阿門邸の正式侵入者
「…おい」
阿門は、これ以上無いほど低い声を出した。
だが、目の前の人物はちょこまかと動き回っており、彼の言葉を聞いている様子はない。
「何をしている、<転校生>よ」
阿門家屋敷の物置でごそごそしている後ろ姿に、威圧的な言葉を放つと、ようやく<転校生>が振り返った。
「阿門君ですー。こんばんは」
にっこり笑って挨拶し、また物置に首を突っ込んだ葉佩の首根っこを掴んで引きずり出す。
「だから、何をしている、と聞いている」
仮にも敵対しているはずの男に首を掴まれても、全く動揺した気配無く葉佩は首を傾げた。
「今はですねー、梯子を探してます。えーと…梯子じゃないですか…えーと…あぁ、脚立!」
ぽん、と手を叩いて、葉佩は「これでこんなに高いところの枝もほーらばっさり!」と何かの口真似をした。
「いや、だから…他人の家で、何をごそごそとしている」
確かに、屋敷の鍵を渡した覚えはある。
少し話がしてみたいと思ったのも事実。
だが、留守中に物置を探っても良いという許可をした覚えは無い。
「だから、脚立を探してるです」
「…話にならんな」
阿門は首を振って、葉佩を放り出した。
ひょいっと床に降り立った葉佩は、んー、と首を傾げた。
「脚立、無いですか?えっと…じゃあ、阿門君に手伝って貰おうっと」
「何を、だ」
こんな奴はさっさと追い出してしまえばよいのだが、ついつい話の相手をしてしまうのがいけないのか。
聞けば学校の備品も相当くすねているとか。その延長で屋敷のものを持って行かれてはたまらん、と阿門は思った。
「千貫はどうした」
忠実な執事は何故こいつを彷徨かせるのか、と聞けば、葉佩はまた考えるような表情になった。
「えーと…マスターは今頃、庭の方の掃除だと思いますよ」
先ほどから、どうも会話が噛み合わない。
阿門は今日のところはこれと話すのを諦めて、さっさと追い出そうと思った。
「まあ、いい。さっさと帰れ」
「駄目ですよー。まだ掃除が終わってないし」
「…何だと?」
「だから、ですね、マスターに頼まれたんですよ。この間、トト君がめーなことして広間が無茶苦茶になったでしょう?その掃除のお手伝いです」
「…厳十朗…何故、よりにもよってこいつに…」
額を手で押さえる阿門を気にした様子もなく、葉佩は阿門の手を取った。そして引っ張られていく方向は広間の方だと気づいた阿門は、その手を振り払った。
「俺の家だ、構造は分かっている」
「そうですねー」
あははは、と暢気に笑って、葉佩はちょろちょろと阿門の前に立って広間へと向かったのだった。
広間に入って阿門は少しばかり目を見開いた。
ガラス片だの生徒らの足跡だので汚れていたはずの広間が、確かに綺麗になっている。
床は完全に磨かれ、ガラス窓もまるでそこに存在しないかのように透明感溢れている。
ふと見れば、今自分が握っている真鍮のドアノブも新品のように輝いていた。
葉佩はすたすたと部屋の片隅の掃除道具のところに行き、雑巾を手に取った。
「あのですね、飾り棚の上を見たいと思ったんですよ。ひょっとしたらシャンデリアの欠片が飛んでるかもと思いまして」
壁際の飾り棚は人の身長よりも高いが天井に付くほどではない。確かにそれの上を見ようと思えば、脚立が必要であろう。
「それで。俺の助力を乞うとは…」
言いかけて、阿門は額を押さえた。
どう考えても、これは「脚立の代わりになれ」と言われているのでは。
「まさか、貴様。この俺に、足台として四つ這いになれと言っているのではなかろうな」
「脚立を持ってきてくれるなら、それでも良いですよ?」
あいにく、お坊っちゃまは脚立の収納場所など知らなかった。
それでも他人の、しかも宿敵たる<転校生>の足下に這い蹲るなど、絶対に許容できるものではない。
「そもそも、何故俺がお前を手伝わねばならん」
「それは、ここが阿門君ちだからですよ」
正論だ。
というか、冷静に考えれば、手伝っているのは葉佩の方。
阿門帝等、厳しい執事の元、案外まっすぐに育てられているので、正論に弱かった。屁理屈をこねて逃げ出すという手段を知らないのである。
「む…せめて、抱き上げる、くらいなら…」
阿門は譲歩を試みた。むしろ、全面白旗くらいの譲歩ぶりだが。
「うーん…ちょっとやってみて下さい」
飾り棚の前で雑巾を持って立つ葉佩の後ろから、腰を抱えるように持ち上げる。
男としては軽い範疇に入る葉佩だが、50kgの物体を手だけで支えることは出来ずに腕と胸とで支える形になる。
「うーん…安定はしてるけど…もうちょっと足りないです」
ひょっとしたら双樹と同じくらいのウェストではないだろうか、とか考えていた阿門は、葉佩の言葉に我に返って降ろした。
「ねー、阿門君」
葉佩が小首を傾げて上目遣いに見上げた。
あからさまなお強請りモードに警戒しながら、阿門は重々しく口を開いた。
「何だ」
「肩車してくれます?」
「…む…」
ちょっと想像する。
雑巾を持った葉佩を肩に乗せている自分の姿。
一般生徒に見られたら、生徒会の権威失墜間違い無し。
しかし、これまでの話の流れから言って、断る理由が見つからない。
誰にも見られなければ良いだけのことだ、と阿門は渋々と床に膝を突いた。
「ありがとう、阿門君。だーいすきっ♪」
背後から首に縋り付く葉佩の手を払おうとしたが、さっさと離れていた。そして、おんぶのようにもたれ掛かってから、足を一本ずつ肩に乗せる。
「はーい。出来ました」
雑巾を持っていない方の手でしっかり額を持って、葉佩がそう声を掛けた。
葉佩の両足を掴みながら、阿門はゆっくりと立ち上がった。
「あ、いい感じです。10cm右に行って下さい」
言葉通りそうしたが、目の前には磨き抜かれた飾り棚のガラスがあって、自分の姿を映している。
<宿敵>を肩車などして、微妙に情けない角度に眉を上げた自分の顔を。
何故この俺がこのような真似を…と苦虫を噛み潰した顔で自分と睨めっこする。
その間、頭上の葉佩からは
「あ、やっぱりガラスありました〜。阿門君に手伝って貰って良かったです〜」
などと暢気な声が振ってきていた。
「ガラスを集めるので、危ないから上を向かないで下さいね」
欠片を掻き寄せているらしい葉佩にそう言われて、素直にひたすら前を見る。
だが、そのとき。
「…何をなさっておいでです?坊ちゃま」
背後からの静かな声に、阿門は、びくぅっと飛び上がり、思わず振り向いた。
「ち、違うぞ、厳十郎!これは…」
「うわわわわ!」
飾り棚の天板に手を乗せていた葉佩の上半身が、阿門に付いていけずにバランスを崩した。
慌てて元に向き直ろうとした阿門の動作が更に葉佩の体勢を崩し、完全に阿門から離れる。
辛うじて阿門が足だけは掴んだため、頭を床に激突させることは逃れられた葉佩が、逆さまになった姿勢で、はう、と溜息を吐いた。
ゆっくりと阿門に降ろされて、まず頭を床に突き、それから上半身を滑らせて寝そべった。
肘を使って起き上がる様子に、千貫が不審そうな声を上げる。
「失礼ですが、葉佩さま。お手の方は?」
「あぁ」
葉佩が苦笑して、手を開いた。
そこには、大小のガラス片が乗っていて、手のひらに幾つもの傷を作っていた。
「ちょうど手で集めてたんですよ。つい握っちゃいました」
「な…!」
阿門は思わずその手を取って怒鳴った。
「馬鹿者!雑巾を持っているなら、何故それを使って取らない!」
葉佩は雑巾をひらひらさせて、したり顔で解説した。
「雑巾でガラス片ごと擦ったりしたら、傷が付くんですよ。テープで押さえても良いんですが、取りに行くよりもさっさと手で集めた方が良いかと思いまして」
千貫が、新聞紙を広げて、葉佩の手のガラス片を落とさせる。
「さて、深く入り込んで無ければよろしいのですが。洗面器を持って参ります」
千貫が一礼して出ていくのを見送って、阿門はまた怒鳴った。
「馬鹿者!俺は、物に傷が付いたとて怒るほど狭量ではない!」
「今、怒ってるじゃないですかー」
「それは、貴様が馬鹿なことをするからだ!」
「手の傷なんて、すぐに直りますけど、物の傷は修復出来ないんですよ?特にこんなチッペンデールの保存良好ものなんて、一傷いくらになるかと思うと、傷なんて付けられませんね」
チッペンデール、という聞き覚えのない単語に、不審な顔をしたのがばれたのか、葉佩が淡々と解説した。
「19世紀イギリスの有名なデザイナーですよ。アンティークとしては好事家の間でかなりの値で取り引きされてますから…このオーク材といい、保存状態といい、400万から500万ってとこですね。傷一つで10万単位で値が下がると思いますが」
「それも、<宝探し屋>の知識ということか」
唸るように言えば、葉佩は得意そうでもなく肩をすくめた。
「まあ、そんなところです。遺跡に潜ってばかりじゃないんですよ、これでも」
「ふん…たかが『物』のために、己の体に傷が付いても良いとはな。それが<宝探し屋>の流儀か」
皮肉たっぷりに言ってやれば、葉佩がまた肩をすくめた。
「確かに、『物』は、『物』です。だけど」
そこで、なにやら急に柔らかな、春の日差しでも浴びたかのようなほんわりとした笑みを浮かべたため、阿門はぎょっとした。
「『物』には、想いが宿っていることもありますよ。たとえば、このチッペンデールだって、阿門君ちの代々の主や執事が大事にしてたから、これだけ良好な保存状態なんですし。それだけの年月、皆に大事にされてきた『物』を粗末に扱う権利は、俺にはありませんから」
そう言って、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめて、床にのの字を書いた。
「まあ…そんな風に考えられるようになったのは、ここに来てからですけど…」
阿門が葉佩について知っていることは、書類上のデータと、誰かさんからの報告を通してでしかない。その報告書は、最初は『いけ好かない奴』だの『冷徹な<ハンター>』だのと言った不快感を隠していない言葉が並んでいたが、いつしか『放っておけない』だの『守ってやりたい』だのと、お前は何のためにそこにいるんだ、報告書は恋愛日記じゃないんだぞ、と言いたくなるような内容に変化していた。
あいつをしてこの鼻毛の抜かれっぷりに興味が湧いた。
それに、報告書には如何に葉佩がこれまで苦労してきたか、という『何故守ってやりたいと思うようになったか』の理由(むしろ言い訳)も書かれていたが、必ず一人の人物の名も書かれていた。
阿門と同じクラスの取手鎌治。
あれは<墓守>ではあったが、それ以上に興味を引くことはなかった。物静かで、大柄な体を縮こまらせてひっそりと存在する男。
それが葉佩に出会って随分と変わったらしい。
そして、葉佩もまた、取手の存在に触れて、変わってきたらしい。
報告書の行間からは、その二人の在りように対する隠しきれない(いや隠そうともしていないが)嫉妬が滲み出ていた。
そんな経緯があったため、阿門には、今、葉佩が照れながら『物』に対する愛情を語っているのは、取手鎌治という存在が、彼にそうさせたのだ、ということが推測できたのだった。
「ふん…貴様がどう考えようと、俺の知ったことではないが」
そう言いつつも、葉佩の頬を赤らめさせた男に対して、何故か彼まで少しばかり、微妙な不快感を覚えたのは、その報告書のせいだということにしておこう。
「でも、意外ですね」
「何が、だ」
「阿門君は、もっとこう…『物』に対して執着があるかと思いました。まさか、俺の手を優先してくれるとは思いませんでしたね」
阿門は、ぐっと詰まった。
別に、この<宿敵>に愛情など持っているわけではない。
だが、咄嗟に…自分を粗末にすることが許せなかっただけのこと。
「ふふ…さすがは千貫さんが仕えるだけのことはありますね。そういうところ、好きですよ」
さらり、と『好き』などと言われて、阿門は喉から押し潰されたような声を漏らした。
なるほど、あいつがこだわるのも分かる気がする。
<生徒会長>で<墓守の長>であり、他人とはべたべたした交流をしないようにしていた。それを威圧感を感じてもいないのか、ごく普通のクラスメイトでにでも接するかのように扱われて、不愉快どころか奇妙に新鮮な感動を覚える。
それを押し隠すようにますます青筋を立てて黙り込んでいると、洗面器と救急セットを持った千貫が戻ってきた。
「失礼いたします」
床に置いた洗面器の中には、綺麗な水が張られている。
葉佩はその中で手から血を絞り出した。
幾筋もの赤い線が水の中に漂いぼやけていく。
「ちょっとくらい残っても大丈夫ですけどね。いずれ排出されます」
手を引き上げて、千貫の差し出したタオルで手を拭いた葉佩が、傷口を確認しながらそう言った。
「葉佩様の手は、繊細な作業をされる手ではありませんか?大事無ければよろしいのですが」
穏やかに窘めるように言われて、葉佩は子供のように首をすくめて「はぁい」と答えた。
救急セットから取り出した包帯を器用に自分で巻きながら、飾り棚の上を見る。
「もう少し残ってるかも知れませんけど。脚立あります?」
それから、少し悪戯っぽい調子で付け加えた。
「また、阿門君に肩車でも良いですけどね」
「断る」
「また後日、私が始末いたします。葉佩様のお陰で、掃除が早く終わりました。感謝いたします」
「んー、それは、もう帰れってこと?はぁい、それじゃ帰りますね。いろいろとやらなくちゃならないこともあるし」
そう言って、くすくすと意味深に阿門を見た。
どうやら、これからでも墓に潜るつもりらしい。
「<墓>の中にも、微生物は存在する」
「そうですねぇ、その割には傷んでない食べ物があったりもするんですけど」
「傷口から入れば、悪化する。今夜は止めておくのだな」
葉佩の目が、まん丸に見開かれた。
「んー、それは、俺を心配しているのか、それとも墓への侵入を妨害してるのか」
冗談のように言って、それからふわりと笑う。
「前者だと判断して、せっかくのご好意を受けておくことにしますよ。それじゃ、失礼します、生徒会長」
葉佩が去ってから、千貫は無言で洗面器や救急セットを片づけた。
声をかけられないのを良いことに、阿門はひたすら考えていた。
さて。
「阿門君」と最初呼ばれたときは、不敬な、と不愉快に思ったものだったが、今、「生徒会長」と呼ばれると、物寂しい気がするのは何故だろう。
人懐こい様子が、仮初めの人格であるとの報告も受けてはいるが、その人格を嫌いでは無い。
第一、ダウンロードした人格とは言っても、全くの別人格というものでなし、記憶を封じた<墓守>たちと同種のものではなかろうか。
そう考えれば、別段、奇異には映らない。
自分が考え込んでいることに気づいて、阿門は歩き始めた。
だが、その間にも、葉佩のことを考える。
興味深い。
まったく、興味深い。
もしも、<墓守>と<侵入者>としてではなく出会ったなら…もっと別の関係も築けただろうか?
だが、阿門は首を振ってその考えを追い払った。
仮定のシチュエーションなど考えたところで無駄なこと。
実際に、彼らは<墓守>と<侵入者>として出会ったのだから。
そして、その関係が変化する可能性も無い。
葉佩の報告書を読む限り、『裏切り』にはやけに敏感だ。世の中の全ての人間を信じない生き方をしているのだ。
たとえ、今、彼の前ではちょこまかする愛くるしい小動物に見えたとしても、本性は冷徹な<ハンター>だ。
阿門のことを、好きになる謂れは、無い。
そして、あいつのことも。
そうして、阿門は、それが寂しい、と思った心に蓋をした。