風と水と 9




 僕はいつものように、寝る前に<処理>をしていた。
 夜毎の夢はとても生々しくて…そうしておかないと、必ず朝から洗濯をする羽目になって落ち込むのだ。
 どっちにしろ…はっちゃんを汚していることに変わりは無いのだけれど。
 はっちゃんのお尻の形、「とりで」と呼ぶ声、甘い溜息、滑らかな肌触り…断片的な想起で、僕のものは高まっていく。
 ティッシュで包み、小さく「はっちゃん」と呼ぶ。
 どくん、と跳ねた途端。
 電子音が鳴ったので、僕は誰かに見られでもしたかのように飛び上がった。
 ものすごい勢いで拍動している心臓を押さえながら、携帯を取り上げる。
 その表示に、何度も唾を飲み込んでから、オンにした。
 「…はっちゃん?」
 我ながら情けないほど、声が震えていた。
 まさか、このことがばれていたのか、と僕はあり得ないと分かっていながら恐怖に心臓を締め上げられていたのだ。
 「…とりでぇ…」
 だが、聞こえてくるはっちゃんの声も、震えて掠れていた。
 何事だ、と僕の頭が瞬時に冷える。
 今日は、遺跡には行かない、調べものをするんだ、と言っていたのに…危険な目に遭っているのだろうか?
 「はっちゃん!?どうしたの!?」
 「とりでぇ…まだ、起きてた?」
 「うん、もう寝ようとは思ってたけど、起きてたよ。何かあったのかい?」
 「あのさぁ…そのぉ…迷惑だとは思うんだけど…」
 はっちゃんにしては珍しく、ぼそぼそと言った挙げ句。
 「ごめん、もし、調子が良かったら…そのぉ…俺と一緒に寝てくれないかなぁ…とか…」
 「…は?」
 一瞬、頭の中に駆けめぐった光景は、とてもじゃないけど他人には見せられないものだった。
 でも、ほんの三秒ほどで立ち直って、僕は頭を振った。
 一体何が起こったのかは分からないけれど…とにかく。
 「はっちゃんは…自分の部屋にいるんだね?」
 「…うん…」
 「じゃあ、とにかくそっちに行くから…待ってて。それでいい?」
 「ありがとう…やっぱり、取手が一番、頼りになるなぁ」
 「それじゃ」
 嬉しい言葉をくれながらも、元気が無いのが気になった。
 何だろう、何かあったんだろうか。
 そう滅多なことでは落ち込まない人なのに…また、自分が一般人じゃない、とか傷つくようなことがあったんだろうか。
 僕は慌てて飛び出そうとして…ドアを出る直前にUターンして洗面所に飛び込んだ。
 手をごしごし洗って、臭いを確認する。
 それからコートを羽織って靴下も履いて、僕は部屋を出たのだった。
 はっちゃんの部屋でノックをする。
 きっと待っているだろうと思ったのに、すぐには開かない。
 もう一度ノックをすると、ポケットで携帯が鳴った。
 静かな廊下にそれが響いて、慌ててスイッチを探る。
 だが、それを切る前に、音が途切れた。
 何だったんだろう、と思っていると、目の前のドアがゆっくり開かれていた。
 おそるおそる、と言った風にはっちゃんが顔を覗かせている。
 そして、僕を見た途端に、ほっとしたように笑った。
 部屋の中に入ると、はっちゃんはすぐにドアの鍵を閉めて、チェーンもかけた。
 敵でも来る予定があるのか、と思ったけど、はっちゃんはパジャマのままだ。
 はっちゃんは僕の手をぐいぐい引っ張ってベッドに座らせた。
 自分もベッドに座って、じーっと僕の顔を見てから…いきなり抱きついてきた。
 「は、は、は、はっちゃん!?」
 「…あ゛あ゛あ゛〜怖かった〜」
 妙な声で言われた台詞を考えて。
 僕も腕の中の体をぎゅうっと抱きしめ返すと、はっちゃんが少し力を抜いた。
 「ありがとー。やっぱ、取手は頼りになるなぁ」
 パジャマ一枚通してはっちゃんの肌の温度を感じる。
 どきん、と心臓と…別の場所が高鳴りかけて、僕は慌てて力を緩めてはっちゃんの体を離した。
 「えっと…どうしたんだい?怖いって…何が?」
 「思い出させるなぁあ〜」
 はっちゃんは頭を抱えて、また僕にしがみついてくる。
 あうーあうーと唸って、僕の顔を上目遣いに見上げて。
 照れたような、媚びたような表情で訴えた。
 「何でもするから…一緒に、寝て?」
 ものすごい勢いで明滅した眼前に、僕は額を押さえた。

 落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け…

 肥後くんの汚れた制服とか夕薙さんの剃り残しとかを思い浮かべて、血を散らす。
 とりあえず、さっきの顔と声は後で思い出すことにして。
 僕はなるべく平然と囁いた。
 「何でもするって言うのなら…まずは、説明してくれないかい?」
 「…説明したら、一緒に寝てくれる?」
 傾げた首の角度が凶悪だ。
 僕は気づかれないようにやや逃げ腰になったが、はっちゃんはずいっと迫ってきた。
 「頼むよー。取手にしか、こんなこと頼めないじゃんかー」
 他にも、はっちゃんの役に立ちたいって言う人は大勢いると思うけど。
 …あぁ、でも、だからといって、他の人がはっちゃんと一緒に寝ると思うと…とてもじゃないけど、僕も寝られそうにない。
 「…分かったよ…僕と一緒だと狭いと思うけど…どうしても一緒に寝ると言うなら、僕のベッドに行くかい?その方が広いから」
 「やだ。部屋から出たくない」
 …この狭いベッドで、一緒に寝ろ、と。
 どうなんだろう、一般論として、男友達が二人で狭いベッドに寝るというのは…おかしくないんだろうか。
 泊まり合いをしているっていう話を聞いたことはあるから…でも、ベッドで一緒に寝ているのかどうか。
 「…駄目ぇ?」
 あぁもうそんな潤んだ目で見上げて…僕の理性を試しているつもりなんだろうか。
 「…本当に、良いんだね?狭いよ?」
 「俺、取手にしがみついてるから、大丈夫」
 …神様…試練はもう結構ですから…。
 僕が溜息を吐くと、はっちゃんが狼狽えた顔で僕を覗き込むようにして…頼りなく呟いた。
 「ホントに…迷惑なら、諦めるけどさ」
 分かってないんだから…。
 僕はもう一度溜息を吐いて、それからベッドに潜り込んだ。
 ぽんぽんと隣を叩くと、はっちゃんがするりと滑り込んでくる。
 言葉通り僕にしがみついて、えへへ、と決まり悪そうに笑った。
 「いったい、何があったんだい?」
 「え…えっとさぁ…そのぉ…調べものしてて、ね。怖くなるって分かっていながら、ですねぇ…」
 不意に思い出した。
 「ひょっとして…実話系オカルト…」
 「…体験談、読んじゃった」
 ますます決まり悪そうな顔になってから、はっちゃんは僕の腕をぎゅうっと抱えた。
 「最初はさ、こんな作り話、俺が引っかかるか〜、ばーかばーかって見てたんだよなぁ…したら、結構その〜…真面目に怖くなってきたと言いますか…いや、馬鹿なのは分かってます、分かってますよ!?」
 僕は何も言ってないのに、はっちゃんは怒ったように言い訳した。
 けれど、僕の腕は抱きつかれたままだ。
 「ドアや窓を見られないし、布団に入っても、ちょっとでも外に出てたら触られたらどうしようって思って布団で丸まって息もしにくいし、でもって、そういうこと考えてると<呼ぶ>って言うし…誰か助けてーって思ったら、あぁ、取手なら来てくれるかなーって」
 「…じゃあ、僕が来たとき、携帯が鳴ったのは…」
 「だって、ノックしたのが取手じゃなかったら怖いじゃん!」
 「…僕以外の誰がノックするんだい…」
 「その、取手以外の誰かって場合が怖いんじゃんか〜!」
 よく分からないけれど…はっちゃんは心底怯えているらしい。
 それで、たとえ一緒にいても、僕の部屋までは行けないのか…。
 可愛いんだけど…抱きついてくれるのは嬉しいんだけど…非常に不都合と言うか…。
 「…分かったよ…ちゃんと、朝まで一緒にいるから…」
 「ごめんねー。明るくなったら、嘘みたいに怖くなくなって、でもってさらっと忘れちゃえるのは分かってるからさぁ…俺に出来ることなら、何でもするからさ、今晩だけ、許して?」
 「…はいはい、そんな交換条件出してこなくても、一緒に寝てあげるから…」
 「ありがとう!取手、大好き!」
 「…僕も、大好きだよ、はっちゃん」
 お返しを装って、僕は本当のことを囁いた。
 嬉しそうにしがみついてくる彼の体を抱き寄せる。
 背中をぽんぽんと叩くと、息が触れるほど近くにある顔が、照れたように笑ってから、瞼が閉じられた。
 安心しきって、眠ろうとしている顔。
 ありもしない幽霊なんかより、ここにいる僕の方が、よほど危険なのに。
 欲しい、と思う。
 この温かな体が欲しい。
 小柄な体を組み敷いて、思う様泣かせたい。
 僕だけのものにして、どこにも行けないようにしてしまいたい。
 ごくり、と僕は飲み込む。
 醜い欲望を、ごくり、ごくりと飲み込んで。
 僕が深く冷たい沼ならば、沈めてしまえば浮かんでこないだろうに。
 けれど、それはすぐに僕の表層に浮かび上がってくる。
 ごくり。
 ごくり。
 そうして、僕は、一晩中、飲み込み続けた。


 眠れなかったつもりだけれど、朝方には微睡んでいたらしい。
 僕は腕の中の温かさがふと離れたので、それを逃がさないように引き寄せた。
 とても心地よい温かさと、鼻に感じる甘い香り。
 足も絡めて腰を押しつけると、顔にかすかな空気の流れを感じた。
 「…とりでぇ…もう、朝なんだけどさぁ…」
 朝だと言っているのに、まるでもっと眠れと言っているかのような優しい響きに、僕の意識はまた暗くなりかけ……不意に気づいた。
 無理矢理目を開けると、目の前には困ったようなはっちゃんの顔。
 「…はっちゃん?」
 何故はっちゃんがいるのか分からない。
 呆然としていると、腕の中の体がもぞもぞしたので、ともかくは腕と足を緩める。
 はっちゃんは苦笑して、僕から体を離した。
 「ごめんな〜、寒かった?」
 僕がしっかり抱きついていたから、そう思ったのだろう。
 はっちゃんはそれからするりとベッドから抜け出した。
 途端に、布団に冷たい空気が入り込んでくる。
 首をひねって枕元を見ると、もう登校する時刻だった。
 「遅刻させちゃうなぁ。それとも、一緒に一限目はさぼるか?」
 へへっと笑うはっちゃんは、ゆっくりしていく気満々のようだった。
 僕はのろのろとベッドに起き上がった。
 布団で隠してはいるけれど…朝の生理的な反応だとは思われているだろうけど…はっちゃんに押しつけた僕のものは、硬くなっていた。
 はっちゃんは、気にしていないようだけど。
 けれど。
 僕は、もう、限界だ。
 「…はっちゃん。…話があるから…学校に行かずに、待っていて欲しいんだけど」
 「そりゃいいけど。待ってって、何?どっか行くのか?」
 「…服を着替えて来るだけ」
 「あ、なるほど。んじゃ、朝飯作って待ってるからさ、一緒に食べよ?」
 「……うん」
 反応が悪い僕を心配そうに見たが、はっちゃんは何も言わずに自分の着替えを始めた。
 僕は着てきたコートを羽織って、外に出る。
 もう廊下には登校する学生がうろうろしていたので、パジャマにコートの僕は、誰とも目を合わさないようにしながら足早に自室に戻っていった。
 …たぶん、明らかにはっちゃんの部屋に泊まっていったと思われて、噂が加速する気はしたけど…構うものか。
 部屋でさっさと着替えて、顔を洗い髪を整える。
 鏡の中にいるのは、いつにも増して顔色が悪く目が落ちくぼんだ陰気な男。
 仮に、はっちゃんが男も大丈夫だとしても…絶対に、僕なんか選びやしないだろう。
 そう思うと、いっそ清々しい気分になった自分に笑える。
 もう、おしまいにしよう。
 僕にだって、あの遺跡がもうじき最奥部だということくらい分かる。
 あとほんの少し経てば、はっちゃんは任務を終えて出ていくのだ。
 彼は流れ、僕は留まる。
 風は気まぐれに帰ってくるかも知れないけれど、二度と戻ってこないかもしれない。
 そして、何より…彼が帰ってくるのは<友達>のところなのだ。
 こんな状態で、生殺しのまま過ごすならば…いっそ、全てを破壊した方がすっきりする。
 僕に呆れて、嫌悪して、もう二度と顔を合わせない、と言う方が、帰ってくるかどうかも分からない人を待ち続けるより、よほどマシだ。
 僕は鏡から目を離し、鞄を持って部屋を出ていった。
 学生服を着て、はっちゃんの部屋に入る僕は、やはり奇異な目で見られていたようだが、そんなのに気を取られる余裕は無かった。
 はっちゃんはまだ私服で、振り返って笑った。
 「お、やっぱり取手は真面目だなぁ。メシ食ったら、すぐに行くつもりなんだ」
 僕は黙って鞄を置いて床に座る。
 すぐに目の前にトーストと目玉焼きとスープが盆に乗せられて出てきた。
 向かいに座ったはっちゃんが、両手を合わせる。
 「いただきます」
 「…いただきます」
 味も分からず押し込んでいたが、半分くらい食べたところで、ついに耐えきれなくなった。
 「…はっちゃん」
 「なに?」
 「君は夕べ…何でもするって言ったね?」
 「うん」
 僕は目も見ずに低く言ったのだけれど、はっちゃんはまるで無防備に返事をした。
 無理難題なんて、僕が言うはずもない、と信じ切っているのだろうか。
 「それじゃあ」
 僕はゆっくりと顔を上げ、彼を真正面から見つめた。
 はっちゃんは、興味津々、と言った風に目を輝かせている。
 「…僕と、二人きりで会うのは、止めてくれないかな」
 はっちゃんの目が混乱した。
 「…え?」
 たぶん、頭の中では色んなことが駆け巡っているのだろう。
 それが分かっていても、僕はただ静かに待っていた。
 「取手…やっぱり、迷惑だった?えっとさ、もう、一緒に寝て、なんて言わないから…こうやって、普通に一緒にいるくらい…それも、迷惑?」
 「うん、迷惑」
 僕は、きっぱりと頷いてやった。
 はっちゃんの顔が歪む。
 あ、これは泣き出すな、と遠くの方で思う。
 「…イヤだ」
 はっちゃんはいきなり立ち上がって、盆をまたぎ越え、僕の胸ぐらを掴んだ。
 「何で、そんなこと言うんだよ!絶対、イヤだ!取手と一緒が良い!」
 「…はっちゃん」
 「駄目だって言ったって、絶対くっついてやるからな!部屋に帰ったって、忍び込んでやるから!」
 …これだけの叫び声なら、外に聞こえているだろうな。
 どう聞いても痴話喧嘩だろうな、とぼんやりと思う。
 「でも、駄目だよ、はっちゃん」
 「やだやだやだやだやだやだやだやだ!」
 はっちゃんの目は真っ赤で、潤んできているが…それでも泣いてはいなかった。
 でも、どんなに怒ったって、僕はもう決めたのだ。
  とんとん
 ノックの音がした。
 「おーい、九ちゃん。どうかしたのか?」
 「うるせぇ、今、取り込み中!入るんじゃねぇ!」
 …それはまた一段と誤解されそうなことを。
 皆守くんは少しの間ドアの前にいたが、諦めたのか足音は遠ざかっていった。
 「後ちょっとしか一緒にいられないんだから!ぜーったい!一緒にいたい!何考えてんだよ、もう時間無いんだから、すれ違う暇なんて無いんだから!俺のことが嫌いになったって言うんなら、はっきりそう言ってみろよ!」
 …なるほど、嫌われてはいない、って自覚はあるんだな。
 僕は、真っ赤な顔で胸ぐらを掴んでいるはっちゃんの顔を見上げた。
 「好きだから」
 ぽつん、と言うと、はっちゃんは一瞬怯んで、それからまた怒った。
 「なら、何で!?」
 「僕の<好き>は、君の<好き>とは違うから」
 「<好き>なら良いじゃん!<嫌い>じゃないんだろ?!」
 はっちゃんは、相変わらず鈍いというか、人間関係が単純だ。
 何て可哀想で…可愛いんだろう。
 「僕の言う<好き>は、君を抱きたい、と言うことなんだけど」
 「夕べだって抱いてたじゃんか!」
 …外に聞こえたら、以下略。
 「君を抱きたい、というのは、セックスしたい、と言うことなんだけど。具体的には、僕のペニスを君のお尻に入れたい、そう言う意味だけど?」
 はっちゃんは、僕の胸ぐらを掴んだままで、百面相した。
 「…誤解のしようも無い、明確な言葉をありがとう」
 ぼそりと呟いて、はっちゃんは手を離し…僕の目の前にどっかりとあぐらを掻いた。
 腕を組んで、うーん、と唸る。
 遠くで、始業を知らせるチャイムが鳴った。
 「俺は男なんだけど…って知ってるよな、そりゃ」
 「女の子だと思った覚えは、一度も無いよ」
 「そうだよなぁ。…なのに、入れたいって…何つーか…」
 はっちゃんは言葉を探していたけれど、僕を見てきっぱりと言い切った。
 「趣味が悪い」
 冗談だと思っているんだろうか?
 けれど、僕が更に言い募る前に、はっちゃんは制するように手を上げた。
 「いや、悪趣味だとは思うけど、そのせいで取手を嫌悪したりはしないぞ?何つーか、ここにまんじゅうがあって。俺はそんなもの食べるのは悪趣味だ、口にするのもイヤだね、と思ってても、それが好きーって奴を否定はしない。趣味嗜好は各人の勝手だから」
 …何だか、予想外の方向に話が向かっている気がする。
 普通、自分が同性の友人に性的な対象に見られていると気づいたら、気持ち悪がるものじゃないだろうか。
 しかも、自分が女の子役なのだし。
 「それで、取手が、俺と一緒にいたくないのは、何でだ?好きなんだろ?」
 …何故、そこが疑問になるんだろう…。
 「じゃあ、聞くけど。君は、僕に抱かれても構わないのかい?男に押し倒されても良いのかい?」
 「それは…イヤだけど」
 「だったら、分かるだろう?僕は、君と一緒にいたら、君を抱きたくてしょうがなくなるんだ。夢の中では、もう何度も抱いたよ。君を僕だけのものにして、どこにも行けないように縛り付けて、何度も犯した」
 「でも、実際には、何もしてないじゃん。夕べだって、しようと思えば、何でも出来たのに」
 「だから。夕べで忍耐の限界。僕はもう、自分を抑えられない」
 何でそこまで言っているのに、僕を叩き出さないんだろう。
 決して、はっちゃんも僕のことが好きで、両思いだ、良かったね、ということでは無いのに。
 「…だって、俺は、それでも、取手と一緒にいたい」
 「あのね…」
 「だって、取手は、俺が本当にイヤなことはしないと思う。夢の中で何をされようが、俺に直接の影響は無いし」
 …頭が痛くなってきた。
 はっちゃんは、どうしてこう…想像力が無い、と言うか、合理的すぎると言うか…。
 「…つまり、君は、<友達>として僕と一緒にいたい、と。そう言うんだね?」
 「うん」
 「それは、狡いとは思わないかい?僕は、君を<友達>じゃなく…<恋人>として欲しいのに、僕には<友達>であることを強制しているんだから」
 あう、とはっちゃんは詰まった。
 うーんうーん、と考え込んでいる。
 「もっと言えば。僕は君を抱きたいのに、我慢しろ、と。そう言われてることになるんだけど?」
 「…そ、そうなんだけどさぁ…でも、俺、取手と一緒にいたいし…」
 そこまで好かれているのを喜ぶべきなのか、それともそこまで強固に<友達>扱いされているのを嘆くべきなのか。
 はあああ、と僕は人生でも最大に深くて長い溜息を吐いた。
 そりゃ、僕だって、本当は一緒にいたい。
 はっちゃんが僕以外の誰かと遺跡に潜って戦うんだと思うと…心配で居ても立ってもいられなくなる。
 けれど、僕の忍耐力もいい加減磨滅してしまっているのだ。
 本当に、もう…我慢できる自信が無い。
 「あ…あのさ、その…考えてみるよ、その…<恋人>」
 一瞬、はっちゃんが何を言い出したのか、さっぱり理解できなかった。
 はっちゃんは視線をウロウロとさせて、どこか媚びたような表情で、僕を見上げて、ね?と言った。
 「ちゃんと、考えるからさぁ…だから、結論が出るまで、<友達>として一緒にいてくれないかなぁ」
 はああああ。
 溜息深度更新。
 僕は、はっちゃんの行動パターンをある程度把握している。
 はっちゃんは、悩みがあると、とりあえず放置して後から考える、と言い出すのだ。
 でも、実はそれっきり考えてないことも知っている。
 どうやら、それっきり忘れるようなことなら、そもそも悩む必要なんかない、と思うらしい。
 合理的で良いような気もするけど、この場合は。
 「あのね、はっちゃん。…うやむやにしようとしてないだろうね」
 とりあえず考える、と言っておいて、<友達>として過ごして。
 時間切れを狙っているのなら、随分ひどいにもほどがある。
 「し、してないよぉ…ちゃんと、考えるよ、うん。約束する」
 「…信用できないんだけど…」
 「信じて?ね?お願い」
 …自分を好きだと言っている男に、そんな甘えたような声で…故意にやってるなら、小悪魔もいいところだ。
 「じゃあ、手付けを払って」
 「手付け?…えーと、いくら?」
 「お金なんか、いらないよ。キスしてくれれば、それで」
 「あぁ、キスくらい…ってええっ!?」
 はっちゃんの上半身が奇妙にねじれた。
 盆踊りでも踊っているかのような仰け反り方で、僕を信じられないと言う風に見て、それから顔を真っ赤にさせた。
 「そ、それって、おかしいじゃん!だ、だ、だって、恋人になれるかどうか考える手付けに、キスってさぁ…キスなんて、恋人同士でするもんだろ!?」
 「別に、唇にしてくれ、なんて言ってないよ。<友達>のキスで結構」
 はっちゃんは、赤い顔のまんま、気の抜けた笑い声を上げた。
 「あ…あはは、はは…と、<友達>のキス、ね…友愛のキスなら…そりゃ、いくらでも…」
 いくらでも、ね。
 あんまり軽く言うので、僕ははっちゃんの手首を捕まえて引き寄せた。
 素直に腕の中に収まった彼は、どうやらまだ僕に対する危機意識が薄いらしく、抵抗するまでに間があった。
 だから、僕は手で包み込むように彼の頬を持ってちょうど良い角度にし、滑らかな頬にそっと口づけた。
 はっちゃんは、一瞬動きを止め…キスしたところを手で押さえて、うわああ!と叫んだ。
 これまで以上に真っ赤になった顔に、満足する。
 「そうだね…友愛のキスなんて、大したこと無いよね。…このくらい、君が寝てる間にしたことあるし」
 「ちょ…おま…か、勝手に…」
 「さ、じゃあ、して貰おうか」
 はっちゃんはまだ頬を押さえてあぐあぐ唸っていたが、一度大きく深呼吸した。
 「ゆ、友愛のキスくらい…別に、何てことないんだし…よし!」
 気合いを入れて、はっちゃんは僕ににじり寄ってきた。
 僕の横顔を見つめて、それから手が伸びてきた。
 手のひらが僕の後頭部と顎に触れる。
 僕はじっと正面を見つめて待っていた。
 どうせ決めたら早いはっちゃんのことだから、あっさりと頬にキスされるに決まっている。
 最終的に<友達>にしかなれないにしても、はっちゃんからキスしてくれれば、少しは幸せな気分になれるかもしれない。
 …まあ、むしろ惨めな気分になる可能性も多々あるけれど。
 それにしても…遅い。
 ちらっと横目ではっちゃんを窺う。
 ………。
 見なきゃ良かった…。
 真っ赤な顔で目を閉じて、いつもより少しだけ唇が突き出されていて、「キスしてーキスしてー」と幻聴が聞こえてくるような顔だった。
 どこまで僕の神経を削る気なんだろうか…。
 僕は目を閉じて九九を唱えた。
 九九81まで行っても体勢が変わらないので、溜息を吐く。
 「…はっちゃん」
 なるべく静かに言ったつもりだったのに、タバコを踏んだ猫のように飛び跳ねて、はっちゃんは壁際まで逃げた。
 「ごごごごごごごめん、あの、何か、意識すると…意識すると…すっげー恥ずかしくて!あ、あのさ、あの、手付けもちょっと…考えさえて!お願いっ!」
 「考える猶予のための手付けも考えるって…」
 「わ、分かってるよぉ…で、でも、手付けは絶対!今日中には絶対何とかするから!」
 僕が立ち上がると、はっちゃんは怯えたように壁に張り付いた。
 落ち着いたら…僕のこの<手付け>というのも言いがかりに近いというのが分かるだろうに。
 鞄を持って、僕は腕時計を見た。
 まあ、二時間目には間に合うだろう。
 「じゃあ、先に行くよ、はっちゃん」
 「…は…はい…」
 外に出ると、冷たい風が頬に心地よかった。
 どうやら僕も紅潮していたらしい。
 予想していたように、はっちゃんが僕を嫌悪するという状況にはならなかったけれど。
 それでも、死刑執行が延びただけのような気がして、僕は溜息を吐いた。
 はっちゃんは、僕に好意を持っている。
 けれど、その好意が恋愛感情になる見込みも無い。
 彼は、僕のどろどろとした欲情が分からないまま、僕にふわふわとつきまとうつもりなんだろうか。
 いっそ、犯してしまえればなぁ、と僕は思う。
 そう出来たら、ちゃんと彼だって僕が危険な存在だと分かるだろうに。
 僕を憎んで忌避して。
 ちゃんと自分の身を守れるようになるだろうに。
 それでも、僕は彼に綺麗な存在でいて欲しいので。
 こうしてせっせと警告しているのだ。






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