風と水と 7





 はっちゃんと、顔を合わせられない。
 彼を見ると、夢を思い出してしまう。
 あの小柄な体を組み敷いて、僕だけのものにしてしまう夜毎の夢を。
 そうして、僕は自己嫌悪に陥る。
 何て僕は醜いのだろう。
 どうしてこんな、<化け物>に生まれついてしまったのか。
 まあ…外見がもっと美しかったとしても、到底許されることでは無いのだから、<化け物>なのは僕の心の方だろうが。
 夜会で、仮面を付けた彼が僕に迫ってきた。
 いつかは捕まるとは思っていたけれど…そして、いつまでも逃げ切れるとは思っていなかったけれど、それでも僕はそれを先延ばしにして、彼と話をする約束を後に回せたことにほっとした。
 これでもう、これが終わるまで、彼に心を乱されることはない。
 落ち着いてピアノを弾いていたら、ちらりと見上げた先では、彼は生徒会長と双樹さんとに話しかけられているようだった。
 …大丈夫だろうか。
 こんなところで仕掛けられるとは思わないけれど。
 …あ、双樹さんが手を差し伸べている…ダンスに誘っているんだろうか。
 はっちゃんが?
 双樹さんと、ダンス?
 ざわり、と胸で巻き上がった黒い靄を慌てて抑え、僕はもうそちらを見ないようにして、ピアノだけに集中した。
 …でも、気になる。
 踊るのだろうか。
 双樹さんは、誰が見たって魅力的な女性だろう。
 そんな人に誘われたなら、ダンスをしない方がおかしい。はっちゃんはノーマルな男子なのだし。
 けれど、思い切って目を上げてみても、やはり話をしているだけで、ダンスはしていなかったので、ほっとした。
 そのまま弾き続けていると。
 女性の悲鳴が聞こえた。
 思わず手を止めた僕の前を、はっちゃんと八千穂さんが駆け抜けていく。
 ちらりと会長を見ると、頷いたので、僕は手を止めた。
 ほとんどの生徒が悲鳴の方に向かっている。
 おそらく…執行委員が処罰をしたのだろう。
 だとすれば…はっちゃんは、執行委員を追っていくだろうか。
 しばらくして、ざわめきが収まり、また舞踏が再開された。
 そうして予定通り夜会が終了した。
 立ち上がった僕に、会長が「ご苦労」と言ったので、僕はぺこりと頭を下げた。
 ピアノを片づけて、楽譜を揃えていると、会長が静かに僕を見つめて言った。
 「取手。お前は、あの<宝探し屋>を、<自由>だと…そう思うか?」
 会長が何を思って、そんなことを聞いたのかは分からない。
 「…はい。…そう思います」
 彼は、<自由な風>で、僕は、どこにも行けない<留まる沼>だ。
 会長は、やはり静かに僕を見つめていたが、ふっと頬を緩めた。
 「面白い。奴自身は、そうは思っていないようだ。…人は皆、他人を<自由>と思い、己は<縛られている>と、そう思うものなのかもしれん」
 …よく分からない。
 はっちゃんが<縛られている>なんてことがあるだろうか。
 僕自身は<墓>に縛られ…それが解放された今でも、やはり自分自身に縛られていると思う。
 けれど、彼は…とても自由だと思うのに。
 会長は、僕に謎だけ残して、僕の返事は待たずに、ふっと立ち去った。
 ひょっとしたら…自分自身と会話していたのかもしれない。
 僕は千貫さんに挨拶をしてから、寮へと向かった。
 歩きながら、携帯の電源をオンにする。
 メールが1件入っていた。
 『件名:ごめんなさい 送信者:葉佩九龍
  急にあそこに行くことになりました。
  約束したのに、果たせないで本当にごめんなさい。
  また連絡するから、必ず会って話をして下さい。
  お願いします。』
 やっぱり、執行委員を追っていったらしい。
 怪我をしないと良いのだけれど…。
 …でも、誰と一緒に行ったんだろう。
 たぶん、一人は八千穂さんだと思うけど…やっぱり、皆守くんだろうか。
 僕は、じくりと痛んだ胸を押さえて、早足で寮に急いだ。
 夜会から帰った人たちで、まだ少しざわついていたが、本当はもう消灯時刻だ。
 僕は静かに自室に帰っていった。
 パジャマに着替えて、憂鬱に溜息を吐く。
 はっちゃんと会いたくは無いのに…でも、彼が誰かと一緒にいるなんて、そんな光景こそ見たくは無い。
 けれど、一人で墓に潜っている、というのも…とても危険で止めて欲しいと思う。
 我ながら、ひどい矛盾だ。
 ならば、僕の理想は?
 それは、簡単。
 彼が僕だけを頼りにして、僕だけと一緒にいれば良い。
 …そんなこと、あり得ないのに。
 けれど、僕は…それが本当にならないと、彼を無理矢理閉じこめてしまいたいほどに…彼に飢えている。
 彼が、欲しい。
 僕だけのものにしたい。
 僕は、何の反応もない携帯を撫でた。
 はっちゃんが、たった今、命のやり取りをしていると分かっていても、きっと僕は、彼を腕に抱く夢を見るのだろう。
 何て浅ましいんだろう。


 僕は、ドアの外のざわめきでうっすらと目を覚ました。
 おぼつかない視界で枕元のデジタル時計を確認すると、7:45だった。
 一瞬、遅刻、という単語が頭を過ぎったが、今日は祝日だったとすぐに思い出す。
 その間に、ドアの外の声は小さくなっていたが…まだ何かの気配がした。
 たぶんは、誰かが会話しながら外を通ったんだろうけど、このドアの前の気配は何だろう、と僕はパジャマのまま覗き窓を覗いた。
 だが、そこには何も無い。
 けれど、確かにドアの下の方から…呼吸音?
 僕は、そぅっとドアを開けてみた。
 いや、開けようとしたら、何かにつっかえた、と言うか。
 無理矢理押していると、うめき声のようなものが聞こえた。
 「…ふにゃ?」
 「は、はっちゃん!?」
 ドアのところで小さく丸まっていたのは、はっちゃんだった。
 毛布にくるまってはいたが、中はただのセーターのようで、頬に感じる空気の冷たさにぞっとする。
 「ちょ…何をやってるんだい!?」
 僕の悲鳴のような声に、彼は目を擦りながらぼーっとした声で答えた。
 「待ち伏せ〜」
 「い、いや、待ち伏せって…とにかく、中に…!」
 思わず手を掴むと、氷のように冷たかった。
 引っ張っても、彼の動作は鈍い。
 「あ〜、体が硬くなっちゃったな〜」
 暢気な声で呟いている彼の体を毛布でくるみ、そのまま抱き上げた。
 有無を言わさず部屋の中に入り、ドアを閉じる。
 ほんの1分程度のことだろうに、部屋の中の気温はかなり下がっていた。
 「いいいいいや、なななんていいいうかかか…」
 はっちゃんは何か言おうとしているようだったが、歯ががちがち鳴り始めてうまく喋れないようだった。
 僕は彼を脇の下に抱えたままさっきまで寝ていた布団をはぐり、毛布を掴んで腕を離した。
 冷たく冷え切った毛布は残して、彼の体だけをベッドに落とし、上布団でくるむ。
 「何か温かいものを作るから…そこでいて」
 「おおおおかかかまままいいいなななくくくく」
 「…黙って」
 僕はカーディガンだけ羽織って、簡易キッチンで湯を沸かし始めた。
 インスタントの卵スープでいいだろうか。
 とりあえずマグカップと袋を用意してから、湯が沸く間に自分の着替えを済ませておく。
 規則的にかかかかかかと鳴っていた歯は、少し落ち着いてきたようだ。
 そして、僕もようやく少し落ち着く。
 彼は一体、何をしているんだろう。
 待ち伏せ、と彼は言った。
 夕べ、約束を守れなかったから、謝りたかった…とか?
 いや、そんなのメール一つで済ませられるはずだ。
 直接、会って話がしたい、と言うなら…またメールで連絡してくれれば…逃げていたのは、僕だけれど。
 僕はしゅうしゅうと音を立てているやかんを見つめながら、背後の気配を探った。
 かかかかかかだった歯の音は、かかっ………かっ………くらいに落ち着いている。
 自分の分も固形のスープをカップに落として、湯を注いだ。
 両手にカップを持ってベッドに戻ってみれば、はっちゃんは布団にくるまって目を閉じていた。
 サイドテーブルにカップを置いて、そっと覗いたが、気が付く気配は無かった。
 どうやら暖かさに負けて眠ったらしい。
 僕はエアコンのスイッチを入れて、クッションに座り、ベッドにもたれて卵スープをすすった。
 そうして温まった手で彼に触れる。
 前髪を横に梳いて、額、こめかみ、耳、と触れていく。
 耳たぶだけがまだ冷たい。
 そっと唇で触れてみたが、やはり目を覚ましはしなかった。

 トーストを焼いて食べた後でも、まだ規則正しいすぅすぅという寝息が聞こえていた
 よほど疲れているのだろうか。
 夕べはあそこに行って…戦って、帰ってきたのだろう。
 それから…それから?
 いつから、はっちゃんは、ドアの外で待っていたのだろうか。
 せめて朝からなら良いんだけど…。
 僕は、手持ちぶさたに、ベッドに顔を乗せた。
 目の前に、はっちゃんの顔がある。
 指で顔に触れても、眠ったまま。
 子供のような顔に、笑いたくなる。
 ヘドロの中に、頭までどっぷりと浸かって息もできなかったのに、目の前に君がいると言うだけで、こんなにも安らかだ。
 かすかに産毛の生えたこめかみを指でなぞる。
 だんだん顔の上半分だけでは物足りなくなって、布団をそっとずらして口元まで引き下げた。
 吐息がかかるほど近くにある顔。
 柔らかな頬を撫で、触れるか触れないかくらいに唇に触れると、くすぐったいのか少しだけ息が乱れて口がむにむにと動いた。
 だが、すぐに規則正しい寝息に変わる。
 「…僕を…そんなに、信用しちゃ…駄目だよ、はっちゃん」
 呟いたが、僕の可愛い人は安らかに眠っているだけだった。
 
 しばらくはっちゃんの顔を眺めている間に、僕も眠ってしまっていたらしい。
 おかしな姿勢で眠ってしまったため、痛くなった脇腹を逆方向に伸ばしていると、聞こえてくる寝息の違和感に、耳に意識を集中した。
 …やけに、早い。
 そういえば、頬も赤いような。
 慌てて手のひらで額に触れると、そこはひどく熱かった。
 微熱、なんてもんじゃない。体温計は無いが…たぶん、これは39℃近くある。
 どうしよう。
 ここには、氷なんてない。
 誰かは氷くらい作っているだろうが…誰に言えばいいのか見当も付かない。
 今更ながら己の交友範囲の狭さを呪いながら、氷のありそうな場所を思い浮かべる。
 今日は祝日で保健室は駄目だ。
 もちろん、理科室も駄目…祝日でも開いているところ…マミーズ!
 僕は、洗面器を抱えて、慌てて部屋を飛び出した。
 男子寮から走っていって、マミーズに飛び込む。
 祝日の11時は、まだ昼食には早い時刻らしく、そんなに混んでない。
 いつものウェイトレスさんが「ようこそ〜」と挨拶してくれたが、僕は手を振って否定した。
 息を整えながら、途切れ途切れに言う。
 途中で、マミーズにお願いするのは筋違い…というか相手は客商売…だと気づいたが、この人ははっちゃんと一緒にあそこに行くこともあるのだから、少しは融通を利かせてくれるだろうと期待する。
 「あの…はっちゃんが…熱を出して…すみません、氷を…」
 「え〜!?それは、大変!」
 ウェイトレスの人は大げさにお盆を持って仰け反ってから、僕の持っていた洗面器を受け取った。
 「これに入れればいいですかぁ!?」
 「はい…すみません、お金は…今度、持ってきますから…あの…」
 「良いんですよぉ!マミーズは、学生さんの味方です!少々お待ち下さ〜い」
 がらがらと氷が鳴る音がした。
 「はいっ!どうぞ!」
 「あ…ありがとうございます…」
 洗面器に山盛りになったキューブ状の氷に、少々後ろめたい気持ちになりつつ、僕は頭を下げた。
 「また、お二人で来て下さいね〜!」
 元気良く手を振るウェイトレスの人にもう一度頭を下げて、僕はマミーズを出てからまた走った。
 洗面器から氷が落ちないようにしているので、さっきほど全速力では走れないが、気持ちだけは急いている。
 肩で玄関の扉を押し開けて入ると、通りがかった人が僕を見て立ち止まった。
 確か、エジプトからの留学生で…トト・ジェフティメス。同じクラスだが、話したことは無い。
 だが、相手は僕におそるおそる話しかけて来た。
 「アノ…取手サン…」
 「ごめん、今は、急いでるんだ」
 「デモ、葉佩サンノコトデス。お願イシマス」
 必死な形相というより、葉佩さん、という単語で僕の足は止まった。
 それをどう取ったか、色黒のエジプト人は、辿々しい…今の僕にはイライラさせられる言葉を紡いでいく。
 「葉佩サン、トテモ悲シンデマス。取手サン、会っッテクレナイト、悲シンデマス。トテモ…エト…落チテル?デス」
 「落ち込んでる?」
 「ソウ、ソレ。葉佩サン、イイ人。友達。今度ハ、ボク、助ケル番」
 「あぁ、夕べは、君が…」
 どうやら、夕べの執行委員は、目の前の彼だったらしい。
 そして、いつものようにはっちゃんに助けられ…いつものように、はっちゃんには<友達>が一人増えた、と。
 ざわり、と胸の中で何かがざわめいた。
 「…そこを、どいてくれないか」
 僕の低く脅すような声にも退かず、まだ何か言おうとしたエジプト人に、脇に抱えた洗面器を見せてやる。
 「はっちゃんなら、今、僕の部屋にいる。熱を出しているから、早く冷やしてあげたいんだけど」
 「…熱…ボクノ部屋…寒カッタカラ…」
 「…僕の部屋?」
 つい、はっちゃんがこのエジプト人の部屋に泊まったところを想像してしまって、胸の中のもやもやは、はっきりと塊になって喉につかえた。
 う゛ぉん、と手のひらにホルスの目が浮かぶ。
 「ソウ、僕ノ部屋、雪イッパイ。後デ、熱イ鍋食ベマシタ。…ゴメンナサイ、早ク行ッテ下サイ」
 もどかしそうに言って、エジプト人が体を引いたので、僕は洗面器を抱えて階段を駆け上がった。
 たぶん、彼には、良い印象は与えなかっただろうけど…そんなことを気にしている場合じゃなかった。
 扉を開けて、部屋に入ると、入り口近くにはっちゃんが座っていた。
 顔は真っ赤で、何より…ぼろぼろと涙を流しているのにぎょっとする。
 「は、はっちゃん?えっと…あの、ベッドに、ね…」
 とりあえず、洗面器を床に置いて手を差し伸べると、はっちゃんは目をごしごしと擦った。
 「目が覚めたら…取手いなかったから…また、逃げられたのかと思って…」
 「逃げるって…ここは、僕の部屋だよ?あぁ、そうじゃなくて…君が熱を出しているから、氷を貰いに行ってたんだ」
 「熱?俺が、熱?」
 きょとんとした顔で、彼は自分の額に触れた。
 しばらく黙ってから、ゆっくりと首を振る。
 「大げさだなぁ。そんなに熱なんて、無いよ…」
 「それは、君の手も熱いだけ!」
 動こうとしない彼の脇の下に手を入れ、抱き上げるとやっぱり彼の体は熱かった。
 「…気のせいだよ…」
 ぶつぶつ言いながらも、彼は僕にくたりともたれている。
 彼の熱が移りそうだ。
 僕の頬まで熱くなっていく。
 なるべく考えないようにしながら、彼をベッドに降ろして、上布団を掛けると、足をじたばたさせてはね除けた。
 「やだー、あついー」
 子供のような発音に苦笑したが、僕のベッドの上で、シャツだけでぼんやりと転がっている姿を見ていると、心拍数が上がっていった。
 「と、とにかく…氷を貰ってきたから」
 タオルを絞って彼の額に乗せる。
 確か、氷枕があったはず、と普段は使わない物をしまってある段ボールをごそごそ探していると、はっちゃんの覇気の無い声がした。
 「とりで〜…おなかすいた〜…」
 「…はいはい、ちょっと、待って。…冷えたちゃった卵スープなら、今すぐそこにあるけど」
 「のむ〜」
 彼はぼーっとした目で起きあがり、サイドテーブルの上のマグカップを見つけた。
 僕もようやく探し当てて、埃を払い、何度か洗った。
 氷をざらざらと入れて水を入れると、何だかごろごろして頭が痛そうだったので、何かが違う、と首をひねる。
 ようやくちょうどいいくらいの量を探し当てて氷枕を持っていくと、はっちゃんは空になったカップを持ったまま、僕を見ていた。
 タオルで包んで枕を置き、寝るように促すと、腕を伸ばして抱きついてきた。
 「へへ〜つかまえた〜」
 「…あのね、はっちゃん…」
 「取手に、会いたかったよぉ」
 ぐすぐすと鼻を鳴らす様子に、確信する。
 どうやら、高熱のせいで子供に戻っているらしい、と。
 これは、子供。
 熱を出している、子供。
 …よし、何とか抑えられたかな。
 子供にするようにぽんぽんと背中を叩くと、えへへと笑う声がした。
 「はいはい。ちゃんとここにいるから…寝てなさい」
 寝かしつけて乱れた髪を整えつつ、額に手のひらを当てると、ほにゃっと笑って僕の手を掴む。
 「取手の手、気持ちいい〜」
 僕は、がくりとベッドに突っ伏した。
 賭けても良い。
 今晩、僕は夢の中でこの声を再生する。…もちろん、違うシチュエーションで。
 落ち着け。
 落ち着け、僕。
 これは熱が出ているただの子供。
 子供相手に、何も考えるな。
 「ホントに、どこにも行かない?」
 「行かないよ」
 「一人で行っちゃ、やだからな?」
 …再生リスト、追加。
 「ここは、僕の部屋だって言っただろう?大丈夫、どこにも行かないよ」
 子供に言い聞かせるようにゆっくり発音すると、はっちゃんは不安そうに僕の手をぎゅっと握って、熱に潤んだ目で見上げてきた。
 …その目は反則だ。
 「とりで」
 「…なんだい?」
 落ち着け、落ち着け、落ち着け…これは熱の出た子供、熱の出た子供、熱の出た子供…
 「取手は、俺のこと、嫌いになった?」
 ばふっと僕の顔はベッドに埋まった。
 …人が必死に努力しているというのに…何故、そんな目で、そんな質問を…。
 「…いえ、嫌いになんてなりませんから、お願いですからともかく寝て下さい」
 「何でそんな棒読みなんだよぉ」
 ちらりと目を上げると、やっぱり潤んだ瞳が訴えるように切ない色で僕を見つめていた。
 …まずい。
 反応しちゃ、まずいのに。
 自分の呼吸数と心拍数が上がるのが分かる。
 見てるからいけないんだろうか。
 また布団に顔を埋めると、ごそごそと動く音がした。
 さすがに目を上げると、はっちゃんが器用に足で布団を引っ張っているところだった。
 慌ててちゃんと掛けて、ぽんぽんと叩くと、どことなく寂しそうな顔で微笑んだ。
 「俺が…元気な時じゃなきゃ、話せないような内容なんだな…ベッド、占領して、ごめん」
 「それは、良いんだけど…」
 前半は否定しないでおく。
 たぶん、彼が考えていることとは違うだろうけど、僕が話せることも、やはり元気な時の方が良いからだ。
 「とにかく…何か作るよ。君のように上手じゃないけど…お粥くらいなら」
 「…ありがと」
 ぐすぐす鼻を鳴らして、僕の手をもう一度握ってから、手を開いたようだったので、僕は自分の手を抜き取った。
 卵スープの入っていたマグカップを手に簡易キッチンに立つ。
 えーと…冷凍のご飯と…梅干しなんて無いし…また卵かな。…あ、キュウリがあった。
 キュウリの細切りと瓶詰めの昆布煮を入れて粥を作り、溶き卵を流し入れる。
 あつあつのお粥と冷たいお茶を持っていくと、今度は眠らずに待っていた。
 「食べさせてあげようか?」
 「ちゃんと元気だよぉ」
 彼は笑って起き上がったが、あれ?と言いつつふらふらしていた。
 布団で壁にもたれる場所を作ると、素直にそこに埋まって、ふにゃ、と猫のような声を出した。
 お椀を手渡すと、はふはふと食べ始める。
 「おいしー」
 「それは良かった」
 しばらく食べているのを見つめて。
 「夕べは、何時まで潜ってたんだい?」
 「…えっと…4時くらい?」
 「それは…随分長くかかったんだね…」
 「後で、みんなでお夜食食べたから。寒かったから、鍋をね。すごいよ、雪で真っ白の区画だったんだ。何でジャングルの下があんなことになってるんだろう」
 心底不思議そうに言う言葉を聞いて、さっきのエジプト人の言いたかったことが分かった。<ボクの部屋>は、<自分が任せられた区画>という意味か。
 「それで…帰って、寝たの?」
 「……えーと……」
 …これは、寝てないな。
 じゃあ、4時頃から部屋の前で?
 「…凍死したらどうするんだい?」
 「毛布被ってたしぃ…えっと…ごめんなさい」
 上目遣いで見上げてくるのに溜息を吐く。
 「その、謝罪の意図は?」
 「えっと、取手に迷惑かけちゃ駄目だなって…」
 「そうじゃなくて」
 相変わらず自分の体のことは二の次な考えに頭が痛くなる。
 「まずは、君が凍死したかもしれない、第2に、風邪を引くかもしれない…実際、熱が出てるし。僕は、君の体を心配しているのであって、僕に迷惑だなんて考えたことはないよ」
 はぁ、と溜息を吐きながら答えると、はっちゃんは分かったような分からないような顔をしていた。
 あぁもう、相変わらず…。
 「…だって。取手は、俺と会うのが、迷惑そうだもん」
 ぼそりと言った言葉は、聞こえなかったことにした。
 
 それから、はっちゃんはまた眠り込んで。
 夕方目を覚ました時には、熱は引いているようだった。
 「うっわー、汗びっしょりー」
 気持ち悪い〜とぶつぶつ言っているのを眺めていると、いきなり脱ぎだしたので僕は慌てて目を逸らす。
 いや、もう全裸だって見てるんだから、今更なんだけど。
 その脱いだシャツで自分の体を拭いて、どうするのかと思ったら、脱いであったセーターを素肌に直接着ていた。
 「大丈夫?寒くない?」
 「んー、この部屋、暖かいから平気」
 けれど一枚だけじゃあ…と思った僕は、自分のセーターも一枚貸した。
 …そして、後悔した。
 袖も裾も余りまくってだぶだぶの紺色のセーター姿は、とても可愛くて。
 僕は初めて、<萌え>というものを理解した。
 …理解しなくて良いのに。
 頭を抱えながらちらっと見ると、はっちゃんは余った袖を面白そうに振って、それからくんくんと鼻を鳴らして言った。
 「あ、取手の匂いだ〜」
 …分かってて、やっているんだろうか…。
 がっくりと床に腕を突いている僕の背中に、ぽふぽふと袖が当てられる。
 「とりでー?えっと、あ、臭いって言ってるんじゃないからな?取手の匂い、好きだから」
 …あぁ、もう。
 神様、僕が今ここで襲っても、それは不可抗力では無いでしょうか…。
 ぶつぶつとしばらく床と話をして、どうにか落ち着いたので、僕はようやく頭を上げた。
 はっちゃんが、心底心配そうな顔をしていたので、胸の動悸が何とか収まってくる。
 僕の目の前に座るはっちゃんに、また冷えてはいけない、とベッドに座るよう促した。
 僕はクッションに座って、彼の正面に座って見上げる。
 「取手。俺のこと、嫌い?」
 好きだよ。大好きだよ。愛してるよ。僕だけのものにしたいよ。
 …あぁ、駄目だ。
 何だか、とんでもないことを口走りそうな気がする。
 僕は自分の口を押さえて、2回ほど深呼吸してから、一言一言区切るように丁寧に言った。
 「そんなことはないよ。僕は、君のことが、好きだよ」
 はっちゃんは、何だか疑っているようなジト目で僕を見つめた。
 拗ねるように唇を尖らせる。
 「なら、何で、避けるんだよ。故意に避けてるだろ?絶対」
 恋に避けてる…いい加減、僕の頭も茹だってきているみたいだ。
 「否定は、しないよ。…確かに、避けていたし」
 さて、どう説明しようか。
 …そもそも、説明する必要性はあるのだろうか。
 目の前に、大好きな可愛い人がいる。
 息もできないような気分だったのに、爽やかな風に一掃されたかのように、とても呼吸が楽だ。
 たとえ、僕だけのものでは無いにしても…今、このひとときは、確かに僕だけのものなのだ。
 僕を見て、僕を好きだと言ってくれる。
 そう、どうして、避ける必要がある?
 彼を汚してしまうから?
 夢を見たことが、後ろめたいから?
 どうせ、夢で何を見たって、実際にはっちゃんが変わる訳でもない。
 ならば、素知らぬふりをして、一緒にいた方がいいのではないだろうか。
 彼と離れて、そしてまた目の前にして、はっきりと思う。
 僕は、はっちゃんを手放したくない。ずっと一緒にいたい。
 理性では、僕のような<化け物>は一緒にいるべきでは無いと思う。
 けれど、僕は彼に飢えているのだ。
 離れてなんていられない。
 …さて、そうとなったら、どう言えば良いだろうか。
 どう言えば、納得して貰える?
 「やっぱり…そうなんだ」
 黙って考えていたら、はっちゃんが泣きそうな声だったので頭を上げた。
 「それって、俺がおかしいから?俺、やっぱり一般人じゃないんだ。取手みたいに優しい人と、一緒にいられるような人間じゃないんだ」
 そう言ったはっちゃんの鼻が真っ赤になったので、僕は手を伸ばして額に触れた。
 …うん、熱が上がったわけじゃないかな。
 「はっちゃんは…おかしくなんか、無いだろう?」
 おかしいのは、僕の方だ。
 それから、僕は、優しくなんかない。
 「だって…あの夜会の時、思ったんだ。あの時さ、双樹が俺にダンスを申し込んだんだけど…」
 それは知ってる。
 そして、たぶんは、断ったことも。
 はっちゃんは頬を歪めて自嘲するように続けた。
 「たぶんさ、普通の男なら、あんなグラマーな美女に誘われたら喜ぶと思うんだ。…だけどさ、俺は、さ……何を考えたと思う?」
 女性に興味が無い、と言うなら、僕としてはとても嬉しいんだけど……あ、かといって男性に興味があると言われると、それはそれでライバルが多くて困るんだけど…そういう話じゃないだろうな。
 グラマーな美女に誘われても喜ばずに…たとえば。
 「…椎名さんのような…少女タイプの方が好き…だとか?…それなら、単に…好みの問題…だけど」
 はっちゃんの顔が一段と暗くなり、自棄のように笑った。
 「やっぱり、取手は、一般人なんだよな。…それが<普通の>発想なんだろうけど」
 いつも元気な彼が、そんな風に自分を卑下している姿なんて見たくない。
 僕は<宝探し屋>になった気持ちで、双樹さんのことを考えてみた。
 「えっと…たぶんは敵になる相手だから…敵とダンスする気なんて起きなかった…とか?」
 「敵意を感じたなら、まだマシかもしれない。…俺は、さ。敵意は感じなかったよ。あの場で何かされるとは思ってなかったし。…敵意も持ってないのに、俺は」
 両膝に顔を埋めるようにして、自分の手を頭の上に組む。
 ひどくくぐもった声だけれど、僕の耳には届いた。
 「俺は…あの胸を見て…さ。…何cmあれば心臓に刃が届くかって考えてたんだよ。如何にすれば、効率的に殺せるかって。…おかしいだろ?異常だろ?俺は、やっぱり<一般人>にはなれないんだよ。俺にはもう、染みついてるんだ」
 何が、とは言わなかった。
 けれど、彼も分かっているし、僕にも分かった。
 …そんな風に、考えていたんだ。
 ふと、会長が言ったことが思い出された。
 『人は皆、他人を<自由>と思い、己は<縛られている>と、そう思うものなのかもしれん』
 彼は、風なのに。
 自由な風なのに、やはり<どこにもいけない>と思っているのだろうか。
 小さく胎児のように丸まっている彼を、僕は腕を伸ばして抱きしめた。
 彼の耳に、そっと囁く。
 「はっちゃん、僕はね。…<化け物>なんだ」
 「…何種の?」
 …そういう返しをされると困るけど。
 「さあ…でもきっと、とても醜い<化け物>だよ」
 「俺、何人か、ホントの<人外>に会ったことあるけど。みんな、綺麗だったよ?」
 …本物に?
 それは…いつか聞いてみたい気もするけど。
 「きっとね、暗くて深い沼に住んでてね。…君を引きずり込んでしまうよ。…君が、どこにも行けないように」
 はっちゃんが、顔を上げた。
 落ち込んでいたのに、今は好奇心が勝っているらしい。
 「トロールの一種かな…日本にもいたんだ?」
 …いや、本物と比べられると…困るんだけど…。
 このままでも良い気がするけど、早めに誤解は解いておいた方がいいか。
 「…あのね、たとえ話であって…両親は人間だし、僕も…たぶん、肉体的には人間だよ?…心の問題で」
 「…なんだ」
 そんなあからさまにがっかりしなくても。
 「取手がモンスターなら、一緒にいられると思ったのに。人間なら、人間の幸せを追求して貰いたいから…駄目だけど」
 「モンスターなら一緒にいられるって…」
 「結構いるよ?やっぱり、<日常生活>はうまく出来ないから、こういう職業の方がいいみたいで」
 …ロゼッタ、凄いな…。
 「取手は人間だよ。普通の人間だよ。で、将来はピアニストになって、みんなを幸せに出来るんだ。…俺なんかより、ずっと<人間>だよぉ…」
 はっちゃんがまた顔を伏せたので、僕もまた抱きしめた。
 かすかに汗の匂いがするが、はっちゃんの匂いだと思うと、甘いような気がする。
 「…やっぱり、僕の方が、おかしいと思うけれど」
 「おかしいのは、俺だもん」
 「だって、僕は」
 言ってはいけない。
 彼はもう、<友達>とは思ってくれなくなるかもしれない。
 けれど。
 「だって、僕は…君を、閉じこめてしまいたいんだ。君が、どこにも行けなくなるように」
 彼の震えが止まった。
 ゆっくりと顔を上げる。
 いつもよりも潤んでいるせいできらきらと光る瞳が、目の前にあった。
 そうして。
 ふんわりと笑った。
 「…あ、そんなに、一緒にいたいと、思ってくれてるんだ」
 いや、確かにそうなんだけど…喜ばれるのとは違うような。
 「俺、任務が終わったら、この学園からは出て行くけど…でも、会いに来るよ?それっきりにしたりしない。絶対、<友達>に会いに来る。…取手が、イヤじゃなければ、だけど」
 不安そうに付け加えられた言葉に、キスをしたい、という衝動に駆られた。
 ぎゅうっと力を込めることで何とか抑えて、キスする代わりに彼の耳に唇で触れた。
 「イヤじゃない…イヤじゃないよ。僕は、いつでも、君と一緒にいたいんだから」
 「じゃあ、何で避けるんだよぉ」
 「だから…その……迷惑じゃないか…って思って…。君は、いつか必ず、出ていく人なんだし…」
 「いつか必ず出て行くから、今は一緒にいたいんじゃんか!俺、取手と一緒にいたい」
 たぶん、彼が言うのは<友達>と一緒にいたいということで、僕の気持ちとは全く異なるのだろうけど。
 それでも、僕は頷いた。
 飲み干すのは、甘美な毒なのだけれど。
 「うん…ごめんね、避けたりして。…もう、しないよ」
 いつか来る破滅に怯えて逃げるより。
 破滅の日が来るまで、享楽を甘受する道を、僕は選んだ。
 彼は、知らない。
 僕がどれだけ、夢の中で彼を汚しているのか、知らない。
 彼といることで、僕が背徳的な喜びと罪悪感に引き裂かれていることを、知らない。
 それでも、その毒は甘すぎて、抵抗する気力はもはや残っていなかった。

 僕の夢は、どんどんリアルになっていく。
 声も、表情も、匂いも、触感も。
 朝、目覚めた僕は、時折、悩む。
 このひどくリアリティー溢れた夢は、むしろ喜んでおくべきなのか、と。







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