風と水と 3





 姉さんは、もういない。
 僕を愛してくれた人は、もうどこにもいない。
 本当は、それが正しいことは分かっていたけれど、それでも僕は悲しかった。
 僕の心にはぽっかりと穴が開いて…本当は、姉さんが死んだ、そのときにすでに開いていて、今までそれを忘れていただけだったけれど…僕の気力はそこからさらさらと流れていっている気がした。
 両親は僕を愛してくれるけれど…この学園に、愛なんてない。
 卒業するまで、僕はこの穴を抱えて生きて行かなくちゃならないのか。
 確かに音楽は戻ってきた。
 僕を愛してくれた姉さんの記憶も戻ってきて、姉さんのことを考えたり、姉さんが残してくれた曲を弾いたりしていると、少しは心が和らいだけれど、それでもやっぱり僕は空虚だった。
 姉さんが死んでからの僕は、蜃気楼の中で生きてきたも同然だったけれど、やっぱり今も同じように現実を生きている気がしなかった。
 僕を救い出した<宝探し屋>は、そんな僕を気にかけているようで、何かと話しかけてきた。
 正直、迷惑だった。
 僕をそっとしておいて欲しかった。
 彼はいつもにこにこしていて、生きる喜びに溢れていた。そんな人からしてみれば、僕のようなのは、人生を損しているようにでも見えるのだろうか。
 僕は彼じゃないし、彼のようになれるはずもない。
 放っておいてくれれば良いのに。
 けれど、彼はちょくちょくと僕の様子を見に来た。
 彼は何も僕を非難したりはしなかったけれど、それでも彼といるのは居心地が悪かった。
 生気に溢れた様子を見ていると、そうではない僕を責めているように思えた。
 確実に学園生活をこなし、更には本来の任務を抱え、そのついでに解放したに過ぎない僕のことまで気にかける。
 彼が元気であればあるほど、僕には何の力も無いのだ、と知らしめられる気がした。
 僕は、学園生活をこなすのだけで精一杯で…バスケを止めるべきだという音楽教師に反論することすら出来ず…僕のせいで学園を去った生徒に謝罪することすら出来なかった。
 やるべきだと分かってはいた。
 けれど、考えただけで疲れてしまって、結局何もしないまま毎日が過ぎていっていた。
 そんな僕が弾くピアノは、技術だけは元に戻りつつあったけれども、大事なものは何も込められていなかった。
 ただ、楽譜の通りに機械的に弾いているだけ。
 こんなことでは、ピアニストになるどころか…大学に合格することすらおぼつかないだろう。
 それが分かっていても、藻掻けば藻掻くほど深みに入る泥沼のように、僕は頭の先までねっとりとした液体に漬かっていて、息をすることすら苦しかった。
 彼は、僕を闇から引きずり出した。
 同じように、この沼から引き上げようとしているのかも知れないけれど…でも僕は、彼を見ていると余計に沈み込んでいった。
 彼は完璧で、僕は救われるべき無力な存在。
 それは、確かに本当のことだったかもしれないけれど、それでも僕のちっぽけな自尊心を傷つけるには十分だった。
 
 彼が僕を<墓>へと誘った時、よほど断ろうかと思ったけれど、断るのにもエネルギーが必要で、その言い訳を考えるくらいなら同行した方がマシだろう、と僕は素直に付いていった。
 僕が役に立たないと分かれば、彼ももう呼ばないだろう。
 けれど、途中までの彼はやはり完璧で、僕の力も皆守くんの力も必要とはしていなかった。
 僕らは何のために付いて行っているのだろう。
 そう思っていたら、彼が怪我をした。
 切り傷のような綺麗なものではなく、思い切り殴って中からはぜたような赤黒く不揃いな肉を見せているのに、彼は全く気づいていないようだった。
 彼は痛みを感じていないのだろうか。
 そのひどく痛そうな様子に僕の方が耐えられなくなる。
 けれど、彼は僕を気遣うばかりで、自分の傷を気にしない。
 完璧な彼は、無力な僕への気遣いを優先する、とでも言うのか。
 彼は、それが当然のことででもあるかのように、講義口調で先ほどの頬の傷は、視界に影響しないので大したことがない怪我だ、と解説した。
 そうして、僕は突然。
 彼は<宝探し屋>なのであって、僕ら一般人とは異なる存在なのだ、と改めて認識した。
 彼にとって怪我とは、任務に支障が出るかどうかで分類するものであって、痛みすら分析対象なのだ。
 僕なら。
 もしも僕が怪我をしたなら、姉さんが気遣ってくれた。
 「大丈夫よ、かっちゃん。痛いの痛いのとんでけー」
 もちろん、大きくなってからは、そんな呪文は無かったけれど、それでも「大丈夫よ、もう大丈夫」と姉さんが触ってくれるだけで、痛みは薄らいでいく気がした。
 彼が怪我をしたとき、周囲の大人はどんな反応をしていたのだろう。
 その痛みからどの程度行動に支障が出るものか分析しろ、と言ったのだろうか。
 そんな想像をして、初めて僕は、彼を可哀想だと思った。
 もちろん、それは虐待では無いのだし、彼には必要なことだったのかも知れないけれど、それでも、僕のような姉にただ愛される記憶が無いのは、可哀想だと思った。
 ひょっとしたら、ただの僕の勘違いなのかも知れないけれど。
 それでも、彼を可哀想に思うことは、僕にとって必要なことなのだ。
 哀れむ、と言うことは、一段下の者を気遣う、ということだ。
 それまで、彼は<完璧>で僕は<無力>という圧倒的な上下関係があったのに、彼が<可哀想>な存在なら、その立場は覆る。
 彼が完璧では無いのなら…僕は、何とか彼と付き合っていける。少なくとも、彼といる間中、無力感に苛まれることは無くなるだろう。
 だから、そう言う目で僕は彼を見た。
 そうすると、本当に…彼は<可哀想>な存在のような気がしてきた。
 僕たちが何も考えずにぬくぬくと過ごしてきた小学生時代を、もう危険な任務に同行し、己の武器や装備を所有していた彼。
 たぶん、彼は自分が選んだ道であって、哀れまれるべきではないと思うだろうけど…それでも、それはやはり、いびつだと思うのだ。



 葉佩は鼻歌を歌いながら、A組にやってきた。
 ようやく取手が少々だが受け入れてくれるようになったのだ。明らかに緊張していた頃と違って、葉佩といても様子は変わらなくなっていた。
 まあ、元々明るい性格では無いようなので、その変わらない様子、というのは静かに控え目に存在している、という状態なのだが。
 それでも、緊張されたり頭痛を引き起こしたりする関係よりは一歩前進だ。
 ちょっとずつ仲良くなれれば良い。
 今日も音楽室に行くのなら一緒に行こう、と思いつつA組の前に来たら、ちょうど生徒たちが教室から出て行っているところだった。
 窓際で、生徒たちの流れが切れるのを待っていると、ふと空白が生まれたので一歩踏み出した。
 だが、ちょうど戸口から人影が出てきた。
 取手ほどではないが、背の高い影。
 それが黒いロングコートを着ているのに気づいて、葉佩は何となくその生徒の額を見た。
 汗の代わりに、血管が浮いている。
 「…暑いのなら、脱げば良いのに」
 独り言のつもりだったが、その背の高い生徒がじろりと見た。
 その半歩後ろに付き従っていた赤い髪の女生徒がうふふと笑う。
 無言でコートをばさりと翻していくそれと、腰を振りながら歩いていく女子を眺めて、やはり独り言を呟く。
 「ジャパニーズマフィア?ゴッドファーザー?」
 少しだけ首を傾げてから、まあいっか、と教室に入った。
 「やっほー、取手ー」
 葉佩がここに取手に構いに来ているのはもう日常茶飯事なので、A組の生徒は全く気にかけていなかった。
 鞄に教科書をしまっていた取手が、葉佩を見て少し緊張した面もちになった。
 あれ、最近は平気になったのに、また警戒されてしまった、と完全に近づく手前で止まると、取手は葉佩の顔と教室の出口をちらりと見比べた。
 俺に会わずに出ていきたかったってことだろうか、ちょっと寂しいなぁ、と思っていると、取手は青白い顔を一段と白くさせつつ、口をきゅっと閉じた。
 すたすたと歩いていくので、黙って見守っていると、ちらりと振り返って首を傾げた。
 「…行かないのかい?」
 「いや、行くよ。音楽室だろ?」
 その会話だけで音楽室まで無言で歩いていく。
 最近は他愛のない日常会話が出来ていたのに、どうしたんだろう、と思う。
 鍵を開けて、音楽室に入り、また鍵を掛けてピアノの近くに行って。
 ようやく取手は、ほっと一息吐いた。
 適当な机に鞄を置いた葉佩もピアノの演奏者用椅子の隣の小さなイスにちょこんと腰掛ける。
 「葉佩くん」
 演者用椅子に座った取手が、くるりと回転して葉佩の真正面に向いた。
 真剣な表情に、一体どうしたんだろうと思いつつも葉佩も緊張した。
 「さっき…教室の出口で、生徒会長と会わなかったかい?」
 「生徒会長?」
 取手や椎名といった執行委員を任命した人。
 生徒会の<法>の最高責任者。
 たぶんは、この学園の<墓>を守っている<護人>のボス。
 考えるまでもなく、<敵>なのだが…暢気なことに、葉佩はその顔をまだ知らなかった。
 と言うか、そんな立場の人間が、普通に授業を受けているとは思っていなかった。てっきり遺跡の奥深くにいるもの、と。
 だが、考えてみれば、遺跡の長でも<生徒会長>って言うからには、学生でもあるのだろう。
 ラスボスと一緒に授業ってすっごくシュール、と思いつつ、先ほどの出来事を思い出した。
 「ひょっとして…あのミスターゴッドファーザー?黒いコートで、お団子頭で、隣に赤い髪の女の子がいた…」
 「…阿門帝等、生徒会長。隣にいたのは、書記の双樹さん。…やっぱり、会ったんだ…何も、言われなかった?」
 んー、と首を傾げる。
 「むしろ、素無視?お前なんか眼中に無いわ、ぺっ…って感じ?」
 「そう…なら、良いんだけど…」
 「よかねぇやい」
 取手が腕を伸ばして、葉佩の頭をくしゃりと撫でた。
 遺跡に一緒に行って以来、取手は時々葉佩をこうして子供扱いする。
 確かに身長差は大人と子供だが、年齢は全く一緒…どころか、4月生の葉佩の方が3月生の取手よりも1歳年上なくらいなのだが。
 まあでも、取手の大きな手のひらは結構気持ちよくて、怒る気にはなれないのだが。
 「これから…あまり、A組には来ない方がいい…刺激することはないから…」
 「えーー」 
 取手の躊躇いがちな提案に、不満の声を上げる。
 確かに、ラスボスの前をうろちょろするのは良くないかも知れないが、まさか教室で何か仕掛けられるはずも無し、何より。
 「それじゃあ、取手を捕まえられないじゃーん」
 取手は少し首を傾げた。
 基本的に、取手と過ごす時間が多いのは、葉佩が意識して取手を捕まえに行っているからであって、偶然ではないのだ、とちゃんと分かっているのだろうか。
 まあ、取手の行き先など、保健室か音楽室か、せいぜい屋上か、放課後なら自室くらいのものだが、その移動の間も貴重な時間だと言うのに。
 「何か、用があるなら…メールしてくれれば…」
 「…逃げない?」
 「逃げないよ」
 苦笑して、取手は自分の制服のポケットを探った。
 携帯を取り出して、中を見る。
 「…どうせ…これは…君専用だしね」
 「へ?複数持ってるのか?家族用〜とか、同級生用〜とか…これは、イヤな奴専用〜とか」
 自分はどの区画に入ってるんだろう、と聞きたいような聞きたくないような微妙に複雑な気持ちになった葉佩に、取手はまた苦笑してポケットにしまった。
 「これまで…誰かにアドレスを教えたことは無かったし…業務連絡くらいで…誰も、僕にわざわざ普通のメールなんて送らないからね」
 葉佩は、にへらっと笑った。
 「それで、俺専用?」
 「…そう…メールが来たら、それは高確率で君…一応、生徒会の用件の時もあるから、100%じゃないけど…」
 「まだ来てんだ、生徒会」
 相づちを打ちながら、葉佩はいろいろと考えた。
 もしA組に行かない場合。
 昼食の約束や放課後の予定とか…うわ、一日何回メールするんだ。
 だいたい取手の行動範囲は把握してあるとはいえ、あんまり束縛するのはなぁ。
 いや、今までも束縛はしていたかもしれないが、捕まらなかったら諦める、というのと、メールで約束して行動指定するのとはまたちょっと束縛具合が違うような。
 まだ、そんなに自信が無い。
 どれだけ取手を束縛して嫌がられないのか、自信が無い。
 うーん、と腕組みをしていると、ポケットをまだ探っていた取手が、何か取り出した。
 「そういえば…君に、これをあげるよ」
 真鍮色の細いそれは、どこかの鍵だ。
 「…実は…音楽の先生から預かっているのとは別に…生徒会からも、貰っているんだ。…だから、渡しておくよ」
 「え…音楽室の鍵?」
 「…そう…」
 葉佩の手のひらに落とされたそれを見つめ、うぼわ〜と呻く。
 早速自分の鍵束に繋ぎつつ、もう一度、呻いた。
 「いや、何かね、何て言うかね…鍵をくれるってことはさ、その人の領域に入って良い許可を貰った気分って言うかね…すっごく嬉しくて…すっごく照れくさいのですよ」
 これまでは無理矢理取手にまとわりついていたけれど、ようやくちょっとは受け入れてくれたのか、と幸せな気分になる。
 「えーと…ということで、ありがとう。大事に使います」
 「君が…喜んでくれて、嬉しいよ…」
 ちらっと目を上げると、取手が少し微笑んでいたので、やっぱり照れくさくなって俯いた。
 無意味に足をぶらぶらさせて、何か無いかときょろきょろと周囲を見回して、譜台に載っている本に気づいた。
 「あれ…合唱部のだ」
 歌詞があり4部パートに別れている楽譜をぱらぱらめくる。
 「鳥が空を見上げるように…あ、最近昼休みに聞こえる歌だ」
 取手は音楽室を独占しているということはない。昼休みには合唱部がピアノと音楽室を使っているのだ。
 時候がよいせいかどうやら窓を開けて歌っているらしく、屋上でパンを食べたり昼寝をしたり、保健室でごろごろしている時には、結構はっきり聞こえてくるのだ。
 「…弾こうか?」
 こんな歌詞だったのか、と楽譜を目で追っている葉佩をちらりと見て、取手は楽譜無しで伴奏を弾き始めた。
 合唱が聞こえてきたら歌詞を聴いていた葉佩とは違って、どうやら伴奏のピアノの方を聞いて覚えたらしい。
 「い、いきなりか!」
 と言いつつも、何となく立ち上がって覚えている歌詞を歌い出す。
 ソプラノパートだったりテノールパートだったりと無茶苦茶な歌い方だったが、それでも腹の底から思う存分歌うのは心地よかった。
 結構ストレス発散だよな、あぁ、それで日本にはカラオケが流行ってるのか、と納得しつつ、歌い終えると、取手が少し考えるような顔でちらりと見てきた。
 「何?」
 「…歌うの…好きなら、合唱部に入れば良いのに…」
 「いやいや、歌うのは好きだけどさぁ。時間を束縛されるのはイヤなのよ。好きなときに、好きな曲を歌えれば良いんだけどねー」
 「じゃあ…いつでも、伴奏してあげるよ…」
 「うわお、贅沢ぅ」
 プロの歌い手でもあるまいし、専属伴奏ピアニストを得た葉佩は、くすくすと笑ってイスに腰を下ろした。
 「まぁ、歌いたくなったら、頼むわ。えーと、次は…今日はあれ聞きたいな、あれ。お姉さんの曲」
 「…うん…」
 取手が前を向き、軽く息を吸って、吐いた。
 イスの位置を確かめて、指を乗せ、祈るように目を閉じる。
 そうして紡ぎ出された音は、いつもとはほんの少しだけ違っていた。
 柔らかな日差しのような曲に、葉佩は目を細めた。
 取手は、変わってきている。
 ちゃんと、エネルギーが満ちてきている。
 それでも普通の学生よりは物静かで大人しいが、本来そういう性格なのだろう。
 もう少しだけ、ちょっかい出しておこうか。
 ちゃんと、葉佩以外の友達とも会話して、メル友になって、葉佩がいなくなっても楽しい学生生活を送れると良い。
 本来、葉佩は<異分子>であって、学生生活には存在しえないはずなのだから。


 
 「ダーリンは、風のような人ね」
 長い睫毛をばさばさとはためかせながら、頬杖付いた朱堂がうっとりと呟いたので、葉佩はスプーンをくわえたまま、は?と答えた。
 「この学園は、ずっと澱んでいたの。ダーリンはそこに吹く一陣の爽風…素敵だわぁ」
 「そんな大層なもんじゃないと思うなー」
 スプーンを皿に置くと、すかさず身を乗り出した朱堂に手を握り締められた。
 別に命の危険も感じないのでそのままにしておくと、朱堂がますます身を乗り出してきた。
 んー、と突き出す真っ赤な唇を眺めていると、横に座っていた皆守が紙ナプキンを朱堂の唇に押しつけた。
 「ちょーっと何すんのよぉ」
 「気色悪いもんを見せるな」
 「良いじゃないのよぉ…ダーリンは喜んでるんだし。ね、ダーリン」
 「うんうん、楽しんでますとも」
 実際、葉佩は結構この朱堂という人間が嫌いでは無かった。
 大胆に迫ってくるようでいて、こっちが積極的に出ると案外奥ゆかしく、どうも根本は大和撫子のようだったから、いきなりどうこうされる心配は無く、そのお芝居を楽しんでいればそれで良かったからだ。
 「…朱堂くん…袖が汚れるよ…」
 「あら、ありがと、かっちゃん」
 「………」
 どうやらかっちゃんという呼び名が複雑らしいが、嫌がるだけの根性も無い取手が無言でいるのを良いことに、朱堂はまた取手の隣に腰を下ろした。
 「ねぇ、かっちゃんもそう思うでしょう?ダーリンは風のような人よね?」
 「…うん…そうだね…」
 取手にじーっと見つめられて、葉佩は首を傾げながら食事を再開した。
 風。
 流れるもの。
 「まあ、根無し草って点では確かに」
 はっきりと言葉に出して言ったことはないが、葉佩はこの学園にはあくまで任務で来ているのであって、任務が終了すればまたふいっと旅立ってしまうのだ。
 それが当たり前だと思っていたが、最近は少々心苦しくなってきているので、あまり考えないようにしているが。
 「でも、俺は風って好きなんだよね。こう、ぶわっと風を全身に受けてさ、ひょっとしたら浮かび上がらないかなーなんて言うくらいびゅーびゅーの風が好き」
 まぁ、実際そんな風を受けたら危険きわまりないのだが。
 「だからさ、俺がもし死ぬときには、どっかで竜巻に巻き込まれてみたいなー」
 生身の体で天高く舞い上がっていけたら、さぞかし気持ちよいだろう。
 失速して墜落死か、呼吸困難で死ぬだろうから、さすがの葉佩も、今すぐ試してみたくはないが。
 ぼーっと天井を眺めていると、手が握られたので、また朱堂かと思って目を下にやると、自分の手を掴んでいるのは骨張っていて大きな手だと気づいて、あれ?とそのまま視線をその腕の主に向ける。
 取手はやや俯き加減だったが、唇を噛み締めているのはよく見えた。
 「と、取手?…えーと、俺、何か怒らせた?」
 「……なんて……」
 「え?なに?」
 「…死ぬ…なんて…言っちゃ、駄目だ」
 「え…えーと…」
 葉佩としては、軽い冗談というか、せいぜいオズの魔法使いくらいファンタジーな望みだと思っていたのだが、どうやら本気で怒られているらしいと気づいて、姿勢を正した。
 「…冗談でも…死ぬとき、なんて…言わないで…欲しい」
 「は、はい。すみません」
 葉佩にとって、死とはすぐ隣にある現実でもあったが、同時にそれでもどこか自分にだけは降りかからないもの、とでも言うような傲慢さが確かにあった。
 だから、冗談にも出来るのだが、取手にとっては違うらしい。
 取手にとっては、姉の死はまだ生々しいもので、深く食い込んだ棘なのだろう。
 それを刺激してしまったことを悔いながら、葉佩は己の手を握る取手の手をもう片方の手で包むように握った。
 「えーと、ホントにその…ごめんなさい。もう、軽はずみなことは言いません」
 だから、泣かないで欲しいなぁ、とぎゅーっと手を握っていると、隣に座る皆守が思い切りそっぽを向いた。
 「…男同士で手を握りしめ合うのは、止めておけ…」
 「何よ、皆守さんてば、妬いてらっしゃるのん?」
 「だから、女言葉は止めろ、と」
 軽口を叩いていても、手の力は弱まらない。
 うわー、ホントに傷を抉っちゃったのかー、と葉佩は身を乗り出して取手の顔を覗き込んだ。
 「ね、ホントに、機嫌直して。お願い。…えーと、そうだ、後で地上最強オムレツ作ったげるからさぁ」
 「…地上最強カレーはどうした」
 「後回し」
 「ひでぇ」
 「土鍋カレーで手を打ちなさい」
 「了解」
 視線は取手に向けたまま、皆守と交渉していると、取手がようやく顔を上げた。
 まだ少し眉間に皺が寄っているが、それでも口元は少しだけ笑って、低く呟く。
 「それより…約束して…くれるかい?」
 「うん、何を?」
 「…死なないで…」
 「いやまあ、人間、いつかは死ぬんで、不死の約束は出来かねますが…あ、いや、そうじゃなくて。うん、早死にはしません。ちゃんと…えーと、少なくともこの学園にいる間は…」
 「短っ!」
 朱堂の突っ込みに、慌てて言い換える。
 「いや、そのー…人生50年くらいは…あ、そうだ。取手より先には死にません!」
 ね?と見つめると、取手がようやく頷いてくれた。
 汗ばむほど握りしめていた手が解かれ、長い腕が葉佩の頭に伸びた。
 優しく何度か撫でられて、まーた子供扱いするー、と思いつつも素直に撫でられておく。
 その手が引っ込むのを待ちかねたように、朱堂がスカーフを噛み締めながらうるうると取手を見つめた。
 「かっちゃんてば、意外と情熱的なのね…茂美、負けちゃいそう」
 「…情熱的?…僕が…?」
 全く理解不能という表情で見返した取手に、朱堂は真っ赤な爪でテーブルに絵を描いた。
 「まぁ、無自覚なのね。んもう、かっちゃんってば、おにぶさん。…でも、そういうところが可愛いわよねぇ?」
 「うん」
 咄嗟に頷いてから、葉佩は首を傾げた。
 「や、取手は時々可愛いなぁ、とは思うけど、情熱的かっていうと…や、それも時々思うけど、今はちょっと関係ないかな、と」
 取手が困ったように身を縮めているので、葉佩は話題を逸らすことにした。
 「情熱的って言えば、茂美ちゃんでしょう。俺が風だとしたら、茂美ちゃんは火だよね。真っ赤な情熱の炎!」
 「おーほほほほ!そうよ、私は貴方への愛に熱く燃えるハートよぉ!」
 「そうそう!…でも、密かに大和撫子って言うか、大地の大らかさも持ってると踏んでるんだけどね」
 「あらまあ!さすがダーリンは分かってるわぁ!」
 おほほほほと裏声で笑う朱堂から取手に目を向ける。
 「取手は…取手は…うーん…」
 この繊細さを何と言えば良いのやら。
 「確実に、火じゃ無いしな」
 「……闇……かな…」
 「誰が、四元素に光と闇を加えなさいっつったか」
 「じゃあ、俺は何なんだよ」
 「皆守は…猫?」
 「元素ですらねぇだろ!」
 「取手は…やっぱり、水、かな。音楽だし。優しいし。深いし」
 取手が少し驚いたように目を見開いて口に手をやった。
 「え…音楽って、何となく…気体のイメージが…」
 「そう?俺的には水っぽいけど。こう…ぷわぷわぷわぷわぷわ〜って」
 「訳分かんねぇよ」
 「良いんだよ、俺のイメージなんだから」
 「…それに…僕は…優しくなんか…」
 「良いんだよ、俺のイメージなんだから」
 いや、イメージじゃなく、実際優しいんだ、と言った方がいいのか、と思いつつも、これは俺の感覚の話なので否定は許しません、と言い切る。
 「そうねぇ、かっちゃんは水ね。きっと、綺麗な湖よぉ」
 「…せいぜい、沼じゃないかな…」
 「そうだねー、透明度が高くてさ、いくら地上で風が吹き荒れてても、底の方はすっごく静かにしんとしてる、死体を沈めるのに適したような…じゃなかった、すごく神秘的な湖?」
 取手のぼそぼそとした抵抗は無視して、原野の中の冷たい湖を想像する。
 冷たい、というと誤解されそうなので言わないでおくが。
 まあ、その代わりに死体とか口走った時点で駄目だが。
 朱堂が取手にすり寄って、ばさばさと睫毛をはためかせた。
 「私が大地なら、水とはとっても相性が良いのよぉ?」
 「…そ、そう…」
 「えー、茂美ちゃんは火で、風の俺と相性が良いんじゃないの?」
 「そうなのよねぇ。あぁん、茂美、困っちゃう」
 身を捻っている朱堂から僅かに身を引きながら、取手はちらりと葉佩を見た。
 「何?」
 「…水と…風は?」
 「へ?…うーん水と火、風と土ほどには相性は悪くないけど…ま、普通?」
 「相性、ねぇ」
 「何よ、女の子の占いの話じゃないのよん?ちゃんとした知識じゃないの」
 「だから、女言葉は止めろ、と」
 男4人でぐだぐだと笑い合っていると、舞草が「こちらお下げしてもよろしいですか〜」とやってきたので、もう出ることにした。
 4人で男子寮に向かって歩いていく間も、ぐだぐだとつまらない話は続いていく。
 「いいねぇ、こういうのって」
 ひとしきり笑った後で、葉佩はしみじみと言った。
 「俺、学校ってもん自体、初めてだしさ。同年齢の人間と、こんなに一緒にいたの初めてだよ。面白いねぇ。…非生産的だけどさ」
 「当たり前だ。そんな毎日、生産的な会話なんぞ出来るか。…くだらねぇことが、一番多い」
 「うん、そういうくだらない話って、面白いねぇ」
 へらへら笑うと、皆守は何とも言えない顔になって黙り込み、取手はまた葉佩の頭を撫でた。
 「あら、私にとっては、くだらない話じゃないわよぉ。ダーリンとの会話はいつでも素敵に輝いているのっ」
 「あっはっは、ありがとー、茂美ちゃん、愛してるよー」
 「きゃー!ダーリンったらぁ!」
 飛びかかる姿勢を見せたので、大きく両腕を広げて待っていたが、朱堂はそのまま身を捻って恥じらった。
 「あぁん、ダーリン、また二人きりの時にね」
 「うん、二人きりになることは無いけどねー」
 「いけずぅ」
 通りがかった男子生徒が目を逸らして足早に通り過ぎていく中、朱堂はもじもじと柱に文字を書いた。
 その間に、皆守と取手はスリッパに履き替えて寮の玄関から上がる。
 「今日はどうするんだ?」
 何を、とは言わずに聞いてきた皆守に、葉佩も短く答える。
 「うん、今日は女の子組。死人には爆弾やあちあちが効くもんだから」
 「…気を付けて…」
 「そうなんだよねぇ。女の子だと、怪我させないようにいつもより緊張するよねぇ」
 「…君も、気を付けて」
 「あいあいさー」
 冗談のように敬礼して、葉佩は階段をとんとんと軽い音を立てて駆け上がった。
 本当に…日常生活って、面白い、と思う。
 それが興味深いと思うほど…自分は<異端>だと思い知らされるが。







九龍妖魔学園紀に戻る