失恋 2





 色々あったけれど。
 僕は、指定の住所に辿り着いた。
 僕が思い描いていたエジプトというイメージからはかけ離れた、現代的な病院。
 最初は何の建物か分からなかったけれど、サラーさんに教えて貰って、心臓が飛び跳ねた。
 病院に、すぐ来い、なんて…あまり良いことが起きているとは思えない。
 でも、どう見てもこの住所はここだし…思い切って入ってみると、日本と同じく受付のような場所があったのでそちらに向かう。
 が、僕の腕をサラーさんが掴んで引き留めた。何だろう、と思ってみると、任せておけ、というように自分を親指で差したので、僕は一歩下がった。
 サラーさんがやりとりし、手招きしたので僕はその後ろを付いていく。
 エレベーターで上がっていって、病室が並んでいるのは、世界共通の光景なんだろうか。
 番号を確認しながらサラーさんは歩いていき、声を上げてある部屋の扉をノックした。
 中から返った声に、僕の足が止まった。
 彼の声だ。たとえ、異国の言葉を喋っていても分かる、彼の声だ。
 会えるのだ、という喜びと、同時に今まで緊張のあまり忘れていた、最後に別れた時のあの侮蔑の表情を思い出してしまって、僕は凍り付いたように動けなくなった。
 けれど、サラーさんはさっさと部屋に入る。
 サラーさんの声と、彼の声がして…笑っている様子に、そんなにひどい状況では無いんだろう、と判断する。
 いっそ、このまま帰ろうか、と弱気な心が囁いたが、それでは彼が何のために僕を呼びだしたのか分からなくなる。
 だから、僕は震える足を叱咤して、部屋へと入っていった。
 白い部屋の奥のベッドに寝ている彼を見つける。
 点滴がぶら下がり、ギブスを巻かれた足も吊り下げられている。
 彼が、こちらに気づいて振り向いた。
 眉を僅かに上げ、それから…不愉快そうに顔を顰めた。
 自分で呼び出したくせに、まるでいてはならない者を見つけたような表情。
 「取手…。なるほど、じいさんの耳に入るのがやけに早いな、と思ったら、お前からトト経由か」
 「…うん…肥後くんが住所を調べてくれて…トトくんはサラーさんに連絡してくれて…」
 「じいさんは道案内、と。ま、本職だな。ちゃんと給金払ってやれよ?」
 言われて、僕は慌てて財布を探った。
 そういえば、僕は<友達>に甘えてここまで来たが、相手は<友達の父>でもあるが、社会人でもあって…仕事を休んで僕に付き合ってくれてるんだ、と、彼に言われて初めて気づく。
 やっぱり、僕は<学生>で、社会人の考え方は出来てないんだな、と自己嫌悪に陥りつつ財布を取り出すと、サラーさんが呆れたように彼に何か言ったら、彼はすっとぼけた声で何か答えた。
 サラーさんは僕の手を握り、首を横に振る。
 「お前、トト、友達。儂、友達。金、友達、違う」
 …あぁ、本当に、僕は…周りの人の好意によって生きているんだ、としみじみ思う。
 サラーさんは、また二言三言彼と話してから、僕の肩を叩いて出ていった。
 …帰ったら、トトくん経由で、お礼の手紙を書こう…。
 自分が、ちっぽけな存在だが、周囲の暖かい心で助かっているんだ、というような感動に浸りつつ見送ってから。
 ふと、自分が彼と二人きりでいることに気づいた。
 ぎくしゃくと振り返り、彼の近くに行く。
 「…あ…えっと…来た…けど」
 「おう。自分で呼んでおいて何だが、マジで来るとは思わんかった」
 呆れたような声に、僕は身を縮めた。
 本気に取っちゃ駄目だったんだろうか。
 何を馬鹿なことを、と軽く返信するべきだったんだろうか。
 …僕がまだ…こんなにも、彼のことが好きなのだと…ばれるのは拙かったんだろうか。
 「ま、受験は終わってるなら、暇だろうがな」
 「…卒業式は、まだだったんだけどね…」
 愚痴をこぼすつもりはないけれど、暇だから卒業旅行がてら来た、なんて思われたくないので、僕は一応反論した。
 けれど、彼は、ふぅん、と気のない返事を返しただけだった。
 それっきり、黙ってじろじろと僕の顔を見るので、僕は所在なく視線をうろうろさせた。
 点滴の管は、左腕に入っているようだった。病院のものらしい素っ気ない寝衣の首元から、胸に巻かれた包帯が見える。
 「…大怪我、だったのかい?」
 おそるおそる聞いた僕に、不愉快そうに眉を顰めて、彼は顎をしゃくった。
 「まだいるつもりなら、イス持ってきて座ったらどうだ?」
 どういう意味だろう、まだいるって…僕はさっさと帰った方が良いんだろうか。
 けれど、どうせ帰りのチケットなんて取ってないし…というか帰りのことなんて考えても無かった、と今更気づいて血圧が下がった気がしたけど…僕は小さい丸イスを見つけてそれに腰掛けた。
 あまり近づいて彼に嫌われたくないので、ベッドからは少し離しておく。
 枕ががさりと音を立てた。
 彼はどうやら顔をこちらに向けようとしたようだが…どこか痛むのか、顰め面になってまた上の方を向いた。
 「…痛むのかい?」
 「分かってんなら、そんなとこ座るな。見辛ぇだろうが」
 「あ…ご、ごめん…」
 離れるとその分顔を傾けないといけなくなる…あれ、別に目を合わせる必要も無いんだけど…彼は人の目を見て話をするのが習慣なのかも知れない。僕は、苦手だけれど。
 僕は丸イスを引きずってベッドのすぐ近くにまで寄った。足を開いて大腿の上に拳を乗せ、彼の顔を上から覗き込む。
 離れていたのは、たった2ヶ月。
 そんなに変わったりはするはずがない。
 けれど、僕は、初めて見る人のように彼の顔をまじまじと見た。
 愛らしい、とか、綺麗、とか、そんな顔じゃ無い。浅黒くて、どちらかというと皮肉っぽい表情を浮かべることが多い、普通の<男>の顔だ。
 どうして、こんなに惹かれるんだろう、と思う。
 彼にとっては、迷惑以外の何物でもないことは分かっているのに…それでも、やっぱり僕は彼が好きだと思う。
 もう二度と会えないだろうと思っていたのだから、こうして二人きりで会うことが出来るのは、とても幸運なことなのだろう。
 けれど、同時に、癒えかけていた傷を抉って、血を吹き出させる行為にも似ていた。
 「…どうして…僕を、呼んだんだい?」
 僕の声は掠れていたけれど、室内が静かだったので彼には聞き取れたようだった。
 彼の唇が、馬鹿にするように歪んだ。
 「責任」
 ………。
 待っていても、続きは言ってくれない。
 責任って…何だろう。
 僕が、彼に対して責任を負っている?
 あるいは、彼が僕に?…何故?
 僕がひどく落ち込んでいることを、誰か…皆守くんあたり…が彼に伝えて、彼が責任をとって、僕を慰めようとしている…とか?
 …彼に、責任はないし…たぶん、彼自身もそう思っているはずだ。
 なのに、僕をわざわざ呼んだってことは…誰かに強く言われたか…その誰か、が、彼にとって重要な人間であるか、だけれど…。
 「…その…皆守くんとか…学園の、他の誰かとは…連絡を、取っていた…のかい?」
 「相変わらず、お前の喋り方は、いらいらすんなぁ」
 僕は激しく瞬きした。
 確かに僕の喋り方は途切れ途切れではっきりしないだろうけど…かつて<友達>だった頃は、彼は辛抱強く僕の言うことを聞いてくれていたから、苛立たせているとは思いもしなかった。
 「…ごめん」
 たぶん、彼は、もっとはきはきした喋り方の人間を好んでいるのだろう。当時、僕に指摘しなかったのは、ただ彼が優しかっただけで。
 僕がむしろ嫌悪すべき人間で、気を使う必要がないと気づいたので、はっきり告げたのだろう。
 彼は鬱陶しそうに僕をちらりと見てから、天井を向いた。
 「誰にも、連絡なんざしてねぇよ。学生ん時のアドレスなんざ、とっくに破棄してっし」
 「あ…そ、そう…なんだ…」
 僕はしどろもどろに返事した。はっきり喋ろうと思っても、今更なかなか直りそうにないし…彼と話をするのは、僕にとってはひどく神経を使う作業なのだ。
 またしばし沈黙が落ちて。
 「あ…その…それじゃあ……責任……って?」
 「あぁ?」
 不満そうな、面倒臭そうな声だった。
 何で一言で理解できないんだ、と言っているような調子に、僕は背中を丸めた。
 「…ごめん…」
 「責任、取れ、つってんだ」
 ………はい?
 「ま、さすがに受験がまだだってんなら、許しといてやろうと思ったがな。もう終わってんなら、責任取って、俺の世話しろよな」
 「それは無論…入学式までにいったん帰って手続き出来れば、後は自由に過ごせるけど…」
 彼の治癒速度は常人離れしているので、4月までには治るだろうけど…いや、僕は彼の怪我の程度をまだ知らないけれど…でも、僕が世話係?
 怪我人の世話なんて、したことないけど…確かに、身動きとれない状態に見えるから、助けて上げたいのは山々だけど…でも…。
 「その…僕、で…いいのかい?」
 恋愛感情で好きだ、と告げた、僕で。
 彼は嫌そうに片眉を上げたが、何も言わなかった。
 他に適任がいない、とかなんだろうけど…まあ、確かに、僕なら、かなり無理を言っても、受け入れるだろうし…そもそも、他の誰が、すぐ来い、の一言でエジプトまで来るのか。
 僕は、彼にとっては、自由に操れる駒なんだろうなぁ、と思いつつ、ちらりと足下を見る。
 ボストンバッグの中には、着替えが3回分くらい。下着は1週間分あるけど。
 「えーと…僕は、ここに泊まって良いのかな…ホテルとか、探さなきゃならないのかな…」
 全く理解できないアラビア語圏内で、ホテルを探す。…厳しいな…お金も足りるかどうか…最悪、合法的に野宿が出来ればいいんだけど…。
 彼は僕をちらりと見てから、横柄に顎をしゃくった。
 「枕元にナースコールがあるから、押せ」
 白い管に繋がったそれのボタンを押す。
 すると天井から異国の言葉が降ってきた。
 それと彼が会話する。
 ぷつっと途切れても、彼は何も言ってくれない。
 どうなったんだろう、と思いつつもじっと待っていると、扉がノックされた。
 彼が返事をすると、看護士さんらしき女性が2人入ってくる。
 一人がにこやかに、僕にお湯の入った洗面器とタオルを渡した。
 「…あ…えっと…これで、ひょっとして…」
 僕に顔を洗えって言うんじゃないだろうな、やっぱり…患者の体を拭けってことだろうけど…僕が、彼の体を拭く…問題があるような気が…。
 もう一人の女性は僕を見て大きく腕を広げて肩をすくめた。
 彼に笑いながら何か言って、彼も肩を小さくすくめた。
 首を振りながら出ていく彼女たちを見送って、僕は立ち上がって洗面器をイスの上に置いた。
 「…あの…彼女たちは、何って?」
 「付き添い用の簡易折り畳みベッドの貸し出しがあるんだが、お前の体格を見て、無理そうねってんで、俺は、別に構わないって答えたんだが」
 「折り畳みベッド…」
 たぶん、普通のベッドよりも小さい、つまり僕の体格には小さすぎるものなのだろう。
 「…うん、一緒にいられるなら、何でもいいよ」
 ここに泊めて貰えるだけ、ありがたいんだし。
 彼は鼻を鳴らしてから、僕を見上げた。
 「それ、冷えないうちに、体拭け」
 「…誰の?」
 「俺以外に誰がいるんだ」
 「…だね…それは、そうなんだけど…布団、退けてもいいかい?」
 「そのままでどうやって拭くんだ」
 「…そうだね…」
 僕は、おそるおそる彼の上布団を退けた。
 足に負荷がかかってはいけないので、足下ではなく向こう側に布団を折り畳んで置く。
 「…えーと…服…脱がせて…いいのかい?」
 「だーかーらー。そのまま拭けるってんならやってみろってんだ。いちいち、うぜぇな」
 「…ご、ごめん…」
 彼が言うのも、もっともだ。
 もっともだけど…僕が躊躇うのも、もっともだと思って欲しい。
 僕は、まだ彼が好きで…恋愛感情で好きで、彼が欲しくて。
 彼の裸を見るなんて…のは、もう風呂場であるにしても…彼の服を脱がせるなんてシチュエーション、嬉し…もとい、辛すぎるんだけど…。
 それでも、お湯がだんだん冷えていってるのは分かっているので、僕は思いきって、彼の寝衣に手をかけた。
 病院のものらしく、肩から袖までのスナップボタンを外すと、腕を通さずに脱げるらしい。
 けれど、現れた体は、胸から腹部まで包帯に覆われていて、そんなに拭くような場所は無かった。
 とりあえずタオルを絞って顔を拭く。
 それから、首、肩…考えてから、両方の腕を拭いていく。点滴の管には触らないように丁寧に。
 温かなお湯だが、拭くとすぐに冷えていく。
 「…寒くない?」
 「いや」
 「包帯は外さないんだよね?」
 「それは、また明日処置しに来る」
 「そう…痛かったら、言ってね」
 僕は彼の首に手を回して、少し持ち上げた。彼は少し息を詰めたが、僕が首の後ろから背中の上の方を拭いて終わるまで、痛いとは言わなかった。
 「着替えはあるのかい?」
 「足下に置いていかなかったか?」
 言われて探すと、折り畳まれた同じ物が見つかったので、それを開いてから彼の背中の下に敷いた。前も被せてボタンを留めて。
 とりあえず、上半身、終了、と。
 さて、次は、下半身…なんだけど。
 足はギブスで良いとして…問題は…一番、綺麗に拭いて欲しいだろう部位が…いくら看護士さんとはいえ女性に見て欲しく無い場所だろうから、拭いて欲しいだろうけど、最大の問題は、女性よりも僕の方が危険だという点だ。
 とりあえずギブスで無い方の右足を拭いていると、またノックの音がした。
 入ってきたのは、さっきと同じ看護士さんで、僕ににっこり笑ってから、がらがらと引いてきたものを見せる。
 たぶん、これが簡易ベッドなんだろう。
 「あ…ありがとうございます…えっと、サンキュー」
 頭を下げると、にこにこ笑ってそれと毛布を部屋の隅に置いて、僕に手を振って出ていった。
 それを見送って、僕は扉の鍵をかけた。
 窓のカーテンも閉めておいて、一つ深呼吸する。
 「…それじゃ…下着の替えは?」
 「その棚の中」
 言われたところを見ると、新品らしい下着が束ねて置いてあった。
 「…誰かが、買ってきてくれたのかい?」
 「一応、ここはロゼッタの関係だからな」
 付属病院、とかなんだろうか。
 それじゃあ、とりあえず敵に襲われる心配はしなくていいんだろうけど…あれ?それじゃあ、面倒を見てくれる人は、いっぱいいるんじゃないだろうか。
 まあ、ロゼッタ所属ってことは、それぞれトレジャーハンターに勤しんでいるんだろうけど。
 僕は下着を取ってきて、タオルをお湯に浸して絞った。
 「それじゃあ…下着を脱がせるよ……ギブスに引っかかりそうだけど。…とりあえず、拭いてから、替えるから」
 幸いトランクス型だったのでギブスは通るだろうけど…僕は拳を握ってから、思い切って彼の下着をずらした。
 「…えーと…その…誰かに、拭いて貰ってた?」
 「気づいてるかどうか知らねぇが。腕は動くんで、そこは自分でやってた」
 ………。
 あ…言われてみれば…左腕は点滴に繋がれてるとはいえ、右腕は自由なような…。
 「が、結構痛いんでな。拭いてくれ」
 「………はい………」
 僕は周囲を拭ってから。
 中心にある、それをそっと持ち上げた。
 他人のものなんて触ったことないけれど、まあ何とかなるだろう。
 タオルで包んでから少し擦る。ぴく、とそれが動いたので、刺激するのもまずいと気づいて、僕は慌てて離した。
 「え…えーと…その、後ろも拭くから…腰、持ち上がるかい?」
 「痛い」
 「…そうだよね…横向き…も辛いだろうし…ごめん、少しだけ、我慢して」
 僕はなるべく彼の体がまっすぐになるように腰から背中に腕を回して、わずかに持ち上げた。
 隙間からタオルを差し込んで、お尻を拭いて…緊張して閉じている肉をかき分けるようにして、出来るだけその隠れた部分も拭いておく。
 そっと体を降ろし、タオルを洗面器に放り込む。
 太股に引っかかっていたトランクスをずらしていってギブスから抜き取り、新しい下着を履かせていく。
 「…痛くは無い?」
 「我慢できる程度」
 下着を履かせて、ズボンも着せて…部屋に付いている洗面所で手を洗って、ようやく僕は息を吐いた。
 「何だ、このくらいで疲れたのか?」
 「…緊張したんだよ…」
 「そんなにやわじゃねぇよ」
 「君が痛いのはイヤだからね…」
 彼はまた眉を顰めた。
 ふぅ、と僕は息を吐いてから、カーテンを開け、扉の鍵を開けた。
 丸イスに座って彼の顔を見下ろすと、彼がちらりと目を動かしたので釣られて見ると、時計があった。
 「16:45。夕方だね」
 「メシは17時半に来るから、それの介助と後始末もお前の仕事だ。朝食、昼食、夕食の介助及び、体を拭くのと…ぶっちゃけ、下の世話も必要だな。トイレに行けねぇし。それから、細々した用事もある」
 「…うん。何かを買いに行け、と言われると、あんまり役に立たないかもしれないけど…それ以外は、頑張るよ」
 アラビア語の店の名前も分からなければ、聞くこともできない。自分の身を守ることだけは出来るけど…むしろ警察に捕まらないか、とか、悪魔扱いされないか、ということの方が心配だ。
 彼は僕をちらっと見てから、僅かに唇を歪めた。
 「その他の時間は好きにして貰って構わねぇが」
 アラビア語圏で僕に何をしろ、と。
 雑誌やテレビも分からないだろうし、ピアノも無いし…作曲…そもそも五線譜も持ってきてないし。
 まあ、彼を眺めていられるのだ。退屈はしないだろう。
 
 その日の夕食は、彼の分しか出てこなかったが、看護士さんがパンを差し入れしてくれた。お金を払おうとしたけど、彼が「奢りだって言ってる」と言ったので、何度も頭を下げるだけになった。
 彼の口に少しずつ食事を運んで食べさせて、食器を片づけて、歯磨きさせて…。
 体を起こすのは痛いということなので、彼が見やすい位置にHANTを支えたり、充電したり。
 ティッシュを取ったり捨てたりといった、看護士さんを呼ぶまでもないような細かいことが、体が不自由だと不便なんだと知った。
 確かに、誰かが手伝ってくれたら良いと思う気持ちは分かる。
 それも、遠慮しなくて良いような相手。
 普通の友達とか仕事仲間程度だったら、気楽に使えないと思う。まあ、僕は性格もあるけど…それでも、夜中にトイレに行きたい、とか、ちょっとだけ枕をずらす、とかのために他人を使うのは遠慮してしまう。
 遠慮せずに言えるとしたら…家族なら大丈夫か。
 どんな我が儘を言っても、最終的には許してもらえると信じている相手。確実に、自分を愛している相手になら…気楽に我が儘を言えると思う。
 彼が僕と同じように考えるかどうかは分からないけれど…でも、もしそうだとしたら…僕は便利な相手だろう。
 すぐ来いの一言で日本からエジプトまでやってくるほど間抜けな人間。
 彼の我が儘を嫌がるどころか、むしろ喜んで聞く便利な人間。
 そして…嫌われても、何の痛痒もない人間。
 確かに、僕は最適な人間だろう。
 分かっていても、僕を選んでくれたことを喜んでいるのだから。
 小さなベッドで丸くなりながら、僕は彼の呼吸を聞いていた。
 幸せだなぁ、と思う。
 たとえ、彼に嫌悪されていても、こうやって共にいられるのだから。
 






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