エウレカ




 <彼>は、<葉佩九龍>が取手と会話するのを、ぼんやりと見つめていた。
 くるくるとよく変わる表情が、心配そうな顔を浮かべて取手を見上げ、
 「あ、その…うん。大丈夫、みたいだ。まだ少し頭痛はするけど…全然違うんだ」
 照れ臭そうに笑う取手に、ぱっと顔を輝かせて、「よかったです〜」と言う。
 それから、取手はもごもごと口の中で何か呟いてから、鍵を取り出した。
 「僕が管理している、音楽室の鍵なんだ。…君の役に立てれば、嬉しいよ」
 「うわぁ!ありがとう!嬉しいです!」
 「あ…その…そんなに喜んで貰えると、僕も、嬉しい…よ」
 鍵を大事そうに持って、ぴょんぴょん飛び跳ねる<葉佩九龍>に、<彼>は何とか表に出られないか試みた。
 この柔らかな目で彼を見る男に、本物の自分の口から礼を言いたかったから。
 今は、<葉佩九龍>の時間だ。<彼>に戻るには、それなりの精神力が必要だった。
 それでも何とか<彼>になり、目の前の男を見上げた。
 何か言おうとして…取手が困惑しているのに気づいた。
 彼は無言で自分の頬を撫でた。
 取手にしてみれば、目の前の相手が急に無表情に黙り込んだように見えるのだろう。
 そう気づいて、彼は何か言わなくては、と焦った。
 そうして、探せば探すほど空っぽになる意識から、何とか単語を拾い集めて、口に乗せた。
 「…ありがとう。嬉しいです」
 さっきと同じ言葉でありながら、何て冷たい言葉なんだろう。強張った顔で、感情の籠もらない喋り方で言われたのでは、かえって先の言葉まで嘘のように聞こえるに違いない。
 「…葉佩君?」
 <彼>は出てきたのを後悔した。
 最後まで<葉佩九龍>に任せておけば良かった。他人への好意を表現できる<葉佩九龍>に。
 取手に嫌われたのでは無いだろうか、と、こっそり表情を伺うと、心配そうに見つめられていて、彼は顔を背けた。
 そして、<葉佩九龍>に主導権を戻した。
 たちまち自分の顔がにこやかな笑みを浮かべるのが分かる。
 「何でもないですよー」
 なるほど、そう言えば良いのか。
 ただ…取手の顔は、少しも納得していないようだったけれど。


 その夜、彼はベッドの下から箱を取り出し、部品からマシンガンを組み立てた。さすがに自分が不在の時にマシンガンそのものを見られては言い訳のしようもない。そのため、元が何か分からないくらいばらばらに分解して、しかも小分けにしてしまってあるのだ。
 そうして作業服を広げて装備を置いて丸める。
 まあ怪しげな家出少年のような荷物にはなるが、そのまま剥き身で持ち歩くよりはよほどマシだった。
 そして、そろりと窓から出る。排水管を伝って下に降り、素早く植え込みに駆け込み、後は寮の光を気にしつつ墓へと移動するだけだった。
 墓場近くで装備を整え、ゆっくりと深呼吸した。
 完全に<彼>に切り替わる。
 そうして、前回穴の開いていた墓へとちかづきかけて……背後から足音に、咄嗟に横手の墓に身を隠した。
 足音は複数。
 迷うことなくこちらへ向かって来ている。
 さて、どうするか。音の大きなもので攻撃するのは得策ではない。しかし、こちらの姿を見られるのもまずい。となれば、音が出ず、かつ相手を一瞬で落とす必要がある。
 彼はロープを手に、気配を絶ちつつ身構えた。
 「あ〜あ。眠ぃ」
 「ごめんね、付き合わせて」
 「分かってんなら、呼び出すなよ、全く」
 「うん…でも、もし葉佩君が墓に入るなら、一人より二人の方が良いかと思って」
 「全く…これで葉佩が来なけりゃ、ただの無駄足だぜ。何か奢れよ?」
 「うん。でも、彼は来ると思うよ」
 妙に自信を持って言う取手を、皆守はじろりと横目で睨んで、それから墓に凭れかけた。
 「不謹慎だよ?」
 「あんまり突っ立ってると、昔やった古傷が痛むんだよ」
 物憂げに言って、皆守は腰を撫でた。
 ふぅん、と相づちを打って、取手は寮の方へと目を凝らす。
 彼は、少し悩んでから、その場に立ち上がった。
 動きが見えたのか、皆守がこちらを向いて、彼を認めて「お」と一言呟いた。
 「取手、お前の負けだ。葉佩は、来ない」
 「何で、そんなことが…」
 言いながら振り向いた取手が葉佩を見つけた。
 皆守が、にやりと笑ってアロマパイプを振る。
 「何故なら、もうここにいるからだ」
 「下手なトンチみたいだね」
 下手ってお前…と呟きながら皆守が墓に凭れる。
 取手はにこりと微笑んで、彼の前に歩いてきた。
 「こんばんは」
 穏やかな挨拶に、彼も挨拶を返した。
 「こ…こんばんは…」
 「じゃあ、行こうか、葉佩君」
 責められるのかと思った。
 力になりたい、と、次に遺跡に向かう時には連絡してくれ、と言われていたのに、一人で行くのを見つかったら。
 けれど、取手は何も言わずに、さも当然と言った顔で、墓の前にしゃがみ込み、ロープを手に取った。
 「先に行っても、良いかな?」
 「え…あ、危ない、から…」
 自分が先に、と言おうとしたが、取手はさらりと遮った。
 「大丈夫。大広間には、敵は出てこないから。それに…僕は、<墓守>だから。最初の区画の化人は、僕を傷つけないし」
 逆に言えば、他の区画においては、取手もまた<侵入者>なのだけれど。
 取手は結局返事を待たずに先に降りていった。彼もすぐに後を追う。
 ロープの真下で待っていた取手は、彼が下に降り立つと、冗談でもなさそうに呟いた。
 「何だ、君が落ちたら受け止めようと思ってたのに」
 かぁっと、彼の頬が染まった。
 それが、<宝探し屋>としてのプロフェッショナル魂を傷つけられた怒りのためか、それとも…全く別の理由かは、彼にも分からなかったけれど。
 「…俺が落ちたらどうするつもりなんだよ、お前は」
 意外と器用に危なげない様子で降りてくる皆守は、手で、しっしっと下の二人を追い払った。
 「君を助ける必要性は無いだろう?」
 「葉佩も助けは必要無いだろうがな」
 軽口を叩き合う二人を余所に、彼は念のため大広間をスキャンした。
 前回同様、敵影は確認されない。
 正面の扉に向かった彼の後ろを、皆守と取手が付いてくる。
 坂を上り、扉を開けると、またコウモリのような化人が襲ってきたが、もう弱点は理解している。さっさとマシンガンで撃ち落とす。
 「敵影消失。安全領域に入りました」
 HANTから流れる女性の声に、彼はマシンガンを背中に戻した。
 そして、きびすを返して、入り口の方へ戻る彼に、皆守が不審そうな声を上げた。
 「おい?」
 「五対の土偶 南の扉より 黄昏に涙せん」
 呟くと、皆守の眉が、はぁ?と上がった。
 無視して入り口の扉に向かい、磁石を確認して西へ向いて、目を何度かしばたいた。無理矢理に流した涙の中、金色の光が下から上へと立ち上った。
 「クエスト完了」
 呟いて、奥へとまた戻る彼に、皆守は肩をすくめた。
 「ま、俺には関係無いがな。後で説明しろよ?葉佩」
 「説明…必要か?」
 「まあ、何をしてるのか、気にはなるな」
 彼は、説明しようとして…止めた。本当にロゼッタからの情報通り、これだけで『物』が出現するとは彼にも信じられなかったからだ。
 確か、『魂の井戸』と呼ばれる場所で、『それ』が引き出せるはずだ。
 説明は、それが確実になってからでも遅くない、と彼は奥へと進むことにした。
 そして、幾つもの腕が突き出す間へ続く道で。
 取手が左手の扉を開けようとして、「あれ」と呟いた。
 「そこは開かない。どこかに鍵があるのか、向こう側から開くのか…」
 説明すると、取手は少し笑って扉にもたれた。
 「うん、これは向こう側から開く扉だから。あそこから落ちるとここに戻るんだけど。君は落ちなかったんだね、さすがだな」
 あそこ、と取手が指さしたのは、腕の間。
 さすがは<墓守>、自分の区域については良く分かっている。
 腕の間に行くと、取手が屈み込むように彼に囁いた。
 「どこから落ちても、シュートになってて、一つの穴に滑って行くよ。行ってみる?」
 開いてない扉があるのは落ち着かない。罠だとすれば敵が待っているのだろうが、ルートを潰しておくのも悪くない。知らない道があるのは危険だし。
 頷いた彼に、取手はひらりと下に身を踊らせた。
 「取手!」
 慌てて腕から身を乗り出して叫んだ彼に、「先に行くよ」と声が残った。
 すぐに追いかけた彼の後ろで、皆守が、面倒くさそうに首を掻いた。
 「あ〜あ、面倒くせぇ。…でも俺も行かなゃならないんだろうな。…よっ、と」
 両手をポケットに突っ込んだまま、皆守も下へと飛び降りる。
 そして、ざらついた床の感触に「あ〜、ズボンのケツが破れるぜ…」とか考えつつ降りた時には。
 しっかり葉佩を抱きかかえてご満悦な取手を見つけて、がくっと脱力したのだった。
 「こっちは宝物庫、あっちはさっきの道に繋がる間」
 「あ…あの、離せ…取手…君」
 最後の『君』を慌てて付け足した彼は、ようやく降ろされて、ほっと溜息を吐いた。
 取手が味方なのは分かっているけど、子供のように抱きかかえられているのは落ち着かない。
 そもそも取手と話すのは、どうも落ち着かないのだ。
 <彼>のことも知られている。だが、昼間には<葉佩九龍>が話している。なるべく<葉佩九龍>の話し方に近づけようとは思うけれど、そううまく行くものでもない。
 一体、どう扱って良いのか、分からない。
 だが、彼は無理矢理、取手から意識を離した。
 ここは遺跡なのだ。
 それも、扉一枚隔てたところには<敵>がいる。
 無駄なことに気を取られるのは命取りだ。
 彼は、ゆっくりとゴーグルの中で目を閉じ、また開いた。
 その目には感情は浮かばない。そう訓練してきた。
 鋭く弦のように意識を研ぎ澄まし、いつでも動けるようにして、彼はゆっくりと扉を開いた。

 敵を殲滅し、幾つかのクエストを完了させ、彼は魂の井戸のある部屋に入った。
 「ここは…何だか癒されるね」
 取手が呟いた。
 「もっとも…僕は、君に癒されたのだけど」
 「…いちいち口説くなよ…」
 皆守に突っ込まれて、取手は絶句した。そして、皆守に食ってかかる。
 「変なことを言わないでくれるかな」
 「口説いてるだろうが!」
 「僕は、ただ…事実を述べているだけだよ」
 「自覚がないのも困りもんだぜ、まったく」
 二人が言い争っているのを見ると、何故か胸が小さく軋んで、彼は眉を寄せた。
 何だろう、これは、と彼は思った。
 争いを見るのが嫌いなわけじゃない。そんな平和主義者ではない。
 ただ…。
 そう、ただ、彼は。
 あんな風に、普通に言葉をぽんぽんと口に出せる二人が羨ましかったのだ。
 <彼>は、他人とはうまく話せないから。これまで、それを悔やんだことは無かったのだけれど。
 彼は、ゆっくりと首を振った。
 これまでの人生における取捨選択の結果として、<彼>は形成されている。今更、それを否定することは出来ない。
 彼は<彼>でいることに満足していたはずなのに、何故、今頃こんな気持ちになるのだろう。仮初めの人格である<葉佩九龍>に浸食されているのだろうか。
 だとしたら、酷い弊害だ。ロゼッタに報告する必要がある。
 彼は、仲良く口論している二人から目を逸らせて、井戸の上に浮かぶ水晶に触れた。途端に、井戸に映る景色が変わる。
 その中に浮かぶモノに手を伸ばし、引き寄せた。
 全てをとりあえず床の上に置くと、ようやく二人も口を閉じて、それを見た。
 「何だ、こりゃ?」
 皆守が、床から陶器の欠片を拾い上げてまじまじと眺める。
 取手はコウモリの羽を広げて首を傾げている。
 説明しようとして、彼は適当な日本語を組み立てられず、インカムを口に当てた。
 「この遺跡には、ロゼッタ協会に属する他のハンターが任務に就いたことがあります。その際の報告として挙げられていた現象ですが、この遺跡の守人は、このような関連したアイテムを依代として現れるため、その現し身を破壊した際に、依代が残ることがあります。この魂の井戸では、それら依代を引き出すことが可能です」
 いったん切って、それから皆守の手にした陶器の欠片を見ながら続けた。
 「また、一定の手順に従えば、依代とは別のアイテムを引き出すことも可能です。たとえば、先ほどの扉の前で西向きに涙を流したように。詳しい理屈は分かりません。仮説としては、ここには巨大な貯蔵庫があり、中の物を引き出すには決められた手順がある、ということくらいでしょうか」
 機械的な女性の声を切って、彼は皆守の手から陶器の欠片を取り上げ、他の物と一緒に、井戸の中から引き出した段ボールに詰めた。
 そして、右に浮かぶ水晶に触れ、自室の風景を呼び出すと、その床に段ボールを置いた。
 HANTでメールを送って、自室の風景を消す。
 皆守が、アロマパイプに火を点けた。ふーっと気持ちよさそうに吹かして、扉にもたれる。
 「で?まあ、理屈は分かったが…いや、よく分からなかったが、結局、あんなガラクタが何になるってんだ?」
 心臓の護符ならともかく、と皆守は付け加えた。
 「ロゼッタ介して、依頼あったです。アイテム欲しい人、いるです」
 まあ、大英博物館の展示に、いつの時代のものかもはっきりしない陶器の欠片を、本当に展示するのかどうかまでは、彼の知ったことでは無いが。
 「前に来た時には、しなかったのにな。俺は、てっきりお前は奥に進むことしか興味が無いと思ってたぜ」
 皆守の口調に、嫌みは無いようだった。むしろ、からかうような、面白がっているような好意的な響きがあった。
 彼は、俯いた。
 そう、確かに、彼は、奥に進むことしか興味がなかった。いや、その興味すら無かった。
 奥へと進むことは、ロゼッタに命じられた任務であり、彼の目的を満たすものとなるかも知れない、というだけのことであった。
 ロゼッタからは、出来ればクライアントの信頼を得るよう、遺跡の途中でそれらのアイテムを獲得することを推奨されていたが、そんなものに興味は無かった。
 だけど。
 
 ひょっとしたら、自分の手は、まだ誰かを助けることが出来るのかも知れない、と思ったから。
 他人を殺すだけでなく、宝物を奪うだけでなく。
 誰かが切望する『物』を、代わりに手に入れることが出来るのかも知れない、と思ったから。
 それで、汚れた手が、赦されるとは思っていないけれど。

 「どんな人が、依頼を出してるの?」
 取手が首を傾げて言ってから、慌てて長い手を振った。
 「あ、守秘義務があるとかだったら、良いんだけど」
 守秘義務…は、確か、無い。
 「えと…アフガニスタン近くの小さな村の女の子とか…大英博物館の代理人とか…どこかの未亡人とか…」
 「へぇ…」
 興味深そうに頷いてから、取手は微笑んだ。
 「喜んでくれると、いいね」
 そう言って、あんまりにも暖かく笑うから。
 どうすればいいのか分からなくなって、彼は取手から目を逸らせた。
 「葉佩君」
 取手がわざわざ回ってきて、彼の真正面に立った。彼の顔を覗き込むように屈んで、躊躇いがちに囁いた。
 「その…よければ、少し、話がしたいんだけど」
 彼の体が一瞬強ばった。
 何を言われるのだろう、と不安になり、取手の表情を伺う。
 取手は、相変わらず優しい微笑みを浮かべていたが、目の奥にはどこか悲しそうな光があった。
 彼は手を握り締めた。自分は、取手を傷つけるような何かをしてしまっただろうか。
 あまりにも昼間の<葉佩九龍>と違うので、もう一緒に来るのが嫌になったのだろうか。
 「出来れば…君の部屋で、話をさせて欲しい。…君のことを、全て、知りたいんだ…いけないかな」
 途端。
 がつっともの凄い音がしたので、彼は咄嗟にマシンガンを構えてそちらを向いた。
 すると、そこには、皆守が後頭部を押さえて蹲っていた。
 「ぐわ〜…仰け反った弾みに、思い切りやっちまったぜ…」
 どうやら、皆守が頭を壁にぶつけた音だったらしい。それにしても何故そんなに思い切り…と目を丸くしていると、皆守が恨めしそうに取手をアロマパイプで指した。
 「お前が、いきなり大胆なことを言うから、びびっただろうが」
 「僕が…?」
 何のことやら、と不思議そうに首を傾げる取手と顔を見合わせる。
 その様子を見て、皆守は「よっこらせ」と年寄りじみた掛け声と共に立ち上がった。両手をポケットに突っ込み、おざなりに言う。
 「へーへー、どうせ俺は、汚れた大人ですよ」
 「同い年だよ?」
 どうやら取手のそのツッコミはお気に召さなかったらしい。唇に挟まれたアロマパイプがぴこぴこと上下した。
 「部屋に行って、『君のことが全て知りたい』っつったら、普通は…なぁ?」
 いや、同意を求められても、全く理解できないのだが。
 皆守は諦めたように頭を掻いて、ついでにもう一度後頭部のたんこぶを撫でた。
 「で?どうするんだ?葉佩。もう帰って、お部屋でしっぽり『お話し合い』か?」
 彼は腕時計を確認した。まだまだ活動時間ではあったが…取手が話をしたいと言うのに、無理に奥へ進むのも気が引けた。
 「上へ戻る」
 「ありがとう」
 何故か取手が礼を言って、更に「ごめんね」と謝った。
 彼にとって、取手はひどく不可解な人物だった。物腰が柔らかくて、遠慮がちかと思えば、時に強引なこともあり、自信に満ちた時もあれば、おずおずとしたところもある。
 同業者には絶対いないタイプだ。もしもこんなハンターがいたら…すぐに騙されてあの世行きだ。
 絶対に…彼の世界とは相容れない。


 植え込みで着替えて、こっそりと寮に戻る。
 部屋に入ると、何故か皆守も付いてきた。
 「ま、何だ。取手が何を言い出すのか、興味があってな」
 くっくっと笑って、皆守はベッドに腰掛けた。
 取手もその横に浅く座る。
 彼は、こんな時にはどうしたらいいのだろう、と考えた末に、寮の簡素なキッチンでお茶を煎れることにした。
 「あ、えっと、その、お構いなく」
 取手が、茶器を手に部屋を出ようとした彼に慌ててそう言ったが、彼はそのまま部屋を出た。
 ミルクを沸かせて茶葉を入れる。漉してカップに注いでから香辛料とバターを乗せた。
 盆に乗せた3つのカップを、こぼさないように慎重に運ぶと、部屋のドアを開けて取手が心配そうに覗いていた。
 机の上に盆を乗せて、カップを手渡す。
 「熱い」
 そう注意して、自分のカップはそのまま盆の上に置いた。
 「何か…変わった茶だな」
 くるくると回して胡乱げに中身を見る皆守と対照的に、取手は興味深そうに啜っている。
 「お茶と言うより、スープみたいだけど。美味しいよ、これ」
 「へぇ」
 皆守もようやく口にして、微妙な顔になった。
 「そうだな…スープだと思えば…」
 彼らの口には合わなかったらしい。モンゴルで習い覚えたものを自己流に改変したお茶は、日本人には不慣れな味らしかった。
 彼も、カップに息を吹きかけて、慎重に啜った。
 しばしの沈黙の後、彼は溜息のように呟いた。
 「…話…って?」
 「え?あ、うん」
 取手が、困ったような顔で、両手で包んだカップを何度か回した。
 「その…君自身のことなんだけど」
 全身が緊張したのが、自分でも分かった。
 何を言われるのだろう、と、耳に神経が集中するが、本当は、聞きたくない、とも思った。
 強ばった顔で、自分のカップに目を落としている彼に、取手は眉を寄せた。
 「あ…その、イヤなら…いいんだけど」
 「…別に…」
 淡々と機械的に返事を返した彼に、取手は小さく溜息を吐いた。
 「葉佩君の、そういうところが…分からないな、と思って」
 彼はふと目を上げた。
 自分を見つめている取手の目は、ひどく悲しそうだった。
 どうしよう、と彼は虚ろに思った。
 <彼>の受け答えは冷たすぎて、取手を悲しませているらしい。
 そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
 けれど、どう言えば良いのか、分からない。
 彼は、目を閉じた。そして、こめかみをとんとんとん、と叩いた。
 目を開く。
 <葉佩九龍>が、目を開く。
 「えとー、どういうところですかー?俺、何か、取手君に悪いことしたですか?」
 潤んだ瞳が取手を見上げ、切ない声が訴える。
 だが、取手と皆守は、顔を見合わせた。
 「そういうところが、なぁ?」
 「うん、そういうところが…分からないんだ」
 <葉佩九龍>でも駄目なのだろうか。
 どうしたら良いのか分からなくて、彼は、じっと取手を見つめた。
 「あのさ、その…」
 言い澱んだ末に、取手は思い切ったように、彼をひたと見据えた。
 「どっちが、<本物>の葉佩君?」
 あぁ、と彼は諒解した。
 あまりにも、昼出会う<葉佩九龍>と、今の<彼>とが違いすぎて、不愉快なのだろう。
 「俺…は…」
 声が掠れる。

 もしも、取手が。
 <彼>が<葉佩九龍>では無いことを悲しんだら、どうしよう。

 「本当の俺は…遺跡にいる<盗掘屋>。昼に学校にいるのは、協会からダウンロードした<葉佩九龍>」
 取手の顔が怪訝そうに傾げられる。
 「ダウンロード?」
 「本物の俺、普通の生活出来ない。他の人、背後いると攻撃する」
 「あ〜、ありゃ殺されるかと思ったな」
 「出会う人、皆、敵。普通に話出来ない。俺は、遺跡以外に、不適応」
 それを恥じたことは無かったけれど。むしろ誇りに思っていたけれど。
 「だから、協会から人格をダウンロードしたです。自己暗示のようなもの。日本語を学習するように、人格を学習したです」
 脳に無理矢理刷り込まれた、言語と人格。
 切り替えは、こめかみへの刺激。
 「じゃあ、君は…本当は、別の名前があるのかな?」
 「そう。<葉佩九龍>は、ロゼッタが用意した名。九龍の秘宝を手に入れるため、えっと…言霊。言霊利用するらしい…です」
 現代人からすれば、馬鹿馬鹿しいと一蹴されるようなことかも知れないが、彼もまた『言霊』を信じていた。『本当の』名前には、力がある。逆に、敵に利用されることもある。
 呪われることも日常茶飯事な職業であるため、彼らは本名はたいてい隠している。
 彼もまた、『眞名』は両親から聞いてはいるものの、両親すらその名を呼ばなかった。
 「聞いても…いいかな」
 おずおずと聞いてくる取手を悲しませたくはなかったけれど。
 「ごめなさい。親は、俺のこと、煉、て呼ぶでした。でも、それも偽物。眞名は…駄目。魂を掴まれてる気がする」
 彼は、ぎゅっと胸のあたりのシャツを握った。
 それは多分は気のせいなのだろう。だって、普通の人は、誰にでも名前を教えて、知らない人に名を呼ばれても、どうにもなったりしないのだから。
 だが、彼は両親に叩き込まれている。
 『眞名』を明かすな、と。
 もしも、『眞名』を明かす相手がいるとすれば、それは……。
 
 「そっか…」
 取手が呟いた。
 目を上げた彼に、取手は柔らかく笑った。
 「実は、不安だったんだ。僕を助けてくれた君が<本物>として…僕は、本物の君を知ることが出来たのが嬉しかったのに、昼に会ったら、何だか全然違うし…あぁ、やっぱり僕のこと、信じてくれなかったのかなって…他のみんなと一緒で、上辺だけの付き合いしかしてくれないのかなって」
 彼は、何度か激しく瞬きをした。
 それから、もう一度、取手の言葉を頭の中で繰り返して、「え?」と問い返した。
 「そんな簡単に、切り替えられるものじゃないんだね?うん、そうと分かれば、昼に会ってあんな風でも、色々考えなくて済むよ」
 そう言って、取手が安心したように力を抜いたので、彼はもう一度瞬いた。
 ひょっとして、取手は、彼が<彼>でもいいと言っているのだろうか?
 「あ、あの…」
 彼はカップを机に置いて、話しかけ、自分の声が上擦っているのに気づいて唇を舐めた。
 「えと…<葉佩九龍>は、人好きする人格。違う?」
 「後ろに立った奴にマシンガン突きつけるような奴に比べりゃ、誰だって人好きするがな」
 …結構、根に持つタイプらしい。
 「え…うん、昼の葉佩君も可愛いよ。みんなに好かれると思う。…でも、僕は、今の君の方が好き…かな」
 ばふっと音がした。
 皆守が、カップを持って腰掛けた、そのままの姿勢で後ろにひっくり返ったのだ。
 「おい、取手。…俺は、お前がそういう奴だとは、思ってなかったぞ」
 幸いすでにカップの中身は空になっていたらしい。天井に向かってそう呟いた皆守は、掛け声と共に起き上がった。
 「何か、おかしなことを言ったかい?」
 「お前、ピアノ弾きに来た時もそうだが…いったん思い込んだら他が見えてないな」
 「そんな性格だから…あんなことになったんだけどね」
 姉の死を受け入れられなくて、『誰か』のせいにしたくて。
 だが、取手は意外とさらりと過去の自分を受け入れた。
 「まあ、僕としては、そのおかげで、葉佩君に会えたから、良いんだけど」
 そんな風に言われて、彼はどう答えたらよいのか分からなかった。
 混乱したまま、彼は、こめかみに指を当てた。<葉佩九龍>なら、うまく答えられるのでは…と思ったからだ。
 だが、素早く長い手が伸びて、彼の手を握った。
 「いいんだよ、無理に言葉で答えてくれなくても」
 近づく取手の顔の横から、ベッドに座る皆守の顔が見える。何というか…埴輪に似ていた。
 「出来れば、僕の前では…<本物の>君でいて欲しい。…わがまま、かな」
 わがまま、という単語を訳して、彼は慌てて首を振った。
 「あ、あ、あの…俺、喋るの苦手」
 「うん、僕も得意じゃないから」
 「…十分、口説いてるじゃねぇか」
 「その…俺、普通の人のこと知らないし…」
 「僕が、教えてあげるよ」
 「…違うことまで教えそうだがな」
 「俺…でもいい?<葉佩九龍>じゃなくても、いい?」
 「君の方がいいな」
 「…やってられるか、まったく」
 ぼそぼそと取手の後ろでツッコミを入れていた皆守が、ついに呆れたように立ち上がった。
 「ふぁ〜あ!付き合った俺が馬鹿だったぜ。じゃあな。二人とも、あんまり頑張って、寝過ごすんじゃねぇぞ?」
 「よく寝過ごす君に、言われたくは無い気もするけど」
 「もう今日は、墓には行かない」
 至極真面目に返した二人に、皆守は、肩をすくめてドアに向かった。
 「じゃあな、お子さまたち。あ〜、ケツが痒いぜ…」
 尻を掻きながら出ていった皆守を見送って、彼らは顔を見合わせた。
 どちらからともなく、笑い出す。
 ひとしきり笑った後、取手は立ち上がった。
 「僕も、もう失礼するよ。今晩は楽しかったよ。ありがとう」
 「え…えと…ありがと…俺も…取手君がいて、楽しかった」
 取手は少し目を見開いてから、幸せそうに笑った。
 「うん、ありがとう。…また、呼んで欲しい。いつでも、喜んで行くから」
 「う…うん」
 何か、言いたいことは一杯あるような気がしたが、彼は何も言えなかった。
 いつか、言えれば良いと思う。
 取手が、この手を『宝物を取り返した大切な手』と言ってくれたから、自分は『他の誰かにとっての宝』を代わりに手に入れようと思ったのだ、とか。
 『彼が良い』と言ってくれたから、彼は遺跡以外に出てくる勇気を持てるのだ、とか。
 それから…取手がいてくれて、本当に嬉しい、とか。
 「おやすみ、葉佩君」
 そう言って、ドアに手をかけた取手の制服の裾を掴む。
 「あ、あの…」
 でも、これだけは言わないと。
 「<葉佩九龍>は、<偽物>じゃないから。<葉佩九龍>が喜んでるのは、俺が喜んでるからだから」
 偽りの人格で接したけれど、感情は偽りではないから。
 きっと、明日になって学校で会えば、彼はまたにこやかに取手に挨拶するだろう。今の彼からは想像も付かないような甘えた声で、取手に話しかけるだろう。
 けれど、それは、彼がそうしたいからなのだ。
 分かって貰えるだろうか、と不安に見上げれば、取手の優しい目にぶつかった。
 「うん、そうだね。どっちも、君なんだね。…じゃあ、明日。また、学校で」
 「うん…また…明日」
 取手を送り出して、お茶のカップを洗う。
 いつも通り、床に座り込んでマシンガンの分解整備をしながら、彼は「どうしよう」と思った。
 手は、慣れた動作を続けているが、頭の中は混乱中だ。
 

 どうしよう。

 取手が、優しすぎて。
 彼の望む言葉を、彼自身でさえ、望んでいるとは知らなかった言葉を、慈雨のように降り注いでくれて。
 任務中なのに。
 <宝探し屋>にとって、遺跡に『情』を持ち込むのは、禁忌なのに。



 どうしよう。












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