民主党の文教政策(中央教育委員会について)

 

 90年代に当時の文部省主導で行われたカリキュラム改訂においては、過熱する受験競争の緩和するために、「ゆとりの教育」という方針が打ち出され、週休2日制が導入されるとともに、カリキュラム内容の厳選が行われました。産業界などからも、これで日本の教育水準が保てるのか、という批判の声が起こりましたが、ゆとりこそが荒れた学校を救う手段であり、ゆとりを持って教えることで逆にしっかりとした基本知識を学ばせることが可能になるのだ、ということで、「ゆとり教育」路線が強行されました。

 しかしながら、最近、種々の比較テストなどで実際に生徒の学力水準が低下していることが裏付けられ、やる気のある層が逆に学校で退屈してしまう、地域によっては高い学力をもつ生徒が私学に流れ、公立校の存続が危うくなる、などの弊害も明らかになり、「ゆとり教育」の見直しが行われつつあります。しかも、「ゆとり教育」を受け精神的により安定な生徒となるべきはずの学年でいたましい事件が続くことになり、もはや「ゆとり教育」には当初の意味さえ持たないことがはっきりしてきました。

 

 私は、90年代以前においても、受験競争が過熱していたとは思いません。大学入試に関する限り、難関大学を狙うのであれば、それなりの準備が必要なことは言うまでもなく、それはゆとりの教育であろうとなかろうと、カリキュラム内容が厳選されようがされまいが、関係ありません。日本の未来を背負って立つリーダーたちが、たくさん勉強してきたから良いというのではないにしても、それなりの勉強を積んでもらわなければならないことは誰しもが認めるところだと思います。難関大学の入試においては、探求心、発想力、思考力、忍耐力、挑戦的精神、こうしたものは教科内容には関係なく、それなりのレベルの試験が新課程導入以降も行われています。「ゆとり教育」が原因であるがゆえの知的水準低下という事態は起こっていないと思います。大学の教員の方たちから、学生の水準低下を嘆く声がよく聞こえてきますが、それは、少子化による競争の緩和、物的な満足感、忙しすぎる親の状況など、もっと他の社会的要因を考えるべきだと思います。

 しかしながら、「ゆとり教育」の大学入試における弊害は、入試の内容に変更が生じる際の大混乱として見逃せない状況になっています。内容の問題ではないのです。頻繁に変更される、ということが問題なのです。受験生の負担を軽くするためには、内容を絞ることが必要なのではなく、教科内容を変更しない、ということが最善だと思われます。それが、何故に右往左往することになるかと言えば、ほんの一握りの文科省官僚の机上の空論で教科内容が決められてしまう点にあります。教育現場の声も産業界の要求も学術研究からの視点もなく、官僚が頭の中で独善的に考えてもより良い結論が得られるはずがないのです。

 

 民主党の文教政策においては、行政機構から独立した中央教育委員会が最低限のガイドラインと基本方針を設定し、あとは、各地域ごとに独自に教科内容を現場手動で作るようになっています。民主党の政策案では、文科省のお役人さんが机上の空論で現場を無視した教育方針を打ち出すのではなく、中央教育委員会の中身が現段階では明確ではありません。任命制なのか、選挙制なのか、推薦制なのか、公募なのか、委員の登用の方法によっても大きく性格が異なってしまうと思います。この点は民主党にもなお議論を深めて頂きたいと思います。私は、文科省の事務局が会議の時間・場所を設定し、議事・スケジュールを管理し、教育現場の代表、地域の代表、経済産業界の代表、学術研究分野の代表に政策立案を担当する国会議員を交えて議論して頂ければ、現在右往左往している教育課程のようなことは起こらないと思います。

 今までも、荒れる学校、いじめ、児童虐待、など、問題点に対する考え方や対処法には様々な意見があったとしても、それらを解決してより良い方向に持って行きたい、ということでは、各界の指向するところは共有されていると思います。しっかりした議論が為されれば自然と良い結論が得られるものと思います。中央の行政機構と離れたところで教科内容を設定するという方針は、行政機構のほんの一部の人間さえ牛耳ってしまえば教育をいかようにも制御でき、既得権益を握る一部の人のために、命令を無批判に聞く歯車化された人間を養成しようと言うような考え方とは異なるものです。ぜひ、政権交代後、民主党には、国民全体に開かれた中央教育委員会の設置をお願いしたいと思います。

 

 民主党の文教政策における中央教育委員会は、現場の先生に対して統制的な機能を有するようにはなっていません。学習指導要領の大綱化とともに現場裁量権を認める、という内容になっています。数学を教えるにしても、言葉で説明するのが得意な先生、図を書いて教えるのが得意な先生、漫才のように生徒を笑わせて数学の極意を覚え込ませてしまう先生、生徒に自習させながら数学の楽しさを教える先生、ひたすら生徒に計算練習をさせて達成感を目的とする先生、いろいろなタイプの先生がいます。これらの先生たちに、数学はこうやって教えろ、と、強制してしまったら、本来自分の得意な方法で教えれば優秀な生徒を多数輩出できた先生でも、うまく行かずにノイローゼになるかも知れません。教授法は現場の教師に任せ、結果としてそれぞれの先生が生徒の学力をどれだけ伸ばせたか、ということで評価すべきなのです。教育委員会の命令通りに教えたかどうかで、その先生の意気込みや教育能力を評価できるわけがありません。ましてや命令に従わなかったら処分の対象にするなどもってのほかです。命令を聞かない教師は処分するという発想しかできない教育委員自体が教育を受け直す必要があると言うべきです。作曲家に良い音楽を作れと命令して、できなければ処分するぞと脅して良い曲ができるのでしょうか、マラソンの選手に世界新記録が出せなければ処分するぞと脅して良い記録が出せるのでしょうか、教育は生徒の顔色をうかがいながら行う創造的な職業です。脅迫されてしまっては教育は死にます。民主党の多種多様な価値観を認めよう、という基本理念は、教師の教授法に対しても認められるべきです。

 

 

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