洗濯室にて





 もう消灯時間が来ようかと言う時刻に、取手は洗面所に向かった。
 すると、隣の洗濯室からがこんがこんと音がするので、今頃洗濯をしている奴がいるのか、とちらりと覗いた。こんな時刻に洗濯しても、朝までに乾くかどうか。
 中にいた人物も、気配に気づいてちらりと戸口を見た。
 そして、取手を認めた途端に、花が綻ぶような笑顔に変わる。
 「かまち君ですー。こんばんは」
 「く、九龍くん…!ど、どうしたの、その格好」
 洗濯室に立つ葉佩は、この冷え込む中、ジャージ一枚という寒々しい姿だった。
 「あはは、ちょっと失敗ですー」
 恥ずかしそうに笑って、葉佩は背後の洗濯機に目をやった。
 結構重そうな音がするところからして、中は大量か…シーツとかの大きなものを洗濯しているか。
 がっこんがっこん回っている洗濯機の前で、葉佩はぽりぽりと頬の傷を掻いた。
 「冷蔵庫の整理をしようとしたですよ。そしたら、冷蔵庫が壊れてたみたいとかー、ちょっと躓いたとかー…まあ、結果的に、腐りかけの卵のうがベッドの上一面にこぼれたです」
 「…うわ…」
 想像だけでも精神的ダメージを受けそうだ。
 葉佩はそれなりにまめに手に入れたアイテムは卸しているようだが、それでも部屋に少しずつ余計なものが増えていっている。躓いた、と言われて、あぁ、と納得出来るくらいには床に色々置かれていた。
 はぁっと葉佩は憂鬱そうな溜息をこぼした。
 「ちょうどパジャマもベッドの上に出してたですよ。全滅です」
 察するに、シーツ上下とパジャマが洗濯機の中身か。
 気の毒そうに頷いてから、取手は、ふと考えた。
 シーツが乾くとは思えない。まあ、代わりのシーツがあるかも知れないが。でも、最初は最低限の荷物だけで入寮した葉佩のこと、持ってない確率も高い。
 だとしたら、葉佩は今晩、どうやって寝るんだろう。
 ひょっとして…床に寝る…とか?いや、ベッドのマットレスは無事かも…でも臭いかも…。
 もし、部屋で寝られないようなら……。
 「あ…あの…く、九龍くん」
 「はい?」
 「今晩…どうやって、寝るつもりかなって…」
 「あぁ」
 葉佩は苦笑して、また洗濯機に目をやった。
 「毛布は無事だったので、床で寝るです」
 やっぱり。
 取手は、何度か唾を飲み込んだ。
 彼らは手を繋いで歩き、一緒にご飯を食べる、というくらいには親しかったし、お互いの部屋を行き来したこともあるのだが、まだ一緒に寝たことは無かった。まあ、お互い寮に部屋があるのに、わざわざ泊まるような機会も普通は無いが。

 もし良かったら、僕と一緒に寝よう………うわぁ、何だか違う誘いみたいだ。
 いや、そんな邪な感情は一切無い…とは言い切れないんだけど…けど…。
 でもこのまま葉佩君を床に寝かせるわけにはいかない。
 でも自分の部屋に誘っていいものだろうか?
 葉佩は小柄とは言え、彼は大柄、しかも手足が無駄に長い。葉佩も同じベッドでは寝にくいだろう。よっぽどくっついて寝ないと……くっついて……うわああああ!

 ぴたりと動作が止まった取手を、葉佩は不思議そうに見た。
 「えーと…かまち君?」
 「え?あ、うわあああ!いや、疚しいことは考えてないからっ!」
 真っ赤な顔で手をぶんぶん振り回す取手に、葉佩は、はぁ、と気の抜けた相づちを打った。
 「ご、ごめんね、九龍君っ!」
 いきなり謝って、出て行こうとした取手に、葉佩は追いすがって袖口を掴む。
 「かまち君?いきなりどうしたですか?」
 その不思議そうな、無邪気な瞳に見つめられて、取手は無駄に勢い良く首を振った。
 「な、何でもないんだ…!ごめんね!」
 寂しそうに手を離した葉佩を振り返る余裕も無く、取手は洗濯室の扉を開けて、廊下に走り出ようとして…ぶつかった。
 「おっと。何だ?お前たち、洗濯室で密会か?」
 くく、と喉で笑ったのは、夕薙だった。
 「み、み、み、密会!?ち、違いますよ!ただ、たまたま、その…!」
 取手も、二年年上だと言うこの男のことは知っていた。まあ、知っている、というだけで、話したのは今が初めて、という程度だったが。
 「夕薙さだー。こんばんはですー」
 「葉佩…その、夕薙さ、というのは止めないか?せめて「さん」と最後まで言ってくれ」
 「甲ちゃんは、夕薙さがえっと…おっちゃんなのでOK言ってました」
 「…甲太郎…」
 がくっと肩を落とす夕薙を後目に、取手はその場を走り去ろうとした。
 で、廊下の真ん中くらいまで行ったところで。
 「で?消灯時刻も過ぎたのに、何をやってるんだ?葉佩」
 「ちょっと腐った卵のうが、ベッドの上に落ちたですー」
 「卵のう……?あぁ、卵か。そりゃ、臭いな」
 「そうです、臭いです」
 そんな会話が聞こえてきて、取手の足が鈍った。
 ぱたぱた…ぱた……ぱた………。
 のろりのろりとスローモーションのようにぎくしゃくと歩く取手とは無関係に、会話は進んでいく。
 「しかし、シーツはすぐには乾かんだろう?どうやって寝るつもりだ?葉佩。甲太郎のところにでも行くつもりか?」
 「甲ちゃんの部屋は臭くて嫌いですー」
 「臭いって…あぁ、ラベンダーの匂いは嫌いか?葉佩は」
 「少しなら大丈夫です。でも匂い移るは駄目」
 「ふぅん…じゃあ、何だ。あいつの部屋に行く相談でもしてたのか?」
 あいつ、と目で取手を示して、夕薙はすぐに葉佩に視線を戻した。内心では、全身耳になってこちらに意識を集中している取手の姿を面白がっていたのだが、顔には出さない。
 「違うですよー。今晩は、毛布丸まって床で寝るつもりです」
 「夜は冷えるぞ?」
 「平気です」
 「ふーん…」
 夕薙は顎を撫でながら、ちらりと取手を窺った。
 歩くモーションのまま完全に動きの止まっている取手を視界の端に収めつつ、にやりと笑った。
 「どうだ?葉佩。俺の部屋で寝るか?床よりはマシだろう」
 「えー?夕薙さ、迷惑違うですか?」
 「甲太郎くらいでかけりゃ別だが、葉佩の一人くらい何とかなるさ。ま、狭いんだから、いつの間にか乗っかってても文句は言わないでくれよ?」
 「あはは、重いですよー」
 ぐりん、と取手の首が回った。
 『エクソシスト』の女の子のように、ぎぎぎ、と軋みを上げているような雰囲気だ。
 「でも、嬉しいです、夕薙さ……」
 「九龍くんっ!」
 ほとんどテレポートでもしたのではないか、というような速度で、取手が葉佩と夕薙の間に割って入った。
 誰かが何かを言うより早く、葉佩の顔を覗き込み、一気に言う。
 「今晩は、僕のベッドで一緒に寝て欲しい!」
 しばらく、沸騰しているかのような取手の顔から…いや、口から出る蒸気のようなしゅうしゅうという音だけが洗濯室に響いた。
 「ふむ、随分と直接的なプロポーズだな」
 「プ、プ、プ、プロポーズなんかじゃ…!」
 自分の言葉を思い返して、頭が真っ白になって手をぶんぶん振る取手を見て、葉佩が夕薙に冗談半分本気半分の調子で言った。
 「夕薙さ、かまち君は真面目ですから、からかうは、めーですよ」
 「ははは、気を付けるとしよう。悪かったな、取手」
 「い、い、いえ…」
 今更ながら、夕薙に失礼なことをしたのではないかと思い至ったが、頭まで真っ赤に沸騰していて、何も言えない。
 「じゃあ、あれを干して終わったら、かまち君の部屋に行きますね。良いですか?」
 「う、うん…ま…待ってる、から…」
 辛うじてそう言って、洗濯室の戸口にぶつかりながらふらふらと出ていく取手を見送って、夕薙は顎を撫でた。
 「ふむ…君も随分と罪な男だ」
 葉佩は無言で洗濯機の中を覗いた。もうすぐ終了らしい。
 そして、猫のように伸びをして、んー、と首を傾げた。
 廊下を覗いて、取手の姿が見えないことを確認して、夕薙にちょいちょいと手で合図して屈ませる。
 素直に身を低くした夕薙の耳に、そーっと囁いた。
 「夕薙さ、今度、奢るですよー」
 「ん?…あぁ…なるほど」
 一瞬、奢れと言われているのかと思った夕薙だが、すぐに逆だと気づいた。
 そして、この状況で、葉佩に奢られるということは。
 「実は、君の方が焦れていた、というわけか」
 「夕薙さ、無粋ですー」
 くすくすと笑った葉佩の顔が、今まで見たこともないほど色っぽくて、夕薙は少し目を見張った。
 色っぽいと言っても、何というか…美味しい肉を前にした猛獣の陶然とした笑みにも似ていたが。
 「ま、役に立てて光栄だ、葉佩。じゃあな、お休み」
 「はい、お休みです、夕薙さ」
 真面目に返して、葉佩は止まった洗濯機に手を突っ込んだ。
 そして、洗濯物を丸めて抱える。
 シーツのシミは落ちたことだろう。
 だって、たった一滴のシミだったのだから。


 「だって、もっとくっついていたいです。もっと触りたいですよー」







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