風と水と 10
葉佩は、一応は教室にいた。
「次、葉佩」
「はい。『彼女は膝を突き、消火器を投げ落とした。男が悪態を突いている間に、彼女は教室の後ろの扉から走って出ていった。誰にも迷惑がかからないところ、と彼女は考えた』…次のセンテンスも?」
「そうだな、このページの最後まで」
葉佩は機械的に英文を和訳して読み上げた。
OKを出されてイスにすとんを座り、もう当てられまい、とまた考え始める。
取手のことは、好き。
すごく、好き。この学園で、誰より好きだと自信を持って言える。
だがしかし。
そういう意味で好きか、と言われると…まったく考えたことも無いので分からない。
喩えて言うなら、動物の中で象が一番好きー、じゃあペットとしてあげるよ、えっペットとして好きかどうかなんて考えたことないよっ!みたいな。
…ちょっと、違うか。
それにしても、取手が男を恋愛対象に見られる人間だとは気づかなかった。
あれか、お姉さんが素敵すぎて、女の子はみんなジャガイモにしか見えてないとか。…いや、自分がジャガイモ以上の魅力を持っているとはとうてい思えないが。
葉佩は自分の感情を整理する。
取手に、<友達>じゃなく<恋人>になりたい、と言われたのはショックだった。
何故、ショックを受けたのか?
それは、取手が嫌いだとか、自分がそういう対象に見られていたのがイヤだとかじゃなくて、たぶんは、<友達>では無く、という部分がショックだったのだ。
葉佩は、この学園で初めて同年齢の<友達>を持った。
それは、とてもとても大切な<宝物>だと思ったのだ。
なのに、取手が<友達>じゃなくなるのは、寂しい。
何とかして、<友達>でいる方法は無いだろうか。
きっと、取手は何か勘違いしているのだ。
葉佩は取手を墓守から解放して、闇から引きずり出した人間だから、感謝とかそういうのを恋愛感情だと誤解しているのだ。
たぶん、そう。
きっと、そう。
そういう心理方面ならルイリーが教えてくれるかもしれない。
よし、昼休みには保健室に行ってみよう。
とりあえずの方向性を決めた葉佩は、それっきり考えを棚に上げて授業に意識を向けた。
挙動不審なのはいつものことだろうが、教科書を見ながら溜息を吐いたり赤くなったりしている自分は、いつも以上に不審人物だろうと気づいたからだ。
そして、昼休み。
速攻で保健室に行って、呼びかける。
「ルイ先生…!」
「…なるほど、君の想定は間違っていないようだ」
ルイリーが横を向いて言ったので、葉佩も目を向けた。
その長い手足の生徒は。
がっくりと床に突っ伏す葉佩に、取手が冷ややかな声を落とす。
「ルイ先生に相談かい?…僕の感情が、一時的な気の迷いとか、何かの心理的防御だとか、そういう話が聞きたいのなら、僕がノーだと答えてあげるけど」
どうやら、葉佩の思考過程を想定して、先回りしていたらしい。
俺ってそんなに分かり易い!?と涙しながら、葉佩は立ち上がって膝の埃をはたいた。
「…って言うか、ルイ先生に言ったのかよ!」
「どうせ、ばれてるだろうと思ったからね。僕の君への感情を、気づいてなかったのは君くらいのものだよ」
「うっそ、マジ!?」
当の本人が気づいてなかったのに、とルイリーを見やれば、あっさりと頷かれた。
「取手は、隠してもいなかったからな」
「ちょっとは隠せ!」
顔を背ける取手からは、後悔などは感じられない。
それで双樹は怒ったのか、と今更気づいてみる。
取手のために怒るなんて、いい子だよな、と改めて思ってから、葉佩はルイリーを見た。
面白そうに見ているので、どうやら介入する気は無いらしい。
「えーと、一応ルイ先生に確認しますが。…やっぱ、取手のは、その…<恋愛>?」
「私に聞くな。本人がそう言っているだろう」
「うわ、職務放棄だ!」
喚いてから、恐る恐る取手を窺った。
取手はゆっくりと唇の両端を釣り上げて…全く目は笑っていないが…静かに告げた。
「そうやって、いつまでも逃げるつもりかい?」
「ににににに逃げてなんかないっ!何て言うかこれはその、可能性を潰していってるだけというか!」
「いいよ、逃げて」
ふと取手が微笑んだ。
どこか空虚な表情に、最初の頃を思い出して葉佩は眉を顰めた。
「逃げて逃げて…僕の手の届かないところまで、逃げた方がいい。僕が、酷いことをしでかす前に」
「逃げないっつってんだろ!とりあえず、放課後までには手付けを払うから覚悟しとけ!」
そうして、葉佩は来たときと同様に走って保健室を出ていった。
あぁもう、何で、きっぱりと切り捨てられないのだろう。
気を持たせる方が残酷なのは理解しているのに、それでも離れたくないのだ。
葉佩はそのまま屋上に駆け上がり、フェンスにしがみついて、空に向かって叫んだ。
「ちくしょーっ!取手が好きだーーっ!ばかやろーーっ!」
給水塔で昼寝をしていた皆守がずり落ちた。
教室に戻ると、八千穂が寄ってきて目を丸くして聞いてきた。
「どしたの?叫んでるのが聞こえたよ?」
「叫びたくもなりますのよ。俺が挙動不審なのなんて、今更じゃん」
「んー、まあ、そうかもしれないねー」
「…自分で言って何ですが、あっさり肯定されると、こう…」
ぶつぶつ言ってから、葉佩は机に肘を突いて顎を乗せ、窓の外を見た。
空は変わりなく青い。まあ、冬なのでやや灰色がかっているが。
葉佩が取手にプロポーズされようが、<友達>だろうが<恋人>だろうが、空はやっぱり青いだろう。
…そう考えると、たいていの悩みはどうでもよくなるのだが…今回ばかりはそうはいかないようだった。
「八千穂さぁ」
「なに?」
「好きな男とかいる?」
「んー、気になる子ならいるかなー」
「そっかー…って、うおっ!マジでっ!?」
聞いておいて驚いて八千穂の顔をまじまじと見る。
八千穂はうっすらと頬を赤くしてぱたぱたと手を振った。
「やだなぁ、ちょっと気になるかなーってくらいだよ?そんなに驚かないでよ」
「いやー、八千穂も俺と一緒で、<恋人>より<友達>派だと思ってたから、てっきり…」
勝手な思いこみだが、八千穂は明るくて友達が一杯いて、それで満足しているのだと思っていた。
誰か一人を選ぶなんて思いもしなかったのだが。
八千穂は、んー、と首を傾げて、葉佩の机に同じように肘を突いて、内緒の話のように小さく言った。
「そりゃ、あたしだって友達と一緒にいるのは楽しいけど…でも、<恋人>だと、一段階上って感じ?二人きりでいられるだろうし…」
「<友達>だと二人きりではいられない?」
「そんなことはないけど…でも、<友達>だと、いっぱいいる<友達>と一緒じゃない?…この人とだけっていう感じはしないよね」
むぅ、と葉佩は腕を組んだ。
八千穂の言いたいことも分かるような気もするし…それなら<親友>でもいいじゃないか、とも思う。
いやまあ、<親友>はエッチなことはしないだろうが。
やはり<友達>と<恋人>の違いは、どこまでいっちゃうかの違いだろうか、と葉佩は思った。
どうやら、取手は葉佩を抱きたいらしい。
自分の体を思い浮かべてみて、どう考えても女の子の方が気持ち良いだろうに、と思う。
それでもいい、と取手が言ったら…さあ、どうしたものか。
取手と一緒にいるためには、肉体関係まで必要…でも、そのためなら我慢するっていうのは本末転倒な気がする。
と言うか、そもそも、この<恋人>になれるかどうか、を考える時間を貰うために、まずはほっぺにちゅーという子供でも出来そうなことをクリアしなくちゃならないのだが。
「八千穂さー」
「うん」
「その男にキスしたいとか思う?」
「んー…ちょっと可愛いから、してみたいかなー」
「したことはないんだ?」
「あのマスク外してくれたらねー」
…墨木かい、と葉佩は心の中で突っ込んだ。
いつの間にそんなに仲良くなったのやら。
「可愛いんだ?」
「何か撫で撫でしてあげたくなるんだよね。…あ、でも、結構頼れるところもあるんだよ?」
「だよな、やっぱ男は頼り甲斐…って、俺は何を語ってるんだ、俺も男だ、俺も」
ふと、自分が取手を思い浮かべて同意したのに気づいて、葉佩は慌てて頭を振った。
「大丈夫、九ちゃんも頼り甲斐があるよ?」
「ありがとー」
そこで昼休み終了のチャイムが鳴ったので、八千穂は立ち上がった。
ぽんぽんと葉佩の頭を叩いて、にこっと笑う。
「頑張ろうね、九ちゃん」
「そうだな、お互い…って俺は何を頑張るんだっ!」
一人ノリツッコミをしておいて、葉佩は頭を抱えた。
数学の授業を上の空で受けつつ、優先事項について考える。
ほっぺにちゅー。
何てことはないはずなのだが。
子供でも出来るし、家族なら今でも出来るし、異国では友達でもさっくりやっちゃうレベルだ。
てことは、取手にするくらい、屁の河童ってなもんだが。
葉佩は、朝のことを思い出した。
取手の頬に触れて。
朝なのに、髭とか生えて無くてつるりとした手触りで。髪の毛は、見た目通り、ややぱさぱさ。
別に、イヤなわけじゃない。
むしろ、気持ちよさそうな肌触りだとは思う。
けど、それに唇で触れるとなると…何かこう…猛烈に恥ずかしいというか…。
何でこの程度で照れるんだ。
たかだか皮膚の接触じゃないか。
外国では友達ででも…
ぐるぐると同じところを堂々巡りして。
放課後になっても机に向かって座って、一人でぶつぶつと呟いているという状況に気づいていない葉佩は、目の前に取手の顔がにゅっと現れたので、心臓が破裂するかと思うくらい驚いた。
「のわーーー!」
「…6限目は数学だったのかい?」
「ううん、数学は4時間目だよ。九ちゃん、ずっとあの調子でさ」
面白そうに八千穂が答えている間に、葉佩はばさばさと机の上のものを片づけて、周囲を見回した。
「い、いつの間に放課後に…」
「九ちゃん、すっごいトリップしてたよねー。それでもちゃんと当てられたら答えてるところが凄いけど」
「うっわ、全然記憶ねぇ!」
おかしなことを口走らなかっただろうか、と思い返してみても、そもそも当てられた記憶すら無い。
頭を抱えていると、取手が低く笑う声がしたので顔を上げた。
案外と、穏やかな笑顔。
けれど、やっぱり、どこか虚ろな。
「真剣に、考えてくれて、ありがとう」
きっと、取手は、諦めている。
葉佩が答えを出す前から、自分で勝手に考えて、諦めている。
取手は、いろいろなものを諦め過ぎだと思う。
もっと貪欲に、欲しいものは欲しいと言えば良いのに。
…いやまあ、欲しいとは言われているのか。はいどうぞ、と言えないのは葉佩の方で。
またぶつぶつと口の中で独り言を呟き始めた葉佩の目の前で、八千穂がひらひらと手を振った。
「九ちゃん?聞いてる?」
「のわっ!…あ、あぁ、聞いてますともっ!」
時計を見れば、もうじき下校時刻。
校舎の鍵を持っているとは言え、一旦は出ていくのが筋だろう。
だが、その前に。
「取手っ!そこに直れ…じゃなかった、ここに座れ!」
がたん、と席を立って、取手を手招きする。
素直に葉佩の代わりに腰掛けた取手は、随分と窮屈そうだった。
机にではなく横向きに座った取手の頬を見つめて、深呼吸して。
葉佩は取手の顔を掴んで、目を閉じた。
頭の中で、何度も「これは友達のキス」と自分に言い聞かせる。
そして思い切って、身を屈めて…思い切りが良すぎたのか、ちゅっどころか、ぶちゅっという勢いになってしまったことに気づいて、慌てて取手の頬を手で拭った。
「これで、手付けはクリアしたからな!」
びしっと指さすと、取手が俯いたまま肩を震わせた。
一瞬、泣いているのかと焦ったが、喉から漏れる妙な声は…嗚咽ではなく笑い声だった。
「笑うなぁっ!」
「だって…はっちゃん…君らしいって言うか…ホントに…」
くっくっくっくっと喉を震わせながら、取手は立ち上がった。
「随分…ダイナミックな<友達>のキスだったね…」
「お、俺はいつでも元気いっぱいの勢いありまくりなんだよっ!」
「本当に…そうだね」
取手が大きな手で頭をくしゃくしゃとしたので、葉佩は肩を竦めた。
取手に、こうやってされるのは、好き。
まるで、告白される前のような雰囲気に、葉佩はへらっと笑って取手を見上げた。
「夕食はどうする?マミーズ?」
途端に取手の顔から、表情が抜け落ちる。
一言一言噛み締めるように、取手は暗い目つきで葉佩を見つめながら言った。
「…それは、駄目。言っただろう?僕は、君と二人きりでは、いたくない」
<恋人>でないのなら。
取手の手も離れていってしまって、葉佩は寂しさに俯いた。
「…だって」
「だって、じゃなくて」
「取手は、意地悪だ」
「君が、鈍過ぎるんだと思うけど」
「一緒にいたいのに」
「僕は、一緒にいたくない」
平行線な会話に、唇を噛んで鞄を乱暴に掴む。
教室から足早に出ていこうとしたら、八千穂がぱたぱた走ってきて並んだ。
そういえば、八千穂が一緒にいたのだった。
…すっかり、存在を忘れていたけれど。
「何?また取手くんと喧嘩中?」
「喧嘩じゃないなぁ。…プロポーズ、されちゃっただけ」
「プロポーズ!?…っていいじゃない、別に。好きなんでしょ?」
「そりゃ、好きだけど。…でも、<友達>として、好きだし」
「そっかぁ…男同士だもんね。難しいなぁ」
一緒になって悩んでくれているらしい八千穂に、小さく笑う。
「俺が女の子だったら、何の問題も無かったんだけど」
「うん」
「取手が女の子でも、問題無いけど」
「きっと、尽くし系だよね、取手くんが女の子だったら」
「でもって、もっと嫌いな奴だったら、それも問題無かったんだけど」
「蹴り倒して終わりかな?」
「でも…好きなんだよなぁ。…だから、困ってる」
「そっかぁ」
あまり突飛なことは言い出さずに、上手に相づちを打ってくれている八千穂に、案外聞き上手なんだな、とふと思う。
「八千穂はさぁ。驚かないんだな。…男同士で恋愛なんて、おかしいとか思わない?」
「だって、もうとっくにくっついてるんだと思ってたし」
八千穂明日香、お前もか。
「取手くんは、九ちゃんにだけあんなに優しい笑顔見せるんだよ?九ちゃんも取手くんといるときが、一番安心してるって感じの顔してるし。だから、もう、恋人なのかと思ってた」
「<恋人>ねぇ…」
<友達>とどう違うんだろう。
肉体的には何の関係もしてなかったのに、周囲からは<恋人>に見えていたのか。
「分っかんないなぁ」
「九ちゃんは、そういうの、鈍そうだもんね」
「八千穂まで、そんなことを」
「だから、いっぱい考えたら良いと思うよ?誰も正解なんて持ってないんだし」
「まあ、考えるつもりではいるけど」
何せこれまでの人生の積み重ねが無いので、一人で考えても堂々巡りになってしまう。
それでも、考えるのが取手に対する誠意だと思うので、今日は自室に籠もって考えることにする。
「八千穂、ありがと」
「いいよ。…<友達>だから」
「うん、ホントにありがと」
そうして、女子寮に走っていく八千穂の後ろ姿を見送って、男子寮に向かう。
葉佩は非常に鈍いので、八千穂が葉佩にもかすかな恋愛感情を抱いていたことなど、欠片も気づいていないのだった。