失恋 3


 


 朝、目覚めて彼の様子を窺うが、まだ寝ているようだったので、まずは自分のトイレと洗面を済ませた。
 帰ってくると彼が不機嫌そうに「トイレ」と叫んだので、僕は慌てて尿器をベッド柵から取り上げた。
 何て言うか…こんな形で、彼のものに触る日が来るとは思いもしなかった。一般論としては、こういう下(しも)の世話は嫌がられるんだろうけど、僕は彼が相手なら便の処理も尿器の洗浄も全く平気だった。
 「…君は、イヤじゃないのかい?…僕なんかに、触られて…」
 濡れティッシュでお尻を拭い、パンツを引き上げながら呟くと、彼は顔を顰めて吐き捨てるように言った。
 「看護士どもに入れ替わり立ち替わり処理されるよりマシだ」
 まあ…そういう気持ちも分かるけど。美人な人が多いし。
 ずきり、と痛んだ胸を無視して、僕はしっかりと手を洗った。
 朝食からは僕のものも出てきた。たぶん、彼が頼んでくれたんだと思う。後で払わないと。
 彼の食事を済ませて、自分のパンをもそもそ食べていると、丸々と太った眼鏡の医師がやってきた。
 僕の顔をちらりと見て、
 「おはよう。お友達かね?」
 とても流暢な日本語に驚いてから、慌てて頭を下げる。
 「…はい…おはようございます、取手鎌治と言います」
 「わざわざ日本から来たのかね?それはそれは」
 歓迎の意を示すように両手を広げてから、眼鏡の医師は彼の脇に立った。
 「さて、具合はどうかね?」
 「良い」
 「では、点滴は終了にしておこう。さて、包帯を外して貰おうか」
 僕は彼らと逆サイドに行って、彼の寝衣の肩スナップを外した。
 看護士が手早く包帯を外す。
 胸から脇にかけて、ぎざぎざに皮膚がひきつれて縫合されていたが、出血は無いようだった。
 「肋骨骨折5本に挫傷。しかし、肺や内臓に傷は無いので、治癒は早いだろうね。もう傷もくっついているようだし、包帯ももういいだろう」
 ロゼッタって…まあ彼を見ていれば分かってはいたけど、治癒が早いのが普通なんだろうか。もっとちゃんと治るまで包帯をしておけばいいのに…と僕は思うが、医師の指示に逆らえるほどの知識は無いので黙っておいた。
 「さて、後は足だな。…ギブスは、明日外すことにしよう」
 「え〜、もう外しても良さそうなのに」
 「良いじゃないか。世話をしてくれる友人がいるのなら、焦ることは無い」
 ちっと彼が舌打ちして、僕のせいだ、と言うように睨んだ。
 「……ごめん……」
 「ははは、君のせいじゃあ無い。いくら彼の治癒能力が優れていても靱帯を縫合したのだし、骨折もあるのだから、最低5日は待たないと。では、また明日」
 看護士が点滴を抜き取って、医師と一緒に出ていった。
 僕は彼の肌に、そっと寝衣を着せかけた。
 「…あの…直接触って…痛くない?」
 「強く押さえたら痛いだろうがな」
 ズボンも綺麗に整えて、布団を被せる。
 丸イスに座ってぼんやりと彼を見ていると、どうも髪が乱れている気がしたので、自分の洗面道具から櫛を出してきて彼の前髪を梳いた。後頭部以外の髪を整えて抜けた髪を屑箱に入れていると、彼がぶっきらぼうに言った。
 「お茶」
 「…えーと…あ、ここだ。…はい」
 吸い飲みに入れたお茶を差し出すと、少し吸って口を離した。
 またしばらく沈黙が続く。
 僕は彼の顔を見ていれば退屈なんてしないけれど、彼はどうだろう。体自体は元気なのだったら、じっとしているのは苦痛だろうと思う。
 雑誌やテレビでもあれば良いんだろうけど…あ、テレビはあるのか。
 「…えっと…見るのなら、テレビを点けるけど」
 「いらね…あ、ニュースくらいはチェックしておくか」
 テレビの上に置かれたリモコンを操作して、画面に背広の男がいて右下に文字が出るというたぶんはニュースだと思われる番組を映した。僕にはさっぱり内容が分からないけれど。
 彼が首を傾けてそれを見ているので、僕は周囲を見回した。
 「…えっと…しばらく用事が無いようなら、席を外しても良いかい?…洗濯してきたいんだけど…」
 「あぁん?頼めばクリーニングシステムがあるぞ。俺はそうしてる。どうせお前、洗濯室の場所も注意書きも読めねぇんだろうが。大人しくしとけ」
 「…あ…う、うん…」
 他に何も用事が思いつかなくて、僕はテレビを見ている彼の横顔をずっと見ていた。
 「…もう消していいぞ」
 言われた時にひどく驚いてしまったのは、たぶんうとうとしてしまっていたのだろう。慌ててテレビを消して、リモコンを置いた。
 「カーテン閉めてくれ。少し寝る。お前も寝たらどうだ?」
 「…分かった…」
 カーテンを引いて薄暗くなった室内で、彼の布団を整え、畳んであった自分の簡易ベッドを引き出した。横になると、すぐに睡魔が襲ってくる。
 彼が用のあるときには起きなきゃいけないんだけど…まあ声を掛けて貰えば起きるだろう、と期待して、僕は目を閉じた。
 
 起きてみると、僅かに頭が重かった。偏頭痛の前触れかも知れない、といつもの頭痛止めを飲んでおく。
 何となくまだ寝ぼけたような頭のままだったので、後の時間はずっと彼の顔を見て過ごした。
 「お前な、好きに過ごして良いんだが。せっかくエジプト来てんだ、観光でもして来いよ」
 「…僕は、観光に来たんじゃないから…あ、それとも、観光客相手に悪さをする人間を釣って、生気を吸って来た方がいいかい?…傷の治りが早くなるけど…」
 「止めとけ。日本じゃねぇんだ。いきなり銃をぶっ放される可能性もあるんだぜ?」
 「…今更、だと思うな…それに、僕だってまるっきりの素人じゃないから…まずは腕から使えなくするよ。それから<足止め>して…2,3人吸えば、君の傷くらい治せるかも」
 「止めとけって、面倒くせぇ」
 「…こっそり、病院内の元気そうな人から、少しずつ集めても良いけど」
 「追い出されるわ!」
 「…冗談だよ」
 「お前のは冗談に聞こえねぇ」
 仏頂面にくすくす笑うと、彼が盛大に眉を顰めて僕を睨んだ。
 「念を押しておくぞ。常人離れしたことは、するんじゃねぇ」
 「…了解」
 そんな会話を挟んで、結局ずっと彼の顔を見て一日を過ごした。
 「好きに過ごせっつってんのに」
 「好きに過ごしてるよ…君の顔を見ているのが、一番楽しいから」
 「人を珍獣みたいに言うんじゃねぇ」
 「じゃあ、一番幸せ」
 「同じじゃねぇか!」
 夕食の頃には、ベッドの上半身を上げて、彼が自分で食べることが出来るようになっていた。相変わらず驚異の治癒能力だ。
 それと共に、僕が手伝う場面は少なくなっていく。
 明日、ギブスが外れたら、どうなるんだろう。僕はもう用無しなんだろうか。
 卒業式には間に合うかもしれないけど…寂しいな。
 簡易ベッドに丸くなって、僕は溜息を吐いた。
 …そういえば…僕の<責任>って、何なのか、はっきり聞いてなかった。
 彼が怪我をした原因も聞いていないけれど、僕が何か関係しているんだろうか。

 彼のところにきて3日目。
 朝食後にまたあの眼鏡の医師がやってきて、丸い電気のこぎりを取り出したので僕は心底びっくりした。
 ここはロゼッタの付属病院で、彼も平気な顔をして足を出しているので大丈夫なんだろうけど…万が一間違って彼の足を斬りつけたらどうするんだろう、と手に汗が滲む。
 ちゅいーん、と耳障りな音と共に、ギブスが切断されていく。
 「…い…痛くない?…大丈夫?」
 はらはらしてそう言うと、彼が呆れたような目で見上げた。
 「お前な、ギブス切るのが痛いわけねぇだろうが……って、いてぇ!」
 「はっはっは、すまないね、手が滑った」
 「はっちゃん!?」
 「いや、痛いっつっても切れてはねぇよ、摩擦熱で熱いっつーか…だから、ホルスの目を出すのは止めろ、と」
 つい。
 眼鏡の医師に向けた手を何とか降ろして、僕は彼の手を握った。
 彼は眉を上げたが、振り払いはしなかった。
 がこん、と音がして、ギブスが割れる。
 「さて、後はお友達に拭いて貰いなさい。それから、午後にリハビリに呼ばれると思うから」
 「うえー」
 「希望があれば、痛み止めを処方するがね?」
 「いらねぇよ」
 「その意気だ。では」
 何だか繊維のようなものがくっついている彼の足を新聞紙の上に置いて、僕はタオルを濡らしてきた。
 丁寧に拭っていくと、確かに膝の横に生々しい縫合痕があった。
 筋張った下腿は、少し痩せているかもしれない。
 これからリハビリをして元に戻すんだろうが…痛み止め、と言っていた。
 「あの…リハビリって…痛いのかい?」
 「まあな。くっついた靱帯をばりばり剥がすからな。そりゃもう…ま、しょうがねぇけど」
 「…やっぱり、生気吸って来て、良い?」
 「止めとけっつってんだろうが」
 でも、彼が痛いのを耐えるなんて、とてもじゃないが、僕の方が居ても立ってもいられない。
 僕が何となく手を握ったり開いたりしていると、看護士さんが来て松葉杖を置いていった。
 車椅子の方がいいんじゃないかな、と思ったが、彼は顔を輝かせてそれに手を伸ばした。
 「よっし、ちょっとこれでトイレに行ってくらぁ」
 「…僕も、行くよ…」
 彼は足だけじゃなく肋骨も折れているのだから、松葉杖を脇の下で支えるのも痛そうだ。
 思った通り、脇の下に抱えてベッドから足を付いた途端、彼の顔にびりっと緊張が走った。
 それでも行こうとするので、僕はスリッパを足に履かせた。
 「…痛かったら、言ってね。…その時点で抱きかかえるから」
 「いや、それもイヤだが」
 彼の口調は苦笑混じりだったが、僕は思わず黙り込んだ。
 そう、彼は仕方なく僕に世話をさせているだけで、本当は僕なんかに触れられたくは無いのだろう。
 胸の重苦しさを誤魔化すために大きく深呼吸したが、つかえた塊はなかなか飲み込めそうに無かった。
 彼が一歩ずつ進む先に立って、部屋の扉を引いた。
 それから廊下に出て、障害物が無いように…というか邪魔者を追い払うように先導する。
 そうして、彼は無事トイレに着き、片足立って用を足した。
 帰りは、行きよりもスムースだった。
 そうして部屋に帰りかけて…僕はふと立ち止まった。
 どこかから、ピアノの音がする気がする。
 調子外れだけれど…本物のピアノの音。
 彼も立ち止まって、胡乱げに僕の顔を見上げた。
 「どうかしたか?」
 「…え…あ…うん、ごめん…ピアノの音が聞こえて…」
 「ピアノ?ここにか?」
 眉を顰めて首を傾げるところを見ると、どうやら病院内にピアノが置いてあるわけでは無いらしい。
 それに、彼には聞こえないようなので、僕は一つ息を吐いてから、彼を促した。
 「…僕の、気のせいかも。…さ、部屋に戻ろう…いきなり足に負担をかけるのは、良くないかも…」
 彼が不機嫌そうな顔で、一歩踏み出す。
 が、いきなり大きな声で何かを言ったので、僕はびっくりして彼の顔を見た。
 廊下の少し離れたところから、看護士さんが足早にこちらに向かってくる。
 彼は口早に…いや僕はアラビア語を理解できないので、元々こういう言語なのかも知れないけど…看護士さんに何か言って、彼女はそれに返事した。
 看護士さんはにこにこしているので、そう悪い話題じゃ無いんだろうけど…何だろう。
 慈悲深く微笑んでいる美人を見ていると、また胸が重苦しくなったので、僕は横を向いてそっと深呼吸した。
 看護士さんは僕にも微笑みかけてからすたすたと立ち去った。
 彼は僕を見上げて、ぶっきらぼうに言った。
 「5階だってさ。小児科病棟にピアノが置いてあるらしい」
 「え…あ…あ、ありがとう…」
 そうして、ようやく僕は、彼がピアノの場所を看護士さんに聞いてくれたのだと知った。
 「あの…それじゃあ、後でちょっと…行って来ても…いいかな」
 「止めとけ。お前、ピアノを弾かせてくれって言うことも…っつーか、そもそも行き先表示も読めねぇだろうが」
 まあ、確かに。
 でも、場所だけなら、音を頼りに行けるんだけど…音がしないと、無理だけど。
 もともと、僕はここに彼の手伝いに来ているんだし、ピアノを弾きに来ているのではなく、そもそもあるとは思っていなかったので、ピアノの存在なんて無かったものだと思えば…。
 けれど、一度ピアノがあると認識してしまったせいで、心がざわつく。
 指が衰える、とかじゃなくて、純粋に…弾きたい。
 彼が、こつんこつんと歩き始めた。
 僕はその横に並んで歩き、部屋の直前で追い越して、扉を先に開いた。
 けれど、彼はそのまま歩いて自室を通り過ぎた。
 「…はっちゃん?」
 彼が無言で歩いていくので、僕も扉を閉めて追いすがった。
 何だろう、歩行練習するつもりなんだろうか。それとも、何か買いに行くとか…。
 僕がちらちらと顔を窺っているのは分かっているだろうけど、彼は不機嫌そうな顔のまま真正面を向いていた。
 そして、彼は廊下の角を曲がり、ボタンを押した。
 エレベーターが上がってくる。
 △表示とか、階数表示は同じようなものなんだな、と思いながら彼に付いて行くと、彼がエレベーターの壁にもたれて大きく息を吐いたので、僕は慌てて腕を伸ばした。
 「大丈夫?疲れた?それとも、どこか痛む?」
 彼はじろりと僕を睨んだけれど、答える前にエレベーターが止まった。
 彼が降りる間、エレベーターの扉を支えておく。耳には、子供の泣き声が、どこからともなく聞こえてきていた。
 …子供?
 それじゃあ、ここは…。
 彼がまたゆっくりゆっくり松葉杖を響かせながら歩いていく。
 可愛らしいエプロンを付けた看護士さんが声をかけ、彼が答えると、にっこり笑って指を差した。
 それに釣られて指の先を見ると…そこには黒光りするピアノがあった。
 子供が遊ぶスペースなんだろう、玩具が散らばり、ピアノの上にもごちゃごちゃと積まれていたが、それでも確かにピアノだ。
 引き寄せられるように2,3歩ふらふらと近づいてから、彼を置いてきぼりにしたことに気づいて、慌てて戻る。
 「…良いから、さっさと弾けよ。弾きたいんだろうが」
 彼が叱りつけるように言ったので、僕はまたピアノを向いた。
 そのスペースには、今は子供が一人、母親と一緒にいるが、ピアノには興味がなさそうだ。なら、僕が弾いても構わないだろうか。
 僕はおそるおそる近づいて、ピアノに触れた。
 指紋で曇っているそれを撫でるように前に回り、椅子に腰掛け、高さを調節する。
 蓋を開いて念のため下から順に確かめたら、いくつか音がしなかったり調子外れになっていたりはしているけど、大部分は大丈夫だった。
 彼が空いていたイスに腰掛けるのを確認して、僕は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
 もう4日、ピアノに触れていないのは確かなので、最初は簡単な曲から。
 それで、何となくこのピアノの癖を掴み、今度は姉さんの贈り物を。
 最初は、彼の様子をちらちらと見ていたけれど、だんだんピアノしか見えなくなって指先を踊らせる。
 彼がいる。
 彼が、ピアノを聞いてくれている。
 それだけで、勝手に指が音を紡ぎ出していく。
 そうして夢中で弾いていると。
 曲が終わった途端に、拍手が起きたのでびっくりして周囲を見回した。
 …いつの間にか、大勢に囲まれていた。
 顔が紅潮するのが分かる。
 ここは病院なのに…病気で苦しい人もいるだろうに、全力で弾いてしまった。
 おろおろと立ち上がると、ブーイングが湧いた。
 「…もっと弾けってさ」
 彼が言うので、僕はおそるおそる椅子にもう一度腰を下ろした。
 幾つかの単語が飛び交う。
 彼の顔を見ると、肩をすくめた。
 「リクエスト。…こっちの子供向け番組のテーマなんて知ってるわけねぇのに」
 「そ…そうだね…ごめん…」
 どうしようか、と背中を丸めていると、ぱたぱたと小さい足音がした。
 幼稚園くらいの女の子が僕のそばにやってきて、歌い出す。
 ちょっと調子外れなそれに合わせるように、子供たちが歌い出した。
 楽しそうな曲だけど、繰り返しが多くて簡単。確かに子供向けだろう。
 「…えっと…こんな感じかな…」
 最初は主旋律だけ。
 子供たちが歌っているので、間違ってはないんだろう。
 だんだん、伴奏を付け、ちょっとアレンジしたり。
 僕が突飛な旋律を付け加える度、子供たちが楽しそうに笑う。
 トライアングルやカスタネットの音が加わり、大合唱になったところで。
 エレベーターからがらがらと配膳車がやってきた。
 看護士さんがぱんぱんと手を鳴らして叫ぶ。
 ブーイングが起きたが、子供たちはある者は素直に、ある者は僕に手を振り、ある者は泣き叫びながら自分の部屋に戻っていった。
 看護士さんと話していた彼が、振り向いた。
 「ありがとうだってよ。いい気分転換になっただろうって。…でもって、俺らも部屋に帰って、飯を食えってよ」
 「…あ…うん、そうだね…すみません、うるさくして…」
 僕はぺこぺこと頭を下げ、ピアノをしまった。
 また…弾きに来られるだろうか。
 部屋から覗いている子供にばいばいと手を振り、僕は彼と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
 「お前、幼稚園の先生にもなれるんじゃねぇの?」
 「…そんな風に、考えたことは無かったけれど…」
 音楽は万国共通の言語だ。
 アラビア語が分からなくても、音楽で語りかけることは出来る。子供たちなら、素直にそれを聞き取ってくれる。
 「…どうだろうね…子供なら、僕の姿を見ても、嫌がらずに面白がるかもね…」
 大人が、僕の姿を見て、一瞬ぎょっとしたような顔をして、何もなかったかのように取り繕うのとは正反対に、むしろ面白がってつつきに来そうだ。
 「お前って、相変わらず…」
 彼にしては珍しく、最後がもそもそと口の中に消えた。
 怒ったようにエレベーターから自分の部屋に向かう。
 部屋には、もう二人分の食事がテーブルに載っていた。
 「…えっと…足は投げ出す?それとも降ろす方がいい?」
 彼が黙ってベッドに足を延ばしたので、僕はベッドの上半身を起こし、テーブルを彼の前に動かした。
 「いただきます」
 彼の顔を見ながら、自分の食事をとる。
 彼は、怒った顔のままで口を動かしている。
 そういえば、ここに来てから、ずっと彼は不機嫌そうだ。
 でも、他の人にはにこやかだから…僕に怒っているだけだろう。
 不手際が多いし…そもそも、僕の存在自体が、彼を苛立たせている気がする。
 もうじき、彼は元気になって、僕はお役ごめんだ。
 そうしたら、彼とは会えなくなる。
 そもそも、僕は彼に嫌われているのだし…彼が怪我でもしない限りは…。
 僕は慌てて首を振る。
 何だか、彼が怪我をしたら良いのに、とでも言うような気持ちがかすめたのだ。彼は危険な職業に就いているのだから、怪我と言うと本当に危険な怪我である可能性があるのに、そんなことを考えるだけでも本当になりそうで…。
 それでも。
 どこかで生きていてくれさえいればそれでいい、とは、とても思えそうに無かった。
 僕には手の届かないところで、彼が誰かと笑い合っているところを想像して七転八倒しそうだ。
 彼が怪我をするのは嫌だし、元気になって欲しいと思う。
 けれど同時に、彼が元気になってどこかに行ってしまうのは辛い。
 ひどい矛盾だが…仕方が無い。僕は彼が好きで、彼は僕を嫌っている。矛盾する方が当たり前だ。
 せめて、今のひとときを幸運だと思わなければ、と顔を上げれば、彼の顔がふいっと横を向いた。
 どうやら、僕に見られるのもイヤらしい。
 それでも、はっきりと止めろとは言われなかったので、食器を片づけてから僕はずっと彼の顔を見ていた。
 じくじくと疼く胸を持て余していると、突然天井から声が降ってきた。
 彼がそれに返事をして、松葉杖を抱えて床に降りる。
 「えっと…リハビリ?」
 「呼び出された。お前は好きにしていいぞ」
 「…うん…」
 好きに、と言われれば、僕は彼に付いていくことを選ぶ。
 松葉杖でかつんかつん歩いていく彼の後ろに付いていけば、彼が振り返って顎をしゃくった。
 「エレベーターはあっちだぞ。ピアノ弾きに行かねぇのかよ」
 「…子供は、お昼寝の時間だと思うし…」
 たぶん。
 それに、彼がいなければ、僕の音は死んでいる。
 彼はもう何も言わずにかつんかつんと歩いていった。
 大きい解放された部屋に行くと、Tシャツ1枚の筋肉質な男性が、真っ白な歯を煌めかせて手招きした。
 彼は盛大に眉を顰めつつそっちに向かう。
 Tシャツの男性が、僕を見て何か言った。…何となく、アラビア語の響きじゃ無かったんだけど…と思っていたらいきなり日本語で挨拶された。
 「こんにちは!」
 「…あ…こ、こんにちは…」
 「僕の日本語も上手だろ?」
 「ロゼッタにいると、いろんな言語が堪能になるんだよな…っつーか、話せねぇとやってけねぇっつーか」
 「そうそう。悪口を言われても分からないと困るしな。はっはー!さて、おいたのお時間でしゅよー」
 「…止めれ」
 溜息を吐いて、彼は横になった。
 ズボンがめくり上げられて、リハビリトレーナーらしきTシャツの男性が傷を検分する。
 「…うん、いけそうだ。さ、友達の前で、みっともない姿は見せられないよな。それとも、悲鳴を上げて助けを求めるかい?」
 「んな訳あるか」
 「…そ、そんなに…痛い…のかい?…僕がいない方がいいなら…」
 僕にみっともない姿は見られたくないだろうし…でも、どうかな、僕は彼に嫌われたくないから、惨めな姿を見られたくないけど、彼は僕に嫌われても良いのだから平気なのかも…。
 彼が返事をしなかったので、僕はトレーナーと逆側に座った。
 「さ、いくぞー」
 トレーナーが楽しそうに言って、彼の足を持ち上げ…膝を曲げた。
 「…いっ!」
 彼の小さな悲鳴に混じって、確かにバリバリとでもいうような音がした。
 固定していたせいで癒着した組織を剥がすとか何とか言ってたけど…こんなに音が出るほど激しくするものだとは思わなかった。
 彼の握りしめた手をさすっていると、彼が僕の腕を両手で掴んだ。
 「そーれ、もういっかいー」
 僕の右腕が、ぎゅうっと握り締められる。それは好きにさせておいて、僕は彼の首に巻かれたタオルを引いて、彼の額に浮かんだ汗を拭った。
 「僕が、わざと彼をいじめていると思うかーい?」
 ぎゅっぎゅっと彼の膝を曲げながら、トレーナーはまた歯を煌めかせた。
 ひどく楽しそうなので、少しそう思わないでもないけれど。
 「…いえ、パリパリという音が、だんだん小さくなってきていますから…これが必要な処置だと分かっています」
 「はっはー!必要なのは確かだけどねー。でも、麻酔をかけて痛み無しにすることも出来るんだけどねー」
 僕はもう一度、彼の額を拭った。
 痛みを無くして処置、か。
 でも、彼がそれを選ばないのも、分かる気がした。
 意外と不器用というか、真っ正面から体当たりするって言うか…時々、見てる方が驚くほど無駄に雄々しいと言うか。…いや、無駄じゃないけど。
 「…はっちゃんは…頑張り屋さんだから」
 ぽつりと呟くと、トレーナーが吹き出した。
 「頑張り屋さんか!子供みたいだな!よーし、頑張り屋さん、もうちょっとの辛抱だ!」
 彼がじろりと僕を見上げたけれど、すぐに顔が歪んだ。
 真っ赤になって僕の腕に爪を立て、痛みに耐えている顔は…意識するとまずい気がしたので、僕は目を逸らして彼の膝に集中した。
 「よーし、こんなもんか!帰ってからも、少しずつ曲げてみてくれ。じゃ、また明日!」
 トレーナーがそう言ったので、僕は彼の肩を抱いて上半身を起こした。
 背中が汗びっしょりになっている。帰ったら着替えさせないと。
 さて、松葉杖…と思ったら、トレーナーの人が持っていたので手を出すと、大げさにウィンクされた。
 「ロゼッタはスパルタ方式なんだ。…ってのは冗談で、治癒速度がアブノーマルだから、もういらないだろ。お友達が支えてくれるんならね」
 「…え…」
 朝にギブスを外して、ようやく松葉杖になって。
 ついさっき膝を曲げられるようになったばかりなのに、もう松葉杖を取り上げられるのか…ロゼッタって…。
 僕がちょっと呆然としていると、彼が僕の腕を掴んで立ち上がった。
 片足立ってから、そぅっと左足を床に着ける。
 「補助具はいるかーい?」
 「何とかなるだろ」
 「うーん、リハビリし甲斐が無いなー。じゃ、お友達と仲良くなー」
 「あ、お世話になりました」
 僕が頭を下げると、トレーナーは笑って僕の手を取り握手した。
 「いやいやいやいや。彼にも友達がいると分かって嬉しいよ。病院では、エッチは出来ないけど、近くに使えるホテルならあるから、紹介しようか?」
 …………。
 一瞬、前半と後半の繋がりが分からなかった。
 病院ではなくホテルに泊まれと言われているのか、と曖昧に頷きかけたところで、いきなりトレーナーが目の前からいなくなったので目を丸くする。
 残像からするに…彼が跳び蹴りをしたらしい。
 「ちょっ…はっちゃん、足!」
 どうやら手術した方の足で蹴ったらしく右足でケンケンしている彼の体を思わず抱き上げる。
 「…無茶、しないで…部屋に帰ったら、冷やした方がいいかな…」
 膝裏を抱え上げたので、明らかに左右で熱が違うのに気づき、僕は腕を回して彼の左膝を撫でた。
 「…僕のことは、無視かーい?」
 首を90度傾けたトレーナーがゆっくりと立ち上がる。
 「いやぁ、良い蹴りだったなー。もうすっかり大丈夫だね。しっかし、照れ隠しにもほどがあるな。これがジャパニーズツンデレってやつ?」
 「訳の分からないことを抜かすな!」
 彼が怒鳴ったので、耳がキンキンした。
 「まーたまたぁ。普段、他の人間には当たり障り無くにこやかな癖に、彼氏にだけツンツンしてるんだもんなぁ。いっやぁ、意外と分かり易く可愛いところあったんだなーと、お兄さん、感動!」
 歯を煌めかせながら大げさに両手を広げるトレーナーの人に、腕の中から殺気が溢れた。
 僕の腕をすり抜けて何かしでかしそうな気がしたので、僕は腕に力を込めて、頭を下げた。
 「お世話になりました。それじゃあ、また、リハビリの時間にお願いします」
 「取手!離せ!」
 とりあえず無視して、リハビリ部屋の入り口に歩いていくと、背後から笑い声が聞こえた。
 彼が一段と暴れたが、しっかり抱え直して廊下に出る。
 何人かすれ違った看護士さんに声をかけられて、彼も叫び返してじたばたしたけれど、どうせ僕には理解できなかったので、部屋に帰るまでそのままの格好だった。
 彼をベッドにそっと降ろしたら、彼が真っ赤になって怒っているのに気づいた。
 「取手!お前なぁ!」
 洗面所に向かって、洗面器に冷たい水を張る。
 綺麗なタオルを浸して絞り、彼のズボンをめくり上げて膝に乗せた。
 「…蹴りは、ね。縦方向に圧力がかかっただろうから…心配だな…」
 骨が折れていたのでは無いから、大丈夫かもしれないけど…靱帯が切れたということは膝の内部への損傷もあったんだろうから、負担になっていないか気にかかる。
 僕に医学的な知識は無いけれど、バスケをしていると、膝や腰を痛めて休部したり退部したりする仲間が多かったから、ある程度のことは知っている。特に膝の関節の骨のクッションになっている半月板という組織は一度痛んだら復活しないと聞いている。彼のような職業の人にとっては、激しい動きが出来なくなるのは困るだろうから、ちゃんと治して欲しいと思う。
 タオルが生暖かくなったので、また洗面器に浸して絞った。
 僕もベッドに横座りになり、彼の左足を膝に抱えた。
 彼は無言で睨んでいるが、僕は彼の膝にタオルを乗せてから、ゆっくりゆっくり膝を曲げた。
 「…痛かったら、言って」
 「こんな動きで痛いわけねぇだろ!」
 ゆっくりゆっくり膝を曲げ、またゆっくりゆっくり伸ばしていく。
 時折タオルを替えながら、僕は彼の膝のリハビリに集中した。
 彼は口の中でぶつぶつ文句は言っていたが、最後には諦めたのか何も言わずに天井を睨んでいた。
 30分ほど続けてから、そういえば彼の服を替えるんだったと思いだし、膝から足を降ろした。
 廊下に出て、おしぼりを所定の場所から貰ってくる。
 「…着替えようか。…そういえば、いつになったらシャワーの許可が出るんだい?」
 彼は返事をせずふて腐れているようだったので、僕は着替えを手に取った。
 こっちでは、日本とは違って、毎日シャワーをしたりはしないのかもしれない。
 彼が身動きしなかったので、僕は彼の寝衣を勝手にはぎ取った。
 とりあえず胸を拭いてから、背中をどうしよう、と考える。
 腕を引っ張って起こしたら痛いだろうか。自分で俯せになってくれれば良いんだけど、どうやら僕のことは無視する事に決めているようなので駄目かも知れない。
 悩んでから、僕は彼の背中に腕を回し、抱きかかえるように上半身を起こした。
 少し暴れたけれど、首筋から背中を見下ろして拭いていく。
 あまり背中には傷がない。敵に真っ向から向かっていく彼らしい。
 形の良い肩胛骨を撫でて、乾いているのを確認してから新しい服を着せた。
 それから、部屋の鍵をかけて、カーテンをして下半身も拭いた。
 彼はもう動けるのだから、自分で出来る気もしたけれど、彼が怒ったように口を引き結んでいたので、何も言わずに僕がしてしまうことにした。
 上も下も綺麗にして、洗面器も洗ってから、僕はベッドの脇の丸イスに座った。
 「…夕食まで、1時間くらいあるから…少し、休むかい?」
 彼は何も答えなかったので、僕は彼に布団を掛けた。
 眠くは無いらしく、ずっと怒った顔で天井を睨み続ける彼を、僕もまたずっと見つめ続けていた。
 彼はもう、かなり自由になっている。僕の手助けなんて、いらなくなる。
 僕はいつ、彼に追い返されるのだろう。
 






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