第2次接触
取手鎌治は、未だに夢を見ているのではないか、と疑っていた。
だいたい、葉佩の強い視線に耐えかねて、思わず本音を口走ってしまったのも、あまりにも自分らしくなく、白昼夢でも見ていたのでは無いかという現実感の無さがあったが、それ以降に起きた、葉佩からの告白という出来事に至っては、全くの妄想では無いだろうかとさえ思える。
仮に、今、自分のベッドの中に葉佩でもいるなら、少しは安心するだろうが…いつもと同じく自分一人で目覚めているわけで。
取手は、夕べの出来事をもう一度思い出してみた。
好きだ、と告げて、どうせ嫌われるのなら…と口づけをした。…すると、全く厭がられる様子が無く…喜んでもいなかったが…きょとんとしていた。
まだ分かっていないようだったので、もっと深くキスをしてみた。取手にとっても初めてのことであったため、どれだけ葉佩に意図が通じたか不明だったが、舌を噛むと甘い声を上げて……柔らかな舌の弾力と、その声を思い出して、取手は一人で頬を染めた。
葉佩はそれでも嫌がらなかった。
そして、自分も取手に触れたいと言い…取手が好きだ、と言ったのだ。
たぶん、夢では無い。
どうも現実感が無いのは、それからすぐに葉佩が帰ったからだろう。
衝撃のあまり声の出せない取手から視線を流したかと思うと、あっさりと
「あぁ、もう君の就寝時刻だな。それでは、また明日」
いつもと変わりなく平然と部屋を出ていったのだ。
取手は落雷にでもあったかのように、突っ立ったまま動けないでいたのに。
動揺やら恥じらいやらとは無縁な人だろうと分かってはいても、取手としては、本当に葉佩は自分と同じ意味で好きだと言ったのかどうか疑わしいと思っても無理は無いだろう。
幸いにして、今日は金曜日。一般的に、明日は休日である。<トレジャーハンター>にとっては、あまり意味のない区分かも知れないが。
休日の前なら、就寝時刻が遅くなってもおかしくは無い。
つまり…もっと長い間、葉佩といられると言うことだ。
そう、勝負を賭けるべき時なのである。
取手は、思い切って立ち上がった。
夕刻までに葉佩に会えたら…伝えてみよう。
話がしたい、と。
そして、出来れば…今日は泊まっていってくれないか、と。
泊まっていく…夕べ一時だけ腕の中にいたあの体を……。
想像して、取手は顔を赤くして、またベッドに座り込んだ。
今度はなかなか立ち上がれそうには無かった。
冷たい水で顔を洗って、取手はのそのそと朝食を取りに出た。
学生食堂でトレイを受け取り、少し辺りを見回すと、いつもの位置で葉佩を見かけた。
葉佩も気づいたのか、軽く手を挙げて合図をする。
そちらに向かって、葉佩の前に座る。
「おはよう、九龍くん」
「おはよう、取手」
交わす挨拶は、いつもと全く変わらない。
恋人になった初々しさとか湧き上がる暖かさとか、そういうものは全く感じられない。
まあ、他にも学生が大勢いる中で、あんまり期待するのもいけないだろうが。
やっぱり夢だったんだろうか、と思いつつ目玉焼きをつついていると、葉佩の手が伸びて取手の前髪を払った。
「取手?調子が悪いのか?」
髪を掻き分け、取手の表情を露にした指は、まだ離れずに取手の額から頬へと触れていく。
何かを確かめるかのようなその指を捕らえて、取手は軽く握ってから離した。
「ううん…別に、頭も痛くないし…ちょっと、考え事をしていただけだから…」
「そうか?なら、良いんだが」
取手の視界からするりと葉佩の指が逃げていき、また食事に戻る。
ほんの僅かな接触。
他人には不審に思われない程度のものだが、明らかに昨日までは無かった接触だ。
少しだけ気分の浮上した取手は、囁くような声で葉佩に聞いた。
「あの…ね、九龍くん…その…今晩の、予定は?」
食事を終えて、綺麗に箸を置いた葉佩が、同じようにほんの小さな声で答える。
「あそこに行くつもりだが…良ければ、君も来てくれるとありがたい」
あぁ、そうか。
バディたちを気遣うなら、休日前はやはり絶好の遺跡日よりか。
葉佩を独占出来るつもりでいた取手は、浮ついた心に冷水を浴びせられた気分になった。
思わず俯いてしまった取手の耳に、葉佩が呼びかける声が聞こえる。
「取手?」
その声が移動して…大テーブルを回って取手のすぐ隣まで来た葉佩が、覗き込むように身を屈めた。
「取手?具合が悪いのか?」
また、指先が取手の頬に触れる。
「…そうじゃないよ…」
弱々しい声に、葉佩が取手の前髪を掻き上げた。
もう片方の手で取手の顔を上げさせ、こつんと額を当てる。
「熱は…無いようだが。どうも反応が悪いな。…俺としても、君のそんな姿を見るのは、あまり愉快なことでは無い」
「…ごめんね」
「いや、謝ることでは無いが」
鼻先を触れさせてから、葉佩が顔を離す。
ちょうど空いた取手の隣の席に座り、取手の横顔をじーっと見つめた。
「何か、言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれた方が良いのだが。俺は、感情の機微には疎い」
淡々と告げる言葉は真実だ。
葉佩に微妙なニュアンスを感じ取れなんて、無理もいいところなのだから。
言ってしまおうか、とちらりと思いつつも、周囲にはざわざわと学生が入れ替わり立ち替わり食事をしに来ているわけで、そんなところで後ろめたいことを言う勇気は無い。
取手はそっと溜息を吐いてから、葉佩の口のあたりを見ながら呟いた。
「昼休みに、言うよ…もっと、静かな場所で」
「そうか」
どう取ったのか、葉佩はあっさりと頷き、席を立った。
取手の視線に「返してくる」と自分のトレイを持ち上げ、きびきびとした動作で去っていく。
どうやら葉佩にとってこの話題はもう終了したらしい。
話が早いというか、素っ気ないと言うか。
取手は、もう一度、葉佩は本当に自分のことが好きなのだろうか、と考えた。
ますます食欲が無くなり、ぬるいお茶だけを飲んで、食器を返す。
学生食堂から出ていくと、入り口の扉の陰から、すい、と葉佩が現れて取手に並んだ。
待っていてくれたらしいと気づいて、また少し気分が浮上する。
何か言わなくちゃ、と思いつつも、何も話せないまま、二人並んで階段を上がっていき…別れ場所に着く。
「それでは、昼休みに」
軽く手を挙げ、葉佩はすたすたと自室に向かって廊下を歩いていった。
取手は、続けて階段を上がりつつも、もっと気の利いた会話は無かっただろうか、と色々考え込んでしまうのだった。
5分ばかり延長してしまった授業に腹を立てつつ、取手はようやく訪れた昼休みに教室を出た。
C組に向かうも、すでにそこは閑散としていて生徒の姿は少なく、葉佩もまたいなかった。
髪の長い少女と話していた八千穂が目敏く取手を見つけて、走り寄ってくる。
「こんにちはっ。九ちゃんなら、パンを持って皆守くんと屋上に行ったよっ」
「あ…ありがとう、八千穂さん…」
「ううん、またねー」
明るく手を振る八千穂に軽く頭を下げ、取手は大股で屋上に向かった。
昼休みに一緒にいようと思ったのに、さっさと皆守と一緒に行くなんて、何を考えているんだろう。
あれだけ感情に疎い葉佩のことだから、皆守に恋愛感情を持っているとは思い難いが、それは自分にも当てはまる。
階段も三段飛ばしで上がっていき、屋上に通じる扉を開けると。
ちょうど扉の前にいたらしい人物が、取手の胸に飛び込んできた。
「すまな……あぁ、取手か」
「九龍くん」
慌てて身を離した葉佩が、取手と認めて少し体の力を抜いた。
それでも一歩下がって、取手の前面をぱたぱたと払う。
「すまない、なるべく早く食事を終えて、音楽室に向かうつもりだったんだが…」
「音楽室?」
「違ったのか?静かな場所で、と言うから、てっきり」
怪訝そうに目を向けられて、はっきりとした約束は交わしていないことに今更気づく。
取手としては、昼休み、というと食事も込みだったのだが、確かに食事の場はどこもそれなりに騒がしい。
「ん…ごめん、はっきり言って無くて」
「謝ることは無いが…取手は、昼食は終わったのか?」
「まだ…だよ」
「そうか。どこかに行くなら、付き合うが…」
それが当然、と言った風な葉佩に、取手は少しだけ頬を緩めて、首を振った。
「それより、先に話をしたい。…そうじゃないと、食べる気にならないし…」
葉佩は首を傾げてから、周囲を見回す。
寒空の元、屋上には人気は無い。皆守を除いて、だが。
その皆守は屋上でもっとも日当たりの良い特等席に陣取っているので、皆守から離れると、日陰で寒々しい場所しか残っていない。
「ふむ…やはり音楽室が望ましいか?寮まで帰っても良いが…」
取手は音楽室を思い浮かべるが、昼休みも音楽教師が出入りしたり、部活動の学生がうろうろする可能性もある。
「良いよ、ここで話してしまおう」
「そうか?」
二人連れだって屋上のフェンス近くに歩いていくと、皆守がちらりと視線を寄越したが、眠そうに半目になるだけで何も言わなかった。
僅かに射す太陽の照る位置に取手を押し込んで、葉佩はフェンスにもたれながら取手を見上げた。
「俺は、今朝、俺の予定を先に言ってしまったが、君には君の予定があったのでは無いか?どうも反応が悪かったが…」
ずばり切り込んでくる葉佩に、取手は苦笑してフェンス越しに地面を見つめた。
その時、風が吹いてきて、今日の気温の低さを改めて知らしめた。
「九龍くん」
「何だ?」
「もっと、こっちに」
「あぁ」
葉佩が素直に体を寄せてくる。
ぴたりと触れ合った腕や足から温かさが体中に広がるようで、取手は心地よさに目を細めた。
取手のフェンスを握っている手に、葉佩の手が被さるように触れる。
「触れても、良いのだろう?」
確認するように指の関節をなぞる葉佩に、頷いてから少し体を傾けるようにした。
触れた頬に驚いたように身を離してから、葉佩もゆっくり傾いて、お互いの片頬がくっつくようにする。
「もっと、触れたいと、思ったんだ」
取手は、そぅっと囁く。
「触れているだろう?」
不思議そうな声に、自嘲するように笑って、取手は顔をずらして葉佩の頬に唇を寄せた。
「もっと、たくさん、色々なところに。明日は休みだから…君に泊まって貰って、それで、いっぱい、色んなことしたいなって」
「そうか」
さらりと答えた葉佩は、やはり淡々と答える。
「俺としては、予定の探索を済ませて、明日の休日は出来るだけ君と一緒にいたいと思ったのだが…君の案でも良い。休日に探索に付き合わせることになるが」
もしも、自分の希望通りにことが運んだら、翌日に探索できるかどうかは疑わしい、と取手はちらりと思ったが、そもそも『うまく行く』可能性もそう高くは無い、と思い直した。
それよりも、葉佩は葉佩なりに取手と一緒にいようとしてくれていたことが喜ばしい。
まあ、朝っぱらから一緒にいる、ということは、取手の希望とは異なる『一緒』かも知れないが。
葉佩が、すい、と顔を傾け、取手の唇が頬から離れた。
その代わり、軽い小さな音を立てて、柔らかな感触がかすめる。
葉佩からされた口づけに、取手は思わず手で口を覆った。
「嫌だったか?」
眉を寄せて聞く葉佩に、ぶんぶんと音が立つほどに首を振って見せて、それから取手は背後を窺った。
昼寝をしているらしい皆守の姿勢に変化は無い。
ほっとして、葉佩に顔を寄せる。
「ううん、嬉しいよ…でも、どうせなら、二人きりの時の方が、良いかな…」
「取手がそう言うなら、普段は我慢しておこう」
我慢するということは、本当は取手に触れたいと思っているということだ。
真面目な顔で頷く葉佩に、思わず笑い声が漏れる。
こんなに心の中から幸せで、あまりの嬉しさに笑いがこみ上げるなんて、久しぶりだ。
「僕たちは…両想いなんだね」
「そうだな」
乙女チックな単語にも、葉佩は平然と同意した。
こんなに暖かくて、こんなに幸せなのに、それでもまだ足りないとしまう自分は、ひどく欲張りなのだろうか、と取手は思う。
手を繋いで、キスをして。
それだけで済んだら、葉佩に痛い思いをさせなくても済むし…嫌われる心配もしなくていい。
けれど。
それでも、もっと深く葉佩が欲しい。
誰も見てないところまで暴いて、葉佩の奥深くに刻印を押したい。
葉佩は表情の変化が乏しい人だけれど、その時にはどうなるだろうか。
参考にしたAVのように、快楽に喘いでくれるのだろうか。
それとも、痛みに泣くのだろうか。
何にしても、普段の葉佩と違う表情を見られると思っただけでぞくぞくする。
たぶん、自分はどこかおかしいのだと思う。
同性で、しかも自分を救ってくれた恩人に欲情するなんて。
笑いを収めて、またやや暗い顔でフェンス越しに地面を眺める取手に、葉佩は身を寄せた。
同じように地面を見てから、取手の顔を見上げる。
「では、夕食が終わったら、君の部屋に行く。それで良いか?」
「…うん。出来れば、夕食も一緒に食べたいな」
「分かった。何なら俺の部屋に来るか?君の期待に応えられるかどうかは不明だが、卵料理に挑戦してみよう」
葉佩の料理の腕は悪くない。
ただ、芸術的要素は無いので、レシピ通りに規則正しく作成するため、面白味には欠けるが。
「嬉しいよ」
正直、葉佩のオムレツは姉のものには劣るが…たぶん一般的には逆の評価だろうが、葉佩のは一流レストランの料理をそのまま出されたような感じで家庭料理的な暖かさが無い…自分がオムレツが好きだというのを覚えていてくれたのが何より嬉しい。
葉佩は取手のかすかな笑顔を見て、少し頬を緩めた。
「あぁ、やっぱり君は、笑っている方が可愛いな。悲しそうな顔をされると、俺はどうしたらよいのか分からなくなる」
可愛い、という単語に、取手はむせた。
せき込む取手の背中をさすりながら、葉佩は怪訝そうに顔を覗き込む。
「どうした?いきなり」
取手は涙で曇った目で葉佩を見返した。
硬質ガラスのような美貌。
すらっとはしているが、取手よりは低い身長。
取手としては、恋した相手がたまたま同性ではあるが、己の役割に疑問は持っていなかったわけで…つまり、自分は男であり、相手を抱く立場と言うのを疑ったことはなかったが。
ひょっとして。
自分を可愛い、と表現するということは、葉佩も<男>のつもりなのだろうか。
猫背だが身長が高く、骨張っていてとても女性らしさなど欠片も無い自分を、可愛い、だなんて。
自分が受け身の可能性…想像するだに怖いが、頭ごなしに否定するのもまずいだろうか。男同士で、同等な立場なのだし。
「今日は、たくさん君に触れるな」
取手の背中を規則的に撫でながら、葉佩がどこか満足そうに言うのに、取手は咳込みの間に「そうだね…」と返答しつつ、自分が<男>として葉佩に触れたいのだ、と如何にして伝えれば良いか、とひたすら悩むのだった。