気弱です




 
 取手は、昼休みを告げるチャイムと共に立ち上がり、教室を出た。そして、3−Cの前に行って壁際に立つ。
 同じく昼休みと共に出てきた生徒が、でかい体を縮こまらせてひっそり立っている姿にぎょっとしたように立ち止まるが、取手だと気づくとそのまま通り過ぎていった。

 「取手だよ、取手。また葉佩を口説きに来たんかな」
 「葉佩も気の毒に…あんな大男に迫られたらたまらないよな」

 こそこそと言い交わす声に、取手はさらに背中を丸めた。
 自分に、邪な感情は、一切無い。…と思う。
 葉佩は彼を闇から救い出してくれた一筋の光で、彼の宝物を取り返してくれた恩人だ。
 彼らが言うような、恋愛感情とは違うのだ。
 たぶん。
 自分の妄執とも言える姉への慕情が、そのまんま葉佩への慕情へとすり替わっている、と皆守に指摘されたが、それは否定しきれない。
 しかし、この感情は、確実に姉に対するものとは違う。
 彼を優しく包み込んでくれた、彼の最大の理解者だった姉は、ひたすらに彼の保護者だった。
 葉佩は、違う。
 彼のいびつな手を、気持ち悪がりもせずに包んでくれるけど、保護者ではない。
 むしろ、彼の方が保護者になった気分だ。
 人慣れしていない野良猫が、怯えながら彼の手にすり寄ってくるような、嬉しいような…ちょっと恥ずかしいような気分。
 皆守あたりに言わせたら、これは『傷を舐め合っている』状態なのだろう。
 けれど、それのどこが悪い?
 こんなにも、彼は満たされているのに。
 
 悪口は聞こえているだろうに、取手が何も反論しないのを見て、男子生徒の声が大きくなった。

 「気持ち悪いよな、あんな顔色悪いがに股野郎に、追い回されたら」
 「いかにもストーカーって感じだよな」

 まあ、そうなんだろうな、と彼は身動き一つせずに、心の中だけで、そっと溜息を吐いた。
 好きでこんな体格に産まれたわけじゃないけど、やっぱり時々悲しくなる。
 不釣り合いなほど長い腕に、蜘蛛のように細長い指。
 大きな体をなるべく小さく目立たないように、と願っていたら、すっかり猫背になってしまって、余計に長い腕がぶら下がって目立つようになってしまったし。
 まあ、その手の悪口は慣れてもいたし…反論するほどのエネルギーは、取手には無かったけれど。
 誰にも関わらないように、ひっそりと生きていくのが、取手にとってこれまでの最善の対処法だった。
 立ち向かえば…余計に激しく攻撃されるだけのこと。
 事実は事実として受け止めて、心の底に、そぅっとしまい込んでいく。
 
 表情すら変わらない取手に苛立ったのだろう、男子生徒はついに立ち止まって露骨に彼の方を向いて喋り始めた。
 
 「男同士で気持ち悪いったらありゃしねぇ」
 「葉佩も可哀想に。転校早々、変なのに目を付けられて」 

 やはり、彼のような者が葉佩の近くにいるのは、似合わないのだろうか。
 葉佩は、学校ではとても人好きのする人懐こい性格をしているし。

 「いや、それが案外、葉佩も喜んでるみたいだぞ」
 「げーっ、マジかよー。やっぱ、あれか?外国暮らしが長いと、ホモが多いってやつか?」
 「おホモだち〜てか」

 顔を見合わせて、げらげら笑った男子生徒は、ふいに首が締まって、ぐえ、と声を漏らした。
 慌てて首元に手をやったけれど、ぐいっと体が宙に浮いた。
 「…僕のことを、何と言っても構わない」
 藻掻きながら下を見た男子生徒は、昏い光をたたえて彼を睨んでいる取手と目が合って身震いした。
 「だけど…葉佩君のことを、悪く言うのは許さない」
 男子生徒の暴れた足が、取手の顎にヒットした。けれど、取手は微塵も揺るがず、ますます掴んだ襟元に力を込めた。
 「取手!離しやがれ!」
 もう一人が彼の腕にしがみついたが、それを一閃して払い落とし、そいつの襟も掴んで持ち上げた。
 さすがに周囲がざわめく。
 「先生を呼んで来い!」なんて声も聞こえる。
 だが、それが何だと言うのだ。
 こいつらは、葉佩を貶めようとした。
 それを許せるはずもない。

 「取手くん!」
 そんな中で、驚いたような、心配そうな声が耳に届いた。
 取手が慌てて振り返ると、葉佩が小走りに駆け寄って来ているところだった。後ろからはやる気のない態度でゆっくりと皆守も付いて来ている。
 「あ…葉佩、君…」
 どう言い訳しようか、と混乱した挙げ句に、取手はぼそぼそと続けた。
 「…こ、こんにちは…」
 「こんにちは、じゃないです!早く降ろして!」
 取手は葉佩の厳しい声に身を縮めて、両手を離した。
 どすっと落ちてきた生徒二人がずりずりと距離を取る。
 「駄目でしょう、取手くん!」
 葉佩に叱責されて、取手はますます背中を丸めた。
 「ご、ごめん…つい…」
 おどおどとした目で葉佩の顔を盗み見るように伺う取手の姿に、皆守は、あ〜あ、と面倒くさそうにあくびをしてから、葉佩の肩を叩いた。
 「まあ、待てよ、葉佩。取手が怒るなんざ、よっぽどの…」
 が、葉佩は聞いた様子もなく、体をぶるっと震わせて皆守の手を払いのけた。
 そして、取手の両手を取って、見上げる。
 「駄目でしょう、取手くん!取手くんの指は、ピアノ弾く大事な手です!そんなことして傷ついたらどうするですか!」

 「そっちかよ!」

 周囲の生徒が、見事なずっこけを披露する中、皆守だけがお約束のように突っ込んだ。
 しかし、それを聞いているのかいないのか、葉佩は取手の指を大事そうに撫でながら心底心配そうに言った。
 「大丈夫ですか?指、痛めてませんか?」
 「う…うん…大丈夫…」
 「良かったですー」
 天使の微笑、というのはこういうのを言うんだろうな、とぼんやりと葉佩の顔を見つめていた取手は、自分の指がまだ葉佩に握り締められているのに気づいて、頬を赤らめた。
 「あ、あの…葉佩君…指…」
 「どっか、痛いですか!?」
 「そうじゃ…なくて…へ、平気だから…」
 廊下で繰り広げられるソフトフォーカスかかりまくりの光景の横で、ずりずりと安全地帯まで逃げ延びた男子学生は、ようやく立ち上がって本格的に逃走の姿勢を取った。
 それをちらりと見て、葉佩がひんやりした声を発した。
 「取手くん。あの人たちが、何かしたですか?」
 「え…うん…違うんだ…その…」
 相変わらずぼそぼそ呟く取手に、嫌々ながら皆守が忠告した。
 「おい。こういう時は、はっきり言ってやれ。そうじゃなきゃ、また同じようなことが起きるんだぜ?いくら気弱ったって、言うべき時には…」
 
 同じようなことが起きる。
  =また葉佩君が貶められる。

 速攻でその方程式が組み立てられた取手は、長い腕をびしぃっと彼らに向けた。
 「お前たち!」
 それまでとは全く違った、自分たちの襟首を持ち上げた時の取手と同じような雰囲気に、男子生徒は竦み上がった。
 「もし、今度、葉佩君を悪く言ってみろ。…この窓から突き出すと思え!」
 大勢の生徒の前で、実に堂々とした態度である。
 その背後では、「うわぁ、俺のせいだったですかー」と葉佩が真っ赤な顔をしていた。
 男子生徒二人は、顔を見合わせた。
 頭を下げて、叫ぶ。
 「「すみませんでしたぁっ!」」
 そして、取手たちの顔も見ずに、猛然とラッシュで去っていった。
 「うわああああああん!本物だ〜!」
 「本物のホモだよ〜!朱堂より怖いよ〜〜!」
 そんな声が、ドップラー効果付きで残された。
 ホモだとからかう分には面白かったが、『本物』は怖いらしい。ある意味、とても日本人らしい反応だった。

 
 それを機に、三々五々散っていく生徒たちの中、取手と葉佩は向かい合ってもじもじと語り合っていた。
 「ごめなさい、俺のせいですか…」
 「ち、違うよ…僕が、いやだったから…君のこととなると、何だか、かーっとなっちゃって…」
 「ごめなさいですー……でも、嬉しいです……」
 「葉佩君…」
 「取手君…」
 頬を赤らめて俯いている二人を、背後から蹴飛ばしてぇ、と思いつつ、皆守は一応声をかけた。
 「おい。昼飯食いに行くんだろう?」
 その声に、はっと周りに気づいたように、二人が顔を上げた。
 「昼御飯…そ、そうなんだ…その…一緒に、食べてもいいかなって…聞きに来たんだけど…」
 ぼそりぼそりと呟いた取手が、そこまで言ってから、長い手を振った。
 「あ、その、迷惑なら良いんだけど」
 「め、迷惑なんかじゃないですー!俺も、取手くんと一緒に食べたいです」
 「そ、そ、そ、そう?…マミーズ…行こうか」
 「はいですー」
 そして、後ろを一顧だにせず二人並んで去っていくのを、呆然と見守った皆守は、アロマパイプをがりがりと囓りながら付いていった。
 「…何で、俺が置いていかれるんだ…?」
 そもそも、確か自分が葉佩と一緒にマミーズに行こうとしていたのではなかったか。
 これでは、どう見ても自分が邪魔者扱いでは。
 手を握って何やら小声でお喋りしながら歩いていく二人の後ろを間をおいて付いていく皆守は、しみじみと思った。

 取手鎌治:特記事項:気弱ですから、情熱的です、に変更しろよ、と。








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