黄龍妖魔學園紀 ジャパンカップ編
ある日曜の朝。
葉佩は寮の食堂で朝食を済ませてから、談話室あたりをうろうろしていた。
「…何やってるんだ?九ちゃん」
「あ、おっす、甲ちゃん、おっはよー」
「あぁ、おはよう」
新聞を読んでいた皆守の隣に座り、テレビ欄を覗き込む。
「うーん…皆が好きそうな番組は無いけど…あぁ、でもこのサッカーの試合なんか見そうだよなぁ…」
ぶつぶつと呟く葉佩に、皆守はちらりと目を上げた。
唇に指を当てて、悩んでいるらしい葉佩が、ふと振り向く。
「ねー、甲ちゃん、テレビ持ってない?」
寮の談話室にテレビはあるが、もちろん全員共有のため、熾烈なチャンネル争いが繰り広げられる。それが面倒だと言う人間は、自室に個人的にテレビを持ち込んでいた。
「いや…普段あんまりテレビなんざ見ないしなぁ」
くだらない番組を垂れ流すくらいなら寝てる方がマシという意見の皆守は、テレビを持ってはいなかった。たまーに、カレー特集がある時なんかに談話室のテレビを利用するくらいだ。
ちなみに、普通ならそんなマイナーな番組を見る人間は少ない=チャンネル権は獲得しがたいのだが、その辺は根回しというか搦め手というか。
皆守のそんなちょっぴり後ろ暗い部分には全く気づいていない葉佩は、あっさり納得して頷き、腕を組んだ。
「俺も持って無いんだよねー。だいたい見る暇無いし。うーん、誰が持ってるかなぁ…」
ぶつぶつとバディの名前を挙げていく。
女性陣は持っていそうな気はしたが、女子寮に行くのはちょっと…、と男の顔を思い浮かべる。
「すどりんは絶対持ってそうなんだけど…でも部屋に行くのはちょっと怖いしなー」
ファッションチェックやコスメの情報にテレビは欠かせないだろうが、朱堂の部屋にテレビを見に行くのは身の危険を感じる。
「かっちゃんは微妙…電子ピアノやコンポだけで一杯だもんなー」
取手の部屋を思い浮かべて、テレビらしきものを見た記憶が無いことに気づいて、葉佩は頭を抱えた。
「剣ちゃん持ってるかなぁ…持って無いよなぁ…砲ちゃんに聞いてみようかなぁ…」
うーんうーん、とソファで唸っていると、ひょいっと覗き込む影があった。
「どうした?九龍」
「あ、夕ちゃん、おはよー」
「あぁ、おはよう。どうした?朝から新聞と睨めっこして。面白い記事でも載っていたか?」
「ちゃうよー。テレビ誰か持ってないかなーって」
ソファに埋もれるような姿勢で葉佩はだらしなく足を投げ出した。
「俺じゃなくて緋勇さんが見たがってるんだけどね。さすがに不特定多数の人間の前には出られないけどテレビ見たいって言ってんの。で、誰か知り合いで持ってないかなーって」
「緋勇さん?」
「…あ、夕ちゃん、知らなかったんだ…」
んべっと緋勇は舌を出した。
何だか仲間たちには緋勇の存在はばればれで、緋勇自身も隠れる気があまり無いらしく結構無造作に出てきているので、隠さなくては、という意識が薄れていた。
本当なら困るのは葉佩のはずだが、その辺は性格で、何だかナチュラルにスルーされてるからまあいっかーみたいな気分になっていたのである。
「夕ちゃんなら、ばれてもいっか。俺が困るようなことしないだろうし」
うんうん、と頷く葉佩に、夕薙が何とも言えない苦笑を漏らした。
「ふむ…信用してくれてありがたいが…俺は、誰も信用するな、俺のこともだ、と忠告した覚えがあるんだがな」
「あ〜、聞いたねー。でも、信用しちゃうけどねー」
にへらっと笑って葉佩は夕薙を見上げた。
隣では皆守がこれ以上は無いくらい陰鬱な雲を背負っている。
「大丈夫だよー。これでも自分の見る目に自信があんのっ!夕ちゃんなら大丈夫っ!」
びしっと親指を立てた葉佩に、夕薙はまた苦笑して顎を撫でた。
「君のそんなところは羨ましくもあるし、怖くもあるな。そんなに無防備に他人を信用するものじゃない」
「裏切られて死んだなら、そこまでの人生だったってことさぁ。良いよ、疑心暗鬼でつまらない人生送るより、皆に愛を振りまいて楽しく生きる方が幸せだからっ!」
よいしょっとソファに座り直して、葉佩は首を傾げた。
そして、隣の皆守を覗き込み、人差し指でちょいっとつついた。
「甲ちゃん、凄い眉間の皺〜。爺ちゃんになっちゃうぞっ!?」
「…余計なお世話だ」
「ありゃテンション低い?…どしたの?何か俺、悪いこと言った?」
うーんうーん、と会話をリピートしているらしい葉佩から逃げるように、皆守はすくっと立ち上がった。
「単にまだ眠いだけだ。じゃあな」
「もう10時なんだけどなー」
返事もせずに出ていく皆守を、きょとんとした表情で見送った葉佩は、教えを請う顔で夕薙を見上げた。その頭をくしゃくしゃと撫でて、夕薙は皆守が立ち去った方向を見つめる。
「まあ…甲太郎にも色々あるんだろう」
「うんまあ、何にも言ってくれないけどね。ま、言って貰っても、何が出来るってんじゃないけど」
ちょっと寂しそうな顔になった葉佩だが、すぐに夕薙を見上げてにへらっと笑った。
「で?夕ちゃんはテレビ持ってる?」
午後三時。
夕薙の部屋は満員御礼だった。
「ふむ…俺は葉佩と緋勇さんとやらは招待した覚えはあるが、それ以外の人間が来るとは聞いていなかったんだが」
バラバラなカップにコーヒーを入れながら、夕薙はどこか楽しそうに言った。
テレビの正面という良い席には緋勇が座り、その隣に葉佩がちょこりと座っている。
更にその隣の狭い空間に、どちらが座るかで皆守と取手が牽制し合っていた。
「すみません、夕薙さん」
「全然すまなさそうに聞こえんのだが」
「うるせぇ、大和。こういうのは大勢の方が良いんだ」
「…競馬を見るのが、か?」
くくっと喉で笑って、夕薙はカップを皆守に差し出した。
皆守と取手とが、夕薙の部屋に葉佩と緋勇が来るのを嫌がって邪魔しに来た、ということくらいはすぐに知れる。
葉佩単独ならともかく、保護者付きで部屋に来ているものをどうにかすると思われているのなら些か心外だが、と夕薙は思った。
まさか二人同時に相手をするなどと思われてはいるまい。それならそれで男としては光栄だと言うべきなのかも知れないが。
結局皆守が葉佩の隣に座り、取手はのっそりと移動して緋勇の隣に座った。
男四人がベッドにぴったりくっつき合って座っている様子は、一種異様な雰囲気があった。
まあ、テレビの位置と部屋の広さから言って、そうせざるを得ない、という側面もあるのだが。
緋勇が笑いながら取手に何か囁いた。耳を赤く染めて俯く取手を、葉佩がちらりと見る。
四人にカップを渡し終えた夕薙は、机の前のイスを引きずってやや離れた場所に座った。競馬に興味は無いが、一人で別のことをするほど付き合いは悪くない。
リモコンでチャンネルを変える緋勇に、葉佩が不思議そうに言った。
「緋勇さんが競馬好きなんて知らなかったなー。全然スポーツ新聞なんかも読まないし、馬券買ってるようでも無かったしさー」
緋勇は、横目で葉佩を見て、またすぐに前を向いた。
「まあ、競馬一般に興味があるわけでは無いからな」
その素っ気ない言いぐさに、葉佩は首を傾げた。緋勇と暮らし始めて早三ヶ月足らず。何となくだが緋勇の性格も掴んできた。その経験からするに、これはどうも照れている時の反応なのだが。
競馬を見るのが照れるって何だろう、恥ずかしい趣味ってことは無いよな、あぁ親父臭いってんで隠したいんだろうか、と自分に納得させてみた。
テレビ画面には見事なサラブレットがパドックを回る様子が写り、その合間に有力候補の簡単な紹介がされていた。
「僕は、競馬見るの初めてだけど…馬ってこんなに綺麗な動物だったんだね」
取手が感心したように言うように、500kg前後の体を支える細い足は、見ようによっては繊細過ぎて怖いほどだったが、その四本の足で駆けていく様子は確かに美しいの一言であった。
「ま、人間の都合で作られた経済動物だからな。外見も見目良く出来ているのさ」
どこか怒ったような調子で緋勇は答え、画面の中のサラブレットを見守った。
漆黒、青毛、尾花栗毛、芦毛…様々な毛色の馬たちが一頭一頭映し出されていく。
「で、何か?これは大きなレースなのか?」
テレビ欄を見ると、3チャンネルで放送されている。それなりに大きなレースなのだろう、と皆守は見当を付けて聞いてみた。特に興味があるわけでもないが、どうせ見るなら少しは分かっていた方が良い。
「まあ…有馬記念に比べれば小さいが…いや、天皇賞も上になるのか?…えー、競馬のレースには格付けがあって、これは最高ランクのG1レースなんだが、ジャパンカップというだけあって世界の強豪も招待してレースをするんだ。日本馬も世界に通用する、と言いたいがために作られたレースなんだろう」
「へー。それで騎手も日本人以外が乗ってるのが多いんだー」
葉佩は感心してテレビを見つめた。
だいたいどんなレースかは分かった。ただ、何故今回に限って緋勇が見るのかは分からなかった。
各馬がゲートに向かう。
その間を利用して、本日あったらしい他のレースの模様が差し挟まれた。
「お、村雨氏の馬が勝ったのか」
興味深そうに呟いた夕薙に、葉佩が振り返る。
「何?夕ちゃん知ってる人がいたんだ?」
夕薙は顎を撫でながら少し遠い目になった。
「いや…アメリカにいた頃にな、日本人なのにアメリカに牧場開いて馬主になって、しかもよく勝ってる男がいてな。ちょっとしたラッキーボーイとして一時期有名になったんだ。俺も、同じ日本人がこんなに頑張ってるってことで記憶に残ってるのさ」
「へー、凄い人がいるんだー」
「…運が良いだけだ」
吐き捨てるような口調に、葉佩は首を竦めた。苦々しい言い方だったが、やはりどこか照れが混じっている気がする。こう言うときには突っ込まないに限る。
だが、そんな葉佩に気づかない夕薙は、緋勇に諫めるような言い方をした。どうやら葉佩と同い年…つまり自分より年下と思っているらしい。
「そんな言い方は無いだろう。運も実力のうちってな。実際、アメリカにいた日本人は随分勇気づけられたもんさ」
「…ふん」
ゆらりと立ち上った殺気に似た気配に、さすがに夕薙もこれ以上はまずいと判断したのか話題を変える。
「さっきのジャパンカップダート…だったか?あれもG1と表記がされていたようだが…優勝賞金はいくらになるんだ?」
「約1億ってとこだろう。実際馬主に入るのは八割だが」
「ひえええええ!1億!!」
葉佩が素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「い、い、い、1億っていうと、1千万の10倍!100万円の100倍!10万円の1000倍!」
「…小学生の算数じゃないんだから…」
「だってだってだって、すっげぇじゃん!1億!1億なんて金、天上の数字だよ!うわーうわーそんなに儲けて何すんだろー!」
「そりゃ、牧場設備に投資したり、従業員に給料払ったり、次の馬を作るべく種馬や肌馬を買うんだよ。高い肌馬なら1億なんて軽く吹っ飛ぶ」
「うぎゃああ!想像つかねぇっ!!」
隣で転げている葉佩をちらりと見て、緋勇はまたテレビを見た。
ファンファーレが鳴って、もう発走、というところで、「やかましい!」と葉佩の頭に拳骨を落とした。
しくしく泣く葉佩の頭を皆守が撫でてやる。
「えーん、甲ちゃーん!」
「あぁ、はいはい」
皆守にしがみついた姿勢で、葉佩もテレビの画面を見た。
よく分からないが馬が走っている。
真剣な表情で画面を見ている緋勇の顔を見て、小さく聞いてみる。
「えーと、緋勇さん、どの馬を応援してんの?」
「スザク。あの赤いメンコ…えー、マスクの栗毛の馬だ」
「…あの馬、ちょっと、他の馬より小柄に見えるけど…」
「あぁ、牝だし…確かに少し小柄だが。だからスザクなんだが…いや、こっちの話だ」
意識はテレビに向いて上の空なのが見え見えな口調で呟いてから、ふと気づいたように緋勇は口を閉じた。
それきり皆、無言でテレビを見守る。
競馬を見ること自体初めてという連中ばかりである。馬の名前を聞いてもさっぱり分からないので、何となくその「スザク」を心の中で応援する。
最後のコーナーを曲がったところで、まだその栗毛の馬は中団にいた。
だが、直線に入ったところで、逃げていた馬がどんどん失速し、外に出たスザクがぐいぐいと馬群を縫って前に出る。
そして。
「一馬身!一馬身の差を付けて、スザク!スザクです!何と!このジャパンカップを、三歳牝馬が制しました!牝馬四冠のみならず五冠目!この馬は本当に強い!二着にはアメリカより参戦のギャンブルマスター!」
皆がふぅっと溜息を吐く。
よくは分からないが、それでもそのレースを見て馬が駆ける様子は本当に美しい、というのだけは理解した。
そんな中。
「…あの野郎…ワンツーフィニッシュか…」
苦々しげに呟いた緋勇に、夕薙が眉を上げた。
テレビ画面には、優勝したスザクがゆっくりとレース場を一周する様子が映されていた。
「へー、競馬ってのも、まあ面白いかもな」
「綺麗だったね…栗毛って言ったっけ?金色みたいに見える毛色だね」
「ほえー、これも1億くらい賞金があるのかなー」
肩の力を抜いて何やかやと話を始めた三人をよそに、緋勇だけがまだテレビを見守っている。
「さあ、ここで馬主の村雨祇孔氏にお話を伺いましょう。何と村雨氏は本日のジャパンカップダートもイエロードラゴンで制し、ジャパンカップは一着二着を独占、本日だけで約二億円の賞金を手に入れております」
「…これ、生放送だな?すまねぇ、ちっと私用を喋らせてくれ」
画面の中の男が、手を挙げて謝罪の意を示した。
緋勇のからだがびくんと跳ねるのに気づいて、葉佩は首を傾げて見つめる。
「緋勇さん?」
「先生、聞いてるか?エジプトで放ったらかしになっちまったのは悪かった!謝る!この通りだ!だから、無事でいるんなら連絡してくれ!」
いきなりテレビカメラに向かって白スーツで土下座を始めた本日の主役馬主に、報道陣が戸惑っているのが見ている彼らにも分かった。生放送ゆえ編集するわけにもいかず、話を逸らすことも出来ないのだろう。
「こっちでも探してるが、あんたわざわざ<氣>を絶ってるだろう!頼むから連絡してくれ!さもなきゃ…」
「…さもなきゃ?」
絶対零度の冷ややかさで繰り返した緋勇に答えるように、画面の中の男は、ずばっと言い切った。完全に目がマジだ。
「今回の賞金約2億。全部報奨金にして、あんたの情報を募集するぞ?あんたの名前も顔も全部世界に流してな」
うわー、2億も使えばどれだけの探偵会社が飛びついてくるんだろう、それとも一般人が血眼になって探すだろうか、なんて暢気に考えた葉佩を突き飛ばすように、緋勇の手が電光石火で動いた。
肘打ちされて、うげ、と呻きながら葉佩が緋勇を見ると、腰のポケットから携帯を取りだした時に葉佩にぶつかっただけらしい。
そんな風な慌てた動きをするのは珍しい、と見つめていると、緋勇が形態を一動作で操作して大きく息を吸い込んだ。
テレビ画面の中で、男が懐から携帯を取り出し、耳に当てる。
「この大馬鹿者がぁあっっ!!」
緋勇が一言だけ叫んで、すぐに切る。
テレビ画面の中では、男が微妙な表情で携帯をしまった。相当耳が痛かっただろうに、それは微塵も感じさせない。
「少なくとも、生きてて、テレビ見るくらいの余裕はあるんだな…良かった…」
はぁっとへたりこんで、それからのろのろと身を起こす。スーツに付いた土を軽く払いながら苦笑いした。
「悪い、公共の電波を私物化しちまったな。アラブ馬を買い付けに行った時、知人とはぐれてな。行方が分からなくなってたんだ。ジャパンカップならテレビを見るかも知れねぇと思って、うちの馬たちには馬主インタビューがあるくらい頑張れっつっておいたんだが…主想いの馬たちで助かったよ」
ようやく馬に話を戻した馬主に、ほっとしたように報道陣がインタビューを始める。
それは興味が無いのか、ぷちっとリモコンで画面を消した緋勇に、葉佩が代表で恐る恐る聞いた。
「あの…緋勇さん、ひょっとしてエジプトで俺にぶつかった時は…」
「…あの馬鹿に、馬の買い付けに同行しろと言われてな。ファーストレディーが同行してないと軽く見られるとか何とか説得されて」
険悪な表情で、歯軋りしてそうな声で殷々と言われつつも、葉佩はその内容をきっちり把握していた。
これでエジプトにいた理由は分かった。まあ、今更分かったからと言って、どうするわけでもないが。
それより問題は。
「あの…ファーストレディーってのは、奥さん…ってことだよな?」
さすがに緋勇に確かめる勇気は無く、夕薙に助けを求めるように聞いてみれば、夕薙があっさりと頷いた。
「まあ、そうだろうな。第一夫人という意味だからな」
「えーと、ですね、緋勇さん。…ひょっとして、あの大金持ち馬主さんは…」
緋勇の手の中で、リモコンがみしりとイヤな音を立てた。
「…聞きたいのか?」
「いえ、だいたい予想は付いてますけど〜」
「なら、聞くな」
すくっと緋勇は立ち上がった。
それから出ていこうとして、じろりと葉佩を睨む。
「つまらんことは考えるなよ?俺の情報をたれ込んで二億せしめようとか何とか」
「い、いやだなぁ!そんな命知らずなこと、考えてませんって!」
あはは、と乾いた笑いを上げる葉佩に、緋勇は重々しく頷いた。
「まったく、命が惜しければ、やめておくんだな。俺には負けるが、あの男も普通の人間じゃあない。下手糞の分際で、焼き餅だけは一人前に妬きやがる奴だから、俺と三ヶ月近く同衾していると知れたら、何をされるか分からんぞ?」
「ど、どうきん…?」
「一緒のベッドで休むことだ。まあ、本来の意味で寝ただけだが、旦那の焼き餅がうるさいことくらい、お前にも分かっているだろう」
「は…ははは…はは…そ、そうっすね…」
葉佩はちらりと自分の『旦那』を見て、歪んだ笑顔でこくこくと頷いた。
「俺は、先に部屋に戻るぞ。…あの馬鹿、わざとらしくやつれやがって…この俺が無事で無いはずがあるか」
ぶつぶつと呟きながら緋勇は今度こそ振り向かずに出ていった。
それを見送ってドアが閉まってから、葉佩はまたリモコンのスイッチを点けた。だが、もう画面はレースのリプレイになっていて、馬主インタビューは終わっているらしい。
またテレビを消した葉佩は、ベッドに座り込んで、うーん、と唸った。
「緋勇さんに男の愛人がいるとは聞いてたけど…実際に見ると、何か、うわー、ホントに愛人がいたんだーって感じだよなー」
「…あんな人でも、下手なのか…ちょっと勇気づけられるよ」
ぼそりと呟かれた意見は、聞こえなかったことにしておこう。
夕薙がイスを引きずって机の前に座りパソコンを立ち上げた。
「ふむ…確か村雨氏は日本で生まれ育ったはずだが…あぁ、あった。高校三年まで東京…皇神学院卒業」
「ほー、あのお金持ちだの貴族さま御用達のガッコか」
「んじゃ、元々金持ちなのかー。すっごいなぁ、緋勇さん、玉の輿ってやつ?」
ほえーっと覗き込む葉佩の肩に、ぽん、と手が置かれた。
「…はっちゃん…玉の輿に、興味があるのかい…?」
振り向くことも出来ずに、葉佩の顔色がざーっと悪くなった。
「い、い、い、いやいやいやいや、全っ然!興味無いけどさーっ!」
「…そう?お金持ちな男が好きなのかなって思ったけど…?」
「いえいえいえいえいえ滅相も無いっ!そりゃ俺は、その、お金なくっていつもぴーぴーしてるけどさー、お金はあった方が嬉しいけどさー」
そして、くるりと振り向いて、取手を一瞬だけ見上げた。すぐに目を落として、取手の胸あたりを見つめながら、『の』の字を書く。
「だから、その、つまり…その…す、好きなのは、たった一人なわけで〜…お金を持ってるかどうかなんて考えたことも無いわけで〜…つ、つまり…その…か…かっちゃんが…好き…なので〜……こ、これ以上は勘弁してクダサイ…」
虫が囁くような声で呟いた葉佩は、真っ赤になったのを隠すように取手の胸に顔を埋めた。
その背中を抱いてご満悦な表情の取手の腰に蹴りを入れて、皆守はうがーっと叫んだ。
「お前ら、俺の前でいちゃつくんじゃねぇっ!勘弁して欲しいのはこっちだ!」
「そうだね、皆守くん。ごめんね」
「謝られると、それはそれでむかつくぜっ!」
「じゃ、僕たちは失礼するから。夕薙さん、お邪魔しました」
葉佩をぎゅーっと抱き寄せたまま、取手はのてのてとドアに向かった。どう見ても歩きにくそうだったが、本人たちは気にしていないようだった。
たぶん、これから取手の部屋に行くのだろう。葉佩の部屋には緋勇が帰っているだろうから。
そしてそこで行われる何某かを思うと、ますますはらわたが煮えくり返って、皆守はラベンダーのアロマをがりがりと噛んだ。
「えぇい、くそっ!どいつもこいつも、男同士でくっつきやがって!」
「…その『男』に告白して振られた奴が言うせりふじゃあ無いな」
「余計なお世話だああっっ!」
夕薙の冷静な突っ込みに皆守はついに爆発した。
外は抜けるような青空。
寮内では局地的にラブラブ注意報。
ラベンダーのアロマをくわえて、夕薙の入れてくれたハーブティーを前にしても、皆守の心はどこまでも土砂降り大荒れ大雨警報であった。