どうしても口から出てこない。
多分、いつもの「愛してる」は口癖のようなもので無意識に出てくるのに、改めて言う「愛してる」は真面目に言わなくてはいけないからだろう、と葉佩は自己判断した。
「…ちなみに、俺は?」
「へ?甲ちゃん?うん、愛してるぜぃっ!」
あれ?
皆守相手には口が勝手に動くのだが。
あれぇ?と口を押さえて考えていると、横の皆守が頭を抱えているのが目に入った。
「甲ちゃん?」
「くそ…諦めねぇぞ、俺は…」
「な、何が?」
おろおろしていると、手が取られたので葉佩は正面に向き直った。
葉佩の両手を握って、取手がじーっと真正面から見つめてくる。
「はっちゃん…」
「は…はい…」
取手の声は、低いがよく響くなぁ…とか、灰色がかった瞳がすっごく綺麗だなぁ、とか考えていると。
「僕には、言ってくれないのかい?ひどいな…僕は、君のことを愛してるのに」
「んなっっっ!!」
葉佩の顔が一気に真紅に染まった。
いや、顔だけではなく、取手に包まれた両手も赤くなっている。
熱くなった頬を隠したいのに、手を引いても取手は離してくれない。
どくんどくんと凄い勢いで心臓が拍動する音が聞こえる。
冗談として流せば良いのは理性では分かっているのだが、息も出来ずにただ取手の瞳を見つめているだけだ。
「おぉっとぉ!取手君は、意外と大胆ですねぇっ!菜々子、ちょっと吃驚ですよ!」
お盆を手に派手に驚いてみせた舞草の言葉が聞こえなければ、そのまま酸欠で気絶したかも知れない。
「そうかな…いつもはっちゃんが言ってるののお返しみたいなものだと思うけど」
「普段言いそうにないから、九龍くんもびっくりしたんですよ、きっと。ねー、九龍くんっ?自分が言うのと、言われるのとじゃ、全然違いますよねーっ」
「そ…そそそそそそそうっ!そうなんだよなーっ!め、めっちゃ、びっくりしたっっ!!」
あはははははっ!とわざとらしい笑い声を上げて、葉佩は勢い良く取手の手から己の両手を取り戻した。
舞草の差し出す冷たい水の入ったコップを頬に当てる。
「か、かっちゃんが、そういう冗談言うとは思ってなくってさー…もーホントに…」
ぶつぶつ言いながら、両頬と額とかわるがわるにコップを当てて冷やした。
「九ちゃん…俺も、愛してるぜ?」
「二番煎じは、面白くないって」
皆守のボケをあっさりかわして、葉佩はメニューを立てて取手から隠れた。
「奈々子ちゃーん!俺、イクラ丼〜!」
「あぁ、僕も同じものを」
「俺は茄子カレー」
「わっかりました〜!お冷や、お代わりいりますぅ?」
「お願いします…」
すっかりぬるくなったコップを差し出すと、舞草はくすくす笑って葉佩の額をちょんと突いた。
「まだ赤いですよ?んー、九龍くんって、意外と照れ屋さんなんですねーっ!」
鼻歌を歌いながら去っていく舞草を恨みがましげに見送って、葉佩ははたと困った。
舞草がいないと、どう振る舞えば良いのか、分からない。
取手とは目を合わせられなくて、うーうー唸りながらあちこちに視線を彷徨わせていると、取手が困ったような声をかけてきた。
「はっちゃん。ごめんね、そんなにびっくりするとは思って無くて…」
「え…あ、い、いや!何か、意表を突かれたってーか!すっごくすっごく…な、何かね…」
あわあわと手を振って、怪しげな踊りを舞っている葉佩を柔らかな視線で見て、取手はふっと笑った。
「少しは…自惚れて良いのかな」
「へ?へ?な…な、何が…でしょうっ!」
「けっ、その程度で自惚れてるんじゃねぇ」
「そうかな?」
「そうなんだよ」
よくは分からないが、皆守と取手の視線がびしばしと戦っているような気がした。
あうあう、と呻きながら、葉佩はこてっとテーブルに横向きに突っ伏した。
テーブルの冷たさが火照った頬に心地よい。
動いたことで首筋に入った空気が冷たく感じるということは、首も熱を持っているのだろう。
うわあ、何で俺はこんなに赤くなってるんだよ、と己に突っ込みながら、葉佩は目を閉じた。
「はっちゃん?」
さらさらと額を撫でる手が気持ちよくて、掴まえて頬に当てる。
「はっちゃん…熱がある…のかな」
「どーだろ〜…」
ひょっとしたら、本当に熱が出てるのかも知れない。そうでもなければ、こんなに全身が熱くてふわふわするはずがない。
運ばれてきたイクラ丼に顔を突っ込むように食べながら、時折目を上げると取手の気遣わしげな目にぶつかって、その度にまた顔に血が集まってきては俯く、というのを繰り返した葉佩だった。
結局、午後は皆守ともども保健室のお世話になって帰ってきた葉佩であったが、自室に戻るなり支度を始めた。
本日は遺跡に潜ることになって、その上、何か断りきれずに取手と皆守の両者と共に行くことになっているのである。
何だか落ち着かない気もするのだが、実際、取手と潜るのは久しぶりなので楽しみなような気がしないでもない、と無理矢理自分を納得させる。
いつも通りに装備を整えると、緋勇も割と乗り気なようで、すっかり支度を終えていた。
「何か…緋勇さん、楽しそうっすか?」
「それはもう、楽しみだな」
くつくつと喉を鳴らす緋勇に、何がそんなに楽しみなのか分からない葉佩は首を傾げたが、まあ機嫌が良いに越したことは無いか、とそれ以上突っ込むことなく同行をお願いすることにした。
二人で墓場に行くと、皆守と取手はすでに来ていた。
大体、装備を必要としないバディたちは葉佩より先に来ていることが多いのである。
「こんばんは、緋勇さん」
「あぁ、こんばんは」
あれ?と葉佩は内心で首を捻った。
取手の緋勇に対する態度がすっごく自然。いやまあ、これまでが不自然に過ぎるのではあるが、こんなに自然な調子で挨拶を交わすのを見るのなど初めてだ。
皆守のどこか警戒した様子は相変わらずなのだが。
何だか今日はおかしなことが多い。
しかし、何がおかしい、とははっきり分からないので、葉佩はまあいっか、と頭を切り替えることにした。
色々と違うことを考えながら安穏と行けるほど、遺跡は甘くないのである。
そして頭を切り替えたつもりの葉佩だったが。
「君は背後を気にしなくてもいい…僕が守ってみせるから」
「ふん…なら、正面は俺に任せな」
何だか知らないが、妙に二人が張り切っている。
戦闘でも葉佩に傷一つ付けるものか、という気概に満ち溢れ、ちょっとかすり傷でも負おうものなら、取手の回復だの、何故か持ってきているらしい皆守の救急セットだのがすぐさまやってくる。
そりゃまあ普段から二人には防御にお世話になってはいるが、こんなに至れり尽くせり…と言うか下にも置かぬちやほやっぷりは初めてだ。
魂の井戸でクエストの品を送りながら、葉佩は釈然としない想いでそっと背後を窺った。
皆守と取手が、一見和気藹々と話しているように聞こえるが、何故か張りつめた雰囲気でにこやかに会話をしている横で、緋勇が声もなくひーひーと腹を押さえている。
全て送り終えた葉佩が井戸を閉じると、緋勇が目尻に溜まった涙を拭いながら近寄ってきた。
「面白いことになっているな、お前たちは」
「へ?えーと…俺には、よく分からないんすけど…」
「うむ、そこがまた面白い」
堪えきれずに吹き出した緋勇に、何となく面白くない気がして、ぶぅっと頬を膨らませた。
同様に、不機嫌そうな顔で皆守が向き直った。
「あんたも、暇だな」
「あぁ、暇だな」
「こんなにずっと九ちゃんに付き合ってるってことは、さてはいい歳して恋人の一人もいないんだな」
うわ、緋勇さんに何つーことを!と心の中で悲鳴を上げつつも、葉佩は緋勇の答えを期待した。
これまで考えたことはなかったが、確かに九月以降ずっと一緒に暮らしている。いや、昼間は大学に試験を受けに入っているようだが、それ以外の時間はほとんど寮にいるし。
仮に恋人がいたら、絶対怒っていそうなのだが。
緋勇の機嫌が見る間に急降下した。
「確かに、恋人などという上等なもんはいないな」
やっぱり、と嘲笑じみた顔をした皆守に、あっさりと続ける。
「あの馬鹿は『愛人』…いや、『情人』程度で十分だ」
「ひ、緋勇さん…何かすっごく生々しい響きなんすけど…情人って…」
「そうか?」
怪訝そうに緋勇の眉が上がった。
さすがは王様、言うことが違う、と感心した葉佩は、思わずぽろりと言ってしまった。
「でも、見てみたいな〜。緋勇さんの情人ってどんな人なんだろ〜。やっぱ胸、大きい?」
「は?いや、胸は別に…あぁ、しかし胸囲はあるか」
「美人?」
「不細工では無いが…美形、ということは無いな。たいてい、おっさんくさいエロ顔と言われているようだが」
「へー、エロ顔………………」
エッチぃ顔ってことはAV女優みたいなんだろうか、と思ってから、葉佩はフリーズした。
取手も凍り付いている。皆守ですら、アロマをくわえたまま目を見開いて固まっている。
「………おっさんくさい………?」
「あぁ、同い年なんだがな。昔から10は老けて見える奴だった」
恐る恐る確認した葉佩に、緋勇はさらりと答えた。
照れるわけでも怒るわけでもなく、あまりに自然な態度に、葉佩はぎこちなく動作を開始した。
「そ、そうっすかぁ…男が情人、と…あ、あはは、あはははは、緋勇さんは、やっぱりスケールが違うなぁっ!」
何がどうスケールが違うのかは置いておいて。
「ちょっと待て。じゃあ、何か?ホモが九ちゃんと一緒のベッドで寝てる…ってことか?」
唸った皆守に、緋勇は気分を害した様子もなく肩をすくめた。
「俺は、男が好きなわけでは無い。まあ、女が好きというのでも無いが。ただ、あの男の精気は<陽の氣>が強いので何かと便利なだけだ。以前も教えたと思うが、女はどうしても<陰の氣>に偏りがちだからな」
「よく分かんないんすけど……それって、その、その人のことが好きって言うんじゃなくて、利害関係ってこと?」
「だから、『恋人』ではなく『情人』」
眉間に皺を寄せて唸りながら言う葉佩に、緋勇はあっさり答えた。
葉佩九龍、未だ童貞。
やはりまだまだ男女関係とか恋愛に夢見るお年頃なのである。
そーゆー関係は、ちょっと受け入れがたい。
何だかなぁ、でもそれは緋勇さんの自由だしなぁ、とぶつぶつ呟いていると、立ち直ったらしい皆守が、ふんと鼻を鳴らした。
「どっちにしたって、今頃捨てられてるんじゃねぇか?利害関係な上に、これだけ放置したんじゃな」
「さあな。男の体の何が楽しいんだか知らないが、あの男は俺に執着しているからな。まあ、アメリカから離れられないよう、色々と手は打ってあるが」
しかもアメリカ人なのか、色々とスケールがでかい人だ、と日本人根性を丸出しにして葉佩は思った。
それにしても『男の体に執着』とか、『情人』とか…思春期には刺激が強すぎる。
「おっさん臭い」ということは、やっぱり緋勇がいわゆる女役、受け身なんだろうか、と考えて、葉佩は慌てて首を振った。
別にそんなことが分かったからと言って、緋勇は緋勇であることに変わりは無い。
緋勇に情人がいようといまいと葉佩には関係がない。
…とそこまで考えて、はたと気づいた。
取手はどんな気分だろう。
何だか今日は様子が違うが、緋勇を好きなら、情人がいると聞けばショックではないだろうか。
慌ててこっそり窺ってみたが、取手は感心したように頷いているだけで、あまり衝撃を受けた様子では無いようだった。
あれぇ?と首を捻っていると、皆守が捨て台詞のようにへっと吐き捨てた。
「今頃、浮気してんじゃねぇか?」
どうして皆守は、こんなに緋勇に刃向かうんだろう。
緋勇の只ならぬ力を目の当たりにしているこちらとしては、ヒヤヒヤして仕方がない。
だが、緋勇の方はまるで皆守を相手にしていないが。まあ、それが余計に皆守の癪に障るんだろうが。
「浮気?そんなことをしたら…」
緋勇は、ふわりと笑った。
まるで春の日差しを思わせる暖かな笑みで言い切る。
「ねじ切る」
…何を、とは聞けなかった。
とりあえず、この人の『情人』やってる人もまた、普通の神経ではやっていけないんだろうなぁ、と見もせぬ『情人』をちょっと尊敬してみた葉佩だった。
まあ、そんなことがありつつも、どうにか本日の予定のコースは無事終了して、彼らは部屋に帰っていった。
シャワーで汚れを落としてパジャマに着替えていると、緋勇が眼鏡を外して真剣な顔で葉佩を見つめた。
「まあ、そんなわけだから、俺は男と寝る術は知っている」
「は…はぁ…」
いきなりそんなことを言われても、とちょっと顔を赤くした葉佩だったが、緋勇の目はひたすら真面目であったため、茶化さずに素直に頷いた。
「だから…まあ、その、何だ。もし、お前がこの先、困ったら……」
言いかけて、緋勇は顔を顰めて口を噤んだ。
そして、軽く手を挙げて何かを制するような仕草をした。
「いや、何でもない。あまり先入観を植え付けるのは良くないな。忘れてくれ」
そう言って、さっさとベッドに入った緋勇に、葉佩はぼそりと呟いた。
「えーと…何を?」
ただ、沈黙に包まれたまま、夜は更けていくのだった。