風と水と 1





 小さな頃は、家族だけが世界だった。
 そこではみんなに愛されていて、自分がおかしいだなんて、疑いもしなかった。
 そして、集団生活に入って初めて、僕は。
 自分が異形だと知ったのだ。

 なるべく体を小さく見せようと猫背になり。
 ひそやかに生きてきた僕を、スカウトする人がいた。
 僕の腕の長さは、バスケットボールには強力な武器になった。
 けれども、敵の呟きが、僕を乱すのだ。
 「ちぇっ、あんな奴を出すのは反則だよな」
 「何だよ、あの化け物は」

 そう、僕は化け物。
 家族以外の誰かに、愛されるはずもない。



 葉佩は、成り行きで<助けた>ことになった相手をじっと見つめた。
 楽譜を胸に抱きかかえるようにした少年は、視線に気づいてゆっくりと顔を上げた。
 ぼんやりと虚脱したような顔に、おずおずと微笑を浮かべたが、それはどこか命令されてそうしたような、実感の伴わないものだった。
 己の行為は、彼にとって迷惑なものだったのだろうか。
 もちろん、葉佩は彼を助けようとしてこの墓に潜ったのではない。任務として遺跡に入り、その結果としてたまたま彼を呪縛から解き放っただけのことだった。
 感謝して欲しいとか、恩に着せる気は無いが、それでも、喜んでくれたなら少しは気が楽になるのに。
 地上に戻り、控え目な少年は、葉佩の力になりたい、とプリクラを差し出したけれど。
 やっぱり、何かに操られているかのように、全ては虚ろな表情のまま行われたのだった。
 呪縛は、一見解けたように見えたけれど、まだ彼を縛っているのだろうか。
 そうしてようやく。
 葉佩は、この取手鎌治という少年に、興味を持ったのだった。


 翌日。
 昼休みに保健室を訪ねた葉佩は、ルイリーがベッドに寝ている誰かに向かって話をしているのを見つけて、足音を小さくした。
 「…具合悪い人がいるなら、出直すけど…」
 躊躇いがちな声に、ルイリーが振り向き微笑んだ。
 「あぁ、葉佩か。何か用か?」
 「少し、ね」
 けれど、他の人間に聞かせる気は無いし、そう急ぐものでもない。
 出直すか、と思っていたら、ベッドからか細い声がした。
 「…葉佩くん?」
 「取手?また頭が痛いのか?」
 呪縛からは解放されたはずだが、取手の頭痛は黒い砂とは関係無く偏頭痛なのかもしれない。だとしたら、昨日のような出来事があって寝不足なら、確かに頭痛が起きても不思議は無い。
 「取手は真面目だなぁ。頭が痛いのなら、学校なんて休んで、寮で寝てればいいのに」
 「…そこまで、酷くはないから…」
 衣擦れの音に、どうやら取手が起きあがろうとしているらしいと気づいて、葉佩は慌てて制した。
 「いや、起きなくていいから。ちゃんと寝てろよ。邪魔してごめん、すぐに出ていくから、ゆっくり休んでくれ」
 音は止まり、数拍おいて、ベッドが軋んだ。どうやら素直にまた横になったらしい。
 「葉佩くんこそ…怪我でも?」
 くぐもった声の内容をしばらく吟味した後、葉佩は、はぁ?と間抜けた声を出した。
 出した後で、取手を馬鹿にする響きにはならなかったか、と口早に否定する。
 「いや、俺は元気一杯、全く健康。単にルイ先生を口説きにきただけさぁ」
 取手が何か言うかと耳を澄ませたが、戸惑ったような気配はするものの、結局何も言葉は発せられなかった。
 うーん、と葉佩は首を傾げる。
 こういう控え目な態度には慣れていなくて、どうしたらいいのか分からない。
 「…ルイ先生に話があるなら…僕は出ていくけど…」
 「いや、取手を追い出す気なんか、全くないって。急ぐ用でも無し…うるさくしても気にならないなら、このまま話しても良いくらい」
 「…どうぞ…僕は…布団に潜っておくから…」
 そうして声が一段とくぐもったところを聞くと、本当に布団に潜り込んだらしい。
 本当に、控え目と言うか…葉佩には理解出来ないほど、自己主張が薄い。
 大丈夫なんだろうか、少なくとも葉佩の知っている世界では、そういう人間は食い物にされる一方だったのだが。
 しかし、ここで取手の人生まで心配するのはさすがに越権行為なような気がしたので、葉佩は頭を切り替えた。
 『彼から話は聞いた?』
 突然の広東語にルイリーは眉を上げたが、ゆっくりと足を組み直して葉佩を見つめた。
 『少しだけだ。君によって、姉の死を思い出し、音楽を愛する心を取り戻した。そう聞いている』
 『うん、大筋はそうなんだけどね。あの墓の内部は遺跡になってて、彼はその<墓守>として縛られていた。何だか不明だけど、彼の中に侵入した<黒い砂>によって、彼は人間外の力を持っていたんだ。結局、その<黒い砂>は消えたように見えたけど…』
 葉佩は、そこで少し躊躇って、肩をすくめて見せた。
 『俺はさ、元の彼を知らないから。はっきりとは言えないけど、でも、何となく…気になるんだ。生気が薄いって言うか…今にも消え失せそうに気配が薄いからさ。先生はどう思う?俺のやったことのせいで、彼は死に向かっているかな?』
 さすがに、ルイリーは視線を取手に向けたりはしなかった。誰のことを話しているかを、本人には知られたくないのが分かっているらしい。
 考え深そうな顔で葉佩を見つめたまま、火の点いていない煙管を口にした。
 『いや…そうではないだろう。私も、本来の彼を知っている訳ではないが…私の見たところ、彼はただ、今は空っぽなのさ』
 『空っぽ?』
 『姉を失い、空虚になった心を埋めるために、偽りの姉を生み出し、憎しみで動いていた。その蜃気楼が消え失せた今、彼の中には何も無い。憎しみも、エネルギーの一種には違いないのだからな。…だが、これからきっと、彼の中は憎しみではないエネルギーで満ちるはずだ。少し時間はかかるかも知れないが…』
 『なるほど、エネルギー切れか』
 葉佩は頷いた。
 それなら理解可能だ。
 大事な人間を失って、心が空っぽになる人間を見たことなら、多数ある。
 よほどのことがない限り、人は少しずつエネルギーをまた蓄えて、曲がりなりにも生活していくようになるのだ。
 よほどのこと…つまり、心の傷が修復できないほど大きかった場合は、エネルギーは溜まるそばから漏れていって、結局空っぽの心は空っぽのままになるが。
 そういう人間も見たことはあるが…取手がどっちかは、葉佩にはまだ分からなかった。
 しかし、その道のプロであるルイリーが大丈夫だと判断しているのなら、きっと取手は回復するのだろう。
 『正直、どう接したら良いのか分からないんだ。エネルギー切れの奴に、エネルギー消費を要求するのはまずいよね?そっとしておいた方がいいのかな』
 『だが、エネルギーを注ぎ込むのもまた、君たち同年齢の者の役割だ』
 『難しいなぁ。…一人でいる方が、よっぽど面倒が無くていい』
 『そう言うな』
 ルイリーの苦笑に苦笑で返して、葉佩はするりと日本語で返した。
 「じゃ、話を聞いてくれてありがと、先生。ちょっと気が楽になった…ような気がしないでもない」
 「カウンセリングには時間がかかるものさ。一度で解決するなら、何の問題も無い。悩みがあったら、またおいで」
 「ルイ先生への恋の悩みでも?」
 「カルテを作って記録してあげるよ」
 相手が<大人>なら、ほいほいと言葉が出るのに。
 傷つきやすい同年齢の少年には、どう声をかけたら良いのか分からなくて、葉佩は、少し悩んでから立ち上がった。
 「じゃ、取手。邪魔して悪かったな。…今度、メシでも一緒に食おうな」
 言ってから、これではオヤジ上司が部下を誘っているみたいだ、と顔を顰めながら、葉佩はそれ以上何も言うことが出来なくなって、取手の反応を待つことなく保健室を後にしたのだった。


 数日後。
 真面目に授業も受けている葉佩は、音楽室で違うクラスの人間を見つけて驚いた。
 音楽の教師によると、ピアノの授業のためにわざわざ呼び寄せたらしい。
 大丈夫なんだろうか。普通の授業ですら、よく休んでいるのに、他のクラスの教師役までするなんて、それこそエネルギーが必要だろうに。
 思わずよちよち歩きの子犬を見守る母犬の気分になっていると、ピアノに楽譜を置いた取手が、のそのそと自分の方に歩いてきたので目を見開いた。
 へ?と思いつつも相手の目的が分からずにただ座っていると、予想通り取手は葉佩の前でぴたっと止まった。
 授業は、すでに始まっている。
 その教師役の人間が動けば、当然生徒はそれを見る。
 しかも、動作がゆっくりで、静かなものだから、何となくクラス中がしーんとして取手を見守っているのに、それに気づいているのかいないのか、取手はぼそぼそと葉佩に話しかけた。
 「君が…僕に、音楽を取り戻してくれたから。…だから…君に、聞いて欲しいと思って…」
 聞いて欲しい。
 そういう願いを持つことは、エネルギーが多少戻ってきた証だろうか。
 それは喜ばしいことなんだが。
 クラス中が興味津々で聞き耳立てている中で、下手なことは言わないで欲しい。
 取手は、まだ何か言いかけたが…目を下に向けたまま、しばらく考えて、少し首を振って、またピアノの方に向かってのそのそと歩いていった。
 あれだけ長身なのだから、背筋を伸ばして歩けばさぞかし颯爽としているだろうに、あれじゃあまるで類猿人だ。
 ちょっとだけ顔を顰めて、葉佩は腕を組んだ。
 取手は誰にともなく背中を丸くして…たぶん会釈だったのだろう…ピアノの前に座った。
 一つ二つ鍵盤を押してから、何の前触れもなく弾き始める。
 午後の麗らかな日差しの中の、柔らかな曲調は眠気を誘うのに十分で、腹の満ちた同級生たちが次々沈没していく中、葉佩は難しい顔で両腕を組んでそれを聞いていた。
 たぶんは、感想を聞かれるだろう。
 さて、どう答えたら、この思春期の少年を傷つけずに済むんだろうか。
 その曲は、綺麗だった。
 たぶん、取手はしばらくピアノから離れていたにも関わらず…楽器の類は、1日練習を休むと元のレベルに戻るのに3日かかると聞いたから、さぞかし腕は鈍っているはずなのだが…危なかしげなところは少しもなく、安心して聞くことが出来た。
 けれど。
 取手のピアノと、本来の音楽教師による曲調だの歴史だのの解説を繰り返して、その授業は終わった。
 同級生たちが次々と教室に戻るべく席を立つ中、葉佩は一直線にピアノへと向かった。
 楽譜を整えながら、取手は音楽教師ともそもそ話をしている。
 内容は声が低すぎて聞き取れなかったが、項垂れたりぺこぺこ頭を下げたりしているところからして、なかなか終わりそうに無かった。
 葉佩は少し首を傾げてから、取手の肩を…いや、肩を叩こうとして背が足りないのに気づき、背中を軽く叩いた。
 「じゃ、放課後に、また」
 振り向いた取手が、僅かに目を丸くしている。
 だが、葉佩は有無を言わせずそのまま手を挙げて挨拶として、教室を出ていった。
 放課後のどこで、とは言わなかったが、まあ、捕まえることくらい出来るだろう。
 
 最後の授業が終わって鞄を手に廊下に出ると、柱の陰に隠れるようにひっそりと立っている大柄な少年に気づいた。
 どうやら、自分の方から来たらしい。
 葉佩とは目を合わせずに、視線を下に向けているのが、時折ちらっと顔色を窺うように葉佩の顎あたりを掠める。
 「…ごめん…迷惑…かとは、思った…んだけど…」
 解放された生徒たちのざわめきにかき消されそうな声をかろうじて拾って、葉佩は外国人風に大きく肩をすくめて見せた。
 「どっちが。おおかた、俺に探させるのは申し訳ない、とか考えたんだろうに」
 返事は無かった。
 どうしてこう、控え目なんだろう。
 身も心も、そんなに縮こまらせる必要は無いだろうに。
 「えーと。マミーズに行くにはまだ早いか。とりあえず、どっか話せるところ…」
 転校生の自分には、まだ規則も飲み込めてないし、そう言うときにどこで話したらいいのかもよく分かっていない。
 取手に決めて貰おうと、じーっと顔を見ると、消え入りそうな声で、音楽室、と答えた。
 一緒に歩いていきながら、葉佩は、何だかなぁ、子犬と言うより、怯えて丸くなったウサギかハムスターを宥めているみたいだ、と思った。
 幸い、葉佩には嗜虐傾向は無いので、そういうのを見ても特に苛めたいとは思わないが、世の中には、そういう態度を見ただけで余計にちょっかい出したくなる人間もいるだろうに。
 本当は、もっと自分の意見を言うような人間が好きだ。
 こういうのと一緒にいると、気を遣いすぎて疲れる。
 そんなことを考えながら歩いていると無言になったが、取手もまた無言でのそのそと歩いていた。
 のそのそ、と言っても、一見そう見えるだけで、歩幅のせいか葉佩と速度はあまり変わらなかったが。
 音楽室の扉をポケットから取り出した鍵で開いて、取手は葉佩が先に入るよう促した。
 「へ〜、鍵を持ってるんだ」
 「…うん…本格的に…ピアノを勉強して…受験するつもりだって言ったら…いつでも練習できるようにって、先生が…」
 相変わらず聞き取りにくいくぐもった声で呟いて、取手は扉を背に立ったまま、ちらりと葉佩を見た。
 すたすたとピアノに向かっていた葉佩は視線を感じて振り向いた。
 「ん?」
 「あの…何か…用があるんじゃ…」
 「いや、そんな改まったもんじゃないけど」
 放課後に、と言ったのは自分だが。
 「何か感想も言えなかったしさ。ちょっと話がしたかっただけで…そんなに警戒されると困るなぁ」
 「…警戒なんて…してないよ…葉佩くんが…僕に危害を加えるとは…思ってなんか…」
 困ったように口に手を当てて喋るものだから、ますます聞き取りにくくなった言葉に眉を顰めつつ、葉佩は大きく足を開いてピアノの前のイスに腰掛けた。
 あぐらをかいて、何となくぐるぐると回転を楽しみながら、声を上げる。
 「とりあえずさぁ。取手もどっか座ったら?」
 「…うん…」
 躊躇いがちな言葉と共に足が踏み出されたが、一歩進んでは止まり、一歩進んでは止まり、というスピードを見るに、どこに座るか決めかねているらしい。
 それでも口は出さずにいると、結局ピアノの脇に立って困ったように葉佩を見下ろした。
 イスの裾に付いている、遠心力で広がっている金色の房を弄んでいた葉佩は、ぴたりとイスの回転を止めて、勢いで落ちかけた体を足に力を込めて何とか踏ん張った。
 「さて、と。そんな改まって言葉を待たれると、居心地悪いなぁ」
 「…ごめん…」
 「や、そうじゃなく。謝って欲しいんじゃなくてさぁ」
 葉佩は、首を傾げて背の高い少年を見上げた。
 夕日に照らされた顔は、いつもよりも赤みを帯びていて不健康では無かったが、やはりどこか生気が無いような気がした。
 「とりあえず…ピアノ弾いて」
 すくっと立ち上がってピアノの横に立つと、躊躇いがちに取手が葉佩の代わりに赤紫の丸いイスに座った。
 「…何か…聞きたい曲でも?」
 「いや、別に。…つーか、曲名なんて、知らない」
 あっさりと告げると、取手は少し視線を落としてから、ゆっくりと指を動かし始めた。
 そうして、幾つか曲を弾いて。
 薄暗くなった教室に、チャイムが鳴った。
 「…もう、出なくちゃ」
 呟いて、取手がピアノをしまい始めた。
 「面倒な規則だなぁ」
 「学園の秩序のために、作られた規則だよ」
 ひどく滑らかな言葉に、葉佩は眉を上げた。
 つっかえつっかえだった言葉が、そこだけさらりと出たことに気づいているのかいないのか、取手は少し不安そうな顔で時計を見ながらてきぱきと鍵盤にフェルトを掛け、蓋をした。
 「まだ僕は執行委員で取り締まる側だけど…でも、規則は守った方がいい」
 「生徒会には、目を付けられるなって?すっごく今更って感じだけどな」
 たぶん、葉佩が墓に潜ったことも、執行委員の一人と戦ったことも、とっくに生徒会には知られていると思う。
 今更無害な子羊を装っても仕方がない、と思うが、あえて取手の意見に反対することもない。
 葉佩は鞄を持って取手と一緒に校舎から出ていくことにした。
 走りはしないがそれなりにすたすたと歩く取手に合わせて、葉佩もひたすら足を動かす。
 悔しいが、完全に足の長さの違いで、取手の倍ほど歩数が必要なのだ。
 男子寮の入り口が見えたところで、取手の速度が緩んだ。
 「…そういえば…」
 「何だ?」
 「まだ…感想を聞いてなかったね…」
 「そういや、そうか」
 そもそもそのために放課後一緒にいたはずなのに。
 苦笑して葉佩は言葉を探した。
 「取手のピアノは、綺麗だと思う」
 「…それから?」
 「俺は詳しくないけど、技術も凄いんだろうなって思う」
 「…それから?」
 次の言葉を促す取手というのは珍しいんじゃなかろうか、と思いつつ、葉佩は傍らの少年を見上げた。
 薄暗い夕闇の中、気弱な少年は、どこか諦めに似た空虚な表情で、葉佩の言葉を待っていた。
 取手は、葉佩の言いたいことが分かっている。
 分かっていて、待っている。
 ならば、誤魔化すのは失礼だろう。
 意を決して、葉佩は素直な感想を告げた。
 「でも、それだけ。綺麗で整っているけど、何て言うか…レプリカの宝石細工みたいだと思った」
 相当に失礼な言葉に、取手は頷いた。
 仏像のような微笑を浮かべて、風に吹かれて消えてしまいそうな言葉を吐く。
 「…うん…そうなんだ…そう言われるんじゃないかって…思っていたよ…」
 体までどこかに飛んでいきそうに気配が希薄になったので、葉佩はどーんと取手の背中を叩いた。
 よろめく取手に、にっこり笑ってやる。
 「ま、しょうがないんじゃないの?だいぶ指の動きが衰えてるんだろ?譜を辿るのが精一杯ってんじゃ、感情を込めるとこまでいかないだろうさ」
 本当は、取手の心に問題があるんじゃないか、とはうっすら思っているけれど。
 時間が解決するんじゃないか、と技術の問題にしておく。
 「ほら、メシ食おうぜ、メシ。マミーズ行くか?それとも、寮で何か食う?いつもどうしてるんだ?」
 「いつも…部屋で…」
 「凄いな、自炊派か。…よし、では今日は、この俺が作ってあげよう。来いよ」
 部屋の中にある食材を頭の中で並べていると、ふと、取手が数歩遅れていることに気づいた。
 寮の玄関でスリッパに履き替えながら、取手を見つめると、どこか沈んだ顔で思い詰めたような空気を漂わせている。
 やばいな、やっぱり言っちゃうのはまずかったか、と思っていると、取手が葉佩の表情を窺いながら、おずおずと口を開いた。
 「…その…ごめん…せっかくだけど…少し、頭が…痛むから…」
 「あぁ、そうか。こっちこそ、ごめん。じゃあ、部屋でゆっくり休んでくれ」
 考えてみれば、他人のクラスにわざわざ授業に来て、更に放課後、葉佩と一緒にいたのだ。
 エネルギー切れの少年にしてみれば、随分と疲れる午後だったことだろう。
 「ごめんなー、振り回して。んじゃ、また、今度」
 「…ごめんね…」
 力無く首を振って、階段を上がっていく取手を見送って、葉佩も自室に戻っていった。
 たぶん、今日は、一歩前進したんだろう。
 少なくとも、二人きりで話をするなんて、初めてのことなんだし。
 ちょっとずつでも、エネルギーが戻ってくると良いんだが。
 …でも、傷つけたかもしれないなぁ、やっぱり人と話をするのは難しい、と、しみじみ溜息を吐く葉佩だった。


 そうして、昼休みに保健室でルイリーに報告したり、音楽室に押し掛けてピアノを聞いたり、何とか食事を共にすることに成功したり。
 葉佩の学園生活は、何とかして取手と一緒の時間を取れないか、という一つの方向性を持って行われていた。
 保健室に逃げ込まれたせいで捕まえ損なったので、仕方なく屋上でパンを囓っていると、同じようにカレーパンを3つほど膝に置いた皆守が気怠そうに呟いた。
 「葉佩。お前は、随分とお節介なんだな」
 何を指しているのかすぐに気づいて、葉佩は生返事を返した。
 お節介をしている、という自覚は無いが、取手にしてみれば余計なお世話そのものかもしれない。
 「俺は、基本的には冷たい男ですよん」
 「なら、取手が特別なのか?」
 「あらん、妬いていらっしゃるのん?」
 「…女言葉になるのは止めろ」
 葉佩の鼻にかかったような言葉を一蹴して、皆守はカレーパンにかぶりついた。
 しばし二人でもぐもぐと口を動かしていたが、葉佩は一応耳を澄ませて誰も来ないことを確認してから、ぼそりと弱音を吐いてみることにした。
 「皆守も、何とかしてくれよ。保健室仲間だろ?」
 「何で、何とかしなくちゃならねぇんだ。取手は元々あんな感じで付き合いの悪い奴なんだから、無理に活動的にすることは無いだろうが」
 「そうなのか?」
 驚いて問い返す葉佩を、皆守も驚いたように見返した。
 いつも眠そうに半目になっている目を丸くして、それから皮肉に口を歪める。
 「いや、お前…そうなのか?って何だ。お友達が多くてよくお喋りする方が幸せって信じ込んでるのか?」
 「や、そうじゃなくて。取手は元があんななのか?ってとこ。俺はてっきり…」
 ちょっとだけ躊躇ってから、一段と声を小さくして内緒話をするように身を乗り出して囁いた。
 「てっきり、さ。遺跡からエネルギーを貰って生きるように改造されちゃってて、それを俺が断ち切ったもんだから、エネルギー供給が途絶えてしまって生気が薄いとか…そういう状態だとイヤだなって思って。遺跡無しでもがんがん生きるエネルギーがありそうな奴なら、放っておくって」
 「…何だって、そんなこと妄想してるんだ…」
 呆れたように絶句する皆守に、葉佩は自分の思考をもう一度辿ってみる。
 何らおかしなことは無い、と判断し、たぶん、皆守は遺跡関係の知識が少ないせいで危機意識が薄いのだと思う。
 「そういうことって、ままあるの。特に、何かを縛って<防人>にしてある場合にはね」
 「そういうもんなのか?」
 「そう」
 何でそうなのか、とかまでは知らない。たぶん、<防人>が自由意志で護るべき対象を捨てないようにする意地悪なんだろう。
 取手は今のところすぐにも死にそうってことはないが、いつまで経っても生気が薄くて虚脱したままだった。
 蜃気楼の中で憎しみに生きていた時の方が生き生きしていたってのは、ちょっと気まずい。
 なるべくなら、もっと幸せになって欲しい。
 それが、葉佩の自己満足に過ぎないとしても、だ。
 「だから、ね。生きるのは楽しいことだって、分かって欲しい訳ですよ、俺としては」
 「…やっぱり、お節介だな」
 「そだねー」
 苦笑して肯定しておいて、葉佩はサンドイッチの最後の一口を咀嚼した。
 「なー、皆守。生きるエネルギーって、何が一番効率的だろう?」
 「効率を求めるもんじゃないんじゃないか?」
 「うわお、何て哲学的なお答え」
 「馬鹿抜かせ。…生きるエネルギーねぇ」
 カレーパンの空き袋をくしゃりと丸めて紙袋に突っ込み、皆守は天に向かってアロマの香りを吐いた。
 何だかんだ言いつつ、本気で考えているらしいのだから、皆守も結構世話好きなんだろう。
 「憎しみとか、殺意ってのは、手っ取り早いけど…後々面倒だよなぁ」
 「そんなもん、選択肢に入れるな」
 「憎しみと同等って言うと…やっぱ、<愛>?」
 「お前な。お前がお姉さんと同じだけの愛情を注げるつもりか?…というか、取手を愛してるってのか?」
 「いやー、難しいなぁ。…ってことは、やっぱ地道にやるしかないのね」
 何事にも近道は無い。
 「急がば回れ、全ての道はローマに通ずるって言うしなぁ。今まで通り、学園生活で何とかするしか無いか」
 「…それは、何か。突っ込み待ちなのか、素ボケか」
 「何がよ」
 葉佩は立ち上がって両腕をぐるんぐるんと回した。
 「古人曰く『ウサギは寂しいと、死んじゃうの』。…さーて、頑張りますかぁ」
 「いや、それは古人じゃねぇし」
 あの気弱な小動物の警戒を解いて、この学園という檻の中だけでも伸び伸びと生活させるには、まだまだエネルギーが必要なようだった。
 そもそも、まだ警戒を解く段階のようだし。
 取手は、葉佩の前だと警戒している。いや、警戒というと語弊があるが、緊張している。
 せめてもっと気軽に軽口を叩ける仲になれたらいいのだが。
 どうもショック療法なんてのは本気でショックを与えそうだし、少しずつ積み重ねていくしかないようだ。






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