風と水と 14


 


 葉佩は背後からノックの音がしたのでびくっと背中を揺らした。
 この控え目な打ち方は取手だろう。
 さて、もう部屋に帰ったと思っていたのに、と葉佩はなるべくのほほんとした顔を作って扉を開いた。
 まだ学生服のままの取手が、青白い顔でするりと入ってくる。
 「どうした?まだ寝ないのか?」
 「…会長から…<執行委員>に収集がかかった」
 「何?総出で俺を倒せって?」
 からかうような調子に、取手は目を細めて葉佩を量るように見つめた。
 「いや…ひょっとしたら、呪縛が解けて…墓に収まっている<ミイラ>が蘇るかもしれないから…それが<生き埋め>にならないように、と」
 「会長ってば、手回しいいなぁ」
 苦笑して、葉佩はちらりと時計を見た。
 たぶん、葉佩が任務達成するにせよ、失敗するにせよ、呪縛は解けるんじゃないかと思う。
 つまり。
 古代の神の復活は、もはや止められないところまで来ていて…後は倒せるかどうかの違いだけだ。
 いくら何でも、それは<宝探し屋>の範疇では無いような気がするが…今更とんずらこくほど浅薄でもない。
 「そっかー、頑張ってねー」
 ひらひらと手を振ると、取手が一歩踏み出したので、何となく一歩下がる。
 「…僕も、付いていくよ。君を、守りたいから…」
 「駄目」
 葉佩は即答した。
 どうやら葉佩がこれから最終決戦に臨むことは、ばれているらしい。
 なら、誤魔化すだけ無駄か。
 「絶対、連れて行かない。執行委員の任務の方を頑張ってくれ」
 取手の顔が歪むのを、葉佩は何となく夢でも見ているかのような不思議な感覚で見ていた。
 怒りとも悲しみともつかない表情で、取手は腕を何度か上げては力無く落とすというのを繰り返し、ついに、押し出すような掠れた声で葉佩に問うた。
 「…何故?…最後の最後で…僕じゃ、力不足だと…」
 「取手」
 この控え目で気弱な友人…いや、恋人が、また自分を責めているらしいので葉佩は取手の腕を掴んだ。
 だが、ゆっくりと上げられた面には、爛々と暗い熱が灯っていた。
 「…許さないよ…もしも、僕を置いていくと言うなら…」
 取手が、急に動いたので葉佩は対処出来なかった。
 いきなり見えた天井に、何だ?と混乱してから、自分がベッドに押し倒されたのだと気づいた。
 「このまま…犯してしまおうか?…どこにも行けないように…そうしたら…君は僕の腕の中にいるまま…天国に、行けるよ」
 いや、いきなり昇天って、そんなに自信があるのか…って、いや、この場合、本当に死ぬと言いたいのかもしれないが。
 葉佩は、黙って取手を見上げた。
 苦しそうな、顔。
 押し倒している側のくせに、自分が押し倒されて鞭打たれでもしているかのような、苦しみに耐えているような顔。
 「…今まで、俺は…俺の戦い方は、正直言って、一に敵を倒すこと、それから自分の身の安全って感じだった」
 葉佩は、まっすぐ取手の目を見つめながら、静かに言った。
 「もう俺の身には、それが染みついてるんだ。今更、なかなか矯正は出来ないし…もしも矯正するなら、時間がかかる。…なのに、今。もしも、お前を連れていったら」
 葉佩は取手と同じく顔を歪めながら、手を伸ばして取手の頬に触れた。
 陰鬱そうだが、端正な少年の顔。
 いつの間にか、とてもとても大切になった人。
 「俺は、お前の安全を第一に考えてしまう。敵を倒すんじゃなくて、お前が怪我しないように行動してしまうと思う。…それじゃあ、駄目なんだ。今までそんな戦法じゃないから、リズムが狂うし…何より、そんな行動をしていて倒せる相手じゃ無いような気がするんだ」
 犯す、と言われて、押し倒されていても全然危機感は無い。
 取手は、絶対、葉佩に不利なことはしないという自信がある。
 「もしも…俺が、この気持ちに気づかないままだったら、背中を預けられる<友達>として連れていったかもしれないし、気づいたのがもっと早かったら、そういう戦い方に慣れる時間もあったんだけど。今は、駄目だ。俺はまだ、お前が好きで、すごく大事で、いなくなったら死にそうなくらい滅茶苦茶に好きって気持ちに、慣れてない。…だから、連れていかない」
 取手の顔は、まだ暗い陰気を漂わせていた。
 目だけは強く輝きながら、唇が笑いの形に歪んだ。
 「相変わらず…理性的な分析だね」
 「…不満か?」
 葉佩は足を跳ね上げた。
 取手の重心を崩し、一瞬で位置を入れ替え、取手に馬乗りになる。
 襟首を掴んで引っ張り上げ、間近で叫んだ。
 「感情的になっても良いってんなら、言わせて貰うとな!逃げて欲しいんだよ、本音は!俺は、成功する自信がねぇんだ!もしも、失敗したら、古代の神さんが復活して…まずはこの学園が滅茶苦茶になるんだから、今すぐ逃げて逃げて逃げて…遠いところまで逃げて欲しいんだよ!」
 取手の頭ががくがくと揺れるほど力を込めて、それから葉佩は手を離した。
 「…逃げて、欲しいんだよ…ホントは…一緒に」
 怖い。
 死ぬのは、怖い。
 <宝探し屋>の勘は、逃げろ、と言っている。
 俺の敵う相手じゃ無い、死にもの狂いで逃げろ、と。
 命あっての物種、評価も糞もあるか、とにかく逃げろ、と。
 「それでも…死ぬのは、死ぬほど怖いけど…人が死ぬ気で頑張ろうって気になってんだから、これ以上、俺の神経の負担になるようなことは、止めてくれよ、頼むから」
 「…一緒に、逃げたいのかい?」
 先ほどとは逆に、取手が腕を伸ばして葉佩の頬に触れた。
 冷たい指先が瞼をなぞる。
 「本音は…そう。死にたくねぇもん。お前と、どこまでも一緒に逃げられたらいい」
 葉佩は自分の頬を撫でる取手の手を掴み、頬に強く押し当てた。
 「でも、逃げられないのも分かってる。…力が弱い、今のうちじゃないと、本気でとんでもないことになるってのも分かってる。…俺がやったことだから、最後まで責任取るのが筋だってのも分かってるし、もしも逃げたら…ずっと後悔し続けるのも分かってる」
 葉佩は辛うじて笑顔を作って、取手を見下ろした。
 取手の顔は、相変わらず苦しそうだったが…今は自分の熱に灼かれているというよりも、葉佩の痛みを一緒に感じているようだった。
 「…じゃあ…行くんだね。…こんなに、怖がってるのに」
 「うん、行くんだ。…すっげー、怖いけど。死にたくないけど」
 取手はそっと息を吐いて、ゆっくり上半身を起こした。
 膝の上に乗る形になった葉佩を柔らかく抱きしめる。
 「…本当は、さらって、逃げたいよ…行かせたく、無い。閉じこめて…それで世界が終わってしまうとしても、二人きりでいたい」
 「でも、しないだろ?取手も、きっと、後悔するから」
 葉佩は泣き笑いのような顔になって、それから立ち上がった。
 地面が、わずかだがずっと絶え間なく揺れている。もう時間がない。
 少しぼやけた視界を擦って、自分の頬を叩いて気合いを入れる。
 「そういう訳だから。お利口に帰りを待っててよ、ダーリン」
 「…共働きだけどね」
 さらっと日常会話的に返事を返した取手に、ははは、と笑う。
 装備を確認して、よし、と頷いた。
 「行って来る」
 「…うん。いってらっしゃい」
 葉佩は扉に向かいかけて…くるりと方向転換した。
 まだベッドに座ったままの取手に駆け寄り…身を屈めた。
 目を閉じて、触れるだけのキスを唇に。
 ほんの一瞬の接触の後、葉佩はにやっと笑った。
 「俺の、ファーストキス、預けておくから。帰ったら、返せ」
 「…倍返しにしてあげるよ」
 微笑んで送り出してくれる取手の顔を、絶対に忘れないでおこう、と葉佩は思った。
 絶対に。
 生きて帰って、きっと。



 僕は、ただひたすら<墓>から棺を出す作業に没頭していた。
 周囲の執行委員も役員も、各自それなりに仕事をしている。
 時折、地面が揺れる。
 そんなときには、みんな不安そうに目を見合わせて、でも、何も言わないまま作業に戻る。
 生徒会長は、いない。
 きっと、はっちゃんを倒すために下にいるのだ。
 間に合わないのに。
 はっちゃんを、今更倒しても、きっと復活してしまう。そのくらいなら、協力して一緒に神を封印した方が…はっちゃんの負担にならないのに。
 はっちゃんはあんなに怖がっていたのに。
 神の力を感じていたのだろう、自分ではかなわないかもしれないって思っているのに、更に会長とまで戦わないといけないなんて…あぁ、せめて会長だけでも、僕の方で何とかしておけばよかったな…。
 今、下には、皆守くんと、八千穂さんが潜っている。
 最後に女の子を連れていくなんて、と思ったけれど、はっちゃん曰く、「皆守も八千穂も、最初の最初に自分から首を突っ込んだんだ。最後まで付き合って貰おう」、だそうだ。
 どうも八千穂さんのことは、守るべき女の子扱いしていないような気がする…。
 そのせいなのか、さっきから墨木くんがすごく挙動不審だ。
 時々、自分で「気を付けェ!」と叫んでは硬直している。何か意味があるんだろうか。
 僕は、棺を横に並べながら、通りがかった双樹さんに、小さく聞いてみた。
 「あの…ひょっとして、生徒会副会長っていうのは…」
 双樹さんは、眉を顰めて僕を見上げてから、頬にかかる髪を払った。
 「そうね。今更、隠すことでもないわね。…皆守よ」
 「…やっぱり…そうなんですか」
 じゃあ、はっちゃんは、連れていったバディの一人も敵になっているのか。
 何て不利な状況。
 まあ…はっちゃんは、気づいていたらしいので、不意を付かれたりはしていないだろうけど…。
 あぁ、心配だな…後で、帰ってきたら皆守くんはしっかり生気を吸い取っておこう…。
 「取手、貴方。分かってて、葉佩を行かせたの?」
 「はっちゃんが…そう決めたから。…双樹さんも、会長を行かせたでしょう?」
 「…そうね」
 双樹さんは、豊かな胸を反らせて、赤い髪を掻き回した。
 「待ってるだけって、本当にイライラするわね」
 そう言って、腰を振りながら歩いていって…少し離れたところで
 「ほら、夷澤!もっとはやく外しなさいよ!」
 「あんた、口ばっかじゃないっすか!自分でやって下さいよ!」
 …八つ当たりだな。
 彼女も、<置いて行かれた>のだ。
 もしも<終わる>にしても、そうでないにしても…最後まで一緒にいたいと望んだだろうに…置いて行かれた。
 …僕も、だ。
 それも、ただ<置いて行かれた>のではない。
 僕の気持ちも、彼の気持ちも…それが、戦いの邪魔になるから、という理由で置いて行かれたのだ。
 はっちゃんは、気づいているのだろうか。
 それが、酷く残酷な通告だということを。
 <好き>という気持ちが、<邪魔>で<迷惑>だと…彼にとっては、<切り捨てるべきもの>だと言ったも同然だということを。
 …たぶん、気づいていないだろうな。はっちゃんはとても…鈍感だから。
 鈍感で正直者。
 あれが彼の本音なんだろう。
 はっちゃんは、僕を<好き>で<恋人>になったと思いこんでいるけれど…本当はやっぱり、その気持ちは<迷惑>で置いていきたいと考えているのだ。
 はっちゃんは、一見優しいし、人懐こいようだけど…本当はとても残酷な人だと思う。
 <仕事>に邪魔なら、容赦なく切り捨てる合理的な人。
 今は僕を<恋人>だと思いこんでいるけれど…きっと、僕を切り捨てて行ってしまうのだ。
 <仕事>には不要だとか何とか、彼にとっては<当たり前>な理屈でもって、罪悪感の欠片も無く。
 本当に…何で、こんな酷い人を、好きになってしまったんだろう。
 僕は、長い溜息を吐いて、仕事に戻った。
 顔を上げると、空には星が瞬いていて、月も青い光を放っている。
 こんなに綺麗な世界が…終わるとは思えないけれど…。
 途端、先ほどまでとは比べものにならないような突き上げが地面を揺らし、僕は腕を伸ばして、つんのめった椎名さんの体を支えた。
 「ありがとうございますぅ…」
 びりびりと<気配>を感じる。
 執行委員たちは、落ち着かない様子で手を止めて、下を見つめた。
 この世界が終わらないとしても。
 もしも、はっちゃんがいなくなったら、僕の世界は、終わる。
 
 もしも、下から姿を見せるのが<神>ならば。
 僕のこの身を呪詛の塊に変えてでも、闇に引きずり込んでやる。


 何度か続いた激しい縦揺れと地響きに、寮で寝ていた学生たちも騒ぎ出した気配があった。
 もう、遅いよ。
 君たちが危険に気づいた時には、もう全てが終わっているんだ。
 どこにも…逃げられないよ。
 もしも…もしも、彼が帰ってこないなら。
 いっそ、世界の全てが死に絶えてしまえばいい。
 全てが闇に包まれてしまえばいい。
 自分の、そんな破壊衝動に気づいて、僕は頬を歪めた。
 僕の中には、未だ<闇>がある。
 はっちゃんがいなければ、僕は喜んでそちらに身を委ねるだろう。
 所詮、僕は…暗く淀んだ沼なのだ。
 明るく輝く生命を、引きずり込んで濁らせてしまうのを喜びとする沼なのだ。
 たとえ相手が<神>であれ…引きずり込まずにおくものか。






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