風と水と 13
その日は終業式だった。
これで明日からは思う存分本業に勤しめる、と思っていたのだが。
<その>時、葉佩はちょうど寮に戻っていた。
屋上でパンを食べるのも寒いため、こっそり自室で温かいものでも食べようと思っていたところに、ヘリの爆音が聞こえてきた。
東京の空にだって、ヘリコプターが飛ぶことはある。
けれど、それは近づく一方で…葉佩の神経にちりちりと灼けつくような刺激が走った。
危険、危険、危険。
手早く学生服の下にいつものアサルトベストを着け、コンパクトな武器を選んで収納する。
物陰を選んで走っていくついでに、ヘリを確認すると、まるで軍隊のような格好の人間が正確な動きで展開しつつあるところだった。
相手は、プロだ。
人殺しを訓練された、プロフェッショナル。
ざわり、と背筋の毛が逆立った。
何故に、この学園にそんなものが来るのかは分からない。
が、<秘宝>のある場所には、軍隊が派遣されることもままある。
もしもそうなら…相手は、<秘宝>を手に入れるためになら、立ち塞がる者を排除するのに躊躇うことは無いだろう。
だとすれば。
葉佩は校舎に入り込み、一番手近な男子トイレに飛び込んだ。
まだ学生たちは、何が起きたのか分かっていない。
物珍しそうに外を見ている。
葉佩は、天井の板を外して配管の走る天井裏に潜り込み、板をはめ直した。
誰かの悲鳴が聞こえた。
制圧は速やかに行われた。
銃を振りかざした軍人が教室の生徒たちを追い出していく。
冗談だと思った馬鹿な学生がのこのこ近づくと、思い切り殴られて意識を失い、次は撃ち殺す、と警告を受ける。
葉佩はそれを天井裏から見ていた。
とりあえず、いきなり大量虐殺に向かってはいないようなので、そう言う意味では、ほっとするが…外で指揮官と思われる下品な男と喋っているのが、自分と同じく<転校生>だと知ってまた背筋を凍らせた。
仮にも<学生>として侵入していた男だ。
葉佩が取手と<非常に仲がよい>ことくらい知っているはず。
もしも目的が葉佩でもあるなら…取手が危険だ。
敵の目的は、おおかた<秘宝>だろうが、商売敵である自分も標的の一つである可能性は高い。
今のところ、敵は<葉佩九龍>を探せ、とは言っていないが…取手を早めに確保しておくに越したことはない。
どうやら、敵の指揮官と<転校生>は墓地の方に向かったようだ。
この場に残るのが兵士のみならば…正面切っての<戦争>は無理でも<ゲリラ>なら得意とするところだ。
何とかなる…いや、何とかするしかない。
何度か空振りした挙げ句に、ようやく音楽室に行くことを思いついてそちらに向かう。
音を立てないように埃だらけの天井裏を匍匐前進しつつ、葉佩はまるで自分が二重人格にでもなったかのような奇妙な感覚に苛まれていた。
3−Aに取手がいないのを見て、頭が真っ白になり足がコンニャクにでもなったかのように力が入らなくなった自分と、こんな時だからこそ冷静になれ、と理性的に囁く自分と…更に、それを客観的に観察して、何故そんなに動揺しているんだろう、と考えようとしている自分と。
…あぁ、それでは二重人格ではなく三重だが。
おかしい。
自分は、そんな性質では無かったはずなのに。
どんな事態にでも対応できる肝の据わったプロフェッショナルだと思っていたのに。
もしも音楽室にも取手がいなかったらどうしよう、と子供のように泣き喚きたくなっている自分を、珍奇な動物でも見ているかのように観察しているもう一人の自分。
ともかくは音楽室の上まで来て、その前の廊下には敵が一体しかいないのを確認する。
戦うべき相手がいれば、少し動揺が紛れて戦闘マシーンの部分が強くなったので、天井から飛び降り、一気に延髄を貫いた。
応援を呼ぶ暇も与えず一撃で倒した葉佩は、それを柱にもたれさせて、自分の鍵束を探った。
緊張しているのか、なかなか鍵が入らず苛立ったところで、扉が小さな軋みを上げて開かれた。
そこに立つ取手の顔を確認して、葉佩は一瞬顔を歪めてから、無言で取手を押し込むように音楽室に入り、扉を閉め鍵をかけた。
右手に持っていたコンバットナイフを腰に収めると、取手の指がゆっくりと葉佩の頬を拭った。
骨張った白い指に付いた血に眉を顰めて、葉佩はポケットから取り出したハンカチでそれを拭き取った。
「返り血だよ。…俺のじゃない」
とにかく扉から離れようと取手の腕を掴み、ピアノの方に向かう。
万が一、攻撃されたら少しでも遮蔽物がある方がいい。つまり、ピアノを盾にする気満々なのだが。
大人しく葉佩のされるがままになっている取手は、いつもと変わらず顔色が悪く…少しぼぅっとしたような現実離れした空気を纏っていた。
あぁ、この人は、一般人なんだなぁ、としみじみ思う。
こんな状況で、ピアノのところに来るなんて。
敵対行動では無いが、従順でも無いとして、排除されても仕方がない行動だ。
それに、大勢の生徒がいる場所では、生徒を殺すことは無いかもしれないが…パニックになった集団は手に負えない可能性があるので、出来れば大人しく閉じこめておく方が良い…こうして群から離れた羊を殺さないでいる可能性は恐ろしく低い。
今更ながら、敵が取手を見つける前に、自分が見つけられて良かった、と思う。
もしも、敵が、ここに一人でいる取手を見つけていたら。
「…はっちゃん?…震えてるのかい?」
取手が、突っ立ったままの葉佩を柔らかく抱き取って、軽く背中を宥めるように叩いた。
「大丈夫だよ…僕が、命に代えても、君を守るから」
「…違うっ!」
叫びかけて、自分で自分の口を覆う。
腕を伸ばして、取手の背中に手を回して思い切り抱きついた。
温かな、体。
まだ、生きている、体。
がむしゃらにしがみついて、取手が無事なことを全身で確認して、ようやくがくがくと震えていた膝が少し落ち着く。
そうして、突然に。
葉佩は、自分の望みを知った。
「俺は…お前を、守りたいんだっ…」
理性では、こんな体勢では敵の襲撃があった場合に不利だと分かっているのに、どうしても離れられなかった。
押しつけた耳から直接聞こえる、取手の鼓動。
「お前が…どこにいるのかって…最初、A組に行ったけど、お前の姿は無いし…もう体育館に行ってるのかと思ったけど、いないし…もう、俺、ホントに…パニックになっちゃって…」
「…ピアノが…傷つけられると嫌だな、と思って…つい…」
「つい、じゃねぇよ!ピアノなんかより、お前の体の方が大事に決まってるだろ!?…お前が…怪我でもしたら…俺…ホントに…」
取手にも、戦闘能力はある。
だが、いざという時相手を殺すのに躊躇いのない兵士と、こんな教室という日常風景の中で、敵を殺す経験の少ない取手とでは、圧倒的な能力の差でもなければ兵士が先手を取る可能性が明らかに高くて。
そして、先手を取られる、ということは、一撃で殺される、ということだ。
取手が、殺される。
自分の想像に、全身の血が凍り付いたような気がした。
またがくがくと震え出した体を、取手が抱きしめてくれた。
自分の温かさを分け与えるように背中をさすり、躊躇いがちに額に唇を落とした。
「…怪我なんて…してないよ。…大丈夫…僕も、戦えるから…」
「イヤだよ!…俺は、取手に、かすり傷一つ、付けて欲しく無いんだ!」
「平気だよ…少しの怪我なら、敵の生気を吸えば治るし…」
「それでも、イヤなものは、イヤだ!」
小声のままだが叫び続ける葉佩に、取手は困ったように首を傾げたが、不意に微笑んだ。
場違いだと分かっているのに、久々に見る微笑に思わず見入る。
「…僕の気持ちが…少しは、分かって貰えたかな…」
「僕の気持ちって何?俺を好きだってこと?」
「そうじゃなくて…まあ、君が好きだから、そう思うんだけど…君が、怪我をするのは、嫌だっていう気持ち。どうせ治るからって、少しの傷は気にしない君を見て、僕がどんなに辛い思いをしているか、分かって貰えた?」
え、と黙り込む。
そういえば、取手はいつも、葉佩に怪我をするなとうるさかった。
ちょっとした怪我でもすぐ治してくれていたけれど…それは、血を見るのが苦手なんだと思っていたけれど…そうじゃなかったのか。
葉佩は自分の胸を押さえて、ぼそりと呟いた。
「取手も…ずっと、こんな気持ちだった?」
「…さあ…君の気持ちが、分かる訳じゃないから…」
「取手が、怪我すると思ったら、自分が怪我するのの何倍も痛くて、泣き出したいくらい…苦しいんだけど」
「なら…一緒、かな」
取手が柔らかく同意したので、葉佩は抱きついたまま取手を見上げた。
何か考え込んでいるような取手が、視線に気づいたのか葉佩を見下ろす。
しばらく見つめ合って。
「そうか…俺は、取手が、好きなんだ」
葉佩が妙に納得したような声で言ったので、取手は薄い眉を上げた。
「そうだね…はっちゃんは、<友達>の僕が好きで、大事なんだろう?」
「<友達>なのかな?これって。こう言うと、俺がすっげー冷たい人間みたいだけど、他の奴ならそんなに…他の<友達>もそりゃ心配じゃないことは無いけど、でも、取手だけが心配で心配でどうしようもなくて探しちゃったし…いや、<友達>の<一番>なのかも知れないけど…」
でも、他の誰が死のうが、たぶん、自分はそこまで取り乱さない。
取手だけだ。
取手が怪我したら、と思うと、泣き喚きたくなるくらい絶望に塗り潰された。
たぶん、理性では大したことが無い傷だと理解していても、取手が怪我をしていたら、とても見てはいられなくて何とかして治そうとするだろう。
そうか、取手はずっと、こんな気持ちだったのか。
でもって、取手の気持ちを<好き>だと言うなら、自分の取手に対する気持ちも<好き>であるはず。A=X、B=Xならば、A=Bと言える。以上、証明終わり。
むぅ、と考えつつも取手の目を真剣に見つめると、少し眩しそうにしながらも取手は目を逸らさなかった。
「うん、俺、取手が<特別に>好きなんだと思うよ。だって、取手が怪我するより、俺が怪我する方がマシだと思うし。誰より、好きなんだ」
「…じゃあ」
低くくぐもった声に、少し震える。
「僕と…セックスしたい、と…そう思うかい?」
「いや」
首を振ってから、苦笑いする。
「だって、取手は入れる方じゃん。相手が男か女かの違いはあっても、行動に変わりはないかもしんないけど、俺は入れられる方よ?…取手見て、入れて欲しいとか思ったら、俺がすっごい変態みたいじゃん」
それでも、取手が納得していない、と言うか、やっぱり疑っているようなので、葉佩は唇を尖らせて文句を言った。
「信じなさい。俺は、取手が好き。たぶん、<友達>じゃなくて、LOVE」
「…信じろ、と言われても…」
「じゃあ、キスしたら、信じてくれるか?」
「…セックス、したいって言ったら…信じる」
抱きしめていた腕がするりと下がっていって、葉佩の尻を撫で、指が強く一点を押さえた。
妙に的確なそれに、むしろ感心して葉佩は取手を見上げて言った。
「取手の思考って、すっっごく複雑だけど…時々、おっそろしく直球だなぁ」
「…返事は?」
「まあ、俺としては、あんまり拗くれまくった変化球を寄越されるよりも、分かり易くて良いんだけど…いや、これもそのままの意味じゃなくて、何か裏に隠された意図でもあるのか?」
「別に…そのままの意味だよ…君の、ここに、入れたい」
「いいよ」
さらっと答えると、取手が少し首を傾げた。
「……は?」
「いや、だから、いいよって」
「いいよって…入れてもいい…ってこと?」
「うん。…ま、今すぐじゃ無いけどな。こんな状況で初体験に挑むほど、俺は器用じゃないのよ」
「…ついさっき、セックスしたいとは思わないって言わなかった?」
「積極的に、したい、とまでは言わないよ。でも、取手となら、イヤじゃないから、別に構わないかなーって」
葉佩としては、思考の流れはごく普通のつもりだった。
特別に好きな、いわゆる<恋人>と称される相手と体で愛を確かめ合うことは、世間一般的に平常に行われているのだから、自分たちにおいてもそれは当てはまるはず。
まだ取手を抱きたい、とか、抱かれたい、とか、積極的に希望するところまではいかないが、それが<あるべき流れ>なら躊躇う必要性もない。
葉佩の様子があまりにも自然なせいだろう、取手はまだ疑わしそうに凝視していた。
「任務終了したら、しような」
取手が安心するように、にっこり笑って言ってやったのに、ますます眉を寄せて何か悩んでいるらしいので、目の前にある鎖骨にキスをした。
わ、と小さく叫んでから、取手の手が葉佩の頭を撫でた。
いつものような、子供にするような撫で方ではなく、愛撫のようなそれに、葉佩は顔を上げた。
「…本当に?」
取手が不思議な目の色で囁くように言ったので、葉佩も、そっと囁き返した。
「うん。本当」
大きな手が後頭部に固定されたので、あぁきっとキスされるんだろうな、と葉佩はじっと取手を見上げていた。
「同志が倒れている!」
「敵が潜んでいるかもしれん!気を付けろ!」
無粋な声が、近づいてくる。
瞬時に色めいた気配を消して、葉佩はちぇ、と舌打ちした。
「やっぱ、敵さんやっつけてからでないと、落ち着かないわ。…やっちゃえ」
「…僕も…」
「取手は、そっちで隠れてて。…お願い、怪我させたくないんだ」
「僕も、同じだって…言ったはずだけど」
「恋人記念に、言うこと聞いてよ」
取手をピアノの方に押しやって、葉佩はベレッタに弾丸を込めた。
音を立てて仲間に集まられると厄介なのだが、どっちにせよ、二体同時に瞬殺出来ない以上、連絡される危険性はある。
なるべく密着して、音を消すしか無いだろう。
相手は<化人>ではなく、人間で…取手には<人殺し>になって欲しくない。
葉佩自身は、全て<敵>で括られるし、とっくに<人殺し>の身なのでどうでもいいが。
「…で、何で俺が駆り出されるんですかね」
「だってさ、他のみんなは何かしら守るものがあってさぁ。お前なら、そんな対象が無いかなーって」
ぶつぶつ言う後輩を引き連れて、遺跡に潜る。
「へー、それじゃあ、そこの猫背先輩も…」
ひゅんっと軽い音を立てて、夷澤の頸動脈に荒魂剣が当てられた。
今は火力は押さえられているとはいえ、殺傷能力が高い武器を急所に当てられて、夷澤はやけくそのように両手を挙げた。
「はいはい、取手先輩、ね」
「そうそう、いい子だねぇ、夷澤くんは」
「けっ。…で、その取手先輩っすけど。取手先輩も、守るもんが無かった口っすか?」
荒魂剣がひらひらと振られた。
目の前をよぎる炎に、夷澤は嫌そうにバックステップで避けた。
「いや、取手はピアノを守りたいって言ったんだけど」
「なら、守らせておきゃあいいじゃないっすか」
「それもむかつくじゃん。俺よりピアノが大事なのーって」
「な…何っすか、それは!」
夷澤は自分より背が低い貴重な先輩を見下ろした。
このちょっと可愛い系の先輩が、真理野や神鳳を使い走りにし、双樹や朱堂を手込めにし、更には取手の熱烈プロポーズを受けた、という噂なら知っている。
あんまりにも荒唐無稽すぎて、眉唾だったのだが…少なくとも、取手部分は真実だったのか。
「…僕としても…ピアノよりもはっちゃんを守りたいのは確かだけど…」
「いや、これでも悩んだのよ?本当は、取手には安全なところにいて欲しかったわけ。でも、この状態じゃ、下手に上に残しておくのも安全とは言い切れなくてさぁ。むしろ俺の目の届くところにいて貰った方が、俺の手で守れていいかなーって思って」
照れもせず、極々自然な口調は、本人が当然のことを言っているつもりだからだろう。
しかし、それを聞かされる方の身はたまらない。
「…そんなら、いっそ、あんたら二人で潜りゃいいじゃないっすか…」
「いいか、いいことを教えてやろう、可愛い後輩」
ぶつぶつ文句を言いながら、その辺の岩を蹴った夷澤に、葉佩はにっこり笑って言った。
「弾避けは、いるに越したことは無い」
「盾かよ!」
「まー、お前じゃ取手の盾にならないけどなぁ。もうちょっとでっかくなれよ、ちび」
「あ、あんたに言われたくないっすね!」
「俺のは故意に小さくしてるだけだもんねー」
「結果的にゃ俺より小さいじゃないっすか!」
「だからといって、お前がちびじゃないって訳じゃないけどなー」
「ちび言うなー!帰りますよ、いい加減!」
「まあまあ。もうちょっと遊んで行きなさい。…暑いのよ、この区画」
「俺はクーラーじゃねぇ!」
小さいのが二人、ぎゃあぎゃあ楽しそうに言い合っているのを後目に、取手は岩を叩きながらぼそりと言った。
「…はっちゃん…このあたり、反響が違うんだけど…」
「お、サンキュ、取手」
嬉々として小型削岩機で岩を削っている葉佩を見ながら、取手は夷澤を見下ろした。
「…何っすか?取手先輩?」
「はっちゃんと…仲が良いなぁ…って思って…」
「あんた、目ぇ悪いんすか?あぁ、悪いのは耳?それとも頭っすか?」
「夷澤くぅん?この削岩機、人間も削れるんだけどぉ?」
「恐ぇっすよ!こっち向けんな!」
「…やっぱり、仲良い…」
「どこが!」
夷澤は本気で吐き捨ててから、壁にどすんともたれた。
葉佩のことは、正直、まあ、嫌いじゃ無いとは思う。
怪しげなもんに操られていようが、それで敵対しようが、素のままでやり合おうが、葉佩はいつでも態度が変わらずに面白そうに戦っていた。
亡霊につけ込まれた奴だと思われて馬鹿にされるのなんてごめんだし、同情されるのもまっぴらだが、葉佩はどれもしないで、こうやって<遊び>に連れ出してきた。
戦いぶりは一流だし、まあ、認めてやってもいいんじゃないか、と思う。
が。
仲が良いか、というと、少し違う気もする。
「仲が良いってぇのは、あんたたちのことを言うんじゃないっすか?」
別に目の前でいちゃいちゃしている、というのではないのだが、何となく雰囲気が。
出会ったばかりの自分では立ち入れないような、信頼し合っている自然な空気の流れが、二人を取り巻いているのだ。
むしろ、自分の方がお邪魔虫になったようで気分が悪い。
「そりゃそうよ。俺たち<恋人>だもの〜」
冗談のような調子で、葉佩が振り返った。
手にしたものを見て、夷澤は顔を顰めた。
「何すか、それ」
「さあ。何でも良いじゃん?ただの<鍵>だよ」
それが鶏の形だろうが、蛇だろうが、葉佩としてはどうでも良かったので、さっさと収めるべき場所に収めて扉を開く。
「おー、溶岩だなぁ。…夷澤、お前から行くか?」
「あんた、そういうこと言いますか!?」
「冗談、冗談。じゃ、先に行くから」
ひょいひょいっと飛び越えていくのを、無言で取手がくるりと回転しつつ追った。
「ちょ…待てって!」
夷澤も慌てて飛んでいき、追いつくと、葉佩がぐりぐりと頭を撫でてきた。
「よしよし、ちゃんと付いてきたなー」
「あんたね!俺を犬か何かだと思ってるんすか!?」
「いやー、俺、周囲に年下いなかったんだよねー。弟がいたらこんな感じかなーって」
「俺より小せぇくせに、年上ぶるなっ」
「身長は関係ないじゃん!」
「…ほら、やっぱり、仲が良い…」
途端に取手の方に向いた葉佩にむかついて、よほど溶岩に蹴り込んでやろうかと夷澤は思った。
葉佩は完全に夷澤に背中を向けて、伸び上がるようにして取手の顔を覗き込んでいる。
「なに、取手、ひょっとして妬いてる?」
「…そうかもね…」
「えー、そんな必要無いのにー。夷澤は弟みたいで可愛いけど、取手は恋人として好きなんだから、別格だよ?」
「…そう」
「もー、何でそんな反応かなぁ。恋人としてって言ってるのに、嬉しく無いのか?」
「はいはい、とっても嬉しいです」
「…馬鹿にしてるなー」
棒読み口調のそれに、むぅっと唇を尖らせて、葉佩はずかずかと夷澤の方に歩いてきた。
何だ何だと夷澤が見ていると、むんずっと腕を掴まれた。
「もーいーもーん。夷澤と遊んでやるからなー」
「ちょっ…俺を巻き込まないで下さいよっ」
「まあまあ、そう言わずに。ほーら、化人さんのお出迎えだよ、あっち任せたから」
「てぇーい、もう自棄だ!凍っちまいなぁっ!」
そうやって、化人やテロ集団を倒していって。
創生の間で挽肉製造器をぶっ潰して、鬼と戦って。
試験管ベビーもさっくりやっつけたところで、夷澤はぐったりと息を吐いた。
「あー、疲れた」
「お疲れさん。夷澤、スタミナ切れかー?やっぱ、ちびは体力が無くて駄目だな。ほら、アイスやるよ、ミルクアイス」
「あんたが言うなっつってんだろ!」
とは言うものの、葉佩はあれだけ連戦してもけろっとしているのだから、夷澤もこっそりと相手の力量に敬意は払っていた。絶対、口には出さないが。
「ま、俺はプロだからねぇ」
「…それで、<人間>は、全部、はっちゃんがトドメを刺していたのかい?」
ゆっくりとした取手のセリフに、葉佩の背中が一瞬強張った。
「…いや?偶然じゃね?夷澤がひ弱くって削りきれなかったって言うかー」
にやにや笑う葉佩に軽いジャブを繰り出しながら、夷澤は戦闘を思い出していた。
確かに、<化人>を自分に任せて、その後降ってきたレリックドーンの連中は、葉佩が一閃していた。
挽肉も鬼も、参戦はしたが、いずれもトドメは葉佩。
「あんたねぇ、くだんねぇこと気にしねぇでくれます?」
「いや、してないって。いや、ホント」
「俺はねぇ、この拳でいずれ頂点に上り詰める男っすよ?人間の一人や二人、殺ったって、箔が付いたってなもんっすよ」
「あのさー、夷澤」
ひょいひょいかわしていた葉佩が、手のひらで拳を受け止めた。
痛そうに顔を顰めてから、手を伸ばして夷澤の頭をぐりぐり撫でる。
「ボクシングも、スポーツでしょーが。人殺しなんて、しないで済むなら、それでいーの。箔なんて付きゃしねーよ、人殺しに」
「綺麗ごと言ってんじゃねぇって感じっすね。自分の手は汚れてるくせに」
葉佩が一瞬、本気で痛そうな顔をしたので、夷澤はぐるりと後ろを向いて座り込み、手にしたアイスを舐めた。
溶岩地帯で、体を動かした後に食べるアイスは格別だ。
今までそんな経験が無かったので、比べようも無いが。
ぱりぱりとコーンを噛み砕きながら、夷澤は正面を向いたまま言った。
「自分が汚れを引き受ける、なんざぁ、人間の命を軽く見てるもいいとこじゃねぇの?」
「夷澤は意外と考えてんだなぁ」
「あんたが殺した命の分、1/3は一緒に背負ってあげますよ。あんた、ちびだから」
「身長、関係ねぇじゃん!」
いつも楽しそうな<先輩>が泣きそうなところなんて見たくない。
それにもまして、他の男に抱かれて慰められているところなんて、願い下げもいいところだ。
夷澤はアイスを食べ終わっても、あぐらを掻いて顎に手を突き、前を見つめ続けていた。
もっと早く出会っていたら、自分が慰め役になれただろうか?
そう考えてから、柄でも無い、と首を振る。
「あぁあ。俺にも、守るべきもんってのが出来る日が来るんすかねぇ」
「何だ、夷澤は守られたい方か?」
「何でそうなるんすか!」
強くなりたい。
その気持ちに変わりは無いが…でも、守るものも無いのなら、その<強さ>に意味はあるのだろうか、とふと空しくなる。
まあでもきっと、いつか出会う<守りたいもの>のために、研鑽しておくのも悪くない、と夷澤はやっぱり先輩たちに背を向けたまま思った。