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掘削中の浅川地下壕とその周辺

写真が物語る当時の様子

文・斉藤 勉

日本軍の撮影した写真

戦時中は、戦局が進むにつれて資料が少なくなります。
ましてや今では誰でもが撮る写真は
カメラ、フィルムとも貴重品であり、
軍事・軍需関係の施設などは「軍事機密」の壁に阻まれて、
民間人によって撮影されることはまれでした。

浅川地下壕も例外ではなく、
掘削中や、中島飛行機武蔵製作所の地下工場として
操業が始まった頃の写真は全く見つかっていません。
そうした中で掘削開始ごろの旧・浅川町を知ることができるのが
この航空写真です。

米軍が戦後に日本全国を細かく
空中から撮影したのは知られていますが、
日本陸軍も戦時中に日本の航空写真を撮っており、
この写真は1944年11月に日本陸軍によって撮影されたものです。

甲州街道・中央線

写真を見てみましょう。
右(東)の上の方から左下に向かって弓のように曲がりながら
のびているのは国道20号、つまり甲州街道です。
同じく右の上から国道20号に平行しながら途中で交わり、
そのまま左の方へのびているのは旧・国鉄の中央本線です。
国道20号と中央本線が接近した右の上の方には高尾駅(旧・浅川駅)があり、
その下(南側)には浅川小学校が見えます。

飯場

さて、1944年11月といえば
浅川地下壕の掘削が始まって約2ヶ月、
よく見るとそのための施設が写っています。
まず飯場は初沢地区と落合地区の2カ所にありましたが、
初沢地区では浅川小学校の南に20棟ほどの建物が見えます。
落合側にも15棟ほどが建てられています。
両方とも佐藤工業配下の各組の飯場であり、
これらの建物には家族連れの朝鮮人労働者が住んでいました。
浅川で働いていた労働者数が問題になることがありますが、
これらの建物の大きさと数から推定する事も可能と思われます。

また、飯場は西浅川町の小仏川沿い、
現在の駒木野病院の南東側にも見られますが、
これはこの工事を最初に請け負った旧・国鉄の
熱海地方施設部第一特設建設隊の職員や
東京鉄道教習所来宮分教所(通称トンネル学校)の
生徒たちの事務所や宿泊所です。

掘り出された岩や石 

さらに落合側の地下壕の入り口付近には
白いものが写っています(矢印のところ)。
これは掘削により出始めた「ズリ」(掘り出された岩や石)です。
この状況から見ても工事が本格化していたことがわかります。
中島飛行機の地下工場として操業が始まった1945年初夏頃には、
米軍が何らかの地下施設があることを
この「ズリ」から見つけだして空襲をする可能性があるということで、
学徒動員で動員された中学生の中には
山から切ってきた木をかけて
カムフラージュの作業をした生徒たちもいました。
しかし、実際のところ米軍は終戦まで、
地下壕の存在に気付くことはありませんでした。


鑿岩機と掘削方法について

どうやって掘ったの?地下壕

文・斉藤 勉

聞くと見るとは大違い

浅川地下壕を見学された方々が
いちばん驚くのはその規模の大きさです。
見学コースでは主に幅4メートル、
高さ3メートルに掘られた坑道を歩きますし、
これらが格子状に掘られているのを見ることができます。
特にイ地区の北側の東西に伸びる2本のトンネルは
1945年2月からの第二期工事の際に掘られたものですが、
幅約5メートル、高さは6メートルぐらいあると思われ、
他の壕に比べてひとまわり大きくなっています。
見学後に「聞くと見るとは大違いだった」などと言われる方も多く、
地下壕が予想以上の規模であることに感心されます。

どうやって掘ったの?

そして、どのようにして掘ったのかということに
関心を抱かれるようです。
中には現在は技術が進み、
これだけのものを掘るのはさほど難しくはないだろうが、
この地下壕が掘られた50年以上前は戦争中でもあり
物資も大変だったのではないか、
大勢の人たちがツルハシやスコッブなどで崩しながら
掘ったのではないか、などと言われることがあります。
たしかにこうした作業にツルハシが使われない
ということはありません。
しかし、浅川壕の掘削には鑿岩機とダイナマイトが使われました。
まず鑿岩機で岩に穴をあけ、
そこにダイナマイトを詰めて爆破して掘りすすんだのです。

鑿岩機とダイナマイト

下の図は当時使われていた
アメリカのクリーヴランド社製と思われる襲岩機です。
浅川地下壕で用いられた鑿岩機は、
熱海の鉄道教習所の生徒たちの場合はN−75
という型のものです(クリーヴランド社製のものか不明)。
1つの壕を掘るのに4台使われました。
佐藤工業の配下の組が用いた型式は不明です。
しかし、この図のものと大きく異なっているとは思えません。
図の左下に「空気ホース」と書いてありますが、
鑿岩機には壕の外からホースで圧縮空気を送り、
その力で「穿孔ロッド」と呼ばれる部分を動かし、
岩盤に深さ60センチから1メートルにも及ぶ穴をあけます。
それを数十本あけて、
それらにダイナマイトを詰め込んで爆発させます。
ダイナマイトは一度に爆破させるのではなく、
床面にあたる部分、側面、そして天井の順でずらして爆破させます。
そうしないと爆破のショックで坑道の壁にひび割れができ
壕が崩れやすくなるからです。

進んでいた技術

爆発で崩れて出た岩石は「ズリ」といいます。
これらは、トロッコに積み込まれました。
佐藤工業配下の各組のズリの積込みは人力でしたが、
鉄道教習所の生徒たち
は一部では機械(ショベルカーのようなもの)を
使ったとも言われています。
壕内には入り口から「トロッコ用」の線路が敷かれていましたから、
トロッコはその上を入り口まで押されていき
その先の「ズリ」捨て場に捨てられました。
こうした作業には技術が必要でした。
たとえば山の両側から壕を真っすぐに
ほんのわずかの傾斜をつけながら掘っていって、
途中でずれないように貫通させるなどというのも
測量技術と掘削技術がしっかりしていないと
できないことです。
浅川の地下壕はハ地区
を除き、こうしたことがきちんとできていて、
技術の確かさを知ることができます。

トンネルを掘る技術は
日本では国鉄が鉄道用のトンネルを掘ることとと、
電力会社が水力発電のためにダムを造ることで発達しました。
戦争中はこのような技術が本土決戦に備えた
こうした地下壕掘削のために使われたのです。

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