パンドラの箱





 取手鎌治は、ノックの音に頭を起こした。
 時計を確認してから、のそのそと立ち上がり扉に向かう。
 自慢じゃないが、友人は少ない方だ。こんな時刻に誰かが訪ねてくるなんて、滅多に無い。
 何事だろう、と訝しみつつ扉を開けると、密かに思いを寄せている<友人>が立っていた。
 「え…あ、こ、こんばんは、九龍くん」
 「こんばんは。君が就寝するまでに、どれだけ時間があるだろうか?」
 遺跡へのお誘いだろうか。普段はメールで連絡されるのだが…ちなみにそのメールは大事に保存してある…何かあったのだろうか。
 とりあえず、他の生徒に聞かれない方が良いだろう、と取手は体をずらして、葉佩に室内に入るよう促した。
 扉を閉じ(もちろん、鍵を掛ける勇気は無い)、取手は首筋を撫でながら返答を探した。
 普段の習慣と比べると、遺跡に付き合う日は格段に睡眠時間が少なくなる。
 だが、断って他の人と行かれてしまうよりは、睡眠時間を削る方が遙かにマシだった。
 「えっと…あそこに行くなら、いくらでも声をかけて貰えれば…あの、君の役に立てると嬉しいし…」
 ぼそぼそと言うと、葉佩は少しだけ首を傾げた。
 「いや、今日の任務は既に完了しているが」
 「えっ…あ、あ、そ、そう…」
 がっかりしたのを努めて面に出さないよう頑張ったのだが、葉佩は
 「そうか、そんなに遺跡が好きとは知らなかった」
 などと、とぼけたことを言っている。
 僕が好きなのは、遺跡じゃ無くて、君だよ。
 そんなことが言えればどんなにか…。
 自分の思考だけで赤くなった取手は、葉佩の視線から逃げるように簡易キッチンに向かった。
 「あの…何か、飲むかい?」
 「あぁ、気にしないでくれ。君の自由時間の邪魔をするつもりは無い」
 そう言われても、自分が落ち着く必要性も感じたので、取手は二人分のホットミルクを作って差し出した。
 どうも、と葉佩はあっさり受け取って、カップに息を吹きかける。
 しばしの間があって。
 「あ…えと…九龍くん、何か用…なのかい?」
 おそるおそる問いかけると、葉佩の片眉が上がった。
 「そういえば、まだ返答を貰ってなかったな。君の就寝時刻は?」
 それに何の意味があるのだろう。
 遅めに申告した方が良いのだろうか。
 だが、葉佩の顔色を伺っても、いつもの硬質な美貌に変わりはなく、意図を読みとることは難しいようだった。
 取手はそっと溜息を吐いて、正直に言うことにした。
 「だいたい、11時から11時半ってところかな」
 一般的な男子高校生に比べたら、早寝の範疇だと思うが、これ以上遅くなると頭痛が起きる確率が高くなるのだ。
 「そうか。では、あと30分が自由時間なのだな」
 「うん、まあ…」
 洗顔して着替えて…というのを含めると、確かにあと30分といったところか。
 けれど、それがどうしたのだろう。
 墓に行かないのなら…数学の宿題…いや、葉佩は理数系には強いし、語学も堪能だ。あえて苦手科目を上げるとしたら、音楽や美術といったあたりだが、それにしたって理論や知識は豊富であり、取手に手伝えることは何も無い。
 一体、何があったのだろう。
 だが、自分で考えていてもさっぱり分からない。
 葉佩に聞くしか無いか、と思い切って口を開きかけたところで。
 「君は、俺が来るまで、何をしていた?」
 「え…あ…えと…」
 先に葉佩から聞かれて、取手は激しく瞬きをした。
 葉佩にじっと見つめられて、ますます動揺して、視線を逸らす。
 「ふむ、他人には言えないようなことか。それは邪魔をしてすまなかった」
 「ち、違うよ!た、た、ただ、新しいCDが来たから、ちょっとまず解説を読んでたところで…!」
 どうやら本気で怪しいことを疑われたようなので…何せ葉佩が冗談を言うところなど聞いたことがない…取手は大慌てで否定した。
 証拠を見せるように、机の上からCDケースを取り上げ、ミニコンポにセットする。
 薄い解説書を広げて見せると、葉佩がどこかきょとんとした顔で手を振った。
 「いや、俺は興味が無い…あ、そうではなく、それは君に属するものなのだから、君が読めば良いのであって、俺が見ても…」
 そこまで言って、葉佩としては珍しく憂鬱そうに眉を寄せて額を指で叩いた。
 「すまない、君の趣味を否定するつもりは無いのだが…気を悪くしないで欲しいな」
 「え?あ、うん、別に、気にして無いよ」
 そこでまた会話が途切れ、穏やかなピアノ曲だけが室内を流れていった。
 欲しくて注文したCDのはずなのに、少しも頭に入ってこない。
 いったい、葉佩が何を言いたいのか、その方がよほど気になる。
 ちらりと解説書に目を落とし、それから葉佩に視線を向けると、思い切り真正面から目が合った。
 勝手に頬が赤くなるのを感じて、取手は無理矢理にまた解説書に目を落とした。
 数節読んで、ちらりと目を上げると、やはり葉佩がじっと凝視していたので、また俯く。
 わざとらしく前髪を掻き上げたりして視線を遮ってみるが、どうにもこうにも真っ直ぐな視線が貫くように追ってくるので、ついに諦めて解説書を閉じた。
 「あ、あの…九龍くん」
 「あぁ、すまない。俺は邪魔をしているか?」
 「君を邪魔だなんて思ったことは一度も無いけれど…」
 それだけは咄嗟に否定しておいて。
 「けれど…その…理由を聞いていいかな…えっと…何か用があったんじゃないのかい?」
 目を合わせるのが怖くて、葉佩の口元あたりを見ながらぼそぼそと聞いてみれば、葉佩が口を歪めたのが分かった。
 不愉快にさせただろうか、と目を上げると、葉佩はまた眉を寄せてこめかみを指で叩いていた。
 「いや、すまない。言って無かったか。俺は、ただ、君の顔を見に来たのだが」
 「あ、そ、そう…僕の顔を見に………顔を見に?」
 通常、顔を見に、と言うのは訪問する際の常套句のようなもので、本当に『顔を見る』のではなく『遊びに』とか『話をしに』来た、ということを意味する。
 だが、葉佩なら、『顔を見に』と言ったら、本当に顔を見るために来た可能性があるのだが。
 しかし、何の用で、顔なんぞ見に来るのか。
 顔を忘れるほど長い間会っていないわけでなし、取手の顔をスケッチするわけでなし…何のためにわざわざ。
 「あの…僕の顔なんか見て…どうするの?」
 ある種、失礼な言い草だと自覚しながら、取手はおそるおそる葉佩に問いかけた。
 だが葉佩は、ごく普通の表情で、さらっと答えた。
 「見たかったからだが」
 答えになっていない。
 いや、答えてはいるのだが、ますます疑問が募る。
 自分で言うのも何だが、そんなに愉快な顔をしているつもりは無いのだが。
 「君の顔は、興味深い。無論、人類学的に貴重だなどと言うつもりは無い。ただ…そう、本当に、俺の興味を引くと言うか…」
 葉佩にしては珍しく言葉を濁して、顎に手を突いて、また取手を凝視した。
 「君のことを思い出しているうちに、直接顔を見たいと思ったので来たのだが。すまない、邪魔をするつもりは無かったんだが」
 「い、いや、邪魔だなんてことは無いんだ。むしろ、僕も君の顔を見られて嬉しい…んだけど…」
 無意識のうちに正直に答えてから、取手はしばらく考え込んだ。
 取手のことを思い出しているうちに。
 どんな理由があったにせよ、葉佩が一人でいるときに、自分のことを思い出してくれている、というのはとても嬉しい。
 それに、顔を見たい、と言われるのも嬉しいことだろう。
 もしも、それに恥じらいだのといった感情が込められていたら、有頂天になるところだが。
 事務的に淡々と述べられると、自分が期待する意味では無いのではないかと疑心暗鬼に陥って、過度に期待してはいけない、と自分に言い聞かせなければならない。
 男同士だし、そもそも葉佩にそんな恋愛感情なんてものが発生しうるのかどうかすら疑わしいし…。
 いつも自分に諦めろと言い聞かせている取手は、葉佩を前にして同じように考えを巡らせて、少しばかり溜息をこぼしつつ目を上げた。
 すると、また真正面から葉佩と目が合ってどぎまぎする。
 「少し、聞いても良いか」
 「ぼ、僕に答えられることなら、何でも…」
 「俺はどうも、こういうことに疎いのだが…と言うか、己で己の感情が理解できないという事態が初めてで、どうも気持ちが悪いと言うか…」
 そこまで言って、葉佩は首を傾げてこめかみを押さえた。
 「いや、やはりこういう命題は、自分で解決せねば意味が無いのだろうな。感情の方が動く感覚は、久々過ぎてどうも掴めんが」
 深く哲学を思索する賢者の表情に、取手は大人しく口を挟まずにいた。
 だが、何かを納得しているらしい葉佩に、寂しさがこみ上げて、ついぽろりと言葉をこぼす。
 「…君は、何でも自分で解決するんだね」
 葉佩がどこか驚いたような表情で取手を見つめる。
 「トレジャーハンターは単独で任務に当たることが多いから、自分で判断するように訓練されているのだが…おかしいだろうか?」
 「別に…君にとっては、それが正しいんだろうから」
 「しかし、君は…」
 そこで葉佩は珍しく狼狽えたように言葉を途切らせ、唇を湿すように舐めた。
 「しかし、君は…不快を感じたように見受けられるのだが」
 葉佩は他人の好意には無頓着だが、不快感には敏感だ。
 それは、他人の微量な悪意を感じ取らねば自身が危険だという職業柄からなのかもしれない。
 普通、悪意が分かれば好意も分かる気がするのだが、少なくとも好意のレベルは絶対に感じていないだろうと取手は思う。
 たぶん葉佩にとって、担任の雛川が彼を気に入る<好意>と、取手の恋慕に限りなく近い<好意>とは、一括りに<好意>なのではないかと感じるのだ。
 同時に、葉佩が他人をクラス分けする時も、<危険人物><好意に値する><その他大勢>くらいにしかなっていないんじゃ、と思う。
 その場合、自分は<好意に値する>には入っているだろうが、これまで学園で知り合った生徒たちも、大部分がそのクラスだろう。
 <特別に好き>な取手としては、焦燥感と諦観が交互に襲ってくる状態である。
 取手は窺うように見つめてくる葉佩に、ほんの少しだけ自分の心を明かすことにした。
 どうせ、こと感情において、葉佩が1を聞いて10を知ることは無いだろうし。
 「あのね、九龍くん。僕は、君に助けられてるし、あれ以降も相談に乗って貰ってるだろう?それは、君を信頼してるからなんだ。…だから、僕だって、君に相談して貰えたら嬉しい」
 葉佩は、少しだけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
 「あぁ、君は、そうやって俺の目を見て、普通に喋ることも出来るんだな。どうも最近、君は俺と話す時に限ってどもるものだから…俺は君に無駄な緊張を強いているのかと思っていた」
 ほっとしたように笑って取手を見つめる目が、何だか予想外に幸せそうに輝いていたので、取手は何度も首筋をさすった。
 そう、たぶん、葉佩にとっては命題を一つ解決したとかそんな類の嬉しさなんだろうから、舞い上がってはいけないのだ。
 「き、緊張なんかしてないよ…あ、ううん、ひょっとしたら、緊張はしてるかもしれないけど、それはその…君に嫌われないように、気を付けて振る舞おうとしてるせいで…」
 途端に葉佩の目の輝きが曇ったので、取手は慌てて口を閉じた。
 どうやら、まずいことを言ってしまったらしい。
 何がまずかったんだろう、と自分の言葉を思い出そうとしていると、葉佩が眉を寄せてゆっくり言った。
 「俺は…そう簡単に友人を嫌いになるような人間だと思われているのだろうか」
 「ちちちちち違うよ!たたたただただ僕は、ほんの少しでも嫌われたくないって言うか!」
 慌てて手をぶんぶん振ったが、葉佩はますます憂鬱そうな顔になった。
 「俺は確かに感情に疎いが、その分、嫌いになることも滅多に無いのだが…」
 「い、いや、ほら、うん、き、君が僕のことを友人として好きでいてくれてるのは、知ってるよ…で、でもさ、僕としては、嫌われたくな…じゃなくて、もっと好きになって欲しいって言うか…うわ、僕、何言ってるんだろう、えっと、あの、君だって、僕が本当に考えてることを知ったら、僕のこと嫌いになるかも知れないし…」
 言っているうちに、だんだんまずいことを口走っていっている自覚はあった。
 音量を下げてもごもごと誤魔化した取手は、葉佩の思案げな表情に不安を感じた。
 この顔は、葉佩が新しい命題を与えられてそれを解決することに喜びを見出した証だ。
 何となく、まずいことを徹底的に追及される予感がした。
 「例えば、どんなことを考えているのだろう?俺は、そうそう君を嫌いにならない自信があるが」
 ほら来た。
 嫌われたくないから隠していることを、教えろと言われて易々と教える訳が無いだろう。
 だが、葉佩は好奇心の視線でじーっと取手を見つめている。
 取手は、一つ溜息を吐いた。
 たぶん、これは危険な橋であり、試してみるのも愚かなことなのだろう。
 けれど。
 「たとえば、ね。僕には好きな人がいるんだけど…心の中で、何度もその人を犯しているよ。普段会ったら、そんなことは考えたことも無いですって顔をして話をするのに、ね」
 葉佩が激しく瞬きをした。
 うっすらと頬が赤くなるのを、取手は新鮮な感動でもって見つめた。
 葉佩のそんな様子など見たのは初めてだ。
 「そ、そうか…いや、それが、一般論として、正常な思春期男子の思考であることを、俺は否定するものではなく、だな…確かに、君が、というと非常に驚いたが、いや、しかし、つまり、君を嫌いになる要素足り得ないわけで…いかん、思いの外、動揺しているようだ」
 葉佩は自分の頭を抱えてから、すっかり冷えたミルクを一息に飲んだ。
 「…君は?」
 まだ赤みの残る顔で、葉佩が取手を見上げる。
 いつもより少しだけ潤んでいる目が、何だかひどく可愛らしく見えて、取手はその顔を覚えておこうと脳裏に焼き付けた。
 「君は、そういうことは無いのかい?」
 「お、俺が、か!?…そ、そうか、俺もそのようなことがあり得る年齢だったか…と言うか、あって当然の年代なのか?思春期の成長として、遅延しているのか?」
 ぶつぶつ呟きながら空のカップを指で回している様は、如何にも動揺しているといった姿であった。
 考え込んでいるのか、しばしの間があって。
 何か納得したのか、狼狽えた様子が消え失せ、すっかりいつものクールな表情に戻って、葉佩は淡々と言った。
 「俺とて、性欲処理くらい行っているが、その際の刺激要素として不特定の女性の裸像を想定することはある。だから、いずれ特に好きな異性が現れたら、その特定人物を想起する可能性はある。…よし、問題無し」
 力強く頷く葉佩に、脱力感を覚えて、取手は肩を落とした。
 精一杯探ったつもりだったのだが、結果として葉佩が普通に女性を好きになるという当然の事実を改めて突きつけられただけだ。
 「他には、何かあるか?」
 次の命題を片づけるつもりらしい葉佩に、取手は長い腕を机の上にだらりと投げ出して考え込んだ。
 そりゃ、いろいろと嫌われる要素はある。
 その最たるものが、先ほどの心の中で犯している相手は、葉佩当人だと言うことだが。
 それだけは絶対に言ってはならないことなのだ。
 考えていて、ふと気づく。
 たとえ、自分が質問している方でも、逆に質問されたら、葉佩は必ず答える人だ。
 だとすれば、話を逸らすチャンスは十分にある。
 「逆に聞くけど…九龍くんは、こんな人は嫌いだって言うのは、あるのかい?」
 「俺が、か?ふむ…あまり考えたことは無かったが…」
 予想通り、葉佩は素直に答えを考え出し、取手は心の中でほっと息を吐いた。
 「俺はどうも、他人を好きにならないのと同じ程度に、嫌いにもならないらしくてな…たいていの人間は<どちらかと言えば好き><どちらかと言えば嫌い>という曖昧な範囲に入ってしまう」
 この幅、と葉佩が手を広げて見せるのに、取手は意識がすぅっと冷えるのを感じた。
 そう、やはり葉佩は<特別に好き>など分からないのだ。
 自分もきっと、その皆と同じ<どちらかと言えば好き>という、ただのその他大勢と同じところにいるのだ。
 そんなくらいなら、いっそ、<特別に嫌い>な方がマシなほど。
 拳を白くなるほど握りしめて膝に置いた取手の様子には気づいていないのか、葉佩はまだ説明を続けていた。
 「俺にとって、すべからく他者は<有益>か<無益>かくらいの興味が無く、いわゆる…何と言ったかな…そう、『来る者拒まず、去る者追わず』であって」
 それは、取手のみならず、他の人間にとっても酷い表現だったが、それを指摘する余裕は無かった。
 「そう、俺にとって、他人は物と同じく、記号で置き換えられる存在だ。特別な興味など、持ったことが無いのだが…」
 そこで、心底不思議そうに葉佩は首を傾げた。
 「なのに、何故、俺は、君の顔を見たいと思うのだろう?」
 
 
 
   間。



 「何かを見ていたい、とい欲求自体が久々なので、どうも自分でもよく理解できん。ともかく、こうしてその命題と向き合うのは、非常に心地よい時間であったので、俺としては有益だが」
 葉佩は淡々と言ってから、ちらりと時計に目をやった。
 「さて、そろそろ時間だな。君は、俺に相談して欲しいと言ったので、遠慮なく言わせて貰うと、またこうして君の顔を見させてくれれば有り難い」
 葉佩はきびきびとした動作で立ち上がって、取手に手を振った。
 そうして、乱れない足取りで部屋を出ていき、扉が閉じられた。


 そうして、ようやく、取手が動き出した。

 「………え?」

 信じられない、と言った顔で、閉じた扉を見つめる。
 葉佩は、<特別な人>などいないが、<取手だけ>顔を見たいと言ったのだ。
 「………え?」
 もう一度、取手は呟いた。
 
 
 確かに、パンドラの箱に入っていたものの中で、もっとも性質が悪いのは<希望>だと思う。







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