風と水と 15





 地面が揺れた。
 腰を落としてバランスを取っていた僕も、ついに手を突く。
 そうして。
 墓から、白い光が天へと迸った。
 一瞬、<神>の出現の前触れか、と思った。
 けれど、その光は…何となく、<古代の神>、つまり<怨念>に近いものではなく、本当に<神>、清浄な神々しさを感じさせるものだった。
 吉か、凶か。
 体温が上がり、瞳孔が小さくなる。
 自分の体が、戦闘態勢になったのを感じつつ、僕はその天まで貫く白い柱を見つめていた。
 その奔流を…何かが一緒に上っていっている。
 何だろう、と目を細めたけれど、太陽を真正面から見ているかのように、見ようと思えば思うほどぼやけて何かは分からなかった。
 徐々に光が薄れていく。
 ふと下に目を向けると、侵入路…一つの墓石の隙間に過ぎなかった<遺跡>への道が、すっかり崩れて広い範囲で下へと通じてしまったことに気づいた。
 あれだけの土の石が下へと落下したのならば…下にいる人間は、生き埋めになった可能性もある。
 僕は慌ててその巨大な穴の縁に駆け寄った。
 いっそ飛び込もうか、と思っていたら…ひゅぅっと風を切る音を感じた。
 ワイヤーガン発射音。
 僕はその意味を理解する前に、咄嗟に飛び退いた。
 先ほどまで僕がいた空間を銛のような先端が走り、墓石に食い込んだ。
 何度か、ぎっぎっと確かめるような音がして。
 「じゃあ、レディーファーストで、八千穂と白岐からなー」
 暢気な声がした。
 「…はっちゃん!」
 叫んで、僕は穴から乗り出す。
 「とりでー!」
 はっちゃんが、ゴーグルを額に押し上げて、僕に手を振った。
 …怪我してる。
 いっぱい、血が出ている。
 でも…生きている。
 本当は、飛び込んででも抱きしめたいのに、僕は腰が抜けたように座り込んでしまった。
 全身の力が抜ける。
 「…はっちゃん」
 しゅるり、と音がして、白岐さんと八千穂さんが上がってきた。
 執行委員と役員も、みんな集まってきている。
 みんなが手を貸して、二人を安全な地面に立たせて…双樹さんと神鳳くんはそれよりも会長の安否が気になるらしく穴から身を乗り出して下を見ていた。どうやら発見したらしく、双樹さんが手で口を覆って泣き出し、神鳳くんはほっとしたように微笑んだ。
 「明日香サン!ご無事で…!」
 墨木くんが敬礼するのに、八千穂さんが明るい笑い声を上げた。
 「あ〜!今、明日香さんて言った〜!」
 「あっ!?えっ!?…あ〜、じ、自分は…その…」
 …とりあえず、それはどうでもいい。
 はっちゃんが上がってくればいいのに…次に上がってきたのは、会長だった。
 周囲を見回し、
 「各自、仕事に戻れ」
 と命令したけれど、役員には飛びつかれ、執行委員はまだ穴を見つめたままで反応しなかったので、威厳も形無しだった。
 最後に、皆守くんがはっちゃんを肩で支えるような格好で上がってきた。
 「ただいまー」
 にっこり笑うはっちゃんに腕を伸ばし、届いた瞬間に皆守くんから奪い取るように抱き留めた。
 顔や上半身も怪我をしているけど…足の怪我がひどい。
 どうやら自力で立てないらしい。
 生きていてくれるのは嬉しいけど…怪我もして欲しくは無かった。
 その妙な形に捻れた足を放り出して、はっちゃんは輝く笑顔で僕にしがみついて叫んだ。
 「あのね、取手!俺、すっごい大発見!」
 この状況で…<秘宝>の話なんかするのか…。
 いや、そもそもはっちゃんは<秘宝>を求めてこの学園に来たんだけど…それでも今は…。
 僕はぎゅむっとはっちゃんの鼻を摘んで、まだ言い募るのを止めさせた。
 「あのね、はっちゃん。<秘宝>のことは後で…」
 「あ〜!!秘宝〜!!」
 僕の指に摘まれたまま大音量で叫んだので、はっちゃんはけほけほと咳き込んだ。
 「そうだよ、<秘宝>だよ!うわ、俺、そのために来たのに!すっかり忘れてたよ!取ってこなきゃ!」
 じたばたする体を抱きしめて、少し考える。
 <秘宝>を発見したんじゃないのかな?
 「どっちにしても…今は埋まってるんじゃ…」
 僕の言葉に、はっちゃんは振り返って穴を見下ろし、首を傾げた。
 「あ〜、そうかも。…うーん、荒吐神は<秘宝>なんか無い!って言い切ってたしなぁ…後でゆっくり掘り返すか」
 「…怪我が治ってから、ね」
 僕ははっちゃんの膝の裏に腕を回して立ち上がった。
 「うわお、お姫様抱っこ?」
 そうすると、膝から下が特にひどくやられているのが分かる。
 よくこれで戦えたな…。
 背筋を凍らせながら、それを見つめていると、皆守くんが覗き込んで、一応は真剣な声で
 「救急セットを使うか?ルイリーを起こしてきても良いが」
 なんて他人事のように言ったので、僕は背を丸めて皆守くんの顔を覗き込んで告げた。
 「皆守くんの生気を吸っても、いいかな」
 「…良くねぇよ」
 「それは、止めといてやれよー」
 いつか、交わした会話そのままで、僕はうっすらと笑った。
 笑ったまま、もう一度、言う。
 「生気を吸っても、いいかな。良いよね?イヤとは、言わないよねぇ?」
 皆守くんが、ひきつった顔で、一歩下がった。
 「…取手、怖ぇ…」
 はっちゃんが腕の中でぼそりと言ったが、僕は左腕で彼をしっかり抱きかかえてから、右腕を伸ばした。
 「…フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド。フォルツァンド…」
 本当は、もう少し吸ってもいいかな、と思ったんだけど。
 完璧に治癒してしまうと、はっちゃんはすぐに<秘宝>を探しに行きそうだったので、僕はその手前で止めておいた。
 はっちゃんは、ちょっと困ったような顔で僕と皆守くんを見比べている。
 「…ちょっと、やりすぎじゃないかなーとか…」
 「だって、生徒会副会長は、君の敵になったんだろう?」
 「…まー、そうだけどさぁ。でも、分かってたし、会長の時と荒吐神相手には協力したしさぁ…」
 「でも、一回は敵対して、君の戦力を削いだんだろう?…僕としては、これから毎日、フォルツァンドかけてあげたい気分だけど」
 「それで取手の気が済むなら、それでもいいけどさぁ」
 「…九ちゃん、ひでぇ…」
 足下でミイラが何か言ったので、僕はさりげなく蹴っ飛ばした。
 はっちゃんは、もう自力で立てるくらいには回復してるはずだけど、僕の首に腕を回してしがみつきながら言った。
 「それより、部屋まで送って欲しいな。俺の大発見を聞かせてやるから!」
 得意満面、といった顔がきらきら輝いているので、僕は<秘宝>なんてどうでもいいんだけど、と思いつつも、はっちゃんが幸せそうならそれだけで嬉しくなってしまってつい微笑んでしまった。
 周囲を見回すと、執行委員は各自仕事に戻っていたので、僕は少し立ち竦んだ。
 どうしよう、はっちゃんを送っていくというのは立派な大義名分だけど、自分だけさぼるようになるのは少々気が咎める。
 けれど、そんな様子に気づいたのか、八千穂さんが小走りに駆けてきた。
 「大丈夫だよ!あたしも白岐さんも手伝うから!取手くんは九ちゃんを送っていって…ちゃんと寝かせてきてよ。たぶん、もうじき終わると思うから、急がなくても大丈夫だよ!」
 …そうは見えないけれど。
 術が解けたせいで、棺に閉じ込められた生徒たちは息を吹き返しているはずで…早くしないと今度は本当に窒息死してしまうんだけど。
 「あのー、俺も手伝おうか?」
 はっちゃんが心配そうに言ったので、僕の腹は決まった。
 「駄目。君は、ゆっくり休まなきゃ。…ごめん、八千穂さん」
 「まーかせてっ!」
 元気良く答えて、肉体労働に戻る彼女には、本当に悪いとは思いつつも、僕は暑くなって脱いであったコートをはっちゃんに掛けて、寮へと走っていった。
 男子寮ではほとんどの人間が目を覚ましているらしく、窓から顔が鈴なりになっていて…墓地から走ってきた僕らに視線が集中した。
 一応、はっちゃんのアサルトベストとか装備なんかはコートの下に隠れて見えないとは思うけど…まあ、そうなると、単純に、僕がコートを被せたはっちゃんをお姫様抱っこで運んでいる、という状況に見えるんだけど…今更か。
 僕は視線が降り注ぐ中、男子寮に駆け込み、階段を上がっていった。
 はっちゃんの部屋の前まで来て、鍵を持っていないことに気づいたけれど、腕の中でごそごそしたはっちゃんが鍵を出したのでそれで中に入った。
 コートごとベッドに降ろしてから、入り口の鍵を閉めた。
 「…えっと…どうしよう、何か飲むかい?」
 「んー、そうだな、冷蔵庫のミネラル水取って」
 だいたい彼の部屋の中身は把握しているので、僕は迷うことなく幾つか並んだ冷蔵庫の中から目的のものを取り出し、蓋を開けてからはっちゃんに渡した。
 ごくごくと喉を鳴らして飲んでいる彼を残して、僕はやかんを火にかけた。
 洗面器と…タオルと…包帯もこの辺に…あぁ、抗生剤も必要かな…それから、着替え…。
 僕がいろいろなものをイスの上に重ねていっていると、はっちゃんは感心したように呟いた。
 「よく知ってるなー。俺、そんなに取手の前でアイテム出し入れしたっけ?」
 「はっちゃんの分類法が、何となく分かってるだけだよ…」
 彼は合理的な思考同様、整理、分類も合理的なのだ。
 一つの収納場所が分かれば、その類のものはたいてい同じ区画にしまわれてあるので見たことが無いものでもだいたい見当が付く。
 「すっげー。やっぱ<愛>だね、<愛>」
 …違うと思うけど。
 まあ、納得しているのなら、そういうことにしておこうか。
 やかんのお湯と水を洗面器に注ぎ、タオルを絞る。
 「はっちゃん、着替え…」
 着替え。
 僕の目の前で、服を脱ぎ…裸になって…パジャマを着る。
 …すっごく、危険な行為なような気がしてきた。
 やばい、と鼻の根本を押さえて、そっぽを向く。
 「…と、とにかく、そのベストは…僕じゃ分からないから…」
 「いやもう、結構すっからかんよ?これ」
 脱いだベストを無造作に床に放り投げてから、彼は武器を手早く分解し、危なっかしい足取りで収納場所にそれらをしまった。
 ひょこひょこと引きずる足に、やっぱり完全に治してあげれば良かった、と後悔が胸に湧く。
 ベッドに戻った彼は、ゴーグルをサイドテーブルに置いて、今度は制服を脱ぎ始めたので、僕は目を逸らした。
 けれど、はっちゃんは困ったように僕を呼んだ。
 「とりでー」
 「…何だい?」
 「何かくっついて、脱げない〜」
 「…くっついて?」
 さすがに僕は顔を向ける。
 はっちゃんは学生服と中のシャツの前をはだけさせると言う、誘っているのかと問い詰めたくなるような姿で、僕を見上げていた。
 僕は手で顔を覆って、しばらく神を呪ってから、なるべく平静に彼の前に膝を突いた。
 まずは、学生服を脱がせてみる。
 土くれがぱらぱら落ちたので、眉を顰めてそれを払い落とした。後で掃除機をかけなきゃ。
 それは普通に脱げたんだけど…次にシャツを脱がせようとしたら、はっちゃんが
 「あてててて」
 と小さく呻いた。
 僕は慌てて手を緩めて、なるべくそぅっとそぅっと少しずつめくってみた。
 …どうやら、小さな切り傷の出血が乾いてシャツがくっついてしまっているらしい。
 足の怪我を優先的に治したから…細かな傷はまだこんなに残ってしまっている。
 やっぱり、皆守くんがどうなろうと、完璧に治しておけば良かった…。
 後悔しながら、それを少し引っ張る。
 はっちゃんの体がぴくりと動き、シャツは剥がれたが新たな血が滲んでしまった。
 「…もう一気に剥がして貰った方が、一瞬で終わって楽かもしんない…」
 ぶつぶつ呟くのを無視して、次のひきつれを見る。
 肩口にくっついたそれも、茶褐色に変色していて、痛み無しには剥がせそうに無い。
 …擦り傷にガーゼがくっついてしまった時なんかは…湿らせると、容易に剥がせるようになったっけ。
 僕は怪我をしたときのことを思い出して、そこに舌を伸ばした。
 ゆっくりゆっくりシャツを剥がしつつ、その境目を舐めると、はっちゃんが「うわああ」と呟いた。
 血の味がするそこを丁寧に舐め、先ほどよりは、そっとシャツが剥がれたと安心しながら次の箇所を探すと、はっちゃんが僕の顔をぐいっと掴んだ。
 「あ、あのさぁ、取手。わざとやってる?」
 「…えっと…何が…え…ごめん、余計に、痛かったかい?」
 僕の両頬がぐいーっと引っ張られる。
 痛い、と言いかけて、見上げた彼の顔が真っ赤になっていたので、思わず息を飲んだ。
 「…あ…ひゃっひゃん?」
 「だからさ…その…エロいんだけど」
 エロい?
 「その洗面器は、何のためにあるんですかね?」
 洗面器?
 体を拭こうと思って…お湯を…あぁ、そうか、これを浸して拭えば良かったのか…何も舌で舐めることは………。
 ………。
 舌で………舐める………
 ようやく理解した僕は、自分の口を手で押さえて飛びすさった。
 僕の反応を見て、はっちゃんは真っ赤な顔のまま、額を押さえた。
 「天然かよ…俺はもう、てっきりこのまま始まっちゃうのか、とか思ったぞ」
 は、始まっちゃうって…うわあ。
 そ、そういえば、はっちゃんは「入れてもいい」って言ったので…覚悟はしてるのかもしれなくて…僕がしたことは、前戯と言って間違い無いもので…。
 僕は口を押さえたまま、ぶんぶんと頭を振った。
 「い、今のは…そういうつもりじゃなくて…本当に…」
 「あぁ、はいはい、傷を湿らせて、シャツを取ってくれたんだよな」
 そう言って、はっちゃんは自分でシャツに手をかけ、一気にばりばりと脱いだ。
 本当に小さくだがばりばりと裂ける音がしたので、僕は慌ててはっちゃんの体を確認した。
 それぞれは小さいが、無数の傷から血が滲んできている。
 思わず顔を寄せてから、辛うじて理性が勝ったので無理矢理首をねじ曲げて、お湯に浸したタオルを掴んだ。
 それでそぅっと拭うと、すぐにタオルが赤く染まった。
 何度も拭って、それから我慢できなくなって背中にキスをすると、はっちゃんがぼそりと呟いた。
 「あのさ…イヤだったわけじゃないんだ。…何と言うか…その…結構感じた、自分が信じられないと言うか…」
 え、と顔を上げると、はっちゃんは逆に頭を抱え込んで顔を隠した。
 「うわあああああ…いや、そりゃ取手のことは好きだよ、大好きだよ?でもさぁ、男に肩を舐められて感じるって何なの、俺!危うく勃っちゃうところだったのよ、マジで!」
 「…はっちゃん…」
 思わず、小柄な体を背後から抱きしめた。
 唇に触れる肩は、骨張っているがとても滑らかな肌触りで…ぞくり、と背筋が震える。
 まずい、とかすかに思って、僕は無理矢理笑ってみせた。
 「肩に…キスしただけで、勃ちそうな僕よりは、まともだと思うよ…」
 「えーと、いいですか、取手さん?…それ、全然フォローになってねぇよ!」
 頭を抱えたまま叫んで、はっちゃんは自分の頬をばしばし叩いた。
 「い、いや、取手が好きで、LOVEで、入れられても良いって言ったからには、これで良いんだろうな、うん…気持ち悪いとか感じたら、絶対セックスなんて出来ないんだし…でもなぁ、男として、これで良いのか、という…ううう」
 嬉しい、と素直に思う。
 はっちゃんが、本当に、僕とすることを前提に考えてくれているのだ、とやっと認めることが出来て、本当に…嬉しい。
 何となく、昨日までは、あんまりにもけろっとして「いいよ」なんて言うものだから、全く信用出来なかったんだけど。
 はっちゃんが、そうやって考えてくれる、というだけで…僕はこんなにも満たされる。
 肉体的な繋がりは無くても、それを受け入れてくれるのだと思うだけで、実際に繋がるのと同じくらい幸せだ。
 僕は触れている肩を少し吸ってから、体を離した。
 本当はいつまでも抱いていたいけれど…いつまでも裸でいたら、風邪を引いてしまうかも知れない。
 …まあ…はっちゃんの体は、今はすごく色づいて温かくなっているけれど。
 少し冷えてしまったぬるま湯にタオルを浸して絞る。
 乱暴にはならないように、けれど手早く拭いていって、とりあえずはパジャマの上を頭から被せた。
 緑色のトレーナーからぴょこんと頭を出したはっちゃんは、まだ困ったように眉を寄せていたけれど、何も言わずに今度はズボンのベルトに手をかけた。
 …うん、まあ…確かに次は下半身なんだけど…大丈夫かな、僕の理性…。
 頭を切り替えよう、と僕は洗面器を持って立ち上がった。
 簡易キッチンで洗面器の汚れた水を流し、軽く洗ってからやかんから新しくお湯を注ぐ。
 水で適温にしてから振り向くと…はっちゃんのすらりと伸びた足が目に入った。
 ズボンはくっついていなかったんだな…というか…また思い切りよくパンツ一枚に…。
 反応しかけた、というのを思い出して、ついそこを見ると、はっちゃんは僕の視線に気づいたのか赤くなって上着の裾を引っ張って隠した。
 <萌>という漢字が、僕の脳いっぱいに映し出されたので、僕は慌てて頭を振った。
 ぎくしゃくとベッドに戻り、タオルを絞る。
 けれど…はっちゃんの足を自分の大腿に乗せてまじまじと見ると…その傷の酷さに頭が冷えた。
 集中的に治癒の力を送り込んだので、上半身と違って細かい傷は残っていなかったけど、ざっくり抉れた痕が膝から下に残っていた。
 今は塞がって、綺麗なピンク色の皮膚で覆われているけれど…骨まで見えていたんじゃないだろうか。
 僕が、足を細心の注意を払って拭っていると、はっちゃんはくすぐったそうに足の指をもぞもぞさせながら、恥ずかしそうに言った。
 「あの、さ…ありがと、取手」
 「…え…」
 「傷…治してくれて、ありがと。…まあ、皆守の尊い犠牲はあったけど」
 棒読み口調の<尊い犠牲>という単語に思わず笑う。
 「それから…えと…足、汚いのに、洗ってくれて、ありがと」
 「…汚いとは思わないけど。…何なら、全部舐めても良いくらいだけど…」
 「やめて〜」
 くすくす笑って、はっちゃんは自分の足を見下ろした。
 引き締まってほっそりした子鹿のような足。
 本気で舐めても良いくらい魅力的だけど…今は、痛々しいのが先に立っているので、欲情せずに済んだ。
 包帯を巻こうかどうしようかと悩んだけれど、拭いている間にも傷が治りつつあったし、本人もいらないというのでそのままパジャマのズボンを履かせることにした。
 僕が洗面器とタオルを片づけて戻ってくると、ベッドに腰掛けたはっちゃんが腕を伸ばしてきたので、思わず正面から抱き締めた。
 僕の方は傷が気になって、そっとしか力を入れなかったのに、はっちゃんはぎゅうっと僕の背中に回した腕に力を込めた。
 「取手。ただいま。俺、ちゃんと、帰ってきたよ」
 はっちゃんが真面目な声で言うものだから、僕は危うく泣きそうになった。
 僕が泣くと、はっちゃんまで泣くから…泣いちゃいけないのに。
 だから、僕は何度か瞬いて、「おかえり」と呟いた。
 しばらく、そうやって、抱き合っていた。
 何もせず、お互いの体温や心拍を感じていた。
 生きているんだ、と思う。
 はっちゃんは、生きて帰ってきて…そして、僕も。
 僕の中には<闇>も<呪詛>もあるけれど、はっちゃんが帰ってきたら、それはぶくぶくと奥深くに沈んでいった。
 もちろん、無くなったわけではないけれど…。
 はっちゃんがいるなら…僕は、表の世界でも生きていける。
 僕が<人間>として生きていくために、無くてはならない人を抱きしめていると、後頭部の髪の毛がつんつんと引っ張られるのに気づいた。
 少し顔を引くと、間近で彼が囁いた。
 「あのさ…貸してたものを、返して欲しいんだけど」
 一瞬、何を言われているのか、分からなかった。
 えっと…何か借りていたっけ?
 僕が遠い目になったのに気づいたんだろう、はっちゃんが恥ずかしそうに目を伏せて…その上気した頬を見て、ようやく思い出す。
 「…倍返しに、なっても、いい?」
 僕の声は、みっともなく掠れていたけれど、どうやら聞こえたらしく、やっぱり目を伏せたまま、頷いた。
 うわ…どうしよう…可愛い。
 僕は、そっと彼の頬に触れた。
 誰よりも大切で、誰よりも大好きな人。
 唇に触れるのは初めてでは無いのに…自分の頭の中で血液が凄い勢いで駆け巡っている音が聞こえるような気がした。
 どっどっどっどっと脈に合わせて鳴っている中、僕はそぅっと顔を近づけて…まずは鼻と鼻が触れた。
 ちらりと目を上げた彼の瞳を見つめながら、少しだけ角度を変える。
 柔らかく温かな感触を感じながら、僕は彼の目に映った自分の目を見た。
 そこにいるのは<化け物>ではなく…意外と、普通の人間だった。普通に、初恋に狼狽えて、キスにドキドキしている、普通の人間。
 二人とも、息もせずに唇を触れ合わせていたので、数十秒後には息を荒くして離れる羽目になって、お互い顔を見て思わず笑う。
 「倍返しじゃなかったのかよ」
 「時間的には、10倍以上だったと思うけど」
 「俺は、全っ然!物足りない。ということで…もっと寄越しなさい」
 僕が答える前に、はっちゃんは腕を伸ばして僕の頭を掴んだ。
 そして、頬にキスしたときと同様に、思い切りよくぶつかるように唇を合わせて…ぺろりと僕の唇を濡れた感触が這った。
 濡れた感触…濡れた感触…舌!?
 い、いや、夢の中では、さんざんに吸ってるし、もっと凄いこともしてるはずなんだけど…はずなんだけど…す、すっごくリアルというか…現実なんだから、当たり前なんだけど…。
 かぁっと頭の中が真っ赤になる。
 ふと気づくと、僕は自分から口を開いて舌を伸ばし、はっちゃんの舌を辿っていた。
 僅かに怯んだようにはっちゃんの頭が逃げたので、思わずベッドに押し倒して逃げられないように頭を押さえていた。
 夢中になって舌を吸い、歯茎を舐め…そして、不意に漏らされた喘ぎに、ふと我に返って思わず飛び離れる。 
 「ご、ご、ご、ご、ごめんっ!」
 はっちゃんがゆっくり身を起こす。
 濡れた頬を手の甲で拭う様子が…とてつもなく艶めいていて…ずきり、と痛んだ下半身に、僕は腰を抜かしたように座り込んだ。
 「…取手ってさぁ…」
 「は、はい」
 「時々…ものすっごく剛速球だよなぁ…」
 ぼんやりと言って、無意識なのかぺろりと唇を舐めた。
 えーと、そこはさっきまで僕が舐めていたところで…い、いや、今更間接キスも何も無いわけだけど…さっきまで触れていた…とても柔らかい…うわああああ。
 はっちゃんは、ベッドの上で体育座りになって、んー、と呟いた。
 「イヤじゃないし…俺が誘ったんだし…良いんだけど…」
 まずい、と思う。
 たぶん、今、目を合わせると…僕は、何をするか分からない。
 さっきと同じように、夢中になって、彼のパジャマを剥ぎ、その素肌に唇を押し当てて…あ、いや、考えちゃいけない、考えたら、体が動きそうだ。
 たぶん、はっちゃんも、気づいている。
 ものすごく…今、危ない雰囲気になっていて…本当に、雪崩れ込んでしまうかどうかの、境目。
 まだ、ぎりぎり引き返せる。
 もちろん、ただの<友達>には戻れないかも知れないけれど…今なら、まだ間に合う。
 一歩でも踏み出したら斬り合いが始まるような<死合い>を感じさせる、張りつめた空気。
 息もできないような時間が流れ。
 突然鳴り響いたHANTの電子音に、はっちゃんも僕も、文字通り飛び上がった。
 僕が、激しく鳴っている心臓を押さえている間に、はっちゃんはサイドテーブルの上のHANTを取り、操作した。
 途端。
 「馬鹿者ーーーっ!!」
 大音量の怒鳴り声が、僕のところまで聞こえた。
 「やかましい!今、こっちが何時だと思ってるんだ!」
 …いや、はっちゃんの声も相当…。
 「いいか、葉佩九龍!お前、最後の最後で<秘宝>をかっさらわれるたぁどういう了見だ!?お前が就いた任務だろうが!いくら最後の一歩手前までがお前の功績でも、最後に<秘宝>を手に入れた者が勝利者なんだぞ!」
 え…<秘宝>が…あれ?
 かっさらわれた?え?
 はっちゃんの顔色も変わっている。
 「ちょっと待て、親父。まさか…<クーロンの秘宝>が誰かの手に?」
 「ロゼッタに報告があったのを、雅美がハッキングしたんだよ!…お前なぁ、それすら気づいてなかったのかよ!何やってんだ!素人じゃあるまいし!」
 「え…あ…う」
 はっちゃんの顔が真っ白になっていき、HANTに向かって項垂れた。
 父親に向かって、激しく口喧嘩しているところしか見てなかったけれど…怒られるときには反論出来ないらしい。
 …というか、これではまるで…上司に怒鳴られる部下のようで…。
 「…あ…その…最終の<守り部>が、<秘宝>なんか無いって言って…」
 「あぁ!?それで納得して『えへへ、無かったや〜』ってか!?お前、バディからやり直せ!まだしも同一組織の手に入っただけマシなものの…もしもレリックドーンあたりが奪っていたら、お前の三ヶ月はただの利敵行為なんだぞ!」
 「…すみません…」
 ひたすら頭が下がっていっている彼を見ていられなくて、僕は思わずはっちゃんを背後から抱きしめて口を出していた。
 「あの、僕が言ったんです。今は土砂に埋まってるから、後で掘り返してみたらいいって」
 「取手」
 「…取手くんか。何で、そこにいるのかは問わねぇ。…が、口ぃ出すのは止めて貰おうか。これは、トレジャーハンターとしての心構え…」
 「うるさい!」
 今が思い切り真夜中だとか。
 相手ははっちゃんの父親なんだとか。
 そうでなくても、年上には敬意を払うものだとか。
 そういうことは全て吹き飛んで、僕はただ感情のままに怒鳴った。
 「と、取手さーん?」
 「トレジャーハンターなんて糞食らえだ!あんたも、はっちゃんの父親なら、まずは息子が生き残ったことを喜べ!」
 まだ何か言ってやりたかったが、頭の中が真っ白だ。
 沸騰した頭が、その瞬間を過ぎると急速に冷えていった。
 はっちゃんが困ったように僕の腕をくいくいと引っ張っている。
 「あ、あのさ…気持ちは嬉しいんだけど、その…俺のミスなのは確かだから…」
 …あ、駄目だ、また沸騰しそうだ…。
 「君は!あんな死にかけて自力で立てないような状態で、<秘宝>を探しに戻るのが正解だったって言うのかい!?もしも、君が、今後も自分の身よりも<秘宝>を優先するって言うのなら…今、僕がこの手で切り刻んで、二度と宝探しになんて行けないような体にしてやる!」
 「…あ、相変わらず、時々ものすごい勢いで直球になるんだから、もう…」
 はっちゃんは僕の腕の中で体を捻って、ひょいっと僕にキスをした。
 それでようやく、僕は少し頭が冷えて………とんでもないことを口走ったことに気づく。
 うわああああ。
 親御さんの聞いてる前で…DV発言は、限りなくまずかったような…。
 僕が頭を抱えているのとは対照的に、はっちゃんは頬を赤くして甘えるように僕の胸にすり寄っていた。
 しばらく黙っていたHANTから、感心したような声が聞こえてきた。
 「…いやー、愛されてるなぁ、九龍」
 「うん…まあ…そのようです、はい」
 照れた口調ながらも認めるものだから、僕まで頬が熱くなってくる。
 それは…確かに愛してるけど…この親子の反応は、やっぱり一般人とはずれているような。
 「なーんか毒気が抜かれたなぁ、おい。まったくよぉ、ミスはしっかり反省させとかなきゃ次に差し支えるってぇのに…分析はしたのか?何で、んな初歩的なミスするよ、お前が」
 「あ〜…その〜…俺的に、すっごい大発見をしたので、その〜…<秘宝>より、そっちで頭がいっぱいになって、その…浮かれてたのが敗因かと…」
 「大発見?何だよ、そりゃ」
 「…取手に、一番に教えるんだから、あんたには言わない」
 HANTが無音になって数秒。
 「っかーっ!思春期だねー!ご馳走様ってか!」
 何なんだろう…はっちゃんはさっきまでの真っ白な顔じゃなく、ふて腐れたような拗ねたような可愛い顔になっているから、僕としては安心だけど…。
 「…んまあ、お前が、<クーロンの秘宝>よりそっちが大切な<宝>だってぇんなら、それでもいいんだけどよぉ。…だが、その言い訳、二度と通用するとは思うなよ」
 「真理の発見は、一回で十分だ」
 「真理ときたか、真理!言うねぇ!…じゃ、取手くんによろしく。どうせ次の仕事が入るまで一週間もねぇんだから、せいぜい愛を確かめ合っておくんだな」
 「分かってるよ」
 ぷつん、とHANTが切れて。
 はっちゃんはまだ何か操作していたけど、うん、と頷いた。
 「これで、よし、と。しばらく邪魔されたくないし」
 腕を伸ばしてサイドテーブルに置いてから、僕の腕の中で横向きになって、にこっと無邪気に笑った。
 「あのさ…ありがと。俺のこと、心配してくれて、ありがと」
 …心配はしてるけど…切り刻む云々は、心配からかけ離れた心情の吐露だったような気が…。
 「でもさ、取手みたいな直接的な表現じゃないけど、うちの連中も、俺のこと、心配してくれてるから。取手から見たら、家庭的じゃないかもしんないけど、ちゃんと大事にされてるから、安心して」
 「…ごめん…」
 冷静に考えれば、はっちゃんからしればご家族を悪く言った、ということになるんだし…良い気がしないのは確かだろう。
 僕は、どちらかというと、色々と考えすぎて結局何も口に出さないことが多いタイプだったんだけど…今回は、本当に、本気で怒ってしまって…。
 こんなに後で嫌な気分になるなんて、やっぱり、思うままに口に出しちゃいけないな…。
 「何で、謝るんだ?俺は、嬉しかったってば」
 はっちゃんは両手の指を組み合わせて、幸せそうに微笑んだ。
 新しい区画で、謎解きの正解が分かった時のような、新しい武器を買うお金が貯まった時のような…見ている方が幸せになるような笑顔。
 「あの取手が、あんな乱暴な言葉で怒鳴ってさぁ…いやもう、俺ってホントに愛されてるんだなーって」
 はっちゃんは何となくうっとりとした溜息を吐いてから、もぞもぞ動いて僕の胸に抱きついて見上げてきた。
 「俺のこと、好き?いっぱいいっぱい、好き?」
 「うん…いっぱいいっぱい、好き」
 子供のような言葉だったが、僕は誓いの言葉でも告げるかのように、厳粛に言った。
 はっちゃんは満足そうに頷いて、目をキラキラさせたかと思うと、僕をぐいっと押した。
 ベッドの上に仰向けに転がった僕にまたがるように、はっちゃんは僕の胸に手を突いたが、身を屈めて吐息が触れるほど顔を近づけた。
 「あのさ、俺の大発見。聞いてくれる?」
 「うん…何?」
 てっきり<秘宝>とかその類のものだろうと思っていたけれど…どうやら違うらしいので、僕は素直に楽しみになっていた。
 根っからの<宝探し屋>である彼が、そんなにも大事だと思った<真理>って何だろう。
 「あのさ、俺、あの時言ったじゃん?取手来たら、取手守りたくなって、俺の生存確率下がるって。俺、あの時、正直言うと、人を好きになるのって、弱くなるんだなーって思った。大事なものって、一つなら守れるけど、二つになると守れないじゃん?俺、<秘宝>回収しなきゃなんないし、敵も倒さなきゃなんないし、取手のことも心配しなきゃなんないしで、何でこんなに神経使わなきゃなんないんだろうって、ちょっとイライラしちゃったん」
 …やっぱり…はっちゃんは、そんな風に思ったんだ…。
 僕の脳の一部が冷えて、ぷかりと<闇>が泡のように弾けた。
 …まだ、だ。
 はっちゃんは、凄く輝いていて…僕の闇は、まだ急速には広がらない。
 僕の顔をじーっと見下ろしているはっちゃんは、子供が見つけたものを見せびらかす素直な喜びを露にしながら続けた。
 「でもさ、違ったよ。全然、違ったの」
 危うく上げかけていた手を、辛うじて握り込んで、僕は目だけで続きを促した。
 「あのね、俺って戦う時、冷静じゃん?敵の能力値とか、自分の攻撃力とか、計算してるんだよね。それでさ、今回、あ、駄目だって何度か思ったの。絶対、俺の能力じゃ、勝てないなって計算になって。いや、ホントに、諦めてるとかじゃなくて、単純に客観的能力値の比較」
 聞いてるだけで背筋が冷える…今、ここにはっちゃんは生きているんだけど…それが僥倖なのだ、と改めて思う。
 「なのにさ」
 はっちゃんは、一段と目を輝かせて、誇らしげに言った。
 「駄目かなって時に、取手のこと、考えたんだよ。俺が死んだら、取手が悲しむって。俺が死んで、こいつが復活したら、上にいる取手が死んじゃうって。そしたらさ、まだ力が出てきたんだ。いや、もちろん、普段が手抜きじゃないのよ?俺は100%力出してるつもりだったの。なのに、取手のこと、守らなきゃって考えたら、120%力が出たの。火事場の馬鹿力ってやつ?いやホント、自分にこんな力があるなんて計算外って言うか。ほら、よく言うじゃん?愛はペンよりも強しって。…あれ、違うか、愛は地球を救う、かな?とにかくさ、大発見!」
 次第に、はっちゃんの顔がぼやけていくが、僕は必死に目を見開いていた。
 「好きな人がいると、弱くなるんじゃなくて、逆に強くなれるんだって。俺、取手がいたから、生きて帰ってこれたんだよ!それって、凄くない?…取手、泣いてる?」
 急に不安そうになった声に、僕はぎゅっと目をつむった。
 頬を涙が流れていき、視界が少しクリアになる。
 眉を寄せておろおろとはっちゃんは僕の頬を拭う。
 「ねぇ、泣かないでよ、俺、どうやったら泣きやむか分からないから。取手泣くと、俺も痛いよ」
 「大丈夫」
 僕は手を伸ばして、はっちゃんの頭を引き寄せた。
 肩口に抱き寄せて、ぽんぽんと背中を叩く。
 「大丈夫…これは、嬉しい涙だから。君が、生きていてくれることに、感謝する涙だから」
 僕は、神を呪い続けたけれど。
 今は感謝したい気分で一杯だ。
 「本当に…生きていてくれて、ありがとう。僕のところに、帰ってきてくれて、ありがとう」
 「変なの〜感謝するのは俺の方なのに。取手いなかったら、俺、帰ってこれなかったんだから、ありがとうって言うのは俺の方なのにな」
 はっちゃんは、心底不思議そうな声で呟いた。
 たぶん、本当に理解できてないんだろう。
 僕が如何に彼のおかげで救われているのか、なんて。
 僕は、彼によって<墓守>から解放され、<闇>から引きずり出され…そして、生きている価値を認められたのだ。
 僕が<人間>でいられるのは、全て彼のおかげなのに、彼自身は、僕が<化け物>であることにすら気づいていないのだから…本当に、鈍いというか、純粋だというか。
 「取手、大好き。俺のこと、好きになってくれて、ありがとう」
 …本当に、もう…。
 僕は、天におわす全能の神に感謝しつつ、目の前にいる僕の可愛い救いの神を力一杯抱きしめた。



 葉佩は、すっかり治った体で学園内の知り合いたちに挨拶して回った。
 ロゼッタはよほど人手不足なのか、それとも葉佩の実力を買ったのか…それとも最後の最後でミスったので休暇なんかやらない、という腹なのか、さっさと新しい任務を通達してきた。
 予測はしていたので困りはしなかったが、もうちょっとだけ<友達>とゆっくり思う存分遊びたかったな、と葉佩は溜息を吐いた。
 冬休みなこともあって、学園の外出禁止令はかなり緩くなっているので、みんなで街で遊んでみたかったのに、とぶつぶつ文句を言いながら、もう二度と会えない訳じゃなし、とあっさり頭を切り替える。
 仮に、会えないとしたら…皆守だろうか。
 宣言通り、毎日取手にフォルツァンドをかけられてずたぼろだから。無事、卒業まで生き残ればいいのだが。
 <恋人>の真面目な顔を思い出して、葉佩はくすくすと笑った。
 葉佩としては皆守の裏切りくらい予測の範疇だし、そんなに気にしていないのだが、取手にとっては許し難い行為だったらしい。
 葉佩がいなくなった後も、そうやって少しは気が紛れてくれると良いんだけど、と皆守の人権はさっぱり無視したことを考える。 
 まあ、皆守も甘んじて受けているので、あれで気が咎めているんだろう。自分への<罰>が終われば、贖罪は済んだと思ってくれれば良いな、と思う。
 もちろん、自分で殴ってなんかやらないが。
 葉佩は音楽室への階段を駆け上がった。
 扉を開けると、取手が振り返りもせずに「いらっしゃい」と言った。
 葉佩はイスを定位置に置き、座って取手のピアノを聞く。
 最初の頃とは違って、音にもリズムにも感情が溢れている。
 取手の人物像通り、優しく包み込んで囁きかけるような音に、この人はすっごく有名なピアニストになるだろうな、と思う。
 癒し系CDとかいって、爆発的に売れちゃったりして〜とか夢想しつつ、葉佩は目を閉じて取手の紡ぎ出す世界に身を委ねた。
 ちなみに。
 取手とは<恋人>同士である、という言葉を取り交わしたが、結局肉体的には、キスしただけの段階だ。
 葉佩としては、もうすっかり覚悟を決めていたつもりだったのだが、取手が言うには、まだまだ、ということらしかった。
 葉佩が「してもいい」ではなく、積極的に取手を「欲しい」と思った時に、しよう、だそうだ。
 なかなか難しいんじゃないかな、と思うのだが、唇だけじゃなく舌まで絡めたのは葉佩の方からだったので、ひょっとしたらホントに自分から取手に迫るようになるかもしれない、という予感もしている。
 どうやら取手は待っていてくれるらしいので、葉佩は安心して自分の気持ちをゆっくり確認するつもりでいる。
 取手が、指を止めて、ふと息を吐いたので、葉佩は机の上にあった楽譜を取手の前に広げた。
 「じゃあ、次は、これ。合唱部の」
 「歌うのかい?」
 「うん」
 取手のピアノをいつまでも聞いていたいのも確かだけれど。
 葉佩は、この歌をどうしても歌いたかった。

  そうして小川のせせらぎは 風がいるから
  あんなに楽しくさざめいている
  あの水の小さい陰のきらめきは みんな風のそよぎばかり
  小川は ものを押し流す
  藁くずを 草の葉っぱを 古靴を
  あれは 風が流れを 押しているからだ
  水は 止まらない そして 風は 止まらない
  水は不意に 身を捻る
  風はしばらく 水を離れる
  しかし いつまでも 川の上に風は
  流れとすれずれに一つの語らいを繰り返す


 ふと、ピアノが止まった。
 「何だよー、今からがクライマックスなのに」
 「…はっちゃん」
 取手が俯いて、ピアノの鍵盤を見つめたまま呟く。
 だから、葉佩は取手のすぐ横にイスを寄せて座り、体を傾けた。
 「あのさ、水はね、風が押したら流れるんだよ」
 「…うん」
 「それでさ、風は、水が動いてるから、自分が動いてるんだって気が付くんだ」
 「…うん」
 「だから、風には水が必要だし、水にも風が必要なんだ」
 「…うん」
 葉佩も、鍵盤を見つめたまま、そっと手を伸ばした。
 取手のだらりと垂れ下がった手を探し当て、指を絡める。
 「風は、水面を離れることもあるけど、すぐに戻ってくるよ。だって、一人で流れていても、つまんないし」
 「…うん」
 「一緒にいれば、風も、水も、どこまででも流れていけるよ。世界中の、どこまでも」
 「どこまでも、どこまでも」
 「そう、どこまでも、どこまでも」



 そうして、はっちゃんは旅立っていった。
 直接会える機会は数ヶ月単位で無いらしかったが、必ず会いに来る、と笑って出ていった。
 <風>は、自由に飛び立っていくものだから、分かってはいたけれど。
 けれど、寂しがってはいられない。
 <水>も流れていかなければ…一緒にはいられないし。

 「天香学園三年、取手鎌治。自由曲は、提出した楽譜の通り、僕が自分で作曲したものです」
 僕はピアノの前に座り、少しだけ目を閉じる。
 厳しく見守っている審査員とか、他の受験生のことを頭から追い出し、彼のことだけ考える。

 「曲名は、『風と、水と』」


 そうして、僕は<自由>になる。






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