「どうしよう…やっぱり、謝って…元に戻した方が、良いよね…」
それは、取手の一言で始まった。
乾燥ワカメ増えるちゃん作戦
ちなみに、ここは寮の歓談室。他の生徒もちらほらいるが、その隅っこのソファに腰掛けているのは、取手と葉佩と皆守だけだった。
何の話をしていたのだったか、他の生徒に聞こえないようひそひそと墓について言い交わしていた時に。
取手が急に自分の両手を見ながら、思い詰めたように言ったのだった。
「えと…何が?」
取手に身を寄せていた葉佩が、素早く問いかけた。
「う…うん…ほら、僕、九龍君に助けて貰う前には、その…執行委員として…いや、ただの醜い感情で、女の子の手の精気を吸ったりしたからさ…今頃、あの子たちはどうしてるんだろうって思って…」
皆守の目には、葉佩が幾分表情を強ばらせたのが見えた。ま、どうせ葉佩のことだ。取手が醜い感情云々と自分を貶めるようなことを言うのが気に入らないんだろう。
…と思ったら。
「かまち君、その子たちの手も握ったですか?」
「そっちかい!」
大人しく見守るつもりだったのに、思わず突っ込んでしまった皆守は、イライラと髪を掻きむしった。
この見てくれ愛らしく、取手にべた惚れの同級生は、案外引っ込み思案で二人の仲は全く進展が無いにも関わらず、たいそう嫉妬深かった。
まあ、子供が仲の良い友達を取られて泣くようなものかも知れないが…お互いいい歳した男なだけに、微笑ましいというよりは薄ら寒いものがあったが。
が。
「え?ち、違うよ、ただ、手をかざしただけだよ」
慌てて否定する取手も、たいがいだ。
「そうですか」
にっこり笑って、取手に擦り寄る葉佩は猫のようだ。ごろごろと喉を鳴らしながら…金色に光る目で取手を見上げる。
「…で、かまち君は、精気を戻してあげたいですか?」
「うん…綺麗な手の子たちだったし…」
言って、目を落とす取手は、葉佩の目が底冷えしたのに気づいてないのだろう。皆守は、巻き込まれないように、そっと腰をずらした。
「ふぅん…そうですかー…」
ほれ見ろ、あれは絶対怒ってるぞ、でもって怒りの対象が取手に向かうわけは無し、かといって相手の女はいない今、ひょっとして矛先は俺か?俺に向かうのか!?と皆守は戦略的撤退の姿勢に入った。
「あぁ、でも」
ふと気づいたかのように、取手が目を上げる。
「見た目の美醜なんて、どうでもいいんだけどね。僕にとって、一番綺麗な、大切な手は、君のものだから」
そう言って、葉佩の手を取り、じっと見つめた。
お互い見つめる瞳と瞳。
どこからともなく、音楽がバックに流れるようだった。
怖い。
取手が故意に葉佩の機嫌を取っているのか、それとも素で口説いているのか。
どっちにしても、怖い。
何で、俺はこんなところでフローラルな世界に巻き込まれてるんだろうなぁ…とちょっと遠い目をしながら、皆守はアロマを吹かした。
いい具合に紫の煙が見つめ合う二人を彩る。
「かまち君は、優しいですねー」
「…そう、かな…そんなことは、無いと思うけど…」
葉佩限定だろ、と皆守は思ったが、口には出さなかった。
「かまち君が、その方が安心するって言うなら、女の子の手を戻すのが良いと思います」
「そうだよね…うん、そうした方がいいよね…ありがとう、九龍君。僕は、いつも君に救われているね…」
「そ、そんなこと、無いですよ」
あ〜、ケツが痒いぜ、と皆守は、さすがに目を逸らせた。
皆守に言わせれば、取手の「葉佩に救われている」は、圧倒的に大したことが無い些細な悩みに、葉佩が答えているだけだ。しかも、彼の見たところ、仮に葉佩が妙な回答をしたとしても、取手は有り難く拝聴するに決まっていた。
まあ、何だ。
お互い好き合っているくせにキスの一つもしていない、小学生並の『オツキアイ』をしている二人の、貴重なコミュニケーションと言ったところか。
「相手の名前は、分かりますか?」
「えーと……確か……」
悩むなよ、と皆守は心の中でひっそりと突っ込んだ。<黒い砂>に侵されていたとはいえ、きっちり記憶は残っているはず。相手の女子生徒にとっては、一大事で人生を狂わせられたも同然のはずだ。それを『覚えていない』のは、失礼だろう。
…ま、たぶん、リカも真里野も、自分が粛正した相手の名など覚えていないだろうが。
「あぁ、2−Bの葉山さん」
「分かりました。調べます。今、その子がどこにいるか」
「って、ちょっと待て。確か、この学園からは出て行ってるはずだぜ?救急車で運ばれて、まだ帰ってないだろ」
思わず口を挟んだ皆守に、葉佩が、にっと笑った。
「だから、調べるんですよ」
「いや、だから、だ。調べたとして、今、実家にいる、とかだったらどうするつもりなんだってことだよ」
「もちろん、休日にでも、かまち君とその家を訪ねるつもりですよ」
口元は笑ったまま、葉佩の瞳が温度を下げた。ひんやりとした怜悧な光が、皆守の目の奥を覗き込む。
「何か、不都合でも?」
わずかに、皮膚が緊張した。
測るような目は、取手に向けるものとは全く違う。皆守を信用していない目だ。
彼の嘘を、暴こうとする目だ。
さて、と皆守はアロマをゆっくり吐いた。
ここで、<墓守>は学園を離れたら<力>を失う、とは言えない。<契約>時に取手もそれは聞いているはずなのだが、うっかり失念しているのかそもそもその時のことを覚えていないのか…それを彼が言うのは、何故知っているのか、の説明が難しい。
「そりゃ、お前…この学園は、長期休暇以外は、外に出られないんだよ。知ってるだろ?」
葉佩は、答える代わりに、くすくすと笑った。
誰が、俺を止められるって?と言っている表情だった。
こいつは、やる。
やると言ったら、警備員室を爆破してでも、やる。
ひょっとしたら、遺跡の壁から小型削岩機でぶち抜いて、外に通じる道を造る、なんてことまでするかも知れない。
はっきり言って、見た目が中学生並の割には、やることは犯罪者に限りなく近いのだ。そして、人殺しに対する罪悪感の閾値が異常に低い。
説得するのは、骨が折れる。
そうあっさりと思考放棄した皆守は、
「ま、好きにしな。俺は付き合わないぜ」
と、その場は引き下がったのだった。
さて、三日後。
取手は、生徒会室に呼び出されていた。
「よく来たな、<墓守>よ」
阿門の威圧的な声に、取手は目を伏せた。
「…何か、僕に御用でしょうか?生徒会長」
ほぅ、と阿門は内心感嘆した。
以前の取手とは、全く違う。
猫背で気弱そうな外見に代わりは無かったが、精神的に脆弱な危なかしいところが失せ、どこか一本筋の通ったような清々しさがあった。
亡くした者を悼み、過去にしか目を向けなかった男のはずだったのが、『闘う』勇気が出たらしい。
もしも、阿門が<墓守>に葉佩を抹殺することを命じたなら、目の前の男は命がけで抵抗するだろう。己の力が、阿門に与えられたものであり、彼には抗えないことを知っていても、だ。
そこまで人を変える<葉佩九龍>という転校生。
興味深い、と阿門は思った。
「ふ…つまらぬ噂を耳にしたのでな」
ちら、と取手が目を上げた。
「お前に<力>を与える際に言ったはずだ。その力は、<墓>より離れて発動することはない。<力>の代償に、<墓守>は<墓>に縛られる。…お前は、縛からは逃れたようだが」
皆まで言わず、阿門は言葉を切った。
取手の表情から、己の意図が通じたことを知り、頷いた。
「つまらぬことは考えないことだ」
黙って礼をした取手が、立ち去り際、振り返って言った。
「あの…その『つまらぬこと』を考えたのは、僕の…独断ですから。…それだけ、です」
それから、また一礼して、今度こそ生徒会室を出ていった。
面白い。
あくまで葉佩を庇うつもりらしい。
一人残された生徒会室で、亜門は久々に声を出して笑った。
生徒会室を出た取手は、角まで来て、それから壁にもたれた。
額の汗を拭う。
「…あ〜…びっくりした…」
まさか、己の(というか、葉佩の)計画が、生徒会長に知られるとは。粛正されても当然のことを計画していたのだ。警告だけで済めば、ありがたいくらいだ。
しばらくどきどきと脈打つ心臓を押さえていると、ふわり、とどこからともなく葉佩が現れて、取手の隣に立った。
擦り寄るような動作で、目の前に立ち、取手を見上げる。
「何の話?」
「うん…生徒会長がね…」
ぼそぼそと話し終えると、葉佩の目が猫のように細められた。
「ふーん…何で、阿門くんは知ってたですかねー」
「え?…うーん…会長は、この学園の中で起きることを、よく把握してるから…」
自分は不思議には思わなかったけれど、葉佩は違うらしい。
首を傾げると、葉佩がひらりと身を翻した。取手の手を取り、歩いていきながら、呟く。
「かまち君の、そういうところが、好きです」
「…え?え?え?」
かぁっと赤くなった顔を、葉佩が振り返って、笑った。
「だから、疑うは、俺の仕事です」
そうして、にぃっと笑う顔は…たぶん、一般的には『危険な笑顔』というものだったのだろうけど、取手にはひどく扇情的に映ったのだった。
その夜。
いつも通り、寮で夕食を摂っていると、皆守が声を掛けてきた。
「よぉ。生徒会長に呼び出されたって?」
耳が早いな、と幾分驚いたが、考えてみれば呼び出しは全校放送で行われた。知らない方がおかしい。
「うん…ちょっとね」
他の生徒の耳をおもんばかって、誤魔化す取手に、皆守が口を寄せて囁いた。
「まさか…ばれちまった…とか?」
聡いな、と皆守の顔を見返そうとしたら、皆守は撃沈していた。
「九ちゃん…!」
「かまち君に顔近づけるのは禁止です」
ぐわーっと叫びながら蹲っていた皆守が、立ち上がって葉佩に詰め寄るが、あっさりとかわされた。
「で?何をひそひそ内緒話ですか?」
アロマパイプをを持った手が上下する。いろいろと言いたいことがあるらしいが、皆守は諦めて盛大に溜息を吐いた。
「何…生徒会長に、何で呼び出されたのかって話だよ」
「あぁ、それ。おかげで作戦変更でした」
あっさりと葉佩が返事をする。
取手が何故生徒会長に呼び出されたのかは、他の生徒の関心も引いたので、複数の生徒が聞き耳を立てていたが、葉佩は声を低めるでもなく言い放った。
「こっちが行けないなら、向こうを呼び出すまでです」
「…呼び出すって…お前…」
相手は、学園で原因不明の病気にかかった(ということになっている)のだ。おまけに精神的にも異常が出たと聞いている。
それが、あっさりと呼び出しに応じる訳がない。
葉佩が、人差し指を唇に当ててにっこり笑った。
傍目には愛くるしい悪戯っ子の表情に見えるだろう。
が。
目の前の皆守には。
悪魔の笑みに見えた。
「…荷物を運び込む方法、いくらでもあります」
荷物かーっ!
皆守は心の中で絶叫した。
それは、誘拐罪!と叫んでから、自分で「今更、言うまでも無いぜ…」と回答を得て、がっくりと肩を落とす。
「そうか…まあ、気を付けてな…」
そう呟くしか、皆守には残されていなかった。
更に二日後。
今度は、葉佩が生徒会室に呼び出されていた。
「<転校生>よ」
「名前、覚えて下さいね。偽名ですけど」
いや、そんな堂々と偽名と言われても。
阿門は多少斜めに傾きつつも、気を取り直して重々しく言った。
「学園に所属する者は、学園の掟に従って貰う」
「はいー」
「この学園を犯罪の場にすることは、俺が許さん」
「実に、今更ですー」
阿門は、目の前のイスにちょこんと座ってにこにこ笑っている<転校生>を、改めて見つめた。
のらりくらりとかわしつつ、己の意志を曲げるつもりはさらさら無い男。
にこにこと人を逸らさぬ笑みを浮かべつつ、<墓守>たちを解放した男。
皆守曰く…「取手以外には、容赦無い男」。
何も、こちらが歩み寄る必要性は無い相手だ。
しかし。
このまま放置すれば、最悪学園が警察に目を付けられる。
それだけは、避けたい。
「<転校生>よ。お前に、一つ情報を与えよう」
微笑む目に、ちらり、と冷静な光が宿った。
「何ですか?」
「元2−B所属の葉山という女子生徒が、正式に我が学園を退学するための手続きとして、明日の午前、学園に現れるはずだ」
葉佩の目が、まん丸に見開かれた。
あ、少し可愛い、と不覚にも阿門は小動物を思い浮かべてから、また表情を厳しく整えた。
「きゃあん!阿門くん!ありがとぉ!」
小柄な体が、鞠のように弾んで、阿門の前に立ち、強引に彼の手を取った。
「これで器物破壊をせずに済みますよー!阿門くん、だーい好きっ!」
ぶんぶんと振られる手に呆然としながらも、阿門は辛うじて頷いた。
「うむ。それで、どうするかは、お前の自由…」
「ねぇ、阿門くん」
とろり、と濃度の高い蜂蜜のような声が、阿門の耳を浸食した。
「その子、生徒会長に、ご挨拶したり…しないかなぁ?」
甘い甘い声だったが…目も潤んでお強請りするような表情だったが…阿門は辛うじて体勢を整え、氷点下の声を絞り出した。
「さあ、な。俺の知ったことでは無い」
「え〜だって〜…さすがに、職員室を全部巻き込むのは…ねぇ?」
うふ、と上目遣いに微笑む葉佩。
ちょっと待て。
職員室を巻き込む?
「…何を、する気だ?」
「え〜?だって〜。かまち君に精気を戻させてあげたいし〜、でも相手の子には、かまち君がやったってばれたくないし〜」
「…で?」
「麻酔弾を撃ち込もうかなって」
きゃっvvと両手を頬に当てて、花も恥じらう乙女のように微笑んだ。
阿門は、額を手で押さえた。
ちょっと想像してみる。
職員室に現れる、問題の女子生徒及び家族。
授業中でも数人いる教師。
……そこに撃ち込まれる麻酔弾。
「騒ぎになるだろう…」
「そうですねー。だから、生徒会長にご挨拶しないかなって」
「……ちなみに」
阿門は、出来れば聞きたくない、と思いながら、問うた。
「その場合、お前はどうするつもりだ?」
「阿門くんなら、1分くらいは息を止めていられるかなって♪」
結局、麻酔弾は確定らしい。
何故、俺が、<転校生>に力を貸さねばならんのか。
阿門は、しみじみ思った。
しかし、放置しておくと、この<転校生>は、本気で職員室を血の海…違った、麻酔弾でお休みにさせるだろう。
さすがに、それも事後処理が面倒くさい。
「…分かった。こちらにも挨拶するよう、学園長に伝えておこう」
「やぁん、阿門くんてば、話が分かるぅvv」
きゃっ、とまた愛らしく声を上げながら、葉佩は阿門の青筋をつついた。
手をはたき落とされる前にさっさと戻した葉佩は、また違った種類の笑みを浮かべた。
「本当に、ありがとう。お礼しますよ」
「礼など…」
「阿門くんには…うーん、そうですねー…追尾システム完備の古代黄金ジェットなんてどうです?これで侵入者も即撃退!」
そんなものが<墓>にあったか?
疑問が顔に出たのか、葉佩がえへっと得意そうに笑った。
「ちょっと弄りました。ナパーム弾使用で威力倍増。3000℃の高温が、侵入者を跡形残らず消し飛ばしますvv」
「作るな、そんなもの!!」
生徒会室から叩き出された葉佩は、にこやかに投げキッスを残した。
「じゃあ、阿門くん、また、明日〜!」
翌日。
両親に付き添われて、青白い顔の女子生徒が職員室で担任や学園長と挨拶していた。
同刻、自主休講した葉佩は取手を連れて、生徒会室近くの男子トイレに潜んでいた。
耳に当てたインカムからは、ざざっという雑音が漏れ出ている。
「うーん、まだ職員室ですねー。学園長の話、長いですー」
「そうだね…いつも、全校集会では、倒れて保健室に来る人がいるから…」
ここに皆守がいたなら、「盗聴器、仕掛けてんのかよ!」と突っ込んでくれただろうが、あいにくここには取手しかいなかった。
元々がボケ体質の上に…葉佩のこととなると、何をしてても許せる、そんな取手に突っ込みの出来る余地は無かった。
「ごめんね、九龍くん。僕のせいで、授業をさぼらせてしまって」
「気にしないで下さい、かまち君。英語の授業は、面白くありません。それより、かまち君をさぼらせてしまった方が気になります」
「でも、元々、僕の問題だから」
「かまち君の問題は、俺の問題ですー」
「九龍くん…」
「かまち君…」
見つめ合う二人の周りは、ラベンダーならぬジャスミンの香りが満ちていた。…ま、トイレの芳香剤だが。
が、男子トイレの個室という状況で、それ以上何が起きるということもないまま、葉佩のインカムと取手の耳が、同時に生徒会室に移動する複数の足音を感知した。
無言で目を見交わし合って、それぞれの耳に意識を集中する。
足音は立ち止まり、ノックの後、「入れ」という威圧的な声がした。
扉が開く音、それから、また閉まる音。
きっちり10数えて、葉佩はスイッチを押した。
「もう行く?九龍くん」
「待って、早く行ってドア開けると、ガスが拡散します」
葉佩は腕時計を確認した。
3分経って、二人は、そぅっとトイレを抜け出し、生徒会室のドアの前に立った。
「かまち君、息止めてて下さいね」
そう言って、葉佩はノック無しにドアを開け、素早く体を滑り込ませた。取手が続いたのを見て、きっちりドアを閉め、鍵をかける。
それから、窓に近寄って、大きく開いた。
「かまち君、とりあえずこっちの空気吸うです」
こくこく頷いて、取手は窓際に寄った。
「………おい」
完全に無視された生徒会長が、こめかみに当社比1.5倍の青筋をたてて、恫喝するような声を出した。
「うわぁ、さすがですね、阿門くん!ちゃんと麻酔ガス吸わずに済んだですねー!」
いつの間に他人とこの部屋に麻酔ガスなぞ仕掛けたんだ、とか。
俺を何だと思っている、潜水世界記録保持者では無いんだぞ、いつまで息を止めさせるつもりだ、とか。
色々言いたいことはあった気がしたが、「すごい、すごーい!」とキラキラした目で見つめられて、阿門に何が言えようか。
「…さっさと済ませろ」
顎でしゃくった先には、折り重なるように倒れた女子生徒とその母親らしい女性。
それを見て、取手が窓から離れ、二人の元に膝を突いた。
きっちり包帯が巻かれた腕を取り上げる。完全に意識が無いのだろう、人形のようにだらりと垂れたままだ。
包帯を解くと、ミイラのように干涸らびた腕が現れる。
「ごめんね…」
謝りながら、取手は意識を集中した。
女子生徒の腕に、わずかに張りが戻った。
「行けそうですか?」
いつの間にか、取手の斜め後ろに葉佩が腰を屈めており、取手の耳に囁くように聞いた。
くすぐったさに肩をすくめてから、取手は困ったように首を振った。
元々、取手の力は<他人の精気を吸うこと>である。<他人に精気を与えること>は、それから派生したものに過ぎない。いったん自分のものにした余剰な精気は、他人に与えるときはその10〜20%ほどにしか置換できない。
今、取手が頑張って精気を戻そうとしても、すでに自分のものとして循環している精気を、簡単には与えられなかった。
困ったような、泣きそうな顔をする取手の手に、葉佩は自分の手を重ねた。
「俺の精気、吸って下さい。それをあげると良いです」
「駄目だよ、そんな!それじゃ、君の手が…」
「俺のは、また今度、治してくれたら良いです」
正直言って、取手にとって大事なのは『葉佩>>>>>>以下繰り返し…>>>>>>>女子生徒』である。彼女に対する罪悪感を拭うために、葉佩を利用するなど、絶対にイヤだ。
そのくらいなら、せっかく来たけど彼女には何もしないまま帰す方がよほどマシ。
真ん中に女子生徒を挟んだまま見つめ合う取手と葉佩に、阿門は重い溜息を吐いた。
まさか、自分が唯一の良識派として忠告する日が来ようとは。
「時間が惜しい。早くしろ」
「え…でも、九龍くんをかぴかぴには出来ないよ…」
「かまち君のためなら、別に良いです」
「僕が、イヤなんだ」
「かまち君の役に立ちたいです…」
「九龍くん…」
「かまち君…」
阿門は、イライラと机を指で叩いた。
こんなことを言うのは、すっごくイヤなのだが。
しかし、女子生徒の下の母親が、もぞもぞと動き始めている。
もう一度、阿門は深く息を吐いて、重々しく言った。
「分かった。俺の精気を吸うことを、許可しよう」
ぱっ、と二人が振り向いた。
取手は戸惑って、自分の手を握ったり開いたりする。
「え…でも、会長…」
相手は、生徒会長で、<墓守>の長で、自分に<力>を与えた相手で。
とてもじゃないが、『精気を吸う』なんてこと、畏れ多くて出来ない…。
が。
葉佩が、ぱーっと顔を輝かせて、阿門の元に駆けていった。
「きゃああん!阿門くん、太っ腹!だーい好きーっ!」
葉佩が、阿門の首っ玉にしがみついた。
阿門の方も、それほど嫌がっていないように見えた。少なくとも、取手には。
「ふ…ふっふっふっふっふっふっふっふっ…」
ゆらり、と取手は立ち上がった。
「分かりました、会長…心おきなく、精気を吸わせて頂きますよ…」
取手の両の掌に、『ホルスの眼』が浮かび上がる。
きぃぃぃぃぃぃん!と空気が歪んだ。
取手のいつもの<力>の発動だったが、葉佩はあれ?と首を傾げた。
阿門の手は、いつも通りで変わりない。一体、どこの精気を吸ってるんだろう、と阿門の顔を見てみれば。
憤怒の形相で阿門は呻いた。
「貴様〜〜!」
「そのぶなしめじ…エノキダケに変わるが良い…」
「俺のは、国産高級松茸だ!」
…よく分からない会話を交わしていた。
「秋の味覚?」
葉佩がますます首を傾げている間に、取手がふと手を握った。
「ふっ…ご協力、感謝します…会長…」
取手の勝ち誇った表情という珍しいものを見られた葉佩は、とりあえず、そんな顔も格好良いなぁ、と見惚れた。
それから、取手に害が及ばぬよう、阿門の顔をご機嫌を取るように覗いた。
「阿門くん、どっか痛いですかー?撫で撫でしましょーか?」
「…痛くは、無い…撫で撫でも無用だ…」
これ以上無いくらい苦虫を噛み潰した顔の阿門は、青筋を脈打たせながら奥歯を噛み締めた。
元はと言えば、己が言い出したこと。
それを文句を付けるなど、帝王学にもとる。
大物なだけに、行動に規制の多い阿門様だった。
しょうがないので、お団子頭を撫で撫でした葉佩は、「うーん」という呻き声に慌てて取手の方へと向かった。
女子生徒と母親が、もぞもぞと身動きを始めている。
「かまち君?」
「…もう少し…」
真剣な顔で女子生徒に手を向けている取手には悪いが、もうそろそろ限界だ。…あまりその『綺麗な手』とやらになるのも、腹立たしいし。
葉佩は、そっと取手の手を握った。
「…うん…だいぶ、元に戻ったね。…ありがとう、九龍くん」
「俺は、何もしてないですよー」
「君は、いつも、僕を助けてくれるから…」
「そんなこと無いです…」
一体、二人にどう言い訳するつもりだ、とイライラと見守っていた阿門は、葉佩が甘い声で取手に擦り寄りながら取り出した物にぎょっとした。
…そのメイスはどこから…?
いや、むしろ、何のために?
「<転校生>…?」
「えーと、耳の位置、乳様突起…この辺っと」
がつっ!×2
女子生徒と母親のこめかみをメイスで殴り飛ばす様を呆然と見守った阿門は、辛うじて声を絞り出した。
「<転校生>…何を、している?」
メイスをまたどこともなくしまいこんで、葉佩は、えへっと上目遣いに見上げた。
「このあたりはねー」
と、自分のこめかみを指す。
「思いっきり鈍器で殴ると、約15分間、その前の記憶が消えます。…位置と手加減が難しいから、良い子の皆さんは、真似しちゃ駄目だよー?お兄さんとのお約束っv」
幼児番組のように、大げさに手を振り回して、人差し指を立てた。
「九龍くんは、物知りだね」
「えへへ、とっても役に立つんだよー?」
きゃるーん、と意味不明な効果音と共に葉佩は立ち上がった。
取手と手を繋いで、ドアに向かう。
「…ちょっと待て、<転校生>」
「じゃ、後はよろしく〜!生・徒・会・長♪」
「葉佩九龍〜〜〜〜!!!」
轟っ!と何かが開いたドアから追ってきた。
が、葉佩はあっさりとドアを閉めたのだった。
その日の夕食時。
「…で?お前らの目的は達成出来たのか?」
気怠そうに聞く皆守に、葉佩は上機嫌で頷いた。
「出来ましたよー。これで、かまち君が少しでも気を楽にしてくれたら良いですけど」
あまりにもにこにこしてるので、皆守は、少々嫌味を言ってやりたくなって、ぼそりと呟いた。
「ふん…あいつが吸ったのは、彼女だけじゃないはずだ。たった一人、戻してやったからって、許されるもんじゃないだろうに」
「甲ちゃん」
楽しそうに笑った顔のまま、氷点下の声が皆守の鼓膜を凍らせる。
「もし、かまち君に、そんなこと言ったら、爆殺するですよ?」
「…爆殺は勘弁」
「それに」
ふっと真面目な顔で葉佩はフォークの先のレタスを見つめた。
「許す、のは、神様でも俺でも無いです。かまち君自身です。…だから、これで良いんですよ」
「…それじゃ、ただの自己満足だろ」
「いけませんか?」
くすっ、と唇の両脇を吊り上げて、葉佩は微かに笑った。
「『誰か』に許されるためだとか、一般的に贖罪がどうだ、とかには興味ないです。重要なのは、これでかまち君が安らいだ、ということです」
言い切る葉佩が眩しいような気がして、皆守は頭を振った。
一般的には、ろくでもないことを言っているのだ、この<転校生>は。なのに、『取手のため』、ただそれしか考えていない様子は、いっそ清々しいほどだった。
「九ちゃんは、本当に取手しか見えて無いな」
我が身を振り返れば、あまり主張も出来ないが、それでも何だか悔しい気がして、嫌味っぽく言ってやれば、葉佩はけろりとして頷いた。
「全く、その通り。そうでもなきゃ、いずれ元に戻ると分かってるのに、手間をかけて呼んだりしません」
「…あ?」
皆守は、ぽかん、と口を開けた。
『元に戻る』のは、精気を吸われた手。確かに、時間がかかるとはいえ、全身の精気が充実すれば徐々に治っていく状態だ。
知っていて、わざわざ戻してやったのか。ただ、取手が戻した方が安心するから。
これは、ますます取手馬鹿だ、と頭を振ってから、皆守はアロマパイプを振った。
「…何で、そんなことが分かるんだ?」
知ってるんだ?と言いかけて、修正する。
ちらり、と猫のような目が、皆守を見上げた。
そして、小さなピンク色の舌が、ぺろりと唇を舐めた。
「クイズです、甲ちゃん。俺がその事実を知っているのは、何故でしょう?
1.自分で調べた。
2.探偵を雇った。
3.…」
そこで、にぃっと目を細めて笑う。
「3.生徒会室の絨毯の下、隠し金庫の中の書類を読んだ。さあ、どれでしょう?」
答えを聞く前に、葉佩は立ち上がった。
何故なら、食堂に入ってくる取手の姿が見えたからだ。
「かまち君!」
「九龍くん」
両者近寄って、がしっと抱擁。
すでに見慣れた光景のため、食堂内の生徒は、誰も突っ込まなかった。だいたい突っ込むのは皆守の仕事…と、皆守を見たその他大勢男子生徒は、あれ?と首を傾げた。
驚愕の表情で皆守が凍り付いている。唇からアロマパイプがぽろりと落ちた。
書類にはどこまで書いてあった!?
副会長のサインとかはあったっけか!?
脳味噌をフル回転させた皆守は、うわああああ!と髪を掻きむしったのだった。