美少女ハンター 葉佩九龍 7





 少女は、舞踏会の目まぐるしさに疲れて、夜風に当たろうとテラスに出た。
 紺青に沈む樹木と白銀に染まる月を見ていると、背後の喧噪とは切り離されたかのような気がして、ほっと息を吐いた。
 しばらく、ただ月を見上げていた。
 わたくしはどうなるのだろう、と、ふと思う。
 これは、わたくしのために催された舞踏会。つまり、わたくしはもう誰かの妻になることを考えなければならない年齢なのだ。
 この城を離れ、見知らぬ誰かの元に嫁がねばならないのだ。
 少女には、それが何やら汚らわしいことにように思えた。
 見知らぬ男の手に触れられるくらいなら、いっそあの月へと登ることができれば良いのに。
 少女はそっと手を月へと差し伸べた。
 純白の絹手袋が月に照らされ青白く輝く。
 だが、何が起こるのでもなく、背後はやはり人のざわめきに満ちていたし、少女の体はテラスに足を着けていた。
 小さく溜息を吐いて、ドレスを摘み、方向転換しようとした。
 そこで、初めて、テラスに自分以外の人間がいることを知った。
 小さく悲鳴を上げかけたところで、その若者が人差し指を口に当て、片目をつぶって見せたので辛うじて堪える。
 「月の精がいらっしゃるとは思いませんでしたので…驚かせてしまいましたか?」
 気障だわ、と思ったが、若者の口調は真摯で気取ったところが無かったので、それほど不快では無かった。
 だが、自分の幼い行動を見られていたと思うと恥ずかしく、つん、と顎を反らせて何も言わなかった。
 「月の精には喧しすぎるやも知れませんが、どうか月にお帰りになる前にもう一度明るいところでお顔を拝見させて下さい」
 顔を背けたまま、ドレスを摘み上げ部屋へと足を向ける。
 エスコートするように差し出された手が自然であったので、やはり自然に手を取って黄色く染まる室内へと戻った。
 途端に感じられた温かさに、自分の体が冷えていたことを知った。
 「本当に…今宵の月は美しいですね」
 隣の若者に釣られて自分も顔を上げる。
 テラスに出るアーチから見える月は相変わらず美しかったが、少女はその光に照らされた若者の顔を初めてはっきりと見て、そこから目を離せなくなった。


 「…愛していたの」
 少女は呟いた。
 「愛していたのよ、政略結婚だと知っていても」
 黙って見つめている少年にではなく、窓から見える月に呟く。
 「わたくしは…本当に…」
 あの時のように月に手を差し伸べる。
 あの時とは違い、本当に体がふわりと浮かび上がるのを感じた。
 「思い出したわ…わたくしが、拒否したの…病が伝染らぬように…醜いわたくしを見られないように…わたくしが…」
 ふわりと浮いた少女は、自分を見上げる二人の少年に、問いかけた。
 「あの人も…醜いわたくしに、口づけてくれたかしら?」
 返事は、聞こえなかった。
 少女の体は、もう部屋の外へと出て、空へと登っていっていたから。
 (ゲートルーデ)
 誰かが呼んでいる声がする。
 (やっと、会えたね、私の大事な妻)
 「…貴方!」
 魂が歓喜の叫び声を上げた。

 「…行ったな」
 「うん…行ったね」
 窓の外を見つめている二人には、少女の記憶の欠片が残されていた。
 結婚前に流行病に倒れ、伝染しても構わぬ奴隷が一人だけ側に置かれ、城の奥の部屋以外どこにも行けなくなった少女。
 婚約者からは会いたいとの伝言があったが、病を伝染してはならない、と断ったのだ。
 そうして日に日に弱っていっていたある日。
 外から声がしたのだ。
 愛しい婚約者と…他の少女の声が。
 それまでは、運命を甘受する気構えがあった。愛しい婚約者に会わぬことで婚約者を守ったという自己犠牲の満足感もあった。
 なのに、自分が死んだ後、彼が他の女のものになると思った途端。
 少女は怨恨と呪詛の塊になって死んでいったのだった。
 「本当は、致死性の病気じゃ…つーか、伝染するものかどうかも分からないけどな。あの当時じゃ、殺されなかっただけマシって感じだろうし」
 徹底してリアリストの葉佩は、客観的に評価を下した。
 「うん…でも僕なら、無理にでも会いに行ったと思うな…たとえ、伝染して、二人で死んでしまったとしても」
 「取手はロマンチストだな〜」
 「うん、そうかも。…月が本当に綺麗だし」
 「てことで」
 葉佩は取手を見上げた。
 「いい加減、手を離してくれないか?」
 「もう一回、キスしていいかな?」
 同時に全く異なるセリフを口にした二人は、一瞬黙って目を見合わせた。

 はっきりとしたことは分からないまでも、今まで感じていた重圧が途端に消え失せ、部屋の温度や明度までも上がった気がして、少女が昇天したことに気づいたバディたちは、各自体勢を立て直していた。
 床に倒れ伏していた者は衣服に付いた埃を払い…まあ綺麗に掃除されている生徒会室なので、そんなに汚れているわけでも無かったが…化粧を直したり、アロマに火を入れたりと、それぞれが落ち着いた頃。
 皆守は、うんざりとアロマパイプを振った。
 「…で、いつになったらそこから出て来るんだ」
 バディに見えているのは、カーテンから突き出た学生服を着た四本の足。
 それが妙に絡み合ったまま、というのが数分は続いていた。
 「…帰っても良いか?」
 皆守は、誰にともなく呟いた。



 取手はいつものように放課後ピアノを弾いていた。
 やや不規則な足音が近づいてくるのに気づいて耳を澄ませる。
 それは音楽室の前に数秒立ち止まって、それからがらがらとドアが開いた。
 「いらっしゃい、はっちゃん」
 振り向きもせずに声をかける取手に、葉佩は力無く「おー」と答えた。
 疲れたような足取りで机の間を抜けて取手の側まで来る。
 音楽室のピアノの椅子は三人掛け出来そうな大きさであったため、ピアノに背を向けて取手の隣にちょこんと座る。
 そのままの姿勢で取手の弾くピアノを聞いていたが、最後の音が消えると同時にはーっと深い溜息を吐いた。
 何も言わずに待っていてくれる取手に、弱々しく尋ねる。
 「ちょっと、さ…甘えても良いか?」
 「どうぞ。僕も君には甘えさせて貰ったから、おあいこだよ」
 手を広げて待っている取手の胸にしがみつく。
 はーっともう一度溜息を吐いた。
 取手に宥めるように背中を優しく撫でて貰っているうちに、滅入っていた気分が少し和らいでいくのを感じた。
 「いやまあ、覚悟はしてたんだけどさ…何つーか…失望されるって、すっげー気まずいのな…」
 すっかり男の外見を取り戻した葉佩は、喜んで残りの学生生活を満喫しようとしていた。
 葉佩としては、本来の姿を見て貰えることが嬉しかったのだが、いきなり金髪美少女が男の姿になったのだから、周囲がそう簡単に受け入れてくれる訳もなく。
 驚愕だけなら良かったのだが、失望や怒りまで向けられると、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
 まあ、また金髪美少女に戻れるわけでなし、葉佩としてはこのままやって行くしかないのだが、それでも周囲に拒絶されるというのは結構辛い状況だった。
 「はっちゃんは…周囲に気を使いすぎだと思うな。…もっと悪く言えば、八方美人」
 「八方美人〜!?」
 葉佩は、円滑な人間関係を重視しているだけだ。多少の意見の相違なら、自分の方を抑えて迎合するのは身に染みついている。
 「いいじゃないか、他の人がどう思ったって。…僕だけじゃ、駄目なのかい?」
 「いや、取手だけでも普通に接してくれて、ありがたいと思ってるよ。皆守も知ってたはずなのに、妙な反応してるしな」
 実際のところ、皆守の反応は葉佩の外見ではなく迫り来る義務に悩んでのことだったが、葉佩は知る由も無い。
 とりあえず、己に起きた事が大きすぎて、皆守の様子にまで気を配る余裕は無かった。
 そんな中で、外見が少女だった時と全く変わらない様子でいてくれる取手の存在は非常に嬉しい。
 まあ、冷静に考えると、周囲の反応の方が普通であって、取手の方がおかしいのだが、それは大きな棚に上げておいて。
 背中を撫でていた取手の手が動き、きゅっと体を抱き締められる。
 「えっと…取手…」
 「君には、僕がいるから…他の人なんて、どうでもいいだろう?」
 ちょっと待て。
 そういえば…あまりの周囲の反応ぶりに紛れていたが、取手とはキスをしたような記憶が。
 しかも、よーくよーく思い出すと、告白されたような気も。
 ひょっとして。
 ひょっとして、この体勢は、すっごくまずいんじゃ。
 「い、いやぁ、恋人ならともかく、俺、友人は大勢いた方が嬉しいってタイプで…」
 ははは、と笑いながら腕の中から見上げると、取手の真剣な目と目が合った。
 「もちろん、僕も、恋人は一人だけでいいよ…」
 待って下さい、取手さん。その<恋人>は誰を指してますか?
 …聞ける訳がない。
 「僕は…君だけでいい。君がいれば、他に誰もいらない」
 やばい。
 目を逸らせない。
 葉佩は、上を向いたことによって、自分の唇が僅かに開いているのを意識した。
 わざわざそれを閉じるのも意識しすぎな気がして閉じられない。
 だが、敏感な皮膚に、取手の視線を感じてむずむずする。
 取手の灰色がかった虹彩を、ただ見つめていると、髪を優しく引かれて、ますます上向きになった。
 顔が、近づいてくる。
 真剣な、目。
 瞳孔に浮かぶ自分の顔を見たくなくて、ゆっくりと目を閉じた。
 そりゃまあ、キスしようとしたら目を閉じられたら、OKって意味だと思うよな、と後々葉佩は己の迂闊さに涙する羽目になるのだが、取手に言わせれば、全く拒否などしていなかった、ということだった。
 羽のように触れる温かく柔らかな唇は、不快では無かった。
 くすぐったいほどかすかな感触に、葉佩は唇を震わせた。
 口元に感じる温かな吐息はどちらのものか。
 目を閉じたまま唇の感触だけを気にしていた葉佩は、それが離れていったので、やはりゆっくりと目を開いた。
 唇が触れ合っていた僅かな時間でさえ、室内はどんどん光を失っていた。
 オレンジ色から紺色に染め変わりつつある窓の外をちらりと見る。
 取手も釣られたように外を見て、間近に微笑んだ。
 「月は、見えないね」
 「え…あ、うん」
 何を弱々しく答えてるんだ、俺、と自分を罵りながら、月ではなく取手を見上げる。
 「あ、あのさ…あの時は、雰囲気に流されただけってことは…」
 「キスしたこと?」
 はっきり言うな〜と呻くように言う葉佩に、取手は喉で笑った。今だってキスしておいて、何を今更。
 「本当は、分かってたんだけどね。キスしろって言ってるのは、あの子であって君じゃ無いってことは。でも、君にキスするチャンスなんて、そうそう無いと思ったから…遠慮なく」
 あの時の見かけがまるで死体のようだった、とは八千穂に聞いている。あの顔にキスするなんて、<愛>だね!と感激されたのだ。
 「まあ…おかげで、成仏したみたいだけどさ…ドイツの幽霊に成仏ってのも無いけど」
 幽霊が、キスをした。
 それから、何となく雰囲気に流されて、取手の二回目のキスも受けてしまった。
 あれがただの気の迷いとしても…たった今、キスしてしまったことについては言い訳のしようもない。
 何となく自分の唇を指でなぞっていると、両手で顔を挟まれて上に向かされた。
 あ、やばい、またキスする気だ。
 分かっているのに、目を閉じてしまう己が嘆かわしい。
 今度は、触れるだけでは済まなかった。
 だが、舌が唇を舐めても、あまつさえ唇を割り入って歯茎に触れても、そうイヤな気分にはならなかったのだから、何をか言わんや。
 おずおずとおっかなびっくりながら自分から取手の舌に触れてみたりしてから、葉佩はわーっと声を上げて取手から離れた。
 あっさりと腕を放したので、危うく椅子から転げ落ちるところをまた腕に抱き直される。
 「ちょっ…タンマ!マジ、時間をくれ!」
 手で口を覆いながら叫んだので、思ったよりは部屋に響かなかった。
 下校のチャイムに、取手はピアノを片づけた。
 口を覆ったまま立ち竦んでいた葉佩は、真っ赤になった顔を自分でぴしゃりと叩いた。
 「…あまり、長くは、待てないけど」
 「いや、実際、事態の方が長くはかけられないんだが、まあそれはともかく。…その、何つーか、何つーか、その…」
 葉佩は、己の感情を整理した。
 本来リアリストなので、客観的に己を見つめるのは得意なのだ。
 「影響が、残ってるとまずいんだわ。あんまり、霊の障害は来なかったけど、それでも、ちょっとは影響されてるんだ。舞踏会の懐かしい感じとか」
 自分は男で、男に恋愛感情を持たれるのは真っ平ごめんだったし、今だって理屈ではそう思っている。
 そう、理屈では。
 「正直に告白すると、お前のことが好きだなーとか思うし、甘えたいとか思うし、抱き締められて嬉しいとか思っちゃうし、まあこれは一般論として恋愛と言って良いんじゃないかとは判断する。けど、それは、霊の影響かもしれないじゃないか」
 理性でも、取手は良い奴だなーと思う。
 目の前で好きな相手が告白返ししても、遮ることなくとりあえずは聞いてくれるところなんか、すっごく好ましい。
 …あぁ、くそ、好きな相手に惚れ直してどうする。じゃなかった、好きじゃないかも知れない相手、だ。
 「今は、好きだと感じてて、キスしても…まあ、正直気持ちいいと思ったけど、ひょっとしたらそのうち影響が薄れて、やっぱり男同士なんて気持ち悪いとか思うようになるかもしれないし、そしたら、お互い気まずいだろ?だから、ちょっと様子を見る時間をくれ」
 無言で聞いていた取手が、すっと動いた。
 もうすっかり室内は暗くなって、闇から青白い顔が切り出されているように見える。
 腕が回されて抱き締められても、意外では無かった。
 たぶんそうされるだろうと思ったので、自分から顔を上げて目を閉じると、思った通り優しいキスが降ってきた。
 「…今は…気持ちいい?」
 「くそ、揚げ足取るなよ。…気持ちいいよ、畜生め」
 「口が悪いな…」
 くすくすと笑って、取手は鼻の頭にキスをした。
 「はっちゃん…大好きだよ。君が僕を嫌いじゃないって、それだけでも嬉しいよ」
 くそぅ、何故そんなに控えめなんだ。
 もっと強引にベッドに引きずり込まれたら、たぶん拒否せず雪崩れ込みそうなのに。
 そんな風に考えてしまって、葉佩は己の思考に恐怖した。
 これは、絶対、霊の影響だ、自分がそんなことを考えるはずが無いんだ、と、ぶつぶつと唱える。
 「ちゃんと、待ってるよ…君が、僕を好きだって言ってくれるまで」
 腕を解かれて解放されて、葉佩は思わず取手の腕を掴んだ。
 ぐいぐいと引っ張ると上半身を屈めてくれたので、自分から口づける。
 まあ、ちょっと勢い良すぎて歯がぶつかったりするのはお約束だ。
 「キスだけなら、毎日でもしてもいいや。だって、ほら、影響が薄れたかどうか、分かるじゃん」
 痛む口を押さえながら言うと、手を退けられてたぶん内出血してるだろう唇を舐められた。
 「…今は、どんな気分なんだい?」
 「言わせるかー…どきどきしてるよ、畜生め」
 「うん、僕も」
 そう言って優しく笑う取手の顔がひどく男前に見えて、葉佩は男が男前に見えて何で幸せになってるんだ、あほか自分、これは絶対、霊のせいだ、と確信していた。


 その後。
 この<霊の影響>とやらが、一生続いたのは、言うまでも無い。






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