ピアニストの恋
皆守は、眠い目を擦りながら、一枚のレポートを仕上げていた。
『ファントム』などというふざけた名を名乗る仮面の男についてである。
そいつは、今まで動かなかった執行委員をけしかけて一般生徒を粛正させ、生徒会の冷酷非道さを一般生徒に植え付けようとしている。
積極的に動くのは彼の性には合わなかったが、生徒会役員の中で、そいつを実際に目の当たりにしたのが彼のみとなると、無関係と投げ出すこともできない。
仕方がないので、出来る限りのデータをまとめているところだ。
幸い、夜毎に墓地を彷徨く同級生は、今夜は別の奴らを連れている。いわゆる<仲間>が増えてきたおかげで、彼が引っぱり出される機会も減ってきた。まあ、それはそれでやりにくいのだけど。
これを仕上げてしまえば、後は生徒会長様に一任して、彼はまた惰眠を貪る生活に戻れる。そう信じて、彼はせっせと打ち込んでいた。
とんとん。
控えめなノックの音がした。
彼の部屋を訪れるような<友人>は少ない。しかも、こんな風に遠慮がちに叩くような奴、となると一人しか思い浮かばなかった。
彼は速やかに文書を保存してワープロを終了させた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かった。
「何だ?何か用か?」
言いながら開けると。
予想通り、そこには彼の保健室仲間こと取手鎌治が立っていた。
「ん…ちょっと…相談したいことがあって…あの…いいかな」
ぼそぼそと呟いて、そっと彼を見て、また目を伏せる。
この気弱そうな友人は、葉佩のこととなるといきなり周囲が見えていないんではないか、というほどの情熱を見せるが、葉佩以外のことではやはり相変わらず控えめであった。
「俺にか?役に立つとは思えないんだが」
それでも一応、部屋に入れてやる。
唯一あるイスを勧めて、自分はベッドに座った。
「相談って…?」
言いかけて、皆守は、アロマパイプを取り落としかけた。
考えてみれば、聞くまでも無かったではないか。取手の相談など、葉佩以外の何だというのだ。
失敗したな…と思いつつも、まあ、一応聞いておいてやろう、と諦めた皆守に、取手はがばっと頭を上げた。
「九龍くんのことなんだけど」
ほら、来た、と皆守は予想通りの言葉に目を逸らせた。
「あ〜…九ちゃんが、何だって?」
「…どこから、話せば良いかな…皆守君は、この間、九龍くんと七瀬さんの精神が入れ替わったっていう話を聞いたかい?」
「まあ…聞いたけどな。全く、信じちゃいなかったが」
今でも信じられないが。真里野が七瀬にこてんぱんにやられた、というのを聞いて、ようやくちょっと信じてやろうか、と思ったくらいだ。
「え…?何故だい?九龍くんと会ったんじゃ…」
「普通、信じられねぇだろ、そんなこと」
「僕は、分かると思うよ。九龍くんのことなら、どんな姿だって、分かると思う」
いきなり自信満々に目を輝かせる取手に、皆守は、あ、そう、と気の無い相づちを打った。
「…九龍くんは、会いに来てくれなかったけどね…僕を頼りにしてくれたら良かったのに…九龍くんが、慣れない姿で一人で遺跡に入って苦労したかと思うと……!!」
あぁっ!と頭を抱える取手に、皆守は、膝に両肘を突いて脱力した体を支えつつ、一応慰めてみた。
「九ちゃんも九ちゃんの考えがあったんだろうさ」
「そうだね…七瀬さんの姿で僕に会いたくなかったって言ってたよ」
その時のことを思い出して、取手は、ふふふ、と笑った。
中身は葉佩だというのに、外見上は取手と七瀬が会っていることになる。それが悔しかったのだ、と真っ赤な顔で白状した葉佩の可愛かったこと。
「あぁ…九龍くんは、どうして、あんなに可愛いのかなぁ…」
ぶーっと吹き出しかけて、皆守は慌ててアロマパイプを捕まえた。
甘かった、と自分の判断に後悔する。
取手の相談など、葉佩のこと以外にありえようはずがない。そして、その中身は、のろけか根拠のない嫉妬か、そのくらいしか無いではないか。
放っておくと、そのまま延々と葉佩が如何に可愛いか、を語り続けそうな取手を封じるべく、皆守は一歩踏み込むことにした。
「で?俺に相談ってのは、何だ?」
宙を見つめながら頬を赤らめて語っていた取手の顔が、それを聞いていきなり暗くなった。
「それなんだけど」
ふぅっと重苦しい溜息まで付いてくる。
「それでね…七瀬さんの体で真里野くんを倒したんだって。それから、切腹を止めさせたら…」
「あぁ、真里野が七瀬に惚れたってんだろ?」
己の自信を打ち砕いた女に惚れるなんざ、理解の外だ、と皆守は思った。まあ、保健室のカウンセラーあたりなら、心理学的には矛盾しないどころか理論的に説明できる、と言いそうな状況だが。
「いいじゃないか。真里野が九ちゃんに惚れたって言うなら、困る…いや、俺は少しも困らないが、お前は困るだろうけどな」
「そこだよ」
取手は、あぁ、を長い指で髪を掻き回した。
「今…九龍くんは、七瀬さんと真里野くんを連れて<墓>に入ってるんだ」
「へぇ」
気の無い相づちを打ってから、改めてその意味を考えた。
葉佩の戦い方と七瀬の戦い方、両方を真里野に見られたら、確実にばれるだろう。いや、事情は真里野に説明したらしいということは、元々隠す気も無いのだろうから『ばれる』という表現は当たらないのだろうが。
「そんなに真里野に信じて欲しかったのか?九ちゃんは」
もし自分が葉佩の立場なら。面倒くさい説明をするのは面倒だが(当たり前だ)、女を身代わりに寄越して自分は寮にいたんだろう、などと言われるのは確かにむかつく。
「九龍くんはね…七瀬さんと真里野くんの仲を取り持ちたいらしいよ…」
はう、と取手は溜息を吐いた。
「あぁ、九龍くん…皆の幸せを願う天使のような心は素敵だと思うけど…」
皆守はアロマにむせそうになりながら、辛うじて耐えた。
どの面さらして、18歳の男…しかも、知り合いの顔にマシンガンを淡々と連射するような奴を『天使』などと表現するのか。
取手には何が見えているのか、宙を見つめる顔はほんわかと緩んでいた。
「九龍くんの純粋な心では、真里野くんが七瀬さん本人に惚れるという結果しか考えられないみたいなんだよ。…そういうところが、放っておけなくて、可愛いなと思うんだけど…」
「へーへー」
純粋かどうかはともかく、あの人慣れしていない同級生が、1+1=2くらいの単純な考えで、そういう風に思いこんだ、という可能性については、皆守も否定できなかった。
実際には、人の心なんてそんな単純なものじゃない、ひょっとしたら真里野は七瀬じゃなく葉佩に惚れるかも知れないし、逆にいきなり、だましたと言って憎むようになるかも知れないし…。
で、皆守は、ようやくこの保健室仲間が何を心配してここに来たのかは、理解したような気がした。
「で?何を俺に相談したいって?」
「皆守くんは、どう思う?」
「……何が」
「真里野くんは、九龍くんのことを好きになってしまうだろうか…」
自分で自分の言葉に傷ついたような顔で、取手は俯いた。長い腕もだらりと垂れて床に付きそうだ。
「あぁ、好きになるに決まってるよね…あんなに可愛い九龍くんを好きにならないわけがないんだ…」
「…いや、可愛いっつっても、あれは男だし…」
「真里野くんは真面目そうだけど、思いこんだら一直線!みたいなところがあるし、本当は好きになった相手が九龍くんだったって気づいたら…!」
「…いや、その言葉はそっくりお前に返ると思うが」
「あぁ…どうしよう…!真里野くんが九龍くんを狙ったりしたら…!」
「…いや、どうもならないと思うがな」
「九龍くんは、ちょっと鈍いところもあるから、絶対他の男の下心に気が付かないだろうし!」
「…そんなタマかよ、あいつが…」
「<墓>の中で、周りに誰もいないときに真里野くんに襲われたりしたら……!」
「…賭けてもいいが、その時には食神の魂でずんばらりんだ」
自分で自分の言葉にヒートアップしたらしい取手が、勢い良く立ち上がり、狭い部屋の中をうろうろする。まるで冬眠前のクマだ。
「あぁ…九龍くん…どうして、僕を連れていってくれなかったんだろう…」
ふぁ〜あ。
思わずあくびが出た。
時計は1時を指している。
「…で、結局何を相談したいんだって?」
「え…?あ、あぁ…」
取手は、立ち止まって、真剣な顔で皆守に訴えた。
「僕は、どうしたらいいと思う?」
「はぁ?」
「こっそり<墓>に付いていったら、やっぱり九龍くんに嫌われるかな…でも、二人切りにさせるのは、どうしても心配だし…」
取手の頭からは、七瀬の存在はきれいさっぱり抜け落ちているらしい。
「九龍くんのことを信じなきゃって思うんだけど…でも、もし真里野くんが<Pーっ!>とか<B−っ!>とかしたりしたら…と思うと、居ても立ってもいられなくって…!」
「…お前、意外とむっつりスケベだな」
「僕がスケベだとか、童貞だとかは、この際関係ないんだよ」
「…まあ、俺も知りたくも無いが」
「気を紛らわせるためにここに来たのは良いけど、全然紛れるどころか、かえって心配になってきたし…!」
「…いい加減、帰れ」
「あぁ…九龍くん…!」
「あのな」
皆守は、気持ちを落ち着かせようと、ラベンダーの香りを肺一杯に吸った。
「建設的な意見を出してやる。……そんなに心配なら<墓>まで見に行け。そろそろ上がってくる時間だろうぜ」
言われて、取手は腕時計を確認した。
「あぁ、確かにそうだね。ちょうどいい時刻だ」
案外けろっとした物言いに、皆守はイヤな予感がしつつも聞いた。
「…おい…ひょっとして、お前、ここには時間潰しに来やがったのか?」
「一人で部屋で悶々しているより、誰かに話した方が気が紛れるかと思って」
「………」
「じゃ、僕は九龍くん、迎えに行くから。お休み、皆守くん。明日は遅刻しないようにね」
「………出てけーーーーーっっ!!」
せっかくの、遺跡に付き合わない夜。
ゆっくり眠れるはずだったのを邪魔されて、皆守はついに爆発した。
が、取手はこたえる様子も無く、平然と柔らかな微笑をこぼしてドアに向かった。
「あぁ…やっと九龍くんに会える…!」
そりゃもう幸せそうな呟きに、皆守の脳に、いっそ『ファントムは取手だ』、と報告書に書いてやろうかと黒い考えが浮かんでしまった。見るからに別人だが。
さて、そうして睡眠時間を削られた結果として、翌日昼頃、重役出席した皆守は、葉佩を呼び出して、懇々と説得したのだった。
「いいから、今度から、いつでも取手を連れて行け。俺の睡眠時間のためにも!」
それから皆守の睡眠時間が確保できたかというと……まあ、それは別の話である。