失恋 1
それは、僕にとって、<初恋>というものだった。
未だかつて、こんな風に誰かを好きになったことは無かったし、欲しいと思ったことも無かった。
僕は彼の一挙一動に過敏になり、その意味を量り、自分が好意を持たれている可能性について期待したり絶望したり、と忙しい毎日を送っていた。
たぶん、他人からは、僕は酷く情緒不安定な人間に見えていたことだろう。
もっとも、そんな風に冷静に判断できるようになったのは、最近のことだけれど。
僕が恋した相手は、たったの3ヶ月でいなくなってしまった。
もう、最後なんだろう、と僕は思った。
離れたら、もう二度と会う機会が無いのは分かっていた。
僕は悩んで悩んで悩み抜いて…結局、自分の気持ちを告げることに決めた。
何も言わなければ、<友人>と言う立場は守れたかもしれないが…どうせ二度と会えないのなら、それが<友人>であれ<他人>であれ同じように思えた。
そのくらいなら、万が一の可能性、つまり、本当に万が一の確率ではあるがもしも仮に…<恋人>になれるのなら、また会えるのでは無いか、という淡い期待を抱いたのだ。
おそらく、僕は舞い上がっていたのだろうし、否定はしていても微かな希望と自惚れを持っていたのだろう。
彼は最後の日に、律儀にバディたちに挨拶をして回っているようだったので、僕はうまくすり抜けて自分の順番が最後になるようにした。
そうして、彼は僕の部屋に来た。
これで一生会えないなんて思ってもいない、と言うようなあっさりした態度で、別れを告げた。
対して僕は、彼に自分の気持ちを告げた。
何度も頭の中で練習していたにも関わらず、つっかえつっかえで、支離滅裂になったそれを聞き終えた彼は、眉を顰めてしばらく考えてから、僕の顔を見上げた。
「えー、それは、つまり、だ。お前は、俺のことが好き…恋愛感情で好き、と。そう言ってるのか?」
「…う…うん…ご、ごめん…でも、どうしても、伝えたくて…」
言っているそばから、後悔が足下から這い上がり体温を奪っていった。
どう見ても、彼の顔は不愉快そうだったからだ。
僕の声が溶けるように消えて、数秒後。
「……気色わりぃ……」
言葉自体よりも、彼の顔に露骨に浮かんだ嫌悪の表情に、僕はずたずたに切り裂かれた。
そうして。
僕の遅かった初恋は、終わりを告げた。
彼が去ってからの僕は、腑抜け状態だった。
僕が彼に告白したことを知っている人間はいなかったので、僕がただ彼がいないという事実だけでこんなに全てを失ったような状態になっていると思われているようだったが…実際は、違う。
何人かは、今生の別れじゃあるまいし、という慰め方をしたが、僕はただ首を振った。
僕は、彼に嫌われたのだ。蛇蠍のように嫌悪されたのだ…いや、彼は蛇もサソリも嫌ってはいなかったので、この表現は適切ではないが。
僕はもう二度と、彼に会えないのだ。
こんな状態で、大学受験が出来たことは、僥倖であったとしか言いようがない。
私立には合格し、公立はまだ結果待ちだが…ピアノを聞いた技官は、見事に
「…失恋でもしたのかね?」
と言い当てた。僕は僕の音を客観的に判断は出来ないのだけれど、もしも仮に、失恋したせいで音に深みが出ている、とでも言うのならこの経験も何かの役に立ったと言えるのだが。
…もっとも、音に深みが出るのと、彼を手に入れるのと、どちらかを選べと言われたら、僕は彼を取るに違いないけれど。
そうして、卒業式を間近に控えたある日。
滅多に鳴ることのない僕の携帯が、メール受信を告げた。
何だろう、と開くと
『件名:緊急要返信
本文:受験終了や否や
送信者:96』
どきん、と心臓が跳ねた。
この簡素すぎるメールと、送信者に僕は心当たりがある。
彼が、何故メールを?
受験終了や否や…僕の受験が終わったかどうかを気にしてくれているのか…嫌われたのに、そんな優しく接して貰えるとは思えないし、他のバディたちから、彼からメールが来たという話は聞いていないし…そもそも、そんな用件で要返信、しかも緊急とは何だろう。
僕はいつものように悩んだけれど、それはほんの3秒ほどだった。
彼は「緊急」と言っているのだ。
なら、悩んでいる暇は無い。
『件名:Re:緊急要返信
本文:受験は終了、結果は未発表
送信者:取手鎌治』
とりあえず用件のみ返事して、それから改めて悩む。
緊急、という言葉は苦手だ。
何か恐ろしいことが彼の身に起こっているのではないかと不安に苛まれる。
彼が単にせっかちだ、という可能性もあるが…でも、彼は仕事においては気が長いというか…息を顰めて冷静に待っていられる鉄の心臓を持っていたし…ならば、今、危険な目に遭っているのだろうか?けれど、もしも本当に危険な目に遭っているのなら、僕の受験がどうこうなんて関係が無いはずだし…。
そうやって僕が携帯を見つめながら考えていると、またメール受信音が鳴った。
慌てて開くと、また彼からだった。
『件名:OK
本文:すぐ来い』
……………。
すぐ、来い。
…どこに?
と、思ったら、数行下がって、アルファベットで綴られた単語があった。
見ても、さっぱり理解できないが、少なくとも日本で無いことだけは分かる。
僕は狼狽えて室内を見回した。
まず、英語の辞書。
…載っていない。
それから、1年生の時に使ったはずの地図帳を探したが、すでに実家に送った後だった。
僕は時計を見た。
すでに、深夜1時を回っている。
僕の常識に照らし合わせれば、こんな時刻に他人を訪ねるなんて問題外だったが…けれど、彼は「すぐ来い」と言っているのだ。
ならば、可及的速やかに到達するしか無い。
彼が僕を試しているのか、とか、悪質な悪戯だとか、色々と可能性はあるが…それでも、彼が望むのなら僕はそれに応えたい。
ひょっとしたら、かつてあったように、屋上に呼び出された挙げ句に「コーラ買ってきて」なんて使い走りをさせられる…それも外国まで行って…という可能性もあり、しかもそれを「馬っ鹿みてぇ」なんて笑われるという可能性もあるのだが…それでも、僕はまだ…失恋をしてもまだ、彼に恋をしているのだ。
他人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて死んじまえ…違った、恋は盲目。
僕は思いきって携帯を掴み、部屋を出ていった。
向かう先は、肥後くんの部屋。
さして仲がよいわけではない。ただ、彼のバディであった、という繋がりしか無い。
けれど、僕は彼の部屋をノックした。
2回ノックすると、足音がした。
「はいでしゅ〜…あれれ、取手くんでしゅ。どうしたんでしゅか?」
彼は普通に服を着ていた。隙間から見える室内は僅かに明滅しているので、テレビでも見ていたのか、と少し安堵した。
「…ごめん、こんな夜遅くに。…調べて欲しいことがあって…」
「僕で役に立てましゅかね〜」
肥後くんは、あっさりと僕を部屋に入れた。
中に入って、明かりはテレビではなくパソコンの画面であったと気づく。僕にはよく分からないが、CGのキャラクターが勝手に動いていた。
「ちょっと待って下しゃいね〜。ログオフしましゅ」
彼のまるぽちゃの指が器用に動き、画面は消え、お菓子いっぱいの写真が映し出された。
「それで、何を調べたいんでしゅか?」
まるで昼間に軽いことを頼まれたかのような態度に心底感謝しつつ、僕は携帯の画面を見せた。
「…はっちゃんが…ここに来いって言ってるんだけど…どこか分からなくて…」
「えーと…うーん、ちょっとぐぐってみましゅね」
ぐぐるって何だろう、方言だろうか、と思いつつ、肥後くんの肩越しに画面を見ていると、くるりと振り向いた肥後くんがポテトチップスの袋を差し出した。
「どうぞでしゅ」
「…あ、ありがとう…」
すでに中身が1/3ほどになっているそれを受け取るが、とても食べる気にはならなくて、がさりと袋の口を握るに留まった。
肥後くんはいろいろをクリックしていたけれど、ふいにぶーんという機械音がしたので僕はびくっと目を上げた。
「地図をプリントアウトしてましゅ。エジプトでしゅよ」
「え…エジプト!?」
ま、まあ、思い出してみれば、彼はこの学園に来る前はエジプトにいたとか言っていたから…不思議ではないんだろうけど…でもエジプト…エジプトに来いって?
「取手くんは、パスポートは持ってましゅか?」
「う、うん、持ってるけど…」
「じゃあ、早いでしゅね。行くつもりなら、飛行機を調べましゅ」
「…うん、ごめん、お願いしてもいいかな…」
「ちょっと待ってて下しゃいね」
肥後くんはちゃかちゃかと調べだした。
その間、僕は手元にある地図を見た。
エジプト。ピラミッドとかスフィンクスとか…遺跡とか。それしか、知らない。
…英語…通じるのかな…そもそも、その英語も怪しいけど…。
「えーと…一番早いのだと、明日の朝に東京発、インド経由、エジプト着でしゅね。空席はありましゅよ。取りましゅか?」
僕が悩んだのは、0.5秒。
「うん、お願いするよ」
「…はい、取りましゅ。プリントアウトしたのを空港に持っていって下しゃいね」
「あ…お金…」
「いいでしゅ。今度、帰ってきてから払って貰いましゅ。とりあえず、僕の口座から出しておいたでしゅが…現金は、取手くんが今から必要でしゅよ」
そんな迷惑をかけては…と思ったけれど、確かに今から外国に飛び立つのに現金は必要だ。銀行に寄る暇があるかどうか分からないし…だから、僕は甘えておいた。
更に詳しく調べてくれる、という肥後くんに礼を言っておいて、僕は部屋を出た。
荷造りよりもまず、生徒会長に言っておかねばならないからだ。
深夜にも関わらず、屋敷に行くと千貫さんが出迎えてくれて、会長も会ってくれた。
僕が、学園を出ていく許可と、それから卒業式に間に合わないかもしれない許可を申し出ると、会長は呆れたように額を押さえたが、結局は許可してくれた。
「ご両親には、お前から伝えておけ。行方不明扱いにはさせるな」
そんな忠告を貰って、僕は屋敷を後にした。
それから自室に戻って着替えや洗面道具をボストンバッグに詰め、現金をあるだけかき集めたりカードを確認したりしていると、扉がノックされた。
「はい」
開けると、肥後くんとトトくんがいた。
…あ、そうか、トトくんはエジプト人だったっけ。
「これが、詳しい経路でしゅ」
「ホントに、取手さん、この飛行機で行きますか?」
…不吉、とか言い出すんじゃないだろうな…。
「到着予定時刻、父に知らせておきます。カルカッタ空港、時間適当だから、確実違いますが。父の顔、分かりますか?」
「…うん、分かると思う。…ありがとう、本当に、何て言っていいか…」
「大丈夫、我が王の友達は、僕の友達。友達は助けるもの」
「頑張って下しゃいね」
主には彼の友人の輪のおかげだろうが、僕にも手助けしてくれる友達がいることに感動しつつ、僕は荷造りを続けた。
そして、夜が明ける前。
僕はこっそり門を抜けて、空港へと向かったのだった。