夕焼け
取手は、ふと足を止めて、窓の方へと顔を向けた。
質量すら伴っているのではないかと思うほどに圧倒的なオレンジ色が、窓の外の世界も、この廊下も染め上げている。
いつもなら目を背けたくなる光の塊を、目を眇めつつ眺めていると、規則的な足音が小さく聞こえてきた。
近づいてきたそれに振り返ると、予想通り、最近知り合った<転校生>が廊下をまっすぐ歩いてきているところだった。
気持ちよいほどに迷いのない足取りのリズムを聞き取っていると、さすがにそのまま通り過ぎるのは気が引けたのか、取手の目の前で止まった。
「やあ、葉佩くん」
「こんにちは。もう下校時刻だと思うが?」
むしろ執行委員である彼が言いそうな台詞を口にして、葉佩は取手の真横の窓に目をやった。
「何か、君の興味を引くような事象があったのか?」
科学者のような堅い物言いに苦笑しつつ、取手も窓を向いた。
「何でもないんだ。ただ…綺麗だと思って」
そう、夕焼けは、綺麗。
あれだけ厭わしく感じていたのが嘘のように、一日の終焉の徴をただ美しいと感じられる。
それも全ては、この<転校生>のおかげだ。
改めてそれを噛み締めて、葉佩を振り向くと、葉佩はとっくに窓から視線を離して取手を見ていた。
じっと見つめられて、居心地悪く身じろぎする。
「葉佩くん?」
「ん?…あぁ、いや、俺はこの時刻は嫌いだったのだが」
もう一度だけちらりと窓を見やり、眉を顰める。
「え…あ、ご、ごめん…」
「いや、君が謝ることではない。ただ、視線上に強力な光源が存在すると、敵を見極めるのが難しいのと、影が伸びて身を隠しにくい、というだけのことだから」
葉佩は軽く肩をすくめて淡々と述べ、少しばかり苦笑した。
「すまない、君にとってこの光景が美的感覚を刺激するものだということは理解するのだが、共感することは出来ないようだ」
この葉佩九龍、という<転校生>が、そういう人だ、ということは取手は薄々感じ取っていた。
葉佩にとって、この世界はデジタルな信号の塊らしい。
理性的、と言えば聞こえが良いが、右脳的な感覚というものを、とことん理解できないらしい。
わざわざ彼のクラスに行ってピアノを弾いたが、葉佩にとってはその曲に込められた想い、という類の抽象的なものは、感じ取ることが出来なかったらしい。
音楽ですら、葉佩にとっては、60db・157mHz・72/minという解析がなされる。
音楽家としては、実に不本意な捉えられ方ではあるが、取手は思うほど葉佩を嫌いにはなれなかった。
分かった振りをして適当に誉めておけば良いものを、取手の機嫌を損ねると理解していながら自分の特性を自己申告し、謝罪した葉佩を、好ましく思う。
クールな仕事人のようでいながら、実生活とか人間関係という面では、いささか不器用なのではないか、とほんの少し庇護欲に駆られたのも確かだ。
まあ、葉佩本人にとって、取手に嫌われようとどう思われようと、何の障害もない、というだけのことかも知れないが。
「落日、終焉、逢魔が時…夕刻、というのは、あまり良いイメージでは語られないな。君は、この光景のどこを、綺麗だと思うのだろうか?参考までに聞かせて貰いたいのだが」
至極真面目な顔で、葉佩は取手を見上げた。
台詞だけ聞けば嫌味のようだが、葉佩はそんなつもりはないのだろう。
取手としては、自分の感覚に好奇心を持ってもらえるのならば、それはなかなかに嬉しいことだと思えるが、葉佩にとってはただの状況分析に過ぎないのかもしれない、と浮かれる心を戒める。
「そうだね」
秋の夕日は釣瓶落とし。
もう光が弱まり半ば以上がビル群に沈んだ陽を眺めて、取手は、どう言えば分かり易いだろうか、と考えた。
「一日が終わる…それは確かに寂しいことだけれど、また太陽は昇るっていうか…あ、平和ボケした意見でごめん」
昔、漫画で、「明日太陽が昇るのを見ることを信じられるのは、自分が死ぬとは思っていない平和ボケした奴だけだ」という言葉があったのを思い出して、取手は長い手を振って謝った。
葉佩は今現在は高校生だが、普段は危険に身を置くトレジャーハンターなのだ。
結局夜のうちに死んでしまって朝日を見られなかった漫画の登場人物同様、明日の陽を拝めない、と思っている可能性がある。
だが、葉佩は怪訝そうに首を傾げた。
「何が?平和であろうが、戦場であろうが、同じように太陽は昇り、そして沈む。地球の自転は、そう容易く崩れたりはしない」
その返事に、思わず取手は吹き出した。
考えてみれば、太陽が昇るのを見られる、という感慨もまた、抽象的な捉え方であり、葉佩のように主観というものがほとんど見られない人間にとっては、地球の自転で説明できる客観的事象以上の存在にはなり得ないのだろう。
身を折って腹を押さえ、くつくつと笑う取手に、葉佩はますます首を傾げた。
「君は…おかしいね」
笑い声の合間にそう言ってから、これでは葉佩の異端と言っているようだと気づいて、慌てて釈明する。
「いや、その、おかしいっていうのは、楽しいっていうことだから。君の意見は…そう、君流に言えば、僕の感情を刺激するよ」
「そういう表現をされたのは、初めてだ」
気を悪くしたようでもなく、葉佩はむしろ感心したように頷いた。
「俺の意見は、どちらかというと、理性を刺激するらしいからな」
それから、さらりと続ける。
「そして、他人にとっては不愉快らしい。よく怒られたものだ」
それを、葉佩が寂しく思っているのか、悲しく思っているのか、そういうことは、一切分からない。
その言葉には感情が込められず、ただ事実を述べただけのようであったから。
取手は、笑いをこらえたせいで滲んだ涙を指先で拭いながら、思ったままのことを言った。
「そうかい?僕は面白いと思うよ。君といるのは、とても楽しいし」
「それはどうも…ありがとう」
その声音にやや困惑したような響きが混じっているのを感じて、取手は不安になった。
何かまずいことを言っただろうか?
この新しく出来た友人は、大幅な感情の揺れが無い分、気を悪くする、といった負の感情も見受けられないため、少しばかり自分は図に乗ってしまったのかもしれない。
葉佩に嫌われたくは無いのだが…どうすれば喜ぶ、というのも分からないため、取手は一層肩を丸めて、葉佩の顔を下から覗き込んだ。
「ごめん…気を悪くしたかな…」
「何故?俺は誉められたのだろう?気を悪くする要因は無いと思うが」
「うん…何となく」
いつも通りのどこかずれた答えを淡々と告げる葉佩に、取手はほっとして頬を緩めた。
葉佩はしばらく取手を観察するような鋭い視線を浴びせてから、その目を窓にやった。
「すっかり日が暮れたな。もう下校時刻は、とうに過ぎているだろう」
「そうだね…でも、一応、僕はまだ執行委員だから…一緒に出れば、大丈夫だと思う」
そうして、二人で連れ立って校舎を出ていく。
男子寮に着くまでのほんの僅かな時間に、あたりの色合いはオレンジ色から濃紺色へと変化していった。
部屋に帰るため階段の上がり口で左右に別れようとした時、葉佩がふと天井を見た。
取手も釣られて上を向いてから、何も無いので確認しようと葉佩を見ると、また観察するような目で取手を見ていた。
「何かあったかい?」
「いや…ここの照明もオレンジ系だと思って」
まあ、確かに階段の間接照明はオレンジ色だが。
それがどうかしたのか、と更に見つめると。
「先ほど、俺は、夕日は綺麗だとは思わなかったが」
「うん」
「夕日に照らされる君の顔は、綺麗だと思った」
がたり。
思わず足を滑らせかけて、慌てて手すりを掴む。
「普段の顔色が青白いので、オレンジが入ると好ましく見えるのかと思ったのだが…この照明では、あまりそうは感じないな。明度・彩度・色彩はほぼ同じだと思うのだが」
葉佩は不思議そうに首を傾げて、体勢を崩している取手に手を伸ばした。
震える手でその差し出された手を取ると、力強く引っ張られて、無事に廊下へと辿り着く。
何か言わなくては、と焦るが、心臓はばくばくと鼓動を打ち、頭は真っ白になって言葉の一つも出てこない。
葉佩はまだ不思議そうに取手の顔を見つめている。
「無論、俺とて美術品の鑑定眼はある。精密な細工や完全に対称な造形美、というものは理解できる。だが、こう言っては何だが、君の顔は<造形美>というのでは無いと思う。なのに、何故、俺は君の顔が綺麗だと思ったのだろう?」
まさしく穴が開きそうなほどに見つめられて、取手はようやく声を振り絞った。
「た、た、たぶん…その、光の加減が、ね、つまり自然の美しさって言うか、秋の夕日が美しいっていうのと勘違いしてるんじゃないかと…」
葉佩の片眉が、軽く上がった。
「俺はこれまで、秋の夕日に照らされた如何なるものにも心を動かされたことは無い」
「…そ、そう…じゃあ…何故だろうね…」
「うむ、不思議だ。まだまだ世の中には、数値に置き換えられない現象が、多々あるということだな」
葉佩は頷き、何事もなかったかのように手を挙げて別れの挨拶とし、去っていった。
残された取手は、逆方向に歩きながら、何度も反芻する。
僕の顔が、綺麗だって。
僕の顔に、心を動かされたって。
うわ、と取手は歩きながら口元を覆った。
どうしよう。
すごく、嬉しい…かも。
こうして。
夢想家と現実家の、恐ろしく擦れ違った恋愛が始まったのだった。