三月三日
天香学園の地下遺跡に封じられていた『自称神』を倒した葉佩たちは、地上に戻って蘇った『行方不明者』たちの処置に大わらわだった。
遺跡と心中しようとした馬鹿二人を殴り倒し、ついでに千貫に事情を説明して正座でのお説教三時間コースをじっくりたっぷりやって貰ったため、墓掘りと救出は役員と執行委員によって行われたからである。
元行方不明者への事情の説明は、お説教を終えてふらふらな生徒会会長と副会長に任せて、ようやく自室に戻ったのは夜もすっかり空けた頃であった。
「終わりましたね…」
泥だらけの装備を脱いで、髪に付いた砂を忌々しそうに払いながら、葉佩は呟いた。
自室を見回して、溜息を吐く。
「これを全部片づけるのかと思うと…」
消耗品の類はほとんどリサイクルしているが、それでも種々の武器や細々とした装備、それに貰い物が結構な数になっているのである。
もう気分は片づけモードに入っている葉佩の体を、長い腕が巻き取った。
「…行くのかい?」
「えぇ」
その腕に手を添えて、葉佩は小さく、だがはっきりと頷いた。
「先ほど、協会のコンピューターにハッキングしました。スカベンジャーによって<秘宝>は回収されています。…もう、この学園における俺の任務は終わりです」
「そう…」
取手は腕の中の小柄な体を抱き締めた。
いつかそんな日が来ると分かっていた。
ただ、来てみると、こんなに早く、と絶望にも似た気持ちが襲う。
「つひに行く道とはかねて知りしかど昨日今日とは思はざりしを…」
葉佩の指にも力が籠もる。
取手は鼻先で葉佩の髪を掻き分けて、現れた首筋に舌を這わせた。
ほんのりと肌を染めて、葉佩が身じろぐ。
「か、かまち君…お風呂に入ってから…えっと、シャワーだけでも…」
「良いんだ、このままで」
「だって、汚れてるから…」
「良いんだ、このままで」
細かな砂で煌めく頬を舐める。
身を捻って取手を見上げた瞳が潤んで、唇がそっと熱い息を吐いた。
何度も何度も、抱いた。
途中で、部屋のドアをノックする音も聞こえたが、二人とも気にしなかった。
そうして、取手が僅かに微睡んで、再び目を覚ますと。
部屋の中は綺麗に整頓されていた。
小さなボストンバックを床に置いて、葉佩はコートのボタンをきちんと留めた。
「…行くんだね」
「はい」
取手は起き上がって、シャツを羽織った。
言いたいことは山ほどあるが、そのどれもが音になる前に消えていった。
「校門まで、送るよ」
「はい」
外に出ると、辺りは血の色のように真っ赤に染まっていた。
驚くほど大きな夕日を目を細めて見つつ、取手はゆっくりと葉佩の後に付いていった。
言葉は何も交わさないまま、ただ歩く。
さりさりと靴が砂を踏んでいく音だけが付いてくる。
不思議と誰にも出会わない。オレンジ色の世界の中、葉佩と二人きりでどこまでも歩いていけるような錯覚に捕らわれる。
校門のところまで行って、葉佩はふと振り返った。
「卒業式は、かまち君の誕生日でしたね」
「うん」
あえて、卒業式を共に迎えたい、とは口に出さなかった。葉佩の方も、あやふやな状態で確約は出来ないのだろう。それきり口を閉ざした。
しばらく無言で見つめ合った後、葉佩が前を向いた。
「それじゃ…さようなら、かまち君」
ひどく静かに言われた言葉に、取手は少しばかり微笑んだ。
「大丈夫。いつか、きっと、また会えるから」
確信に満ちた調子に、葉佩がちらりと振り返った。
「僕は、いつでも、君を想いながらピアノを弾くよ。君が世界中のどこにいても、僕の音が届くように、世界中で演奏できるピアニストになるんだ」
そうして、取手は冗談めかして首を竦めた。
「君も知ってる通り、僕は執着心が強いからね。これで君が僕から逃げられるなんて思ったら、大間違い」
葉佩の唇が僅かに上がった。
微笑みの表情であったが、睫毛がふるふると震えていた。
「では…」
声も震えていたため、葉佩は一度切って、深呼吸した。
「では、『また会いましょう』にしておきます」
「うん、また、会おう。きっと、ね」
取手が腕を上げると、葉佩の体が小さく揺れた。
だが、取手はただ手を顔の横まで上げて、小さく振って見せただけだった。
葉佩も、軽く手を挙げた。
そして、学園に背を向けて、歩いて行った。
その姿が見えなくなるまで取手は見送ったが、葉佩が振り返ることは無かった。
卒業式の間中、皆守と八千穂はそわそわしているようだった。
厳かな空気にも関わらず、ちらちらと講堂のドアを振り返っている。
それに注意すべき担任の雛川でさえ、意識をそちらに向けているようだった。
困った人たちだなぁ、と取手はA組の最後方から彼らを眺めていた。まあ、彼ら以外にも、そわそわ落ち着かなさそうな人たちはいたが。
つつがなく式を終了して、卒業証書を手に、彼らは校門付近をうろうろしていた。
取手は、両親に駅近くの喫茶店で待っていて欲しいと頼んで、皆守たちの元へと向かった。
「やあ、皆守くん、八千穂さん。君たちともお別れだなんて、少し寂しいよ」
微笑みすら浮かべてそう言った取手に、皆守がぴくりと眉を上げた。
式の間はさすがにしまっていたアロマパイプをごそごそと取り出し、くわえて火を点ける。
「お前、随分と落ち着いてるな」
「何がだい?卒業式で騒ぐほど子供じゃ無いつもりなんだけど」
「とぼけるな」
じろりと睨めつけられても、取手は全く動揺しなかった。
探るような目になる皆守の代わりに、八千穂が正面からずばっと聞く。
「ねぇ、取手くん!九ちゃんから連絡無い?卒業式には出るって思ってたんだけど…」
「さあ…」
取手の首を傾げる様子は、どこか淡々とし過ぎていて、葉佩とラブラブだった様子を知っている者からすれば奇異なほどだった。
「でも、今日は僕の誕生日だし、ひょっとしたら、またメッセージが届くかもね」
自分にしか通じない冗談でも言ったかのようにくすくす笑って、取手は周囲を見回した。
遠くから人混みをかき分けてゆっくりやってくる背広姿の老人の姿が見える。老人は時折混雑を利用して女子生徒に触れては悲鳴を上げられていた。
「やれやれ、こんなところにおったか。探したわい」
「そうですか?僕の姿は目立つはずですけどね」
「ほっほっほ。おなご以外は目に入っておらんからのぅ」
恥じた様子も無くむしろ自慢げに笑い、境は懐から封筒を取り出して取手に渡した。
「葉佩に預かっておったんじゃ。卒業式に渡せ、とな。それじゃあの。確かに渡したぞい」
くるりと背を向ける境に、取手が呟いた。
「この学園には、スカベンジャーという働きの者がいたそうですよ」
「<屍肉喰らい>?そりゃまた随分と縁起の悪い名前じゃのぅ」
「システムとしては悪くないと思いますけど」
微笑みながら言って、取手は封筒に目を落とした。宛名書きすらない、素っ気ない事務封筒。
「届けてくれて、ありがとう、境さん」
「なんの」
境は飄々とその場をゆっくりと立ち去った。
いや、立ち去りかけて、すぐにきびすを返す。
「大事なことを忘れておったわい。それは読んだらすぐに廃棄してくれ、と伝えろと言われておったんじゃ」
「そうですか」
言われたことに疑問を持っていない様子の取手に、境は奇妙な目を向けた。皆守と八千穂も、納得できない顔で封筒と取手を交互に見比べている。
取手は、ふと目を上げて、彼らの顔を見回した。
「どうかしたかい?」
「あ…いや、その、なぁ。普通、こ…恋人から手紙が届いて、破って捨てろって言われたら、もっと動揺するんじゃねぇか、とか、なぁ」
「そうそう!取手くん、さっきから変だよ!まるで九ちゃんのこと…好きじゃなくなったみたいに、熱意が無いって言うか、さ!」
「好きじゃなくなった?…そう見えるのかい?」
くすくすと笑って、取手は、周囲を見た。
「そうだね…温室の裏辺りに行こうか。それなら人は少ないだろうし」
封筒を手に持って、取手は振り返らずにすたすたと大股に歩いていった。
後から皆守と八千穂が慌てて追う。
三人を見送って、境は奇妙な表情のまま腕を組んだ。
「さて…これは厄介な男に見込まれたもんじゃの、<煉獄>も」
取手は、封を切って中の紙を取り出した。
皆守と八千穂にも聞こえるように低い声で読み上げていく。
『貴方には謝らなくてはなりません。
仕事に必要な情報をダウンロードしたのは説明した通りです。
そして、今、俺の仕事は終了しました。
予定通り、この情報はアンインストールします。
ファイルを全部消去する以上、中に含まれる貴方に関するデータも全て消えるはずです。
俺には、それを言い出す勇気がありませんでした。
でも、何となく、貴方は気づいていたのではないか、とも思います。
ひどいことを言っていると自覚しています。
でも、一つだけ願わせて貰えるならば。
貴方は、忘れないで下さい。
貴方が、いつでも光の中にいることを祈ります。
さようなら』
真っ白なプリント用紙に打ち出された活字の列をもう一度眺めて、取手は封筒ごとそれをゆっくりと引き千切り始めた。
目を丸くして聞いていた八千穂が、その手に飛びつく。
「ちょっと待ってよ、取手くん!何だかすごく変な手紙だし、ひょっとしたら他に何か書いてあるかも知れないし…!」
「でも、読んだらすぐに処分しろって伝言もあったから」
数ミリほどの細長い紙切れにしてしまった取手は、それを捻って一つの紙縒のようにして、皆守に手を出した。
「ライター貸してくれるかい?」
無言で出されたライターを二回失敗してからようやく火を点す。
紙が灰となって崩れていく様子を見ながら、取手は感心したように呟いた。
「九龍くんは、やっぱり危険な職業に就いているんだね。僕を巻き込まないように、すごく気を遣ってるよ」
灰をバラバラにして風に流して、取手は皆守にライターを返した。
「まあ、ちょっと調べれば、僕と九龍くんが恋人だったのは、この学園の人なら知ってると思うけど…あぁ、だから名も書いてないのかな」
納得したように一人頷く取手に、八千穂が地団駄を踏む。
「分からないってば!ねぇ、何がどうなってるの!?」
苦笑いの表情で、取手は彼女の頭を撫でた。以前の気弱な取手には似合わない、大人びた動作であった。
「どこから説明しようか。まず、あの手紙だけど、第三者が読んでも、意味が通じないように書かれてるんだ。<葉佩九龍>が、<取手鎌治>に宛てた手紙、ということも分からないし、<葉佩九龍>にとって<取手鎌治>が特別な存在だということを示すような言葉はどこにもない。廃棄しろとは言われたけれど、仮に僕が残してしまう場合とか、僕の手に入る前に別の人間に見られる場合を想定してのことだと思うんだけど」
くすり、と笑って、取手は懐かしむような目で空を見上げた。
「用心深いね。でも、本当に、弱みがあるのは危険な世界にいるんだね、九龍くんは」
幾分肌寒いとはいえ、季節は春。暖冬の影響で早桜も咲いている中庭を見つめて、取手は異国にいるはずの葉佩を想った。
春の花の香りに満ちたこの世界ではなく、砂と硝煙と血の臭いに満ちた世界に葉佩はいる。
どうか無事で、と祈らずにはいられない。
「それから、ダウンロードとかアンインストールとかデータを消去、とかいう言葉は」
何でもないように言いながら、取手は微笑んで、肩に付いた桜の花びらを摘んだ。
柔らかなビロードのような手触りに、葉佩の唇を思い出して、そっとキスする。
「九龍くんは言っていただろう?<葉佩九龍>の人格は、協会からダウンロードした偽物だって。だんだん、混じり合って区別が付かなくなったけどね。その<葉佩九龍>の人格をアンインストールするから、<葉佩九龍>だった時の記憶は全て抹消されるって書いてあったんだよ」
「え…それって…」
唇から離すと、桜の花びらはひらりと風に乗って飛んでいった。
穏やかな春の風になぶられて乱れた髪を軽く押さえて、取手は八千穂に微笑んだ。
「九龍くんが、僕らの…この学園で過ごした記憶を無くすってことだよ」
「そんな…!だって、そんな、そんなことって…!」
本人にも何を口走っているのか分かっていないのだろう。八千穂の顔が歪んで、ぼろぼろと泣き始める。
それまで黙っていた皆守が、苦虫を100匹まとめて噛み潰したような顔で、アロマを振った。
「それで?何だってお前はそんなに冷静なんだ?」
「どうして、動揺する必要があるのか、分からないな」
突如、ざあっと風が巻き起こり、周囲に花びらが吹雪のように舞った。
取手の長めの前髪が目を覆い隠す。
そうして、皆守の目に映った取手の顔の下半分は、凄絶なほどの笑みを浮かべていた。
「九龍くんが、僕のことを忘れる。それがどうかしたかい?僕は忘れない。九龍くんのことは、全て、ね。だから、いつの日か必ず、僕は僕の<宝>を取り戻す」
葉佩が忘れることを嘆くことは無い。
もう二度と会えないと悲しむことも無い。
何故なら、取手には自信があるからだ。
世界中を彼の音で満たしたなら、葉佩が彼の音を聞いたなら、必ず葉佩は彼を思い出す、と。
そのために、取手は取手の世界で生きていく。
それが葉佩の言うところの<光の中>かどうかは知らないが、とにかく己の世界で蜘蛛の巣を広げていくのだ。
そうして、獲物が引っかかるのを待つだけのこと。
「僕はね、とても執着心が強いんだ。これで逃げられたと思ったら、大間違い」
あの日、葉佩に伝えた言葉を、もう一度繰り返した。
皆守が、妙に清々しい笑みを浮かべて、大きく息を吐いた。
「参ったな…。強くなったもんだぜ。しょうがねぇ、九ちゃんはお前に譲ってやるよ」
「君に譲られるまでもなく、元々僕のものだよ」
すかさず返して、取手はにっこり微笑んだ。先ほどまでの昏い情熱を湛えた笑みが嘘のような、爽やかな微笑みだった。
「君みたいな、すぐに諦めるような人に、九龍くんの相手は出来ないよ。やっぱり、僕じゃないとね」
「言ってくれるぜ」
八千穂はまだ納得できていないようだったが、そんな二人の様子に、少しだけ笑った。
ハンカチで目を押さえながら、明るく言う。
「それじゃ、取手くんが世界的なピアニストになってコンサートを開く時を待ってる!それで、のこのこやってきた九ちゃんをぐーで殴ってやるんだ!」
「おー、じゃあ俺は上段蹴りだな」
如何に葉佩を虐めるか、という話に花を咲かせながら、彼らは温室の裏から校門へと戻ってきた。
もう生徒の姿も減ってきている。
取手は振り返って、校舎と男子寮、それからその裏にある墓場を見つめた。
ここは、大切な<宝>を手に入れた場所。
大切な場所だが…たぶん、二度とは戻ってこない。何故なら、ここにはもう<宝>は無いからだ。
「それじゃあね。皆守くん、八千穂さん。また、いつか」
「あぁ、また、いつか」
「また、会おうね、取手くん!」
これから、わざわざ連絡しないのは自分でも分かっていた。そして、会おうとする意志がなければ、そうそう会う機会も無いだろうことも。
それでも、彼らは「また、いつか」と言い合った。
約束した喫茶店で両親を見つけて、取手は椅子にかけて一息吐いた。
「かっちゃん、卒業おめでとう」
「ありがとう」
「今日は、お誕生日でもあるものね。何か欲しいものはある?」
取手は、前に座った両親の顔を見比べた。彼が実家を離れたときに比べると、白髪も皺も増えた。
姉が亡くなり、子供は彼一人となった。
本当は、一緒に暮らすことを望んでいるだろう。
だが、それでも。
「父さん、母さん。僕は留学してピアノの腕を磨きたいんだ。許してくれるかい?」
そう、それが、まずは、第一歩。