黄龍妖魔學園紀  雪の朝編




 朝、目覚めると、そこは雪国だった。

 葉佩は窓から外を見て、叫んだ。
 「雪ーーっ!すっげー!東京に雪が積もってるーっ!」
 まあ、「積もってる」と表現するのは誇大表現とジャロに訴えられそうな程度ではあったが、窓から見える景色は全て白で覆われていた。
 うきうきわくわくそわそわと葉佩は窓とベッドを何往復かした。
 それから、意を決して着替え始める。
 「ちょっと、外に出てくるねーっ!かっちゃんは、寒いから、寝てていいからっ!」
 葉佩に尻尾が生えていたならば、ちぎれんばかりに振っているのが見えることだろう。そんな想像をさせるほど、期待に目を輝かせた葉佩は、服を着てすぐさま部屋を出ていった。
 「はっちゃん…元気だね…もうちょっとしても良かったかな…」
 不穏な独り言は、誰にも届くことなく消えていった。



 葉佩はいったん部屋に帰ってコートとマフラーを持って出た。
 そして、とりあえずは寮の外に出てみる。
 「うぉおお!吐く息が白い!」
 日本人なら当然何度も出会っている現象であったが、毎年、最初に息が白く見える日は、何だか楽しくなってはーはーしてみる葉佩だった。
 今日は日曜日で、その上まだ早い時刻であったので、まだ誰も外に出ていないらしかった。
 んー、んー、と悩んだ挙げ句、葉佩はぱぁっと顔を輝かせた。
 ででででっと階段を駆け上がり、一つの部屋のドアをどんどんと叩く。
 「トトーっ!トトーっ!」
 しばらくして、ドアが内から開かれた。
 まだ眠そうに目をしばしばさせた留学生が、それでもきちんと手を合わせた。
 「オハヨゴザマス、我ガ王」
 「おっはよーっ!あのね、あのね!トト!雪!雪積もってんの!」
 うきゃーっと手を振り回して、葉佩は叫んだ。
 トトは、一瞬、自分の与えられた区画についての話かと思ったが、あまりにも目の前の『友』が興奮しているようなので、そうではなく別のことか、と思い直した。
 さて、一体、何のことだろう、と考えかけて、トトは思わずくしゃみをした。
 寒い。
 日本は寒い国だが、今朝は一段と冷え込む。
 トトが着ているのが薄いパジャマ一枚と気づいて、葉佩は慌てて部屋の中にトトを押し込んだ。
 「今朝は寒いんだよーっ!で、ね?外、見て、外!」
 押されるままに部屋に入ったトトは、そのまま窓まで押し込まれた。カーテンを開いて外を見て、息を飲む。
 「白イデス…」
 「そ!雪が降ったん!」
 「雪デスネ!凄イデス、東京デモ雪降ルデスカ!」
 「俺もびっくりさーっ!雪見てたらさ、トトと一緒に雪だるま作ろうって思って!」
 葉佩の興奮が移ったように、同じく声を大きくしていたトトが、きょとんと首を傾げた。
 「雪ダルマ…デスカ?ア〜エート…スノーマン?」
 「そ!作ろうよ!まあ、あんまりおっきいのは作れないだろうけどさー」
 トトの頭の中に、外国雑誌の挿し絵が思い浮かんだ。真っ白な雪の中、真っ白な雪人形が立っている楽しそうな絵。
 「作リマショウ!一緒ニ作ルガイイデス!」
 「よーっし!んじゃ、しっかりコート着て玄関に集合!」
 「ハイ、我ガ王!」
 出ていった葉佩を見送って、トトは着替え始めた。
 その途中にも、何度も窓を見る。
 真っ白で綺麗な世界。
 それを見て、自分を思い出してくれた葉佩が嬉しかった。
 この異国で、初めて自分に真正面から向き合ってくれた人。
 たとえ、それが『仲間外れは可哀想』という同情からでも、誘ってくれたことが嬉しかった。
 いそいそとコートを着込み、マフラーと毛糸の帽子、手袋をして、トトは玄関に向かった。
 だが、玄関口には葉佩の姿は無かった。
 他の人を呼びに行っているのかもしれない、とトトは思ったが、白い世界に誘われるように玄関の扉を開けて一歩外に出た。
 途端、昨日までとは比べものにならない寒さが皮膚を刺した。
 ぶるっと身震いしながら周囲を見回す。
 「あ、トト!早かったなーっ!」
 ぶんぶんと手を振りながら、葉佩が駆けてきた。
 手には拳大の雪の塊を持っている。
 「うーん、やっぱ1cmか2cmくらいしか積もってないんだよなー。昼には溶けちゃいそうだ」
 残念そうにこぼす葉佩に、トトは躊躇いがちに聞いた。
 「アノ…他ノ人ハ?」
 「へ?」
 きょとんと葉佩は首を傾げた。それから、目を大きく開いて、トトに聞き返す。
 「え、ひょっとして、他の奴と雪だるま作りたかった!?それとも雪合戦の方が好みだったり!?」
 あれ?とトトも首を傾げた。
 「アノ…我ガ王。ヒョトシテ、雪ダルマ誘ッタノ僕ダケデスカ?」
 「うん。雪ーっ!雪だるまーっ!トトーっ!みたいな連想でさー」
 がーっとまっすぐ指さして、葉佩はてへっと笑った。
 それから、んー、と首を傾げて寮を見上げる。
 「何なら、これから他の連中、叩き起こして来ようか?大勢の方が楽しいかもしんないけど…あんまり量が無いからなー」
 すでに玄関の方に向かいかけている葉佩を、慌ててトトは制止した。
 「イイデス!我ガ王ト二人デ作リマス!」
 「そう?んじゃ、作ろっか!」
 にへっと笑って、葉佩は雪の塊を差し出した。

 「ホントはさ、こーゆーの作ってから、地面で転がすんだ。したら、だんだん大きくなるんだけどー」
 葉佩はしゃがみ込んで雪玉を転がした。
 薄い雪がめくれて土が表面を覆っていく。
 茶色になった雪玉に溜息を吐いて、それをぽーんと投げ捨てた。
 「雪の量が少ないからなー。ちょっとコツがいるんだよ。植え込みの上とかー、車の上とかー、コンクリートの上とかの、綺麗そうな雪を掻き集めて、ちょっとずつ丸めていくん」
 葉佩は雪の少ない地方出身である。なので、ちょっとでも雪が降れば嬉しくなるし、少ない雪で綺麗な雪だるまを作るのも得意であった。
 トトと連れだって、綺麗そうな部分を掻き集めていく。
 ようやく30cmほどになった雪玉をずっと両手で捧げ持っていたトトが、
 「手ガ冷タイデス…」
 と呟いた。
 「うわっとぉ!そだね、気が付かなくてごめん、トト!ちょっと待ってて!」
 トトの手を見た葉佩が慌てて走っていく。
 帰ってきたときには、どこから調達したのやら、一輪車の上にブルーシートを広げて持ってきていた。
 温室か体育用具室あたりだろうか。色んなところの鍵を持っていることに、トトは単純に感心した。
 シートの上に雪玉を置いて、校庭中をうろうろする。
 そのうち、走り回って体がぽかぽかしてきたトトは、ふーっと息を吐きながらマフラーを外した。
 葉佩もマフラーを外して、適当にコートのポケットに突っ込みながら、んー、と首を傾げる。
 「あと、雪が残ってそうなところは…あ、そうだ!」
 次に続けた言葉に、トトは眉を寄せた。 
 「ソコハ…エート、オイシクナイ、デスカ?」
 「へ?美味しくない…あ、まずいってこと?…うーん…大丈夫、大丈夫っ!」
 明るく言って、一輪車を両手で押しながら走っていく葉佩の後を追いながら、トトは気遣わしげな声を上げた。
 「デモ…!怒ラレル思イマスヨ!」


 天香学園生徒会長・阿門帝等は、朝のジョギングを終えくつろいでいた。
 千貫の差し出したミルクを飲みながら、ふと窓の外に目をやる。
 阿門の見開いた目に気づいて、千貫も同じ方向を見やった。
 庭の木で、蠢く影があった。
 阿門はソファから立ち上がり、つかつかとテラス戸を開いてベランダに出た。
 「…何をしている」
 「あ、あーちゃん、おっはようっ!」
 木の枝に跨った<転校生>が、無邪気に手を振って答える。
 「あぁ、おはよう」
 思わず手を振り返してから、阿門はこめかみを押さえた。どうもこの転校生相手では調子が狂う。
 「そうではなく、だ。何をしている、と聞いた」
 不機嫌な声にも動じることなく、葉佩はにこにこと笑いながら下を指さした。
 釣られて下を見ると、おろおろしながら一輪車の柄を持っているトトがベランダを見上げていた。
 「オ、オハヨゴザマス、会長」
 「うむ、おはよう」
 挨拶されると思わず返してしまうのは、礼儀にうるさい執事の教育の賜物だ。
 己の条件反射に頭を痛めつつ、阿門はトトが持つ一輪車の中身を見た。
 白い塊が二つ。1つは直径約50cmで、もう一つはそれよりやや小ぶりだ。
 それが雪だるまのパーツであることは推測可能だが、何故葉佩が木登りしているかについては分からない。
 そう思っているうちに、葉佩は器用に隣の木に移っていた。そして、枝に乗っている雪を掻き集めていく。
 「トトー、いっくよー」
 「ハイ、我ガ王!」
 おろおろしながら阿門を見上げていたトトが、慌てて葉佩の下へと移動する。
 そして落とされてきた雪を一輪車で受け止めて、雪玉へとくっつけていく。
 なるほど雪玉制作中か、と阿門が見ていると、葉佩がベランダを見て、にへらっと笑った。
 「ね〜、あーちゃん!そこも結構、綺麗な雪あるね!」
 「む…」
 手すりの上やベランダの床部分には、確かに土に汚れていない雪があるが。
 「頂戴!」
 あっさり言って、葉佩は両手を差し出した。
 阿門の中で、葛藤が起きた。
 ここで雪を集めてトトに落としてやることが、生徒会長としての度量か?それとも、威厳を損なう行為なのか?
 肝心のトトは、気遣わしげな目で葉佩と阿門を交互に見るばかりだ。会長は尊敬しているが、葉佩も大事な友人であり、どちらに付いて良いのか分からないらしい。
 差し出した手を凝視するばかりで動く気配のない阿門に業を煮やしたのか、葉佩がコートの中をごそごそと探った。
 「じゃーん!ワイヤーガン〜!」
 ド○えもん口調で言いながら取り出したものをベランダに向ける。
 咄嗟に戦闘態勢に入った阿門から、少し離れた手すりにワイヤーを発射する。
 そして、気軽にからからからっと滑車を使ってベランダに降り立った。
 「てことで、雪、頂いて参りま〜す!」
 「…誰が勝手に持っていって良いと言った」
 「え〜?あ、やっぱ、あーちゃんも一緒にやりたかった?もー、それならそうと言ってくれればいいのに〜」
 「誰がか!」
 「ほい、じゃ、これトトんとこ持ってってねー!俺は、ちょっと屋根の上の雪を集めてくるからーっ!」
 「…いや、待て!」
 手すりから集めた雪を手渡されて、阿門が目を白黒させている間に、葉佩はひょいっと雨樋を伝って屋根の上へと登っていった。
 「うわお、大漁〜!」
 嬉しそうな声が響いてくる。
 阿門は、自分の手の上で溶けかけている塊を見つめた。
 更に、下で心配そうに見上げているトトを見た。
 ふーっと一つ溜息を吐き、室内へと入る。
 そこには、何かと気遣いの細かい執事が、コートとマフラーと手袋を持って待ち構えていた。
 「坊っちゃま、これを」
 「…いらん」
 「いいえ、お外は寒うございますから。…懐かしゅうございます、ご幼少のみぎりに大きな雪玉を作られ、大きすぎて持ち上げられないと泣かれた日のことを思い出します…」
 「…思い出さんでいい!」
 言いながらも、結局防寒3セットを着せられた阿門だった。
 
 阿門が外に出ていくと、トトが一輪車を手に右往左往していた。
 「いっくよー!」
 「ハイ、我ガ王!」
 屋根の上から次々に落とされる雪の塊を一輪車で受けていく。
 まるで携帯用ゲームを思い出させる動きだった。
 それがしばらく続いてから、上から葉佩自身が降ってきた。
 「おー!あーちゃんもやる気満々だなっ!」
 親指をびしっと立てられて、阿門は顔を顰めた。
 何も言わずに屋敷に入ろうとしたところを、葉佩がコートの裾を掴む。
 「え〜、一緒にやろーよー。あともうちょっとなんだしさー。トトに日本風雪だるまを見せようよ〜」
 子供が駄々をこねる口調でコートの裾をぶんぶん振られて、阿門の額に青筋が立った。
 ゆっくりと振り返り、威圧的に言い放つ。
 「何故、俺がそのようなことをせねばならん」
 「それは、ここがあーちゃんちだからでぃっす!」
 「…そもそも、誰がここに入って良いと言ったか!」
 「はーい!不法侵入でーっす!いーじゃん、雪泥棒に罪は無いって言うしー」
 「言わん!」
 葉佩の方は、阿門の怒りを受けても全く気にした様子は無かったが、トトはひどく恐れ入って両手を揉んだ。
 「ア…アノ!我ガ王は悪クナイデス!僕ノタメニ雪ダルマ作ル言ッテクレマシタ!」
 阿門と葉佩が振り返る。
 「…いや、雪だるまを作ること自体を責めているのでは無い」
 阿門がトトが謝るのを制するように手を挙げた。
 その横で、葉佩がけろっとした顔で両腕を頭の後ろで組む。
 「そーそー!トトは気にしなくていーの!俺がここに来るって言ったんだからっ!」
 「貴様はもう少し気にしろっ!」
 「え〜なーにを〜?」
 わざとやってるのでは無いかというくらいのんびりと言った葉佩が、不意にしゃがみ込んで石を拾い上げた。
 黒く平べったいそれを目の前に掲げて、目をきらきらさせる。
 「ね、あーちゃん!これって目にぴったりだと思わねー!?」
 「もう少し丸い方が…いや、そうではなく、だな」
 「あ〜、丸さ!そうだなー、これじゃ怒ってる雪だるまだよなー」
 うんうん頷いて、葉佩はそれを放り投げた。
 そして、トトへと歩み寄り、一輪車の中の雪玉を覗き込む。
 「どーする?もう校内の雪はあらかた集めちゃったから、雪だるまに変形合体!の頃合いだと思うけど〜…寮まで帰る?それとも、いっそここに作っちゃう?」
 「何故ここに!」
 背後で阿門が突っ込んだが、全く無視して、葉佩はトトを見上げた。
 「寮の玄関横に置くのも良いけど、悪戯されそうだし、溶けていくのを見るのも切ないもんだしねー。ここに置くのも風情があって良いかなーとか思うんだけど」
 「エ…」
 トトは雪玉と葉佩と阿門を交互に見た。
 こののっぺりした雪玉に顔を付けて雪人形を作る。外国雑誌の挿し絵では、背景は真っ白い雪景色だが、寮の横ではすでに土が見えていて、如何にもすぐにぐずぐずに溶けそうだ。
 ここは、庭に雪が残っていて、しかも木々がバックにある分、絵になっていると思う。
 問題は…敬愛する生徒会長が青筋を立てているということについてだが…。
 だが、東京で雪だるまが作れるほど雪が降るのは珍しい、ということをトトも知っている。エジプトに降るよりは確率が高いかも知れないが、それでも、この機会を逃せば、もう二度と葉佩と雪だるまを作ることは無いかもしれない。
 トトは、ぎゅっと手を握って、阿門を見つめた。
 「ア、アノ…ココニ雪ダルマ置カセテ下サイ…」
 阿門の表情がくるくると変わる。どうやら葛藤しているらしい。
 だが、最終的には『度量の大きい生徒会長』が勝ったらしく、阿門は重々しく頷いた。
 「…許可しよう」
 「きゃーっ!あーちゃん、愛してる〜!」
 そうして飛びついた葉佩の体を支える顔は、満更でもなさそうだった。

 庭の木の陰になる位置に、大きな雪玉を置き、その上に小さめの雪玉を乗せる。
 「エト…目トカ口トカ付ケルデスヨネ?」
 「そー、ちょうど良さそうな石を探そうね!あーちゃんも…あれ?」
 にこにこと笑いながら振り返った葉佩は、阿門の姿が無いことに気づいて首を傾げた。
 ぶぅっと頬を膨らませて文句を言う。
 「ちぇー、あーちゃんもやれば良いのに〜、付き合いわるーい」
 威厳に満ちた生徒会長が雪だるまの顔を作っている光景を想像したトトは、それが現実となら無かったことに密かに胸を撫で下ろした。
 それから二人で石や木を集める。
 付き合わせて似通った形の石を目にすることに決定して、目と眉を雪だるまに埋め込むと、それだけでただの雪玉が人がましく見えてきた。
 木の枝を刺して両手を作ったところで。
 玄関の扉が開閉する音に、葉佩は振り向いた。
 黒いコートに身を包んだ阿門が無言でずかずかと歩いてきて、やはり無言でポケットから手を出した。
 そうして、取り出した人参を無言で雪だるまの鼻の位置に突き刺し、やはり無言で去っていこうとしたところで、葉佩に抱きつかれた。
 「うわぉ!あーちゃん、ありがとーっ!」
 ひたすら無言で振り払おうとする阿門の耳は、真っ赤に染まっていた。
 ちょっと生徒会長に対する尊敬の念が揺らいだトトが悩んでいる間に、葉佩が両手を腰に当てて叫んだ。
 「よっし、完成!」
 心なしか、阿門の青筋も満足そうだ。
 トトはなるべく阿門から目線を外して、雪だるまを見つめた。
 「コレガ…雪ダルマデスカ…」
 真っ白い二つの雪玉が日差しを浴びてきらきら光っている。突き出した人参の鼻と、きりっと上がった黒い眉と目がユーモラスだ。
 「んー…何か足りない気もするんだけどな〜…」
 ぶつぶつと首を捻っている葉佩の背後から穏やかな声が掛けられた。
 「よろしければ、これを…」
 「はい…って、マスター!うわぉ!これだよ、これ!!ありがと、千貫さん、愛してるぅ!」
 葉佩は千貫の差し出したものを受け取って飛び跳ねた。
 そのまま、てててっと走って、雪だるまの頭に、赤く小さなプラスチック製のバケツを置き、小さな緑色のミトン型手袋を木の枝に付けた。
 「これで、ホントに完成〜!」
 「それはよろしゅうございました。あぁ…思い出します…坊っちゃまがご幼少のみぎり、よく遊ばれていたバケツとスコップ…それにこの緑の手袋をたいそうお気に召しておいでで、一時期はお部屋の中でも外さずにおられました…取っておいた甲斐があったというものです」
 「…言うな、厳十郎…」
 黒い皮の手袋をつけた手で、阿門はこめかみを揉んだ。この執事は実に有能であったが、未だに彼を小さな子供のように扱う時がある。
 一応宿敵である<転校生>の前で、「ご幼少のみぎり〜」などと言われてはたまったものではない。
 「かーわーーいい〜vvv」
 葉佩はけらけら笑って、雪だるまに付けた緑の手袋をちょんとつついた。
 それから振り返って、千貫に手を合わせる。
 「ねー、カメラあるかな、カメラ!記念写真撮りたい!」
 「はい、少々お待ち下さいませ」
 にこにこと良いように扱われている己の執事にもう一度こめかみを押さえて、阿門はそのまま後を付いて屋敷の中に入ろうとした。
 が、葉佩がしっかりとコートの袖を掴んでいたため叶わなかった。
 「…おい」
 「あーちゃんも記念写真〜♪」
 「何故、俺が」
 「トトのパパに写真送るんだよー?これが僕の通う高校の生徒会長ですって顔を見せて上げた方が安心するじゃんか」
 正論なような気もするし、何かが激しく間違っている気もする。
 どう言えばよいのか阿門が悩んでいる間に、千貫がカメラを手に戻ってきた。
 「わたくし愛用の品でございます。これで坊っちゃまのお姿を記念に残しております」
 立派な一眼レフを掲げて千貫は穏やかに微笑んだ。
 「はーい!じゃ、トト!まず、トトと雪だるま!」
 「エ…ハ、ハイ」
 トトは促されるままに、雪だるまと並んで立った。
 少し緊張した顔を見て、葉佩がカメラの横で踊ってみせる。
 思わず吹き出したトトを、千貫がぱちりとカメラに収めた。
 「はいはーい!次、俺!」
 駆け寄る葉佩に、トトは場所を譲り渡そうとしたが、がしっと葉佩に掴まれた。
 「どこ行ってんのさ!はい、一緒にね!写真の題は『雪だるまを作った友達と一緒に』って感じ?」
 「ハ…ハイ、我ガ王!」
 雪だるまの背後に二人並んで、葉佩は思い切り笑ってピースした。トトも先ほどと違い、僅かながらも心底からの微笑みを浮かべてレンズを見つめた。
 フラッシュに目を瞬かせている間に、葉佩がててっと走っていき、阿門の手を引いて戻ってきた。
 「はい、次は、『敬愛する生徒会長と』!」
 「…ふん…」
 阿門は不本意そうではあったが、あえて抵抗はせず、苦虫を噛み潰したような顔で雪だるまの横に立った。
 「会長…アリガトゴザマス」
 何だかんだ言って、面倒見の良い生徒会長に心から感謝して、トトは両手を合わせた。
 「はい、いきますよ」
 千貫の穏やかな声に、トトは背筋を伸ばした。きっと、父は安心してくれるだろう。自分に共に写真に写る友がいること、それに良き長がいることを知って。
 トトと阿門が写真に収まるのをうずうずと待っていた葉佩が、駆け込んでくる。
 「じゃ、最後に3人で〜!『3人で雪だるまを作りました』!」
 阿門とは反対側に回って、トトを中心にして3人並ぶ。
 トトは、先ほどからのフラッシュでチカチカする目を見開いて、微笑んだ。
 カメラのレンズの奥に父の姿を見る。
 写真が出来たら、手紙を書こう。
 僕には、雪だるまを一緒に作ってくれる友達がいます。
 そして、不本意そうながらも、それでも手伝ってくれる会長に仕えています。
 日本の生活はとても楽しいです。安心して下さい。
 そう心の中で語りかけたトトの顔は、とても幸せそうだった。

 「じゃーね、あーちゃん、千貫さん、ありがとーっ!」
 屋敷の中で温かなミルクを御馳走になり、ついでに昼食までたかって、葉佩とトトは阿門邸を辞去した。
 最初は不法侵入のはずだが、葉佩に気にした様子は全く無い。
 まあ、小さな頃から閉鎖的な空間で育って、ちょっと隣の家に勝手に入り込んで『味噌借りていきます』の書き置き一つで味噌を拝借していくことなど日常茶飯事な生活を送ってきたため、テリトリー意識ってものをあまり理解していない、というのもあるのだが。
 俺の物は俺の物〜的なジャイアン思想ではなく、単に『それを役立てる人が所有者』という生活共同体思考が身に染みついているのである。
 ちなみに、黒板消しやカーテンを持っていくのもその延長である。まあ、黒板消し的に、黒板を消すのと化人に投げつけられるのと、どちらがより役立っているのかは、ちょっと考慮の余地がある問題だが。
 そんなわけで、葉佩の感覚では、阿門の屋敷に勝手に入って色々と物色するのは、特に罪の意識を感じる行為では無い。堂々としたものである。
 見つかって摘み出されるのも、またゲーム感覚の一種。
 今度はあの居間にあった壷を貰っていこうか、穀物入れに良いかもしんない、とスキップしながら帰る葉佩に、トトが改まって口を開いた。
 「アノ…我ガ王」
 「はいよー」
 「今日ハアリガトゴザマシタ。楽シカタデス」
 「うん、俺も楽しかったよー!」
 本当は、もっと色んなことを言いたかった。
 これまで、誰も声をかけてくれなかったこと、自分だけを誘ってくれて嬉しかったこと、会長が予想外に世話焼きなこと、少し驚いたが親しみが湧いたこと、それもまた葉佩のおかげだということ…。
 だが、葉佩は、トトが感動していることなど全く気づいていないらしく、極々普通の態度である。
 葉佩にとっては、それは当たり前のことで、特別に感動すべき事柄では無いのだろう。
 であれば、自分もまた、それを普通の事柄と受け止めよう。
 今日は「特別」であったけれど、『普通』であるように振る舞おう。
 「デハ、マタ今度」
 「うん、まったねー!」
 トトはさりげなく「また今度」と口にし。
 葉佩もまた、それが当然であるように「またね」と答える。
 あぁ、それで良いのだ。
 これが日常であるなんて、何て素晴らしいんだろう。
 トトはあまねく神に感謝し、葉佩と別れた。
 部屋に帰ったら、父に手紙を書こう。
 これまで送った、報告書のような薄いものとは違う、分厚い手紙を。



 葉佩は鼻歌を歌いながら階段をスキップして上がっていった。
 「ふんふふん♪ふふんふんふふ…ふん?」
 ふと目を上げると、3階の踊り場で立っている長身の人が目に入った。
 「かっちゃん!」
 大好きな人を見つけてにこにこと3段飛ばしで駆け上がった葉佩だったが、取手に肩を掴まれて、一瞬笑顔が凍った。
 対照的に、取手はゆっくりと微笑んだ。
 目は、全く笑っていなかったが。
 「楽しそうだね、はっちゃん」
 「あ…あはは、あははは、ち、ちょっと、その、雪だるま…をね?そ、その、外は寒かったし、まだ早かったから、かっちゃんは寝てた方が良いかな〜みたいな〜…」
 「へぇ…そうだね、まだ早い時間だったね…」
 わざとらしく、取手は自分の腕をかざして腕時計を確認した。
 午後2時。
 出て行ってから8時間近くが経過していた。
 えーと、かっちゃんと何か約束してたっけ?と葉佩は慌てて頭の中のメモをひっくり返したが、特に予約は思いつかなかった。
 …が。
 取手は微笑みを顔に張り付かせたまま、葉佩の手首を掴んで力強く歩き始めた。
 「せっかくの日曜日…あぁ、でも、まだまだ明日が来るには早いよね?」
 「そ、そ、そ、そうですね…はは…あははは…」
 取手は、自室のドアの前で、一度振り返った。
 相変わらず唇だけ釣り上げて、低く言う。
 「もちろん…残りの時間は、僕と『遊んで』くれるよね?」
 葉佩の頭の中で、逃げ道の選択肢がばばーっとスクロールされた。
 が、逃げればそれだけ後が辛い、というシミュレーション結果に、ひきつった笑みを浮かべた。
 「も、もちろん、一緒に…うん、その…明日まではゆっくり…出来ますね、はい…」
 「…嬉しいよ、はっちゃん…」
 そういうことは、もっと明るい声で言って欲しい。
 地獄から吹く風のような言い方をしなくても、と葉佩は思った。
 まあ…そんな声を聞くと、背中がぞくぞくして感じてしまう自分も、たいがいどうかしているのだが。


 ぱたん、がちゃ。


 日曜日の午後2時。
 取手鎌治の部屋のドアは閉ざされた。







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